第二話 (杏)ときめきの街
「きゃ、かわいいっ!」
私、深草杏は祇園に来ている。祇園四条。下宿から京阪電車に乗ったらすぐなのだが、今まで忙しくてなかなか行かれず、今日はようやく初上陸。京都に暮らし始めてから初めて迎える初夏である。
昔から、かわいいものやお洒落なものが大好きだった。高校までは横浜にいたから、おめかししてカフェでお茶したり、中華街で雑貨を集めたり。ただし、厳しい母親にばれてはいけなかったので、彼女の仕事が忙しい時を上手に狙って出歩いていた。
それが今ではひとり暮らし。故郷から遠く離れ、大人に邪魔されることなく自由を謳歌する。しかも、大学に入学してすぐもらった雑誌によれば、京都にもたくさんの喫茶店があるというのだ。古都で喫茶店巡り。なんて素敵だろう。
そんな幻想も束の間、講義が始まるとそんな時間はなく、夢は夢のままお預けとなった。毎日毎週課題にレポートに小テスト。あぁ、喫茶店巡りの憧れを返してほしい。
それでもゴールデンウィークが来れば、少しの余裕ができた。そこで私は、この街のお洒落なお店の数々を回ることにした。
下宿のすぐ近くには、レコード音楽の流れる喫茶店がある。名曲喫茶というらしい。談話室いっぱいに広がる、アンティーク趣味の雰囲気は、重厚な音色とともに私を包み込む。うっとりとしながらいただくコーヒーは格別だ。
そこからちょっと南に歩き、細くて急な坂道を下れば、見えてくるのは隠れ家カフェ。あるいは古民家カフェとして、最近話題になっているものである。ひっそりと落ち着いた空間に、焼き菓子の香ばしい香りが漂う。
近場のお店だけでも、すっかりその雰囲気を吸収して上機嫌になってしまった。しかし、これらは序の口だ。
人の溢れる京阪電車にほんの数分乗って、まず三条で降りた。
「えーっと、この近くにあるのは……」
地図アプリと睨めっこしながら歩いていたので気づかなかったが、ふと顔を上げた時、見える景色はすでに別世界だった。
「すごいっ……京都だ、これが京都なんだ!」
観光客感丸出しで、思わずそう口走ってしまう。鴨川のほとりに並ぶ高床の和風テラス――川床というらしい――もお洒落だが、そこから少し外れたところでは街並みが一変。狭くなった石畳の道を歩けば、脇を駆けるのは透き通る水の帯。日ごとに鋭さを増す陽光は、肩を並べて立つ枝垂れ柳に優しく切り分けられ、宝石へと姿を変えて小川を滑る。
高瀬川、と銘打たれた石碑を目が捉えると、森鴎外の描いたドラマが脳裏によぎった。弟に安らかな眠りをもたらしたあの男もまた、この川を流れていったのだろうか。――そうか、この地には物語が息づいているのだ。
街を見るだけでも一日が過ぎていきそうだけれど、やっぱりそれじゃもったいない気がした。時間は有限だ。再びアプリを見ていて、私は、ある言葉に釘付けとなった。
『舞妓体験』
舞妓って、あの舞妓さん? 髪を結い、美しく着飾って、上品な言葉を話す……それを体験できるというのか。しかも祇園四条――歩いて手が届く距離にそれが待っているという。胸が高鳴り、迷わずその方向へ向かった。やっぱりこうでなくっちゃ。
それから、幾らかの時間。なされるがまま、仕立ててもらい、お化粧をしてもらって――
「きゃ、かわいいっ!」
――鏡に映る私の姿に、思わずときめいてしまったというわけである。
「これが、私?」
再びベタな台詞を口走る。だってしょうがない。姿見の向こうにいる私は、お人形さんみたいに綺麗なのだから。日本髪のかつらに豊かな花かんざし。あやめの飾りがゆらゆらと揺れ、花弁の隙間から光の粒がこぼれる。白粉をはたいた顔に引いた紅が映え、「だらり結び」の帯が背中まで華やかに彩ってくれる。
舞妓さんらしい立ち居振る舞いをスタッフさんに教えてもらい、お店のスタジオで写真をいくつか撮った後も、ずっと心の中には「別世界の私」が居た。纏っているのは既にいつもの洋服だが、無意識のうちに背筋をしゃんと伸ばし、ゆったりと歩いていた。あの写真を見るたび、わくわくとした気持ちが褪せることなく込み上げてくる。そう、私は浮かれていた。
その浮かれた気持ちのまま、方向音痴の私が、喫茶店のことも地図アプリのことも忘れて街散策をしていたのだ。
「あれ……そういえばここ、どこ?」
――なんてことになるのは、当然の帰結といえた。
『先斗町』と書かれた石碑の脇を通り、ひときわ細い小径に足を踏み入れたところまでは覚えている。これまで見た景色も華やかだったが、この場ではさらに風流な空気が濃縮されているみたいだった。魅了され、惹き寄せられるまま入ったが最後、すっかり迷い込んでしまったのだ。
「まぁいっか、もっと色々回ってみよう。それで暗くなったら帰り道調べたらいいや」
持ち前の呑気さで開き直り、右へ左へ気ままに歩いてみる。
そんな時だった。
「……あれ、見かけへん顔やねえ。どないしはりましたん?」
「……え?」
「よぅさんひとりで話しとったさかい、道迷わはったんかな思って」
「……!」
ここは、この街の中でとりわけ奥まった路地。
目の前には茶屋。暖簾は『やなぎ荘』という文字で彩られている。
いや、それより。目の前の女性は……
「あの、舞妓さん、ですよね?」
「へぇ、まだひよっこどすけど」
……すぐに直感した。彼女はホンモノの舞妓さんなのだと。
かりそめで化けていただけの私とは、所作も気品も声音も――いや、何もかもが、違う。
「私っ、さっきスタジオで舞妓体験してきて……それですっかり憧れちゃって! だけど、まさかホンモノに出会うなんて思ってなくって……やっぱり、全然違うなぁって。ほんと、綺麗です!」
「それはおおきに。せやけど、お嬢さんかてえらいべっぴんさんどすえ」
ふんわりした微笑みとともにそう言われてしまうと、もう舞い上がるしかない。さらに、彼女は口を開く。
「うち、こん茶屋さんに行くとこどす。ちょっと来はります?」
「え、いいんですか?」
なんと、『やなぎ荘』の暖簾をくぐらせてもらったのだ。なんという奇跡。私はどうやら、再び異世界へと旅立つらしい。