第九話 (四つ葉)ほころびの始まり
梅乃は、誰よりも艶やかな芸妓だった。
舞妓から立方の芸妓へと至る時間の流れにおいて、いつも置屋で最たる人気を誇り続けた。そう、四つ葉が来るまでの間は。
この花街で暮らしていた生涯も長い。まさに、自らこそがこの店を支えているのだという自負があった。自分が居なければ、この世界が崩れてしまう。あてがきばらへんとあきまへんのえ。
舞妓時代からの客にも、新しい客にも、しっかりと「おもてなし」して、夢のような時間を過ごしてもらうのだ。だからこそ、古くからのやり方に忠実であった。梅乃という柱がなくなると、この世界は崩れてしまうだろう――その焦りゆえ、同じやり方を後輩の芸舞妓に固く守らせた。
まだ、倒れたらあきしまへん、そやないと……
「姐さん。ずっと気張りすぎたんどすえ。こういう時ぐらい、休まはって」
枕元にいるのは、四つ葉であった。
なんであの子が。そう梅乃は目を見開く。
四つ葉が来てから、梅乃の中に根付いていた「何か」が音を立てて崩れていった。
新参者でありながら、全てが完璧な若い舞妓。四つ葉が居れば、この伝統は末長く守られるだろう。彼女がいればこそ、梅乃を不安に駆り立てるものはもう何もなくなるはずだった。
それなのに――梅乃に見えたものは、足元の地面に亀裂が入るような幻想であった。何故。一体何を焦ることがあろうか。
答えは単純である。これまで梅乃の人生を捧げて築き上げてきたものたちを、目の前の無邪気で幼い少女に奪われることへの不安、あるいは自分が自分である意義を失くしてしまうという錯覚だろう。それを自覚した時、なおさら愕然とした。結局、自分が気にかけていたのは花街の未来ではなくて、自分自身のことだったのか。
その思いは、なおも彼女を醜くした。
梅乃は、四つ葉を睨みつけ、少しでも遠ざけようとした。穢れなき鏡のように、自分自身の心の歪みを映す少女を。
疎ましかった。憎かった。何より――怖かった。全てを見透かす、天女のような後輩が。自らの存在全てを否定してしまうような少女が。それでいて、その笑顔の裏に何を隠し持っているのか、つゆほども見せてくれない妖しき女が。
女将以外の人間を、怖いと感じたのは初めてであった。
「なんで……あてのお世話してくれはるん? あんな……いびるみたいなこと、したどすやろ」
「姐さんには、いつもお世話になっとりますさかい」
そう、時を移すことなく答えた四つ葉に、やはり恐ろしくなる。心から気遣ってくれているのだと、一挙一動の端々から感ぜられるのに……いや、だからこそ、いくら疎んでも動じぬさまに、疑問しか浮かばない。
女将の仏頂面を思い浮かべる。芸舞妓に何があっても、彼女は瞳ひとつ揺るがせない。いつも部屋で安静にしておくようにと命じ、医者には決して連れて行かない。この置屋のいかなる陰をも、外の世界には漏らすまい――浮世に暮らす人が花街を眺めるとき、見えるのは常に光でなければならないのだと、そう語るのだ。しかし、それはまるで、ほつれ始めた人形を納屋に押し込めるかのような冷徹さであった。本来光などとは相容れぬ声音だったのである。
それと比べれば、四つ葉の表情はまさに、常なる光。しかしその光が片時も揺らがぬなら、そこに輝きはない。温度はない。うららかなる陽光すら、いつもゆらめいているというのに。
暖かい言葉と優しい声音――作り物のそれを常に操るのは、梅乃とて同じ。だから虚を見抜くのも容易いはずだった。それでもなお、四つ葉の言葉に嘘は感じられない。だがどこかが冷たい。梅乃にすら見えぬ奥底から、雪の光がちらちらと見え隠れしているようだ。
彼女の不変なる笑みは、女将の無表情と同じほどに無機質に思えた――それもまた、梅乃を怖れさせたのだ。
「……それに、うちが舞妓になったん、梅乃姐さんのお陰なんどす」
「……え?」
「うち、梅乃姐さんを追いかけて、この花街に来たんやさかい」
照れるように笑ったままの四つ葉から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
まるで、置屋に来る前から、梅乃のことを知っていたかのように。
「それは、どういう……」
いよいよ引き攣らせた声で、問いかけようとして。
ドクン……と梅乃の心臓が大きく波打つ。
そのまま、再び寝台の上に倒れ込んだ。
四つ葉は、苦しき眠りに落ちた女性を相手に、静かに語りかける。
そこに、温度のない声を乗せて。
「姐さん……姐さんは、『お姉ちゃん』を、あこの世界に追いやったんどす。覚えてはりますか?」
その声は、目の前にいる梅乃の意識に届くことなく、冷ややかな宵闇の中に染み込んでいく。
四つ葉には、姉がいた。
血の繋がった、実の姉。
四つ葉は十五の時、姉を失った。
時を同じくして両親をも失い、独りこの世に残された。
「姐さん、これが昔のやり方や言わはって、汚いことも、なんでも、強いて『お姉ちゃん』にさせはった。今も変わらしまへんなぁ。他の姐さんかて、梅乃姐さんに勝たれしまへんから、皆して……『お姉ちゃん』を暗い淵に落としはったんどす」
四つ葉の姉もまた、舞妓であった。
『ふく菫』と名乗り、梅乃のもとで教わっていた。
梅乃は重ね重ね教え聞かせていた。
――このぐらい、芸妓はんには出来なあきしまへんで。
官能的なことも……いや、そればかりではない。法外なことも、穢らわしいことも。客の殿方たちに喜ばれるためならば、進んでせねばならない。店を、花街を、日本に根付く魂を守る気持ちがあれば、芸舞妓としての誇りがあるのあるなら、当たり前のことだ……と。
――あてがちっちゃな舞妓の時は、姐さん皆そうしてはったえ。若い妓たちがしはらんのやったら、あてはお婆ちゃんになってもここで舞いますわ。大好きな花街がなくなってしまうさかい。
梅乃がそう繰り返し、後輩たちはそれに付き従った。清らかでありたいと願う心を押し殺し、絢爛たれども望みを持たぬ京人形になって。いつしか、彼女たちにとってもそれが当たり前になっていた。特に舞妓は、何も知らぬ少女――恥じらいさえも知らぬほどに幼い少女で居なければならなかった。
ふく菫は、それをどうしても受け入れられなかった。
女は自らの満足のために在るのだと言わんばかりの男たちに閉口し、なんとか抗って心を保とうとした。しかし、客からの指名を得ることができなかった。いつしか、置屋から彼女の居場所は消えていき、心に傷を負い続けた。
――あんさんがここに居はったら、舞われる者も舞われしまへん。
嫌味を言われ、花街を去ろうとしても、それは許されなかった。
外の世界に助けを求めることも、叶わなかった。
そうして砕けた心を抱えたまま、自ら命を絶ったのである。
「姐さんは、もうえらい舞わはりました。はんなりして、美しゅうて……けども、うちらが舞うのは『いま』なんどす。京人形にしか守られへんほど、この世界はもう脆くない。他の置屋の若いひとも一緒に、ここの『未来』を作るんやさかい……」
四つ葉はまた、静かに語りかけた。伏せがちな顔から、一切の表情をも読むことはできない。
「もう、案じることはないどすえ」
その言葉に答えるように。
梅乃の身体から、一切の動きが失われた。
不規則に上下していた胸も、苦しげに紅潮させていた頬も。
四つ葉は、懐から臙脂色の手帖を取り出し、ある頁を静かに開く。
そこには、『梅乃』の名が記されていた。
鮮やかで鋭く、流麗な黒の筆跡が、和紙の上で輝く。
それを刻むように、ふたつの朱が横切る。
それからまた、音もなく手帖を懐に仕舞った。
手向けるように、枕元には鮮やかな彼岸花をそっと供えた。
「女将さん、梅乃姐さんが……」
四つ葉は女将の元へ急ぎ、梅乃が息たえたことを告げた。
女将は、相変わらずの仏頂面を崩さなかった。




