第十九話 (純一)本当の心は
純一の頭からは、四つ葉の顔が離れなかった。悲しげな、そうしてどこか悔しげな……涙なき泣き顔。
どういうわけか、かつての妻が思い出された。
――あんたは、私のことなんか何にもわかっちゃいない!
その言葉に、言い返す口はなかった。しかし、ただ、怒りとは異なる複雑な感情を、その目の中に見た。それで、心に自然と刻まれていた。……あの時、目に浮かんでいた光が、歪めた眉間の皺が、どうもあの美しい少女と重なるように思われるのだ。
もどかしさ、といっても違う。無力感、といっても何かが合わない。それでも、悲しみなどに比べればよほど近いように思われた。
そう思い始めてから幾らかの日数を経た。未だ心にはあの顔が浮かんでいた。今日は四つ葉との対話のためでなく、同僚の送別会のために店を訪れた。
純一にとって、やなぎ荘はすっかり馴染みの場所であった。しかし、大人数の宴会となると、一気に新鮮な空間のように思われた。
何人もの芸舞妓が呼び出され、その中に四つ葉もいた。初めてこの世界に足を踏み入れた時のように、話の華は大盛り上がり、お座敷遊びの中で酔いは回りに回り、宴はいよいよ佳境となる。
懐かしい、と純一は思った。初めて四つ葉さんと話した時も、こんな宴だった。
そう、物思いに耽っていた時だった。
「えぇー、つまらんのぉ。前の妓はやってくれたやんかぁ」
声の主は部長――純一より高い立場に居る。
その男が、四つ葉の腕を掴んでいた。
真っ赤な顔から、酒臭い息を吹かせながら。
「お前ここで一番の舞妓やろ?」
四つ葉は、何も言わない。良いとも、嫌だとも。その顔には、嫌悪より冷たい、氷のような無関心を張り付けていた。
一方、男は、四つ葉の様子などお構いなしに、彼女の身体を引き寄せる。
そのまま腰に手を回し、着物の襟元から胸に手を差し入れようとするのを見て――純一は、黙っていられなくなった。
「……何しているんですか、部長」
「……あぁ?」
気づけば、部長の手首を荒く掴み、四つ葉と引き離していた。
自分でしたことに驚いていた。これまでの彼だったら、やりすぎだとか、くだらないなどと思いながら、黙って傍観していたことだろう。しかし、一度でも娘と重ねて見てしまった少女の身が、愛も情けも持たぬ老いた男からほしいままに触れられるなど……想像するだけで、吐き気がする。もしこれが真に自分の娘だったなら、男の役職など構わずに、蹴り飛ばしてでも守ったことだろう。
「……部長。今日は無礼講だとおっしゃいましたよね。ですから、御無礼、どうかお許しください。私には、あの子と同い年の娘がいるのです。……頼むから、これ以上に手を出すな」
そのまま、部長の返事も待たずに引き返し、座敷の隅で飲み直すことにした。日頃、仕事のできる上司を尊敬していたが、醜き獣の姿を垣間見たことで胸を悪くしてしまった。幻滅というべきか、失望というべきか。日中見せる顔からの差が大きすぎ、もはや気持ちに整理がつかない。
「……純一はん」
聞き慣れた声に顔を上げると、四つ葉が目の前に座っていた。
「四つ葉さんっ……すまない。さっきは、勝手なことを」
「いいえ。ほんに、おおきに。うち……あんなふうに庇ってもろたん、初めてどす」
「……いつも、お客はあんな調子なのか? あの部長じゃなくても」
「へえ。特に、うちとこの置屋に前居はった梅乃姐さんは、毎度そういうことをしてお客はんを喜ばせとったさかい……それが芸舞妓には必要なんやと、教えられました」
「……そう、だったのか」
「一緒にお酒も飲んだり、お風呂に入ったり。……そうや、水揚げって知ってはります?」
「……聞いたことがないな」
ここまで聞く話でも、とても十九歳の少女に起こっていることとは思われない。
「殿方の旦那はんが、お店に何千万も払わはって、それと引き換えに舞妓と関係を持つんどす。そうしたら一人前になれるんやって言わはって。今どきの花街では無くなってきてるようやけども、うちらみたいに古い置屋では、まだまだ普通のことなんどす」
水のように語られていく言葉に、純一は声を失う。
「あの旦那はんは、前にうちらの姐さんを水揚げしたことがあらはります。そやけども、その姐さんが最近遠くに行かはりました。ほんでうちらが嫌がるとなると、……ふふ、そら怒らはるやろなぁ」
皮肉のように、可笑しそうに笑う彼女は、どこか切なく、儚げであった。何かを諦めたような顔。大人びていようともまだ幼い少女がしていい表情ではない、と純一は思った。
水のように透明で、流されるがまま――身を委ね、翻弄されながら、大人の男の身勝手さにただ従順であり続けたのか。少女が女として輝き出す年頃に、その光を搾取され続けたというのか。
ああ、やはり、四つ葉のことを何も知らなかった。その苦しみも、何もかも。あの時に見せた顔は、無知なまま同情されたことへの、悔しさだったのかもしれない。
「……どうか、強く生きてくれ」
「……え?」
「同じ花街でも、場所によってはこのような目に遭わずに済むのだろう。……花街でなくても、君ならどこででも輝ける」
「……」
「君は君自身を生きなければならない。それに……父親に逢わねばならないだろう?」
「……えらいおおきに。そやけども」
うちにはうちの魂胆があるんどす――という呟きが、純一の耳に入ったか否か。宴は社長の声とともに幕を閉じ、大人たちは散り散りに帰途についた。