9 知りたくなかった本心
婚約者になったと聞いてすぐ、いいのか、とロイに聞いた。
「リリアと一緒にこれからもずっと過ごせるのは、きっと楽しいよ。僕はもちろんいいよ。」
と、あっさりと答えた。
ロイもまた、私と同じように「これまでとあまり変わらない」と感じているようだった。
◇◇◇
「今思えば、私もあなたのことを”好き”とかそんな気持ちではなかったのだわ。」
窓の外で風にざわめく緑を見つめながら私はつぶやいた。
「本当はそんなこと、気が付いていたのだけれど。あなたと過ごす日々はとても生きやすくて。見ないふりをしてしまった。」
「ごめんなさいね。あなたからは断れるはずもない婚約であるのに。」
思っていたよりも頭は冴えていて、心は凪いでいた。
目の前のロイは少し顔を伏せ、言葉を探しているようだった。
「…ごめん。ぼくもきちんと話すべきだった。彼女のことを好きになってしまった時に。きみに誠意を尽くせなかったぼくが一番悪いんだ。リリアは謝る必要はないよ。」
「婚約は解消しましょう。私がきちんと両親に説明するわ。このまま婚約を続けても、お互い幸せにはなれない。」
「…うん。ごめん。ありがとう…。」
私の一言にロイはガバリと顔を上げ、そしてホッとしたような表情になった。
自分が言った言葉通り、婚約を続けたいわけではなかったが、その顔を見て少しだけ胸がチクリとした。それはきっと私のしょうもない、ほんの少しの未練。
「仕事は、別のところを探すよ。」
「ロイのしたいようにすればいいわ。私はどちらでもいい。」
15歳で成人するこの国で、ロイは15歳になったばかり。他の仕事は探せばすぐに見つかるだろう。
ロイとあの女性を目撃した日から丸一日。
私は混乱と悲しみの中で、考えた。
これからどうしたらいいのか。自分が傷つかない都合のいい筋書きも考えたけれど。
眩しそうに相手をみて笑うロイの顔が蘇って、私はすぐに降参した。
私にはあんな顔をさせることはできないし、私も向けることはないだろう。
ロイは大切な人だったが、愛する人ではなかった。
それはきっとロイにとってもそうなのだろう、と。
だが、苦しみを共に乗り越え、私を助けてくれた大切な人には違いなかった。
「私を振るのだから、幸せになって。」
少しだけ冗談めかして言った。
ロイは少し苦し気に、眉をひそめてまた下を向いた。
「…ねえ、最後に聞きたいことがあるの。」
ロイと婚約について話し合うと決め、朝、ロイに会いに家を出た。
今度は仕事は休んでロイを探しに向かった。
本店にいたパパに、今日は休みだと聞き、自宅に行った。
ロイを捕まえ、招き入れてもらったのは昼前。
ロイは何の話かなんとなく分かっていたようで、思っていたより冷静だった。
これからについて話せたけれど、ひとつ、どうしても気になっていたことがあった。
「何日か前。支店の金庫部屋で店員と私のことを話していたでしょう。」
「…あ、ああ。」
ロイはどこか居心地悪そうに相槌を打った。
「ロイが、婚約の理由を聞かれた時、『私の役に立たなくちゃいけない』って言ってたけど。…どういう意味だったの?」
意外な質問だったのか、しばらくロイは黙っていたが、私を見て言った。
「あの日、僕にもっと勇気があったら。リリアはあんな無茶せずに済んだかもしれない。怖くて動けなかった僕を助けてくれた恩人だと思ってる。その傷を負わせた責任は僕にもある。リリアとの婚約の話が出た時、友人として大好きだったし、僕がリリアを幸せにできるのなら、僕は良いことだと思ったんだ。」
「そう。」
予想していた答えと大体同じだった。
―ま、そうよね。『責任感』。ロイが考えそうなことだわ。
「でも、」
ロイは小さく続けた。
「僕がリリアと婚約を解消してしまったら…リリアが、ほら、これから1人で生きていかないといけないんだと考えると…本当に申し訳なくて…ずるずると彼女のことを言い出せなかった。ごめん。」
―なに、それ。
突然、体の中にぽっかりと空洞ができたようだった。
その空洞は私の音も、感覚も、呼吸さえも吸い込んでいく奈落の穴のようだった。
「わ、たしが、ずっと一人とは限らないじゃ、ない?」
「あ、そうだよね。でも、人より難しいかもって、だから、その、」
わずかに震える声で問いかける私に、自分が良くないことを口にしたと気づいたロイは慌ててごまかそうとしたが、それはひどいものだった。
「とりあえず、もう、帰るわね。ロイの考えはよく、分かったわ。これまでありがとう。じゃあ。」
「あ、ああ。」
もうそれ以上何も聞きたくなくて、ロイが話そうとするのを遮った。
それ以上何か言われることもなく、さっさと帰ろうとする私にロイはまたほっとしたような顔をして一緒に立ち上がった。
「見送りはいいわ。これからはお互い、ただの幼馴染。」
「…うん。」
私は見送ろうとするロイを制止して、慣れた足取りで玄関へ向かい、外を出た。
幼いころから何度も出入りした、思い出いっぱいの場所だったはずなのに、もう何の未練もなかった。
―私のこと、醜いって思っていたってことよね。
帰り道をとぼとぼと歩きながら、考えるのはそのことばかりだった。
―ロイと結婚できなければ、もう誰も私と結婚なんかしてくれないって言いたいの。
私がこの傷でどれだけ心を痛めてきたか、ロイは知っているはずだ。
私を避けたりすることはなかったし、変わらず接してくれていた。
―心の中では、私のこと、醜い、劣っていると…。
あの金庫部屋の時の人も、気にしていないように振舞っていたが心の中で私のことを醜いと思っていた。人が私に見せてくれる部分はほんの一部分に過ぎないのだという事実が私をひどく混乱させた。
―じゃあ、他のみんなは、どう思ってる?
他の商会の店員たちは?
お隣のおじさん、おばさんは?
パン屋のおばさんは?
「リリアちゃん!買い物かい?」
恐ろしい想像に自分が飲み込まれそうになった瞬間、低くて人のよさそうな男の声に意識を引き戻される。
あたりを見回すと、自分がよく訪れる市場に差し掛かっていた。声を掛けてきたのは、いつも「また来てよ!」と言いながらおまけの付けてくれたり、暇な時には雑談をしたりする青果店の主人だった。
―もしかして、あのおじさんも、
瞬間、また想像してしまってゾッとした。
「おじさん、ごめん。通りかかっただけなの。また来る。」
私は慌てて走り始めた。
自然と左手は左の顔を押さえていた。
息が苦しくて仕方がなかった。
それは、走っているせいなのか。
自分のことが、もうよく分からなくなっていた。