静かな雑貨屋と、銀の訪れ
本編十話の雑貨屋店主視点の話です
朝の雑貨屋は、静かだった。
ハーブの香りが、ほんのりと空気を満たしている。
磨かれた木の床を踏みしめながら、メルヴィルは棚を一つ一つ確認していく。並べられた小瓶、手編みの布、吊るされたランプ。どれも特別なものではない。ただ、ここにあるべきものを、ここにあるべき形で置いているだけだ。
カウンターの上では、白い猫と灰色の猫──ホプとメルが、ふたり並んで丸まっていた。
小さな寝息を立てながら、時折、尻尾をぴくりと動かす。
「……ふわふわしすぎだ、お前たち」
低く呟いても、猫たちは目を開けもしない。それでいい。――それがいい。
この店を始めて、もう一年が過ぎた。
もともと人付き合いが得意だったわけではない。むしろ苦手だ。
だが、こんなふうに、ただ猫たちと、静かな空気と、少しの香りと暮らす日々なら悪くない、と思う。
ぴん、と耳が動いた。
扉につけた小さな鈴が、微かに鳴る。誰かが、来た。
メルヴィルは顔を上げず、耳だけで探る。足音は二つ。軽やかだが、警戒を忘れない気配。
――知らない足音だ。
ホプが、ぱちりと目を開けた。
メルも、頭をもたげて、小さな声で「んにゃ」と鳴く。
「……かわいい」
聞こえた少女の声に、猫たちは弾かれたように動き出した。
ホプは、青年の足元に絡み、メルは、少女の膝に前脚をかける。
何のためらいもなく、甘えるように擦り寄っていく。
めずらしい。心の中で、ぽつりと思った。
このふたりの猫たちは、気に入らない相手には決して懐かない。
どんなに笑顔を見せられても、どんなに好物を差し出されても、駄目なものは駄目なのだ。
それなのに――この少女と青年には、警戒心を見せなかった。
メルヴィルはようやく顔を上げた。
少女は、銀の髪を持っていた。
しなやかに落ちるその髪は、まるで冬の朝靄のように、ひっそりと静かだった。
隣に立つ青年もまた、銀の髪を持っている。
だが、こちらはどこか、陽光に馴染む柔らかな光を宿していた。――見慣れた、王族特有の気配。王子のレクサス・アルファードだろう。
同じ銀髪でも、纏う空気はまるで違う。
この少女――おそらくノア・ライトエースも、街では噂になっていた。
士官学校を若くして卒業し、聖騎士候補として二年間エテルナへ修行に行っていたと、商品を卸しに来た商人がいつか話していた。
興味もなく聞き流していたが、目の前の銀の少女を見て、妙に納得する気がした。
――ただ、それだけではなかった。
ラパン族の直感が、微かに囁く。この少女は、単なる人間ではないかもしれない、と。
人に擬態した、別の存在。けれど、それは恐ろしいものではなかった。
それ以上、深く追う気も起きなかった。今は、目の前にある静けさだけで、十分だったから。
カウンター越しに短く告げた。
「……いらっしゃい」
少女が、控えめに礼を返す。
青年が、穏やかに声をかけてきた。
「とても落ち着いた店だね。君が店主かな?」
メルヴィルは、帳簿から目を離し、ちらりとだけ顔を上げる。だが表情は変えず、短く答えた。
「……そうだ」
「いろいろ見てもいいかな?」
続く問いにも、メルヴィルは淡々と答える。
「……猫たちが気に入ってるなら、構わない」
「ありがとう」
礼を言われても、メルヴィルは特に応じることなく、再び帳簿へ視線を戻した。
ふと、少女の控えめな声が耳に届く。
「この子たち、人懐っこいですね」
メルヴィルは、ちらりと猫たちを見やった。喉を鳴らしノアの靴をふみふみしているメル、足元で尻尾を揺らすホプ。
──たしかに、今日の猫たちは、いつになく甘えている。
「……珍しいな」
短く呟くと、少女が小さく首を傾げた。
「え?」
帳簿をめくる手を止めずに、メルヴィルは続けた。
「そいつら、気に入らないやつには見向きもしない」
青年が、白い猫を撫でながら微笑んだ。
その柔らかな気配に、メルヴィルはふっと小さく息を吐く。
「……ホプ、おまえは調子がいいな」
「ふふ、ホプっていうの?」
青年の問いかけに、白い猫──ホプは「にゃーん」と答えるように鳴き、さらに足元でぐるぐると回った。
「こっちはメル」
メルヴィルは、灰色の猫を指し示して簡潔に告げた。
「ホプとメル……かわいい名前ですね」
少女の微笑みに、ホプとメルが喉を鳴らし、尻尾を揺らす。
控えめな少女の声が、静かな空気を震わせた。
「……あの、よければ、店主さんのお名前も教えていただけますか?」
帳簿をめくる指先が、一瞬だけ止まる。
メルヴィルは、短く答えた。
「……メルヴィル」
それだけを告げると、再び黙って帳簿へ視線を落とした。
特に顔を上げることもなく、淡々と作業を続ける。
――それでも、店内の空気は、わずかに柔らかさを帯びた気がした。
棚の隙間には、小さな腰掛けがいくつか置かれている。
客が荷物を整えたり、少しだけ腰を下ろすための、控えめな配慮だった。
もともと、長居する客は好まない。
けれど、あの猫たちが懐いた客だけは──まあ、特別扱いしてもいいだろう。
ホプは、白い尻尾を揺らしながら青年の足元に丸まり、メルは、灰色の体をすり寄せながら、少女の膝へと器用に収まった。
ノアは、驚きながらも、そっとメルを受け止める。その細い腕には、どこか頼りなさと、静かな温かさがあった。
レクサスは、足元に丸まったホプを見下ろし、ふっと微笑む。
(……甘えすぎだろう)
メルヴィルは、帳簿をめくる手を止めずに、内心でぼやいた。
けれど、猫たちの喉を鳴らす音が、店内の静けさにふわりと溶けていくのを聞いて──悪い気はしなかった。
棚から一瓶、ハーブを取り出し、静かに湯を沸かす。二つの小さなカップに香り高い茶が満たされる。
何も言わず、カウンターの端にカップを置いた。
ノアは小さな声で「ありがとうございます」と言った。その声音には、素直な温かさがにじんでいる。
レクサスは、穏やかに微笑みながら、柔らかく言葉を紡いだ。
「このハーブティー、まるでこのお店の香りを閉じ込めたみたいですね。……とても、落ち着きます」
青年は、警戒する様子もなく、静かにカップを手に取った。
――王族なら、もっと慎重に振る舞うものだと思っていたが。
メルヴィルは、帳簿をなぞりながら、静かに思った。
だが、それを無謀とは思わなかった。この空気を、信じているのだろう。
ホプが喉を鳴らし、メルが尻尾を揺らす。店内は、変わらず穏やかなままだった。
メルヴィルは、特に表情を変えずに帳簿に目を戻した。そして、心の中で小さく呟く。
――たまには、これくらい、いいか。
猫たちは、静かに膝の上で呼吸を刻んでいる。陽光に照らされた銀髪が、そっと揺れた。
雑貨屋の空気は、変わらず穏やかだった。そして、その静けさを壊さぬ者たちがいることを、メルヴィルは、どこかで嬉しく思っていた。
日が傾き、彼らが店を出たあと。
メルヴィルは、ホプとメルを抱き上げて、カウンターの奥へ戻った。
白い毛並みは、陽だまりのように温かく、灰色の毛並みは、夜明け前の空気のように静かだった。
「……悪くないな」
ぽつりと呟いた言葉に、猫たちは小さな声で応えた。
雑貨屋の一日は、また静かに、そして確かに続いていく。