2 はじまり②
一瞬、自分が何を聴いたのかわからず、時間が止まった気がしていた。
「あ、ああ…。もちろんだよ。」
すぐに聞こえてきた、ロイの声にほうっと息を吐き、ノブにかけていた指の力が抜けた。
どうやらこの店の古参の店員とロイが金庫部屋で世間話でもしていたようだった。
「そうなんかア。リリアお嬢様も確かに可愛いけどなあ…。でもあの傷がさ、俺は見るたびどうも気になってよ。ロイ、お前は顔もいいし、引く手数多だろ?もっと器量のいい娘だって選べるじゃねえか。」
「うーん…でも…。」
「まあ、あの傷があったとしても、結婚すりゃあこの商会と縁続きになれるわけだろ。玉の輿だもんなあ。」
「そんな…。」
ロイは畳みかけるように話しかける古参で年上の店員にはっきりしない相槌を打っている。
「そう考えりゃ、傷なんて小さな瑕疵だな。それか何か他に結婚しようっていう理由はあるのか?」
―見るたびどうも気になって
―もっと器量のいい娘だって
―玉の輿
―瑕疵
次から次へと出てくる不快な言葉がぐわんぐわんと脳内を回り続ける。
さっき力が抜けた指はもう何の感覚もしない気がした。
足の裏は床にピッタリくっついて、ピクリとも動けない。
これまで心無い言葉をかけられたことはある。何度も。
悲鳴をあげた人もいた。
でも、そんなこと気にしない。
気にしちゃいけない。
そう言い聞かせて頑張ってきた。
このくらいの言葉で私は傷ついたりしない。
私の大切な人たちはそんな私を大切にしてくれるもの。
でも
ただ、
ロイ、なぜかばってはくれないの。
そんなことないって。
はっきり言ってくれないの。
「リリアは、僕の命の恩人なんだ…。だから、リリアの役に立たなくちゃいけないんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、呼吸を忘れていた。
「命の恩人?」
「うん、あの傷はね、僕をかばったときにできた傷なんだ。」
「ああー。なるほどね。納得だわ。じゃあ、それさえなけりゃあロイは婚約なんてせずに済んだんだなあ。」
「えー、うん、そ、そうだね。さあ、そろそろ仕事の話をしてもいいかな?」
2人は仕事の話をし始めた。
ぐっと喉の奥から何かがこみあげ、しばらくその場に立ち尽くしていたが、胸元に抱え込んでいた帳簿と売上金が目に入った。
くるりと方向転換し、そっと売り場に戻った。
カウンターに帳簿と売上金をどさりと置くと、その音に気付いたリックが掃除をする手を止め、振り返ってこちらを見た。
「あれ、お嬢様?」
「なんだか大事な話をしてるみたいなの。悪いけどリック、あなたが持って行ってくれる?」
「それはいいですけど…ロイには…」
「ちょっと!ちょっと大切な用があってね!ロイのことを待っていたら遅刻しちゃうかも。ごめんね!」
一言一言話すたびに目に何かがぎゅーっと集まってくる感覚がして、まっすぐリックを見ることができなかった。
止まりそうな思考をどうにか動かして、苦しい言い訳を絞り出す。
震えそうな声を抑えつけ、努めて明るい声で返す。
「おやすみ!」
「あっ…お嬢…」
カウンター下に置いていた自分のカバンをひっつかんで、リックの方を見向きもせずに挨拶だけしてバタバタと勝手口から飛び出した。
石畳を小走りで進み、家へ向かう。
カツカツと確かに靴音は聞こえるのだけれど、地面がないみたい。
夜風がつんと鼻に沁み、その刺激でポロリと目から涙がこぼれた。
一度こぼれ出すともう止まらなかった。
ぽろぽろこぼれる涙を指でごしごしこすりながら、足だけを機械的に動かす。
なんだか自分のすべてが恥ずかしくて仕方なかった。
◇◇◇
ロイは小さなころから可愛らしかった。毎日のように一緒に遊んでいたが、よく私の妹と間違えられたくらいに可愛かった。私はあまり物怖じせずになんでも飛び込んでしまう性格だったから、友達も多かったが嫌なことを言う近所の子と取っ組み合いになって泥だらけになることも多かった。ロイは慎重で人見知りなところがあり、いつも私について回っていた。他のがさつな男の子とは違い、いつも穏やかで時折不安そうにするロイのことは好きだった。
私が10歳ごろ、ロイが9歳ごろだったと思う。その日は私の家で騎士ごっこをして遊んでいた。
冬の初め頃だったか。息が白くなる日が少しずつ増えてきたのを覚えている。
騎士ごっこをやろうと持ち掛けたのはもちろん私。別に騎士になりたかった訳ではないが、その当時は「なんだかかっこいい」ものが好きだった。優しいロイが悪役というのはピンと来ないし、かといって私は騎士役がいい。結局ふたりとも騎士役になって悪役に見立てたクッションをやっつけまくった。ロイのやっつけ方はものすごく丁寧だったけど。
クッションを殴りまくっただけなのに、なんだかすごく楽しくてお腹がよじれるくらい笑ったのを覚えてる。その時間があまりに楽しくて、私はある提案をした。
「ねえ、ロイ。今日はうちに泊まって!夜にも続きをしましょうよ。」
「うん!じゃあ、ママにそのこと言ってくるよ。」
「やったあ。じゃあ私もママに頼んでくるわ。」
もともと互いの両親が仲良かったため、小さなころからお泊りはよくあることだった。流石にその都度両親に許可をもらわなければならないが、ダメなんてことはまずなかった。その日もロイは慌てて一度家に帰り、ロイのママが用意してくれたお泊りに必要なものをひっさげ、夕日がまぶしい時間帯に我が家に戻ってきた。ふたりで夕ご飯を食べ、悪のクッションマンをまた叩きくずし、すっかり疲れ切った私たちは私の寝室で同じ布団に潜り込んであっという間に眠ってしまった。
なんてことはない、楽しいロイとのいつものお泊り会。
そのはずだった。
家族も寝静まった頃、一人の男が私たちの眠る寝室に忍び込んでくるまでは。