セピア・ピアノ
色あせた想い出ほどある意味美しい。セピア色の写真の持つ味わいのように。
それは誰の言葉だっただろうか。
そのころの私にとっての想い出とは、まだ両親が二人とも元気だった幼少期の想い出に他ならなかった。
ちょうど私が小学校6年生のとき、体の弱かった母が病床で息を引き取り、その後は父と二人暮らしとなった。しかしその父も私が高校に上がろうという矢先に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。一人息子で身よりもなく、天涯孤独の身となった私だったが両親の遺してくれた財産でなんとか一人暮らしを続け、高校へ通い続けることは出来た。
私の家は割合に裕福だったらしく、両親は町はずれの小高い丘に建つ洋館を遺してくれていたので家賃などに困ることはなかった。とはいえ、高校を卒業する頃には貯蓄の残金にも余裕がなくなってきており、私は早いところ身の振り方を考えなければならなかった。
そんなある日の夜、屋敷に一人の少女が訪ねてきた。
少女が言うには夕暮れ時の町はずれで道に迷い、夜道をさまよい歩いていたときに私の屋敷から漏れる灯りを見つけたのだという。歳は7、8歳くらいだろうか。ウェーブがかった灰色の髪が腰の手前まで伸びており、黒のワンピースがよく似合う肌の白い女の子だった。家族が心配するかとも思ったが、少し取り乱していた少女を落ち着かせるため私は彼女に夕食をご馳走したあと、町まで送っていった。
町の入り口までくると、もう後の道は分かるからと言って少女は繋いでいた私の手から離れた。少女は自分の名を「さやか」と名乗り、礼を述べてから町の灯りの中に消えていった。
翌日から少女は毎日屋敷を訪ねるようになった。
家の人が心配するからと、最初のうちは注意していた私であったが、少女ももう迷わずに屋敷まで来られるらしく、私も暗くなる前には町まで彼女を送って行ったので、いつしか私も彼女が来るのを心待ちにするようになっていた。
少女はいつも黒のワンピースを来ていた。それから彼女はいつもランドセルを背負っており、学校の帰りに屋敷に寄っていると思われた。私はその宿題や予習などを見てやるといった家庭教師のような日々が続いた。
そんなある日、私が少し目を離した間に少女は居間からふらりと居なくなった。
玄関に靴はあったので、私がさやかの名を呼びながら屋敷の中を探していると、ある一室の中でぼんやりと何かを見つめて佇んでいる彼女の姿を見つけた。
「こんなところに居たのか」
そう声をかけながら部屋の中に入ると、私はさやかが見つめていたものがピアノだったということに気づいた。
屋敷には古いグランドピアノのある部屋があった。
私は幼い頃から父にピアノの教育を受け続けていた。父は厳しく、当時は苦痛でしかなかったピアノの練習だったが、今となると仕事で忙しかった父との数少ない交流の時間だったと思えて、何か込み上げるものを感じた。私にとっての色あせた想い出とは、このピアノ部屋での記憶なのだと悟った。
「ピアノに興味があるのかい?」
私がそう聞くとピアノから視線を動かさずにさやかは頷いた。
「練習をやめてからずいぶん経つけど、まだ弾けるかな……」
ホコリの積もった蓋を開きながら独り言のように呟くと私は鍵盤の前に腰を下ろす。そんな私を少女は黙って見ていた。
「………………」
鍵盤を叩いた瞬間、私は耳を疑った。
長い間全く手入れをしていなかったとはいえ、私にはそれはもはやピアノの音とは思えなかった。かつての音色とのあまりの違いに、私は幼い頃の父との記憶が壊されていくようで恐ろしくなった。しばらく呆然としていた私であったが、次の日からピアノの修復にとりかることにした。
剥げていた塗装を塗り直し、ワックスをかけ、弦を張り直し調律をした。取り替えなければいけない部品が多すぎて、新しいものを買った方が早いのは明らかだった。しかし、私はどうしてもこのピアノでなければ嫌だった。
そんな日々を送るうちにピアノはすっかり美しさを取り戻し、気づくと一年経っていた。その間も少女は変わらず毎日屋敷にやってきては私の作業を眺めていた。
生まれ変わったピアノで私はさやかにレッスンを始めた。私はピアノを人に教えたことなどなかったが、少し教えただけでさやかはどんどん上達していった。そしてそれ以上に私も昔の感覚を取り戻し、自分でも分かるくらいの速度で腕を上げていった。
三年経つ頃には、さやかは一度楽譜を見ただけですぐその曲が弾けるくらいに上達していた。そして私は数々のコンクールに出場しては、優勝をさらうようになっていた。
私の元には徐々に音楽家としての仕事も舞い込むようになり、かねてより懸念していた生活費もその報酬でなんとか目処が立ちそうだった。
そうして仕事に追われる日々がしばらく続き、私が世界的に有名な音楽祭に出ることが決まったある日、さやかは突然私の前からいなくなった。なにがあろうと毎日来ていた屋敷に、訪ねて来なくなったのだ。
まるで心の一部が切り取られたように感じた私は町へ下り、さやかの行方を聞いて回った。しかし不思議なことに、さやかなどという名の少女を知る人は町中探しても一人も見つからなかった。
――それからずいぶん月日が流れた。
今の私にとっては、彼女と共に過ごした数年もまた色褪せた想い出になっていた。思い返してみると彼女はピアノの精か何かだったのかもしれない。数年一緒にいて気づかなかったが、その間彼女の外観は全く変らなかった。あの年頃の成長を考えると不自然だったと今になって思う。
そんな不思議な少女の話を私がすると、いつも妻は笑った。
今も大きなおなかをさすりながらストーブの前で笑いながら私の話を聞いている。現在、私は一つ年下の彼女と結婚をして、共にあの屋敷で暮らしている。
相変わらず仕事は忙しいが、私は幸せを感じている。妻は今妊娠9ヶ月だが、私は生まれてくる子の名前をすでに決めていた。
私にはなぜか、黒いワンピースのよく似合う、色の白い娘が生まれてくるという確信があった。
色あせた想い出に、再び鮮やかな色が戻る日はそう遠くない。
ピアノの知識がないのでツッコミどころ満載かと思いますがご容赦ください……。