表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白詰草の佇まい  作者: 坂下茉莉
3/25

第二話 (杏)ときめきの街

 「きゃ、かわいいっ!」


 私、深草杏は祇園に来ている。祇園四条。下宿から京阪電車に乗ったらすぐなのだが、今まで忙しくてなかなか行かれず、今日はようやく初上陸。京都に暮らし始めてから初めて迎える初夏である。


 昔から、かわいいものやお洒落なものが大好きだった。高校までは横浜にいたから、おめかししてカフェでお茶したり、中華街で雑貨を集めたり。ただし、厳しい母親にばれてはいけなかったので、彼女の仕事が忙しい時を上手に狙って出歩いていた。


 それが今ではひとり暮らし。故郷から遠く離れ、大人に邪魔されることなく自由を謳歌する。しかも、大学に入学してすぐもらった雑誌によれば、京都にもたくさんの喫茶店があるというのだ。古都で喫茶店巡り。なんて素敵だろう。


 そんな幻想も束の間、講義が始まるとそんな時間はなく、夢は夢のままお預けとなった。毎日毎週課題にレポートに小テスト。あぁ、喫茶店巡りの憧れを返してほしい。


 それでもゴールデンウィークが来れば、少しの余裕ができた。そこで私は、この街のお洒落なお店の数々を回ることにした。


 下宿のすぐ近くには、レコード音楽の流れる喫茶店がある。名曲喫茶というらしい。談話室いっぱいに広がる、アンティーク趣味の雰囲気は、重厚な音色とともに私を包み込む。うっとりとしながらいただくコーヒーは格別だ。


 そこからちょっと南に歩き、細くて急な坂道を下れば、見えてくるのは隠れ家カフェ。あるいは古民家カフェとして、最近話題になっているものである。ひっそりと落ち着いた空間に、焼き菓子の香ばしい香りが漂う。


 近場のお店だけでも、すっかりその雰囲気を吸収して上機嫌になってしまった。しかし、これらは序の口だ。


 人の溢れる京阪電車にほんの数分乗って、まず三条で降りた。


「えーっと、この近くにあるのは……」


 地図アプリと睨めっこしながら歩いていたので気づかなかったが、ふと顔を上げた時、見える景色はすでに別世界だった。


「すごいっ……京都だ、これが京都なんだ!」


 観光客感丸出しで、思わずそう口走ってしまう。鴨川のほとりに並ぶ高床の和風テラス――川床というらしい――もお洒落だが、そこから少し外れたところでは街並みが一変。狭くなった石畳の道を歩けば、脇を駆けるのは透き通る水の帯。日ごとに鋭さを増す陽光は、肩を並べて立つ枝垂れ柳に優しく切り分けられ、宝石へと姿を変えて小川を滑る。


 高瀬川、と銘打たれた石碑を目が捉えると、森鴎外の描いたドラマが脳裏によぎった。弟に安らかな眠りをもたらしたあの男もまた、この川を流れていったのだろうか。――そうか、この地には物語が息づいているのだ。


 街を見るだけでも一日が過ぎていきそうだけれど、やっぱりそれじゃもったいない気がした。時間は有限だ。再びアプリを見ていて、私は、ある言葉に釘付けとなった。


 『舞妓体験』


 舞妓って、あの舞妓さん? 髪を結い、美しく着飾って、上品な言葉を話す……それを体験できるというのか。しかも祇園四条――歩いて手が届く距離にそれが待っているという。胸が高鳴り、迷わずその方向へ向かった。やっぱりこうでなくっちゃ。


 それから、幾らかの時間。なされるがまま、仕立ててもらい、お化粧をしてもらって――


 「きゃ、かわいいっ!」


 ――鏡に映る私の姿に、思わずときめいてしまったというわけである。

「これが、私?」


 再びベタな台詞を口走る。だってしょうがない。姿見の向こうにいる私は、お人形さんみたいに綺麗なのだから。日本髪のかつらに豊かな花かんざし。あやめの飾りがゆらゆらと揺れ、花弁の隙間から光の粒がこぼれる。白粉をはたいた顔に引いた紅が映え、「だらり結び」の帯が背中まで華やかに彩ってくれる。


 舞妓さんらしい立ち居振る舞いをスタッフさんに教えてもらい、お店のスタジオで写真をいくつか撮った後も、ずっと心の中には「別世界の私」が居た。纏っているのは既にいつもの洋服だが、無意識のうちに背筋をしゃんと伸ばし、ゆったりと歩いていた。あの写真を見るたび、わくわくとした気持ちが褪せることなく込み上げてくる。そう、私は浮かれていた。


 その浮かれた気持ちのまま、方向音痴の私が、喫茶店のことも地図アプリのことも忘れて街散策をしていたのだ。


「あれ……そういえばここ、どこ?」


 ――なんてことになるのは、当然の帰結といえた。


 『先斗町』と書かれた石碑の脇を通り、ひときわ細い小径に足を踏み入れたところまでは覚えている。これまで見た景色も華やかだったが、この場ではさらに風流な空気が濃縮されているみたいだった。魅了され、惹き寄せられるまま入ったが最後、すっかり迷い込んでしまったのだ。


「まぁいっか、もっと色々回ってみよう。それで暗くなったら帰り道調べたらいいや」


 持ち前の呑気さで開き直り、右へ左へ気ままに歩いてみる。


 そんな時だった。


「……あれ、見かけへん顔やねえ。どないしはりましたん?」


「……え?」


「よぅさんひとりで話しとったさかい、道迷わはったんかな思って」


「……!」


 ここは、この街の中でとりわけ奥まった路地。


 目の前には茶屋。暖簾は『やなぎ荘』という文字で彩られている。


 いや、それより。目の前の女性は……


「あの、舞妓さん、ですよね?」


「へぇ、まだひよっこどすけど」


 ……すぐに直感した。彼女はホンモノの舞妓さんなのだと。


 かりそめで化けていただけの私とは、所作も気品も声音も――いや、何もかもが、違う。


「私っ、さっきスタジオで舞妓体験してきて……それですっかり憧れちゃって! だけど、まさかホンモノに出会うなんて思ってなくって……やっぱり、全然違うなぁって。ほんと、綺麗です!」


「それはおおきに。せやけど、お嬢さんかてえらいべっぴんさんどすえ」


 ふんわりした微笑みとともにそう言われてしまうと、もう舞い上がるしかない。さらに、彼女は口を開く。


「うち、こん茶屋さんに行くとこどす。ちょっと来はります?」


「え、いいんですか?」


 なんと、『やなぎ荘』の暖簾をくぐらせてもらったのだ。なんという奇跡。私はどうやら、再び異世界へと旅立つらしい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ