29.瑕疵
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九月三十日
「なんかニックネームつけてよ」
軽い喪失感がある。もともと気分が落ち込んでいたし、そこまでショックは大きくない。むしろ、思った事を全部吐き出せてかえってスッキリした。
あぁ、スッキリした。スッキリしたなあ。
あとホームルームまで五分しかないのに、タイスケの周りには四人くらい人がいる。どういう会話から始まったのか知らないが強制的にタイスケたちの会話が耳に入ってくる。なにも置いていない机をただ眺める。
「塚田だからつっかーとか」
「ダサくね」
「えそう?」
「たいすけだからタッキー」
「なにそれ」
どうだって良い話題だった。
「どうしたの?」
そんなに普段と違うふうに目に映っていたのか、英太に唐突に聞かれた。顔色は普段と同じだと思う...
「え、なんか変?」
「いや、顔色悪いなーって」
...そっか、今自分は落ち込んでいるのか。自分の意志では制御しきれないほどの暗い感情なら英太には伝わるのか?
「そう?朝だからだと思う」
「そっか」
確かにさっきまでは確実に顔色が悪かったものの時間が経ったからもう大丈夫だと思っていた。でもそんなにすぐに収まるものでもなかったらしい。
「漢字で決めるのとかは?」
「名前の?」
「そう」
「どうやって書くんだっけ?」
一人が提案した。...塚田太佑。
「つかだは普通の塚田。たいすけはなんか太いに...ほら...人偏に右のやつ」
「あぁ、あれか」
「じゃあ、『太』は『タ』って読んで、『佑』は右の『ウ』って事にして、タウとかは?」
「なんかかわいい」
「え、それ良くね」
「あーいいかも」
タイスケが自分から出した話題なのに、タイスケは最初と最後しか喋っていなかった。
すると、ある一人が気になる事を言いだした。
「でも、なんかタウってどっかのクラスにもう一人いなかったっけ?」
もう一人?こんな一人もいなさそうなニックネームの人が?
「あー、いたねそういえば。」
...だとしたら、なんか可愛そうだな...
いじめについての話を知っている人はそんなにいないだろうからまだいいが、知っている側からすればその『別クラスのタウ』がタイスケのようになってしまうじゃないか。
「いたっけ?」
一応タイスケがそう言うので、多分その人は関わっていないんだろうな。これには。ならなおさらだ。
「タウが知らないんだからじゃあタウでいいか。タウ、タウ」
「なんで?」
彼らの中ではタイスケはもうタウになっていたらしい。
俺は、タイスケでいいや。
おそらく、俺はもうタイスケの事が嫌いになっている。嫌いな人を顔も知らない誰かと一緒にするような事をしたくなかった。
「あ、もうチャイムなる」
「ほんとだ」
あと一分。そんなギリギリの時間になったとき、ワカバが入ってきた。
あまりにもぴったりすぎたので、俺は思ってしまった。タイスケの話し声が聞こえなくなってから入ってきているんじゃないかと。言われてみれば、ワカバは遅刻する事もあったがチャイムが鳴る時間を大きく過ぎる事はなかったのだ。もしかしたら五分前くらいに来て待っているのかも知れない。やっぱりタイスケが―
...そこまでタイスケが嫌なら、されていた事は本の落書きだけではなかったのではないだろうか。いくら大切なものだったとしても、あんなに完全にタイスケを避けるだろうか。話しかけられもしないのに。
もっと真正面から、ワカバの心を踏みにじるような事をしていたのではないか。
やっぱり先生に伝えるべきだった。
...でも、できなかった。
さっき、自分がタイスケから逃げてしまった後、気がついてしまったのだ。ワカバが俺を避けている理由に。
あの、落書きまみれの本をワカバに渡したのは、俺だからだ。
タイスケが暴言を書いたのだとしてもワカバにはそれがわからないかもしれない。だからきっと、ワカバはタイスケに他の場所でひどい事をされていた。そこまでは簡単に受け入れられた。でも、あの本に関して、もしかしたらワカバは俺がやったと思っているのではないか。それを知ってしまったとき、控えめに言って受け入れられなかった。
ワカバにとって、自分をいじめた犯人の中に俺の名前もあるのだ。
誰かにタイスケの事を言ったところで、その共犯とされている俺の情報は信頼されないと思う。それどころか、都合がいいようにタイスケに犯人に仕立て上げられてしまう可能性だってある。
それだと、またタイスケからのいじめが続いてしまうから―そうじゃないか。
結局、俺が一番守りたいのは俺だ。
俺は自己満足のために頑張っている。
ワカバを助けたいのは大切な友達だったから。それはつまり、ワカバから嫌われる事で自分に不利益が生じるのが嫌だっただけではないか?助ければ、また仲良くなれると思ったからではないか?
...勝手に、ワカバに嫌われているという事を俺は受け入れていたらしい。
俺は都合のいい人間だなとつくづく思う。
こうなったら、もう打つ手がなくなってしまった。いじめの証拠集めなんて、ワカバからみたらいじめのための準備に見えてしまうかも知れなかった。誤解を解こうとワカバに理解を求めたところで、すべて逆効果になる気がする。
そのまま、半月もするとその事は気にならなくなってしまっていた。音楽祭が近づいてきて運動会同様クラスの熱が高まっていく。音楽祭の練習自体は一学期から始まっていたものの本格的な練習は半月前くらいからだった。
そのときからだっただろうか。ワカバが学校に来なくなったのは。
ワカバが教室のドアを開けなくなっていったとき、誰もその事を気に留めようともしなかった。というか、誰も話の話題にしようとはしなかった。
まるで、触れる事がクラスのタブーになってしまったかのように。
もともと友達はそんないなかっただろうし、もとからワカバの存在を気にするような人は少なかったのかも知れない。それか、来なくなる直前までのワカバの空気を見ていたから、感じていたから、触れる事が可愛そうという空気になってしまったのかも知れない。
音楽祭の直前というのが明確な理由だったのだと思う。合唱の練習期間、声を出していないなどといちゃもんをつけてワカバを貶める事はいくらでも可能だからだ。
まず、タイスケにとって。
だから後悔した。もしかしたら俺はもうワカバと話す事はできないんじゃないか。俺にとっての恐怖だった。
でも、これでワカバは一旦いじめから解放されるんじゃないかと思ってしまっている自分もいた。多分、そういう問題ではないのに。
俺は、どこかワカバと気が合っていただけであって、ワカバの事を理解できていたわけではないのだろう。
練習では合唱部だからと英太が引っ張っていった。もともと活発なクラスだったし声も出ていて、本番では銀賞を勝ち取る事ができた。惜しくも金賞には届かなかったものの、みんなその日はずっと喜んでいた。
でも、俺はそうもいかなかった。ワカバがいない以上、このクラスは完全無欠ではないからだ。
ここにはワカバがいない。ひとり足りない。
あの時タイスケにもっと問い詰めていればなにか変わっていたかも知れないのにな。その事ばかりが、あれからしばらくの間は頭の中に巡っていた。




