V.隠伏
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九月五日
「「いただきます」」
朝は和食。昼と夜は洋食。少し目を引けばそれが我が家の文化。よりによって、今日の夜は白っぽいクラムチャウダーが食卓に並んだ。
「アメリカの伝統料理なの」
シチューみたいだな、と一瞬でも思ってしまった自分が嫌だ。念の為確認しておくが、彼はすぐ隣りにいる。
すると母が思い出したように彼の方を見て、はっとした顔をした。
...五人。『いつもの食卓』であるこたつには座るところが四つしかなかった。リビング側にはそれより遥かに大きい、いかにも食卓らしい机があり、何かで代わりの椅子を作れば五人座ることは容易である。ただ結局、こたつの僕の席の左側にヒッパソスが入り込んできている。理由は単純、あの机が散らかりすぎていて使えないからだ。
母は一度少し下を向いて目をつぶり、また喋り始める。ヒッパソスの方に手を差し出していった。
「He can also speak English.
(彼は英語も話せるのよ。)」
僕を含めた三人は驚いたような顔をして、本人はお得意の真顔から生み出される笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「Wow, you speak three languages!
(おお、3ヶ国語を話せるんだね!)」
感嘆の声を上げてみるが、正直、同じ中一でこれだけの差を感じてしまうと『敬語で話したくなる』という感情がよく分かる。
「I can't speak fluently though.
(でも流暢ではないよ。)」
...ただ、こう言ってみたものの僕はヒッパソスが三ヶ国語を話せることを知っていた。そもそも昼、僕に自己紹介をしたときは日本語で、その後隣の部屋から聞こえてきたのは英語だった。まあ、簡単な表現だけ覚えておけば異国語で自己紹介をするのはそこまで難しくはないのかもしれないが。しかし加えて、僕はあの後、しばらくヒッパソスと一緒にいたのだ。
ヒッパソス。韓国語でどうやって書くのだろうか。
「ごめんね、僕韓国語喋れないんだ。でも日本語すごい上手だね」
「そう?...なんで、この家はホストファミリー始めたの?」
座って、とでも言うように僕は腕でベッドに腰を下ろすよう促す。僕は初対面で距離が近くなりすぎるのを防ぐためになんとなく勉強机の椅子に座る。
「...なんでだろうね。両親が始めたけど、僕が物心付く前だったから。」
距離が近くなりすぎるのを、とは言えど同い年だからと言って雰囲気でタメ口になっていた。でもやっぱり流暢すぎてもはや怖い。今でも僕は英語ペラペラって言うわけではないのに、どうやったらそんなに身につくのだろうか。教えてほしい。
ヒッパソスは話しながら手を後ろにつき、天井を見渡す。なるほど、ヒッパソスはあえて悪く言えば馴れ馴れしいのかもしれない。でも相手から距離を縮めてくれると僕は助かる。
「そんなにやってるんだ。てことは、前にもいたの?ホームステイしてくる人。」
「いたよ。でもそんなにしょっちゅうってわけじゃなかったからね。だから、同時に二人来るなんて初めてだよ。」
そう、こんな状況が初めてだったから、食卓を囲むのが五人になるという問題が発生したのだ。これからはそんなことがあったらいつも僕の隣に来ることになるのだろうか。
「―えっと、ジョーンズも、そうなんだ」
「そうだよ。あ、知らなかった?」
「まあ、そうだよね。...うん、そうだよね。」
二つ返事のような音程でそうだよねを繰り返す。なにか思い出すときのように左手を一瞬、頭に当てているのが見えた。
「うちのお母さんどう?なんかさっきすごい焦ってたように見えたんだけど」
一応、さっきまで一緒にいたはずだ。
「あ...確かに、結構焦ってる感じしたよ。来るタイミングがちょっと悪かったかな。ジョーンズもいるし。
...ごめんね」
顔を歪めながら言う。唐突な低音。
自分の存在が邪悪だった。突如現れた新しい生活という不純物。そういう自虐に聞こえる。
ヒッパソスに関して、どんな顔が普通で、どんな感情が日常なのか。それをまだ知らない。自分に言い聞かせ、どう反応すればいいかわからないとでも言うような顔を自分もする。でも、ヒッパソスというのは短い時間で生み出される表情の変化もある種のモチーフなのかもしれない。ニヤけているわけでもない、ただの笑み。それを今までだけでも何回か見てきた。
結局加えて、吐息に微かな否定の声を混ぜて首を振った。
「そういえば、『ヒッパソス』って韓国語でどうやって書くの?」
ずっと感じていた疑問を盾にして話題をそらした。疑問というより、もはやただの疑いだろうか。本当に韓国人なのかという、疑い。
もし後者だとすればそれを確かめようとして質問をするのも鬱陶しいかもしれないが。
「...紙とペン、ある?」
机の上にほっぽってあった青いマッキーペンと灰色のメモ帳を両手で取り、立ち上がって両手同時に差し出す。一度認識してしまったら片付けといたほうがいいかと思えてきてしまう。
滑らかに、まるで会話のようにスラスラと書いてくれた。実際には韓国人の書いた字は見たことはない。ただどこか本物の韓国人らしい自信がある線が並んでいた。
ただ見た感じどこに目をやればいいのかわからず、唯一関心を持てたのは漢字の『人』みたいな文字のパーツだけだった。
『히파소스』
「ヒパソス」
ネイティブの韓国語をほぼ初めて聞いたかもしれない。そのうえで初めに思ったのは、どこが日本語と似ているのかわからない、だった。
「名字ってどこなの?」
これは疑いなどではなくただの関心。そう確信して聞いたのだが、ヒッパソスはどこか答えづらそうにしていた。
「...히、だね。」
ヒ、パソスということか。そうなのか。あ、なるほど。
「ヒとパソスで区切ってるから、ヒッパソス、なんだね。」
...ああいや、英語でも、言いやすいように発音すると日本人にとって促音のようになったりする。そんなふうなことなのかもしれないな。だから、ヒッパソスにとっては別に自然に言っているだけなのかもしれない。
「あ、ああ、うん。そういうことだよ」
しかし一瞬だけ浮かび上がったの予想とは裏腹に、答えはイエスだった。...なぜだかわからないが、今まで自然に名前というものを認識できていたのに、今になってヒッパソスという名前に違和感を持ててきてしまった。
少し沈黙が流れ、やがて僕の話題に移った。
「そう言えば、...有くん、だっけ?韓国人は名字は一文字なのが普通だけど、今井有ってなんか逆だね。」
確かに、僕の名前って他の人と比べると短いほうかもしれない。でも日本人といっても名字が一文字の人も全然いるし、僕に関しても漢字三文字というのはそこまで珍しくもないと思う。
「呼び捨てでいいよ。―学校行けば、それくらいの長さの名前の人もいっぱいいると思うよ。」
学校行けば。それは、単なる僕の先入観から生まれた表現だろう。この後ヒッパソスの言ったことには、心のなかで明らかな衝撃を受けた。
「...僕、ここにいる間は学校行かないんだ。」
「Ah, by the way,
(ああ、そういえば)」
クラムチャウダーが半分より少なくなった頃、母が思い出したように話し始めた。
「He doesn't go to school while he stays at our home.
(ヒッパソスが私達の家にいる間は、ヒッパソスは学校にいかないからね。)」
「oh」と右隣に座る彼の声が聞こえる。蛍光灯の光が差し込む。
特に具体的な理由がなくとも全員が気を遣ったらしく、そのわけを直接ヒッパソスに聞くようなことは誰もしなかった。
静かに湯気が上がっていく。
クラムチャウダー、食べたことないです。