第十一話 (杏)夢の世界のこちら側
私はもう、本物の舞妓さんにはなれないのだろう。
けれど、いや、だからこそ……
「なりきっちゃえ!」
というわけで、四つ葉さんの手帖を見て今日も練習である。
お手本がないのに練習などできるものか、と思われるかもしれない。しかし、その心配がないほどに細かくびっしりと説明やメモが書かれている。本当に几帳面なひとなのだろう。繊細な女性。私もこうなりたい。同い年かそれより若いなんて、未だ考えられない。
姿勢はこうする。手はこう添える。歩き方はこうで、声の出し方はこう。説明の通りに真似してみて、玄関に立てかけている鏡を眺めてうっとりする。憧れに、少しずつ、ほんの少しずつでも近づいている。
祖父母の家にいた頃は、上品な所作や振る舞い、言葉遣いを叩き込まれたものだ。良家の娘に見えるようにと。格式よくあれと。テーブルマナーとか、座り方とか、一挙一動の隅から隅まで、彼らは目を光らせていた。心なしか兄よりも厳しく教わった気がする。
あの時の記憶は、もうほとんどない。けれど、ただ気詰まりで、苦しかった。守らなければ、叱られる。怖い。それだけだった。地に足をつけていても四方を檻と看守に囲まれているのでは、深海にいるより息苦しいものである。
しかし今は違う。私が憧れたものに近づくためにしていることだから。
どんなに不確かでも、私の心で、私の手で探る道だから。
私の瞳で、光に向かう。これほどの自由はない。ほんの一年前の私には望むべくもなかった贅沢だ。
ちょっとは、着物とあの街並みの似合う女性になれたかな。そう思いながら、動画サイトの舞妓さんと鏡の私を見比べてみる。
「……あぁー、やっぱりまだまだ、何か違うっ!」
見比べては落胆する、の繰り返し。
それでも、楽しい。
浮かれた気持ちが止むことはなく、さらに手帖をめくる。
『おきばりやす――頑張る、という言葉は「我を張る」という意味。舞妓はそんな独りよがりでは成り立たない。周りの人々を気遣って一緒に張り切る、つまり「気張る」のだ』
そうか。舞妓さん達の気品、たおやかなる優雅さは、周りを気遣うことから生まれるものなのかもしれない。ひとりが突っ走っても、舞妓の仕事は――いや、この世の中にあるすべての仕事は、成立するものではない。だから、支えてくれる人々への感謝を大事にせねばならない。
感謝の心を忘れず、ありがとうを清々しく言える人は、美しい。幼いうちから当たり前のように習う、当たり前のこと。だからこそ、改めて意識したことはない。
「もっと、ちゃんと『ありがとう』って言おう」
その心こそ原点なのだろう。しっかりと肝に銘じる。手帖を真っ直ぐに見つめて、そう誓った。そのすぐ後で。
「そういえば、『ありがとう』って京言葉で何ていうんだろう?」
京言葉。舞妓さんや芸妓さんが話す言葉。それは、単なる関西弁とか京都方言とも異なる、上品で日本情緒あふれる言葉。
「『おおきに』か。大阪の友達も使ってたな。これは関西共通なのかな?」
手帖をめくり、目当ての言葉を見つける。この頁では、京言葉が数ページにわたってびっしりとまとめられていた。そうして、後ろにはこんなメモも。
『仕事のない時でも常に京言葉を使うこと。ふとした拍子に出る言葉が雅な言葉であるように』
ここまで徹底していたなんて。改めて感動する。
私も使ってみようかな。そう思ったが、まずは関西アクセントを練習しなくては。そういえば、京都の実家から通っている友人もいる。その子に特訓してもらおう。
善は急げ。私はスマホのチャットアプリを立ち上げ、彼女とのトーク画面を開く。『関西弁を教えてほしい』なんて変かもしれないと思いつつ、送信ボタンを押した。スマホを使い始めて二ヶ月ほどが経つ。小さな画面で文字を入力するのは苦手だったが、今ではお手のものだ。
とにかく、友達の力も借りながら関西弁を勉強して、ある程度話せるようになったらすぐに京言葉を使い始めるのだ。
送ったメッセージにはまだ既読もつかないけれど、もう一度、鶯色の手帖を開いた。
『男へ口応えはせず、二歩後ろを歩きながら笑顔を崩さないこと』
この文字列を見た瞬間、背後に微かな震えが走った。
傲慢で横柄な祖父の後ろで小さくなりながら静かに付き従う祖母の姿。兄は堂々とするように、私は目立たぬようにと叱りつける声。「女は男を立てる」のは和の文化なのだと、再三言われてきた記憶が、一挙に蘇ったからだ。
――お兄ちゃんが食べ終わるまで、杏ちゃんは食べちゃだめだよ。
あの家で私が熱いご飯を食べることはなかった。兄は気兼ねして、何度も私に食べるようにと促してくれたが、それさえ祖父に「みっともない」と注意された。
女は必ず、男より遅れて家に上がり、賢くあってはならず、ただ家を慎ましく守るものである。女は、男に添えられた花だ。
その古い教えから抜け出すために、私たちはアパートでささやかな暮らしを送り、私は故郷から抜け出して大学の扉を叩いたのだ。
「やっぱりこの世界でも……こんな法に、縛られなきゃ駄目なんだ」
ため息をつく。しかし、そのすぐ下に、星印と走り書きのメモ。
『このしきたりはこの手で変える!』
走り書きなのに、崩れていない。躍動感を込めた力強い筆跡を見れば、先の文字列よりもよほど「四つ葉さんの字だ」と思えた。四つ葉さんの心を垣間見た気がした。四つ葉さんも、同じことを思っていたんだ。そう考えると、まるで彼女に誉められたかのような面映さで、ふふっと軽い笑みがこぼれた。
その夜。
私は、夢を見た。
私の前を、大人の男性が歩いている。
私は、舞妓の服を着て、彼のすぐ後ろを歩いている。
彼の顔は、見たことがない。
彼が誰なのか、私は知らない。……はずだった。
顔も、声も、知らないはずなのに、はっきりと見える。
脳裏に響き、心を震わせる。
――ああ、このひとは、お父さんなんだ。
夢の中の私は、なぜかそう確信した。
明け方の夢ではよくあることだ。何かを確信すれば、未来はその通りになる。
前を歩く男性は、紛れもなく父親だった。
そうして、私は彼をもてなす舞妓だった。
彼に失礼のないように。彼を先に歩かせ、靴は彼の分まで揃え、お酒は進んで彼の盃に注ぐ。
そんな中、目の前の男性は、ふいに口を開いた。
――いいんだよ。君にそんな、窮屈でいて欲しくない。
その言葉を聞いた刹那、ああ、やっぱり父なのだ、と思った。
彼は、自分のことを勘定に入れない。
ひょっとして、それこそ、代々続く舞妓の心なのだろうか。
――君には、君のままでいてほしい。
明け方の夢ではよくあることだ。目の前にいた父の顔は、ゆっくりとぼやけていく。
いつの間にか、そこには兄がいた。
よく知った顔。もう、すっかり大人だ。……私の記憶にあるよりさらに大人だ。
――うん。お兄ちゃんが、そう言ってくれるなら。
私は、いつもの口ぶりでそう返した。
いつしか、身に纏うのは普段着である。
しかし、どんな立場であろうと関係ない。
私は、大切な兄の願いならば、決して無駄にはしない。




