VI.沈黙
お読みいただきありがとうございます。
九月七日
ガガガガガ。
椅子をしまう音が這い回る。響くことのない乾いた音だった。
一時間目まで十分。授業準備の時間を含んで五分。この時間で何をするか。
新学期が始まって初めての月曜日。一日は火曜日だったがなぜ暦は新学期を火曜日からにしてしまったのだろう。別にその週の学校に行く日が少なくなるからいいのだが、それなら逆にずらして一日を日曜日にしてくれればよかったのに。
後ろ黒板を見る。雑談組が邪魔で下の方は見えないものの、上の方にある一時間目の教科は見える。地理。『社』と書いてある黄色のマグネットの横に雑然と教科書やノートなどと記されていた。ついでに二時間目の数学が目に入る。
今井だから出席番号ははじめの方。もっと言えば一番だからロッカーは一番端。誰もそばには立っていない端。
すべての数のもと、1。
まとまっていた地理の一式をそのまま抜き出して机の上にほっぽる。特にすることはなかったのでそのまま座る。
給食後の休み時間とは違ってこういう休み時間は、もっと言えば今は朝のくせに、余計にガヤガヤしている。きれいな音ではない、雑音の中にさらに雑音に対する雑音が混ざった、聞き心地がいいわけではない音。
でも慣れてしまえば苦にならない、日常生活に紛れ込んだ必要な汚点、疵。
...そんな目で教室を見ていたら、だんだんタウがこっちに向かってくることに気がついた。
タウ、本名は垂井正志。垂井という名字が珍しいのだそうだ。多分「たる」が由来だが、「たる」がどうやって「たう」になったのだろうか。みんなから呼ばれているから小学校の頃もそう呼ぶ人がいたのだろう。
いや、一年の頃からでも別に通るか。みんなという存在が対象になる事が起こる事など到底ない僕とはきっと違う。
言い訳をしてしまえば僕は転校生だからまだ完璧にクラスに馴染めているわけではない。大分から東京。言葉に関しては僕はそこまで根の大分弁が強かったわけではなく、ちょっと東京とイントネーションが違うなくらい。でも地方出身者という肩書のおかげで多少は友達が寄ってきた。言うまでもなく、その一人がタウであり、一番関係が強いのがタウだ。
クラスに馴染んでもいないのによくニックネームで呼べるな、と自分でも感心してしまうが、タウは結局フレンドリーで気の利く人で、話しやすくみんなから人気者だった。はっきり言って、別に僕は人見知りというわけではない。
「有〜」
歩きながら喋って周りに注意していなかったせいでタウが腕を机にぶつけたのが見えた。「いった」と言いながらそんなに痛くなさそうに話し出す。
「今日の英語ってどこ?」
後ろの群れがどいて四時間目のところに英とオレンジのマグネットが貼ってあるのが見えた。その隣には
『教科書』
とだけ。短いのに読みづらい。こんなにシンプルにやられると逆に信用できなくなってきてしまう。
一年と三年は知らないが、二年の英語の授業は三クラスが合同で、基準はよくわからないがクラスはごちゃごちゃで小さい四つのクラスに分かれて受ける。
多目的室、というクラスがあるのだが、四組の場合、四、五、六組に加えてその多目的室を使う。
...おそらくタウが言いたいのは、一学期の少人数のクラスのままなのか、それとも新学期だから最初は自分たちの四組の教室なのか、ということだろう。
「まあ、最初だしここじゃ?」
「そっか。ありがと」
う、を言わないで体ごと後ろを向き、右手を少し上げた。制服を着ているせいでその動きが妙に角ばっていて重苦しく感じるのは僕だけだろうか。
英語係に聞け、と思ってしまったのを引き金に、今日自分が寝不足だった事を思い出す。特に理由はない、ただ単に、昨日に限って上手く眠れなかっただけだ―
ガガ、ガガガガガガ。
徐々に、体感時間が長くなっていく。昼休みまで一時間。もはや、耳に障るほどの雑音でも安心感を生んでいる気がする。
きっと何かしらの効果はあるだろう。そう思って、とにかく水を飲んでみる。
...のんびり座っているタウに、アメリカ人である彼が小さな翻訳機を持って話しかけるのが見えた。
彼は日本語が話せないから、翻訳機を持ち歩くことが許されている。それが原因で周りからなにか言われているところは見たことがないし、彼も持つことを嫌がっているようには見えない。彼に合った、海外でのコミュニケーションの形、とまとめていいのだろうか。
まあ、それでも彼はたまに日本語を勉強しに授業を抜けていたり(そういう場所が学校に設けられているらしい)、学校に協力してもらって努力している。家にいても、ちょっとした日本語を喋れるようになって家族を驚かせる事がある。まだ日本に来てからそこまで経ったわけではないし、きっとそんなに長い時間日本にいるわけでもないので、正直滞在期間中に流暢に喋れるようにはならないと思うが。
アメリカ...そうか、次は英語か。
英語の準備をしよう。そう思ったら急に閉じていたドアが開く。
潤滑剤でも使ったのかと思うほど滑らかな音がする。目の前を添田先生が通る。
「今日少人数ー。」
透き通った声が教室を貫く。そういえば、一昨年に来たばかりの若い先生だと誰かから聞いた気がする。
みんなこの事を知らなかったのか、何なのか、わからないが驚いたような声を出す。それも「えっ」と。何が残念なのかよくわからないが、ガサガサと足音となにかの物音がまた騒ぎ出す。それと同時に目が覚める。
そういえば、朝タウに間違ったことを言ってしまったな。
思い出したようにさっきタウが彼と話していた場所を見るが、もう二人はいない。そうか。少人数なら彼とタウは同じクラスだが、僕は二人と違い四組だった。...それもあってか変な心残りを感じながらさっさと準備をして座る。だがあと五分はある。やっぱり立つ。
四組の大半が出ていくのと同時に五組と六組が入ってくる。多少は少なくなるもののそんなに変わらないから、人数が変わらないままドアのあたりが混んでいる。目の前でそれを見ていたらそりゃ四組で良かったなと考えてしまう。
何も変わりはしないのに少し空くかなと思ってまた座った。窓からカーテン越しに光が入ってくるのが余計に騒々しい。そしてそれもまた人によって遮られた。
話す人もおらず、なぜだか自分の周りだけ静けさが流れる。変な気分だ。
今日は部活、あるのか。
この前もらった予定表を見て思う。シンプルな表の中の一マスに書かれた『活動あり』。月曜日はよっぽどの理由がない限りあるのになぜわざわざ僕は今これを取り出したのだろう。
今週の教室掃除当番は僕達ではないから足早に出ていく。春休みも部活はあったので久しぶりではない。四組から部室に行くのが一学期ぶりというだけだ。
タウは部活なんだっけ。バスケか、サッカーか、そこら辺だった気がする。でも合唱部だって肺を使うから運動部ってことでいいのではないか?
タウの部活があってもなくても、終わる時間は違ったはずだ。きっと帰り道で会うことはない。一緒に帰るのは諦めようか。
掃除やら何やらで廊下を抜ける。人混みの中に紛れると誰かの肩が当たる事が多いがカバンのせいで気づかないことも多かった。余計心配になるが階段を抜ければ空く。
有は疲れて時間を長く感じているらしいですけど、年齢を重ねるごとに体感時間が短くなっていくって言われますがジャネーの法則っていうやつらしいですよ。