第三話 (四つ葉)あけぼのの置屋
舞妓の朝は決して早くない。多くは九時ごろに起きて、置屋の女将へ挨拶を済ませ、支度をし、学び舎で舞や三味線を習う。
しかし、四つ葉は違う。
姐さんたちを起こさぬよう、するりと布団を抜け、音もなく机に向かう。まだ冷えの残る折、日の光が山越しに差すか否かという時間である。
「……あ。おはようさんどす、まめ華姐さん」
姐さんが静かに床を上げる気配を感じ、振り向いて深くお辞儀をする。跪き、畳に手をつき、頭を下げるまで、流れるように淑やかな動作だ。それに加えて、天上の琴がごとき甘い声。客の多くが魅了されるのも頷ける。
「おはようさん。四つ葉ちゃん、相変わらず朝の早よからきばってはるね」
「姐さんみたいな芸妓さんになりとおす。そやさかい……」
そう言って四つ葉がふわりと微笑むと、姐さんもつられるように笑った。きらきらとして無垢な瞳は、彼女がまだ若い少女であることを示しているようだ。
「ほんに、こないにきばっとったら、来年二十歳になるより早よに芸妓さんにならはると思うけどなぁ。舞も唄も遊びも、鳴り物もお話も、どれもそれはそれはうちが習いとうぐらいやし。そやけども、四つ葉ちゃんって、ちっちゃてかわいい顔やさかいなぁ」
にこにこと、四つ葉が愛らしくて仕方ないというようにそう言う。四つ葉もまた、鈴のようにコロコロと笑っている。涼しげでありながら、親しみと愛嬌に溢れた声音である。
芸舞妓の世界において、舞妓は何も知らぬ少女であり、芸妓になって初めて一人前の大人なのだ。それゆえ、幾年もの修行を経て女将や姐さんに認められた舞妓は二十歳前後でようやく芸妓になれる。しかし、十分な技量と美しさを兼ね備えていても、見かけにあどけなさが残っていると先延ばしにされることもあるという。童顔の四つ葉を見つめながら、姐さんはそれを思い起こしたのだ。
「あとそうや、女将さんにはもっと可愛がられとかんとあきまへんわ」
「女将さん?」
その言葉で、一刹那、四つ葉の顔が険しくなる。しかし未だ部屋が仄暗いためか、気づく者はいない。彼女はすぐ、その美しい顔に、あの無邪気な笑みを乗せ直した。
「ほれ、こん朝かて、起きてすぐご挨拶に行かはった?」
「……行っとりません……そやかて、朝あんまり早よに起こしてしもたら」
「あきまへんなぁ。気にせんと行っといなはれ。そやさかい、四つ葉はちと愛想なしやて言わはるんやわ。こないにええ子やのに」
「……あとできちっと行きますわ」
「……って、そういうのとちゃうかったら先輩ヅラできしまへんさかいに」
真顔で指摘したあと、可笑しそうに自分で吹き出してしまう。そんな茶目っ気たっぷりの姐さんを「大切にしよう」と、改めて心に決めた。
彼女が女将のもとへ向かうのを一瞥すると、四つ葉は静かに臙脂色の手帖を閉じた。顔を伏せたまま、音も立てず懐に仕舞う。
「ほんなら、うちもご挨拶行きまひょか」
もはやその声に温かみはなく、冷徹な空気は誰の耳にも伝わることなく辺りに染み渡る。顔の表情もまた、朝日に照らされることなき陰に隠されたままである。
彼女の懐には、二冊の手帖がある。ひとつは、芸妓や女将から学んだことを記すためのものだ。仕込み時代から些細なことでも書き付けるようにしていたため、既に五冊目となる。これまでに使い切った四冊は、引き出しの中で大切に保管されている。これほどの熱心さもまた、姐さんたちに好かれる理由のひとつなのだ。
しかし、もうひとつ、臙脂色をした表紙の手帖は、四つ葉が最も懐いている芸妓「まめ華」さえ、中を覗いたことはおろか、存在すらも知らない。
「……もうすぐ、始まりどすえ。待ってておくれやす、『お姉ちゃん』」
窓の向こうから差す日は、とうに高くなっている。外の街は既に目覚めており、人々は右へ左へと行き交う。
明るくなった外の景色をしばし見つめてから、四つ葉は再び歩き出す。
その瞳は、いかなる光をも吸い込んでしまうほど深い、一対の窪みのようであった。