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20.発端

お読みいただきありがとうございます。


 六月五日


 その声はワカバのものだった。

 思った通りだ。なんとなく予想してしまっていた自分がいる。

 周りから聞いた話によれば、ワカバは引っ張る力を入れすぎて足をすべらせたらしい。そのまま転んで頭を打ったのだ。一人ひとりの間隔もそう広かったわけではないし、ワカバが転んだ事で周りにもぶつかり、全体としての力も弱まっていった。五組にはそのまま持っていかれて、無情にも三組に不利があったという判定にはならなかったらしい。結局五組に勝つ事はできず、大縄では一勝一敗となり、クラスにとって満足する結果にはならなかった。

 また全体の結果としてドラゴン団自体は準優勝にも届かなかった。ただ、もちろん心から喜べたわけではないが、三組はずっと賑やかで騒がしい事が取り柄なので空気が悪くなったりはしなかった。

 よかった。

 先生に言われて競技中に保健室に行ったワカバは、閉会式が終わってそのあと教室でみんながお弁当を準備していた頃に帰ってきた。頭には薄い青の分厚い何かが巻かれている。冷やしているのだろう。

 その場でワカバに何かを言う者はおらず少し安心していた。

「ごめん遅くなったー」

 一言目を発したとき、正直俺は「?」となっていた。なんで、こんなにも自然なテンションで話せるのか?それも、休日に待ち合わせに二、三分遅れただけの友達のように。

 決してワカバに何かを物申したいわけではない。ただ、ワカバもきっとクラスに対して申し訳無さがある。ワカバはこんなに、自分の感情を隠すのが得意だっただろうか。

 一緒に食べる人がおらずどうしようかと迷っていたときにちょうど来てくれたので助かった事に変わりはないのだが。

 机は後ろにすべて押し寄せられている。その群れの中から一つのカバンを見つけ出し、ワカバは群青色のような弁当箱を取り出した。

「「いただきます」」

 ワカバのお弁当を誰が作ったのかはわからないが、ここまで模範的な色のカラフルさは他にはない。ごぼうサラダ、唐揚げ、魚。

「美味しそう」

 するとワカバは意外にも謙遜したりせず、「でしょ」と返した。 

 周りは運動会の話で盛り上がっていて、自分たちもそのペースに持っていかれて話題ができていく。

「そういえば、結果、どうだった?」

 そうか、ワカバは途中でいなくなったから何も知らない。

「...だめだった」

 ワカバもなんとなくわかっていたと思う。ワカバが運動会に対してどう思っているのかは知らないが、

「そっか」

 少し残念そうに返事をした。

 ...でも、そんな虚しさを放ってしまっていたら周りの雰囲気から分断されてしまいそうで、どうしても耳には「やってよかった」というような意味合いの言葉が入ってくる。ポジティブでいるしかなかった。確かに、ワカバの気持ちも理解できるかもしれない。

 もしかしたら、クラスのほぼ全員がそう思っているのかもしれない。誰かのプラスな言動がまた誰かを支えて、結果的に全員でその場の空気というものを支え合っている。自分もその一人になってみたい。

 良いクラスだな。

 もうすぐ太陽が頂点に達するこの時間帯だが、既に運動会は終わってしまったという事実だけが独り歩きしていた。改めて、今日は快晴でしかなかった事を認識する。


 六月二十日


 壁掛け時計を見ると四時を回っていた。

 一ヶ月に一回しかなく、図書室当番のグループ自体十個あるので単純に考えて委員長も前期の間ずっと、一ヶ月に一回のペースで点検のやり方を教えなければならない。委員長も大変だな。...というか、前期しかないなら点検を一度もやらないグループがあるのか。

 委員長からは一人二枚紙を渡された。簡単な表がずらっと並べられている。

「三人いるから図書室を三等分してある。自分がどこのスペースの担当かはそこの一番上に書いてあるから、本の数を確認してって。もし足りないやつがあればあの棚にあるかもしれないからそれを見て。二枚目は―」

 一通りやり方を説明されて、作業が始まった。

 もし足りなかったりしたらおいてある本の一覧から足りないものを探し出さなければならないらしい。

 貸出中の本もその一覧に反映してある。要するに借りたりせずにそのまま持ち逃げした人物がいなければ問題はないわけだ。流石にないと思うのでそこまで面倒くさくはないだろう。

 やってきていいよと言われてからボールペンとその紙二枚とバインダーを持って作業を始めた。

 確かにこの図書室は狭い。でも、全校生徒が一人一冊借りられるくらいにはあるだろうから。...いや、流石にそれでも少なすぎるのか?

 とにかく時間がかかる事は想像のとおりだった。部活、今日は行けないかもな。

 まあ、仮に行けなかったとしてももうこれのせいで遅れることはないだろうし大きな影響はないだろう。色々考えるより早く終わらせよう。

 数学史。

 数学のためだけにこんなにも大きな一つの棚が必要だろうか。正直な話、ここにあるものを借りていく生徒がどれくらいいるのか聞いてみたい。図書室の本の多さに不満を抱いたのは今日が初めてだと思う。

 ...そういえば、ワカバは数学が好きだったな。

 そうそう、毎日お守りのように大事に学校に持ってきていた本。あれが、川田によってどこかへ行ってしまったのだ。

 有名な本ならば、ここにもあるかもしれない。

『万物は数である -有理数が生んだ悲劇-』

 そして、見つけてしまった。

「え」

 まさか本当にあると思っておらず声が出てしまった。周りに聞こえていないかと心配になってしまったが、息が混じった小声だったので大丈夫なようだ。

 これ...うん。絶対ワカバが持っていたやつだ。表紙もあのとき見たやつと一致しているように見える。

―「なんか。...いい人だなって」

 その本はそんなに心に響くものがあるのか。そんな事を質問した覚えがある。それもお守りとなるくらいのものが。

 ヒッパソスっていう人物がピタゴラスによって殺されてしまった。あらすじを教えてもらったがその内容のためだけにこんなに分厚くなってしまうのかと疑問をいだいたものだった。少し本を開いて中を見てみたが、適当なページを斜め読みしただけではなんのためのページなのかわからなかった。割と長い年月おいてある本のようで、紙が少し黄ばんでいる。夕日が差し込んできて光っているようにも思える。

 ...だめだ。集中できない。さっさとこれを終わらせよう。きっと、今日が終わればこの事も忘れ去ってしまうだろうな。

 もし覚えていたら、もし思い出すような事があったら、ワカバにこの事を話してみようか。

 いや、でもあれはお守りのようなものであり、現物でないと満足はできないのではないか。

 そもそも、ここで借りたところで自分のものにできるわけではないし。

 特に読もうとする事もせず、ため息を付きながら本を閉じた。

 すべて作業が終わったとき、時刻は四時二十五分だった。想像よりもかなり早く終わってしまって、部活いけないかもしれないというのは杞憂だった事に気がつく。ちなみに足りない本なんて一冊もなかった。

 ありがとうございましたと挨拶をして図書室を出る。真っ先に更衣室に向かった。

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