第十四話 (杏)日常の中で
ゴールデンウィークが明けて、講義が再開した。連休中は、結局ずっと舞妓と礼儀と言葉を研究していた。
目覚まし時計と格闘して何とか止め、大急ぎでパンを食べて自転車に飛び乗る。
「いってきまーす!」
一人暮らしなので誰からも返事はないが、構わず走り出した。一回生は必修講義が多いからただでさえ大変なのに、休み明け初日から一限があるなんてやめてほしい。
「おはよー……」
「おはよ!」
講義室に着いた。なんとか間に合い、同級生の友達を見つけて挨拶を交わす。
「ねーゴールデンウィーク何してた?」
「私はとりあえず課題の復習やなー」
「まっじめー! 聞いて聞いて、私は」
「どうせ彼氏とデートでしょ。で杏は?」
急に話を振られて焦ってしまう。ああ、人と会話をするのは苦手だ。なんとか返事をしようとした時。
「そうそう杏―! こないだの何なん? 『関西弁を教えてほしい』って!」
「あ、それは、その……」
完全に吃ってしまった。その間に、友人たちの声が飛び交う。
「何それおもろー! まあそやな、結構関西出身の子多いしな。たまに話ついていかれへんとかあるんちゃう?」
「嘘やん、言うておんなじ日本語なんやしわかるやろー」
「いや、割と違うよ? 特にさ、イントネーションとか違うじゃん。ほら、関西弁で『いいですか』って言う時、二つ目の『い』が上がるよね。それで私、この間『家ですか』って聞き間違っちゃって」
「何やそりゃー」
「いや文脈どうなっとるん」
「……」
私の話題のはずなのに、私が置いていかれている。
昔からそうだった。母親がいつも、「私の言うとおりにして」と言ってきたからだろうか。私は、私が何をしたいのか、考えることをやめていた。そのせいもあって、会話の中で、自分の感情を言葉で言い表して相手に伝えるというのがとても難しく感じるのだ。コミュ力の強い人たち、一体どうやっているのか。
「で、そうよ、杏。あれどうしたん?」
「あ、そうだった」
「えっと……話して、みたくて」
「ほう?」
友達は優しい子たちだ。たまに置いてけぼりを食らうが、こうやって私が、言葉足らずにもようやく伝えられた時、耳を気長に傾けていてくれる。
それで、この数日間にあったさまざまなことを話した。最初はたどたどしかったが、ひとたびあの時の興奮が呼び起こされると、そこからは自分でも追いつけないほど饒舌になっていた。
「えぇー、何それ! すっごい奇跡じゃない?」
「いいなー、舞妓さんなぁ。私も憧れるわ」
「ほんでその京言葉を『話してみたくて』あんなこと言うたってわけやな?」
「う、うん! そういうこと!」
「……なんか杏って、面白いよね」
それをきっかけに盛り上がり、どういうわけか、来週末に女子会を開くことになった。京阪の三条駅で待ち合わせ。講義そっちのけで盛り上がってしまい、教授のお叱りを受けてその話は終わった。
大学を出て、下宿に帰る。四条や三条は見るもの全てがキラキラしていたが、同じ京都でも、大学の周辺はそれほどでもない。ほんの数ヶ月もすれば見慣れてしまう。地味だけれど落ち着く、いつもの帰り道。
それから数日、特に何事もなく過ぎた。ただ、件の友人と時々通話して、関西弁講座が開かれたぐらいだ。
迎えた女子会当日。河原町にある喫茶店に足を踏み入れる――そういえば連休中、喫茶店巡りの計画は吹き飛んでいた。
アンティークな作りの柱、暖かな照明。レトロなソファに囲まれたテーブルに、色とりどりのゼリーで彩られたポンチはステンドグラスのように華やかな光を振りまく。
「かわいいー!」
友達は一斉にスマホを取り出し、慣れた手つきで写真を撮っていた。角度にまでこだわって、色が映えるようにしている。どうやら投稿用らしい。駄目だ、まだ私は流行について行けていない。
「これほんと映えるね!」
「あ! みんなで写真撮ろう!」
キャッキャとはしゃぎながら、集合写真を撮った。自撮りも上手い。それから、みんなは投稿文を書いて、ハッシュタグをつけて、シェアボタンを押して……
「……あの、食べないの?」
「ほんまやなー、ごめんごめん! いやしかし美味しそうやなぁ」
そうか、これが今時の女子大生なのか。
ついて行けない。私も女子大生なのに。
「でさー、あんた、彼氏とはどうなのよ?」
「えー、私?」
早々に恋バナが始まった。何よりも苦手だ。恋という感情がどんなものかさえ、わからないのだから。
仲のいい友人たちのはずなのに、また置いてけぼり。それで私は、聞くのを諦めてあたりを見渡す。
綺麗なお店だ。お洒落で、大人っぽい落ち着きがあって……そんな空間の中では、彩りに満ちたスイーツがなおさら華やかに見える。なんだか、目の前のポンチが宝石箱のようだ。またあの舞妓体験の時のように、浮かれた気分になる。物語の世界の中に、私がいる。
そんなふうに時間が過ぎていき、皆で帰途についていた。帰りついでに、繁華街を気ままに歩き回ることになった。
その時、私は、見覚えのある景色を見かける。
そっと輪を抜け出し、『先斗町』の石碑を脇に駆け抜け、道を右に左に進んでいった。
「あ……やっぱり」
そこは、「やなぎ荘」――四つ葉さんと出会った茶屋だ。また会えないかな、と思いながら、店の周りをうろついていた。もし私の姿を見つけた人がいたら、きっと不審者と思われていただろう。
この歳では客になれないから、会おうと思ったらまた、前のように偶然会うしかない。
ふと、お座敷の声が聞こえてきた。
すぐ、四つ葉さんだ、と思った。
おもてなしをしているお客さんは、厳格さと穏やかさを兼ね備えた声をしている。中年か壮年ぐらいの男の人だ。立ち聞きは駄目だと知りながらも、ついつい聞き耳を立ててしまう。
「四つ葉さんは、幾つなんだ」
「十九どす。舞妓は二十歳までやさかい、もうすぐ芸妓になるんどすえ」
十九歳。
そうか、同い年か。
同い年か年下、とまで絞れていたけど、同い年なんだ。
共通点がある。それだけで、一気に身近に感じられた。そんな小さな嬉しさを精一杯噛み締める。
「……あれ、どうしはったん、お嬢ちゃん」
「ひゃっ!」
急に声をかけられ、驚いて変な声を出してしまった。しまった、立ち聞きしていたことがばれた。なぜ外に彼女がいるのか疑問ではったけれど、会えたのは嬉しい。まさか本当にまた会えるなんて。
「あ、えと……ごめんなさい」
「え? どうしはったんどすえ?」
「立ち聞き……しちゃってて」
「それはあきまへんなぁ」
悪いと言いながら、しんから可笑しそうにクスクスと笑う四つ葉さん。それさえ絵になるけれど、それでも同い年なのだ。
「ほんなら、お嬢ちゃん」
「あ、あの! 杏です、私の名前! だからそう呼んでください!」
「そうなん、可愛らしいお名前やなぁ。……杏ちゃん。立ち聞きしとったの、うちはええけども、お客はんの秘密とかもあるさかい、次からはしいひんようになぁ」
「はいっ、すみません」
「それに、同い年どすやろ? そないに堅苦しくなくてええよ」
「はいっ……え?」
またひとつ、憧れが身近になった。