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私の好きな人の、好きな人

作者: 柚子茶

私には好きな人がいる。

幼い頃から私の心に住み着き、愛して愛して止まない人が。

そんな相手が私の婚約者だなんて、これ以上何を望むと言うの。

例えば私の好きな人に、別の好きな人がいたとして。

それは大した問題ではないのよ。


「リアム!今日もあなたは物語から出て来た勇ましい騎士のように格好良いわね!」

「…ソフィア」

顔を合わせて早々、満面の笑みでそう讃えれば返ってくるのは呆れにより半分据わった目。

私よりも頭2個分ほど高い位置にあるその顔は、毎日毎毎秒見ていても決して飽きないと断言出来るほど格好良い。

ああ、どうしてそんなに格好良いの?

濃く茶色い髪は少しだけ癖を持っていて、緩くカーブを描く髪は男らしく短めに整えられている。

微かにつり上がった眉は勇ましく、その下で鋭く光るこれまたつり気味の黒い瞳は、光の当たり具合で煌く星々をのせた群青の空のようにも見える。

通った鼻筋は寸分の狂いもない彫刻のよう。

少し分厚めの大きな唇なんて男の色香をこれでもかと閉じ込めていて、そこに存在しているだけでセクシー。

この神々しい唇が白く綺麗な歯を見せて微笑む様は、もはや神と崇めるしかないわ。

どこをとっても一級品の彼の顔をうっとりと眺めていると、リアムが呆れを更に濃くして私の頭を軽く突く。

「淑女あるまじき顔になってるぞ」

「やだ、ヨダレ出てない?」

「ぎりぎりセーフ」

「もう、リアムが格好良すぎるのが悪いのよ」

「とんだ濡れ衣だなおい」

貴族でありながらこんな風に砕けた会話が出来るのは、幼馴染という関係のおかげだ。

互いに隣接した領地を持つリアムのベルシュタイン侯爵家と、我がマクレガー子爵家は祖先の代からとても良好な関係を築き続けている。

爵位の格差はあれど、それでも互いの両親が仲が良く、ひいては私とリアムの関係性も良好だったことから私達の婚約は結ばれた。

勿論、貴族たるもの領地を繁栄させるメリットを考慮してのことであり、産業に力を注いでいるベルシュタイン家と広大な土地で綿花や絹を生産しているマクレガー家は相性が非常に良い。

そんなわけで私は大大大好きなリアムと婚約出来たわけだけど、まあ、彼にとってみれば言わずもがな政略結婚そのものなんだと思う。

私を愛しているわけではないリアムは、嫡男ということで家と両親の為に私と婚約を結んでくれた。

昔から責任感の強いリアムだから、自分の望みは二の次、その領地を思う心と聡明さも私のハートを撃ち抜く理由の一つだわ。

ああ。

なんて完璧なのかしら。

顔好し、性格好し、運動神経好し、勿論賢さも花丸。

多少荒い言葉遣いをしているが、それも騎士団に所属しているからこその勇ましさだと思うと格好良いの一言しかない。

騎士団で己を磨き、いずれは侯爵家を引き継ぐリアムはとにかくどの貴族から見ても優良物件であり、そんなリアムの婚約者である私。

本当に、これ以上何を望むと言うの。

完璧よ。

結婚すれば毎日リアムの男らしいご尊顔が拝見できるだなんて、やだわ、今からでも鼻血が出そう。

ええ、ええ、例えリアムに私以外の好きな女性がいるとしても、甘んじて受け入れようじゃないの。

というか、貴族なんてそもそもそんなものでしょう?

好きな人と結婚出来るだけ幸せ。

私は愛しのリアムを勝ち取った女であり、もしリアムが愛人をもうけたいと言うのなら広い心で受け入れてあげるわ。

私はとにかく、リアムの側にいられるだけで幸せ。

「おい、ソフィア。おーい?」

目の前で大きな掌が揺れ、程なくして私の思考はこの場に返ってくる。

「あらやだ、幸せに浸り過ぎてたみたい」

「そうかよ、本当にお前は昔から……はぁ。変わらないな」

「なによリアム?私のあなたに対する愛は日に日に増えてるわよ?変わらないなんてないわ」

「そういうとこだよ、ったく……」

リアムの呆れ顔もとにかく素敵。

笑顔も、怒った顔も何もかもが愛おしい。

あら。

でも私、リアムが本気で怒った顔は見たことがないかもしれない。

そうね、子供の時に喧嘩をして怒った顔は見たけれど、もっと、こう……腸煮え繰り返るような怒りの顔は見たことがないわ。

そう考えると、リアムってばすごく理性的よね。

紳士。

紳士の要だわ、格好良い。

「……はー、もういいから、さっさと行くぞソフィア」

繰り返される私の身悶えに愛想が尽きたのか、リアムは私の腕を軽くとるとそのまま歩き始めてしまう。

そう、今日は二人で観劇に来たのだ。

私が前から見たいと言っていたこの恋愛劇は、貴族の間でもとても有名で友人のマーニャも号泣したと話していた。

どうしてもリアムと観に行きたくて、騎士団の仕事で忙しい彼に無理を言ってお願いすれば、こうしてきっちりと時間を作ってくれた。

好き。

「ハンカチは用意したか?」

「勿論よ、ここに三枚あるわ」

「くく、泣き虫のお前にはそれでも足りないんじゃないか?」

三歳年上のリアムはこうしてよく私を子供扱いする。

それが嫌いじゃないものだから、私はぷぅと頬を膨らませながらリアムをわざとらしく睨み付けた。

「ならあなたの服の袖を借りるわ」

「淑女が他人の袖で鼻水を拭うのはいただけないな」

「はっ、鼻水は出ないわよ!それが淑女に対する紳士の言葉っ?」

「はいはい、俺のハンカチも貸してやるから鼻水はそこに付けてくれ」

「付けないし出ないわよっ!」

こんな風に、リアムと私は幼馴染感丸出しでいつも会話をしている。

女性として意識されていないのは、火を見るよりも明らかでしょう?

そりゃあ、こんな私が婚約者じゃ他の女性に目が行ってしまうのも仕方ないわよね。

納得。

「ほら、拗ねてないで入るぞ。せっかくお前の為に一番見やすいボックス席を用意したんだから」

「っ、やだ、リアム……っありがとう」

ああ、もう。

そういうところよ?

そういうところが完璧なのよ、リアム。

私をこれ以上喜ばせてどうするの?

「嬉しすぎて鼻水より鼻血が出そう」

「それは全力で堪えてくれよ」

はは、と男らしく笑うリアムに心臓を撃ち抜かれる。

この笑顔の為に生きていると言っても過言じゃないわ、好き。

ずっと瞳にハートを携えた私を引き摺ってもらい、リアムと共に劇場へと入っていく。

え?

結果、鼻水は出たのかですって?

ちゃんと私のハンカチだけで済ませましたわ、淑女ですもの。


[newpage]


貴族には一定の年齢になると学園に通う義務がある。

初等部から始まり、私が在籍する高等部を卒業してやっと一人前の大人と認められる。

私の卒業式はもうすぐ。

卒業すれば晴れてリアムと結婚することができ、その為の準備も着々と整っている。

結婚式が開かれるのは卒業して半年後だ。

待ちに待ったリアムとの結婚。

私がリアムの妻。

妻、なんて良い響きなのかしら。

オーダーメイドのウェディングドレスもすでに採寸済で、細やかな宝石を上品に散りばめられたそれはそれは美しいドレスだ。

早くリアムに見せたい。

私のウェディングドレス姿を見れば、リアムも少しは私を女性として意識してくれるんじゃないかしら?

「ねぇ、ソフィア。卒業パーティーは勿論リアム様にエスコートしてもらうんでしょう?」

「ええ、もちろん!」

卒業パーティー。

三年前、私は在学生であったため、リアムのパートナーとして彼の卒業パーティーに参加することは出来なかった。

そういったリアムのような立場の人間は家族を伴い、もしくは一人で参加するわけだけれど、在学生は参加出来ないなんてそんなつまらない決まりなければ良かったのに。

そうすれば、私が婚約者として堂々と参加出来たはずよ。

あぁ、卒業パーティーのリアム、生でこの目におさめたかったわ。

あの日、どんな服装を着るのか一番に私に見せに来てくれたリアム。

私の目の色であるエメラルドグリーンを取り入れてくれて、感激のあまり本当に鼻血が出たのよね。

リアムの服を汚さなくて良かった。

とにかく、今回私は卒業生であり、リアムはもう大人。

エスコートしてもらえるなんて、幸せすぎてどうにかなりそう。

「私もジーンにエスコートしてもらうのだけど、お互いの色は取り入れた?あなた達の場合、緑と群青かしら?それともダークブラウンに淡いピンク?」

マーニャは楽しそうに目を輝かせながら私を見つめている。

私の髪は色素がとても薄い。

金髪に近い色味に淡いピンクが入っていて、この髪色に合わせるならピンクゴールドのネクタイピンなんてぴったりじゃないかしら。

でもそれじゃ可愛過ぎる?

リアムは勇ましい騎士だもの、私の瞳の色であるエメラルドグリーンの方がいいのかも。

「ドレスとリアムの服はもう頼んであるの。ただ、ネクタイピンを何色にしようか迷っていて……」

「ふふ、幸せそうね、ソフィア。あなたが笑顔だと私も嬉しい」

「マーニャ……」

親友の言葉に胸が暖かくなる。

彼女はずっと、リアムに別の想い人がいるという事実を憂いている。

私がその事実に気付き彼女に話してから、ずっと。

だから、こうして公の場でリアムの婚約者は私だと触れ回ることのできる場が嬉しいんだろう。

私のことが大好きだものね、マーニャ。

私もあなたが大好きよ。

「ねぇマーニャ。私、あなたがいてくれるからとても心強いの。何が起きてもへっちゃらよ?」

「ソフィア……あなたは確かに強いけど、ちゃんと弱さもあるの。それを忘れてはだめよ?」

「私に弱さ……」

「そう。無理は禁物。ね?」

「……ええ、そうね。気を付けるわ」

私の弱さ。

弱味になるのは間違いなくリアムだけれど、私の弱い部分とはどこなのかしら?

多少のことでは動じないと思うのだけれど。

「マーニャ、私これからリアムのところに手作りのお菓子を届けようと思うの。ジーン様もいるだろうし一緒に行かない?」

「あら、素敵ね!ぜひお供するわ」

マーニャの婚約者であるジーン様は伯爵家の嫡男であり、同じ伯爵家であるマーニャとはいわゆる政略結婚を前提とした婚約だ。

けれどこの二人息が合うらしく、いつ見てもとても仲が良い。

そんなマーニャの婚約者、ジーン様はリアムと同じ騎士団に所属している。

「私も何か差し入れを持っていきたいわ。途中にお店へ寄ってもいいかしら?」

「もちろんよ」

一日のうち数分だけでも愛しの殿方に会うため、今日も私達はこうして足繁く騎士団に通う。

ああ、リアム。

あなたの訓練している姿が少しでも見れたらいいのだけれど。




リアムが騎士団に所属してからこの三年間、何度もこうして差し入れをしてきたからか、騎士団の門はもはや顔パスになっている。

「こんにちは、ヘーゼル様」

「ああ、こんにちは。今日も精が出るね〜ソフィアちゃん」

今日の門番はヘーゼル=トラビス様。

リアムの一年先輩であり、とても気さくな男性だ。

「今日は友達のマーニャも一緒なんです」

「了解。名前書いとくから行っておいでー」

「ありがとうございます」

マーニャと共に丁寧にカーテシーをすれば、ヘーゼル様が優しい顔で頷いてくれる。

伯爵令嬢であるマーニャは淑女教育が行き渡っているが、私も侯爵家へ嫁入りするということで子爵家ながらも小さい頃からしっかりとした教育を受けている。

リアムの前だと口調も態度も砕けてしまうけど、普段の私は割としっかりしているのだ。

「ねぇソフィア。今日は演習場かしら?」

「そうね、そう言っていたわ」

今日の訪問はリアムに伝えてはいない。

いないが、週に二度、三度私が騎士団へ顔を出すのは当たり前で、リアムもその心づもりで待っていてくれている。

本当に優しいのよ、リアムは。

演習場が近付くにつれ、男性の覇気をまとった声が遠くから聞こえ始める。

剣技を特訓中のリアムは言葉で言い表せないほど美しい。

神々しくもあり野性的にも見えるその姿は、私の心をがっしりと捉えて離さない。

いつか心臓が潰されちゃうかもしれないわ。

そんなことを考えつつ演習場に来てみれば、早々にリアムの姿を見つけることが出来た。

「ーーーーあ」

出来た、が。

ああ。

これは。

何ともタイミングの悪い時に来てしまったものだ。

遠目でも休憩中のリアムの額に汗が滲んでいるのが分かる。

とても簡素な作りの服は訓練で動きやすくするためで、その逞しい腕の袖を捲くりあげている姿は男の色香が半端ない。

やだ素敵。

どうしましょう。

ドキドキと胸を高鳴らす私の横で、普段からは想像もつかないマーニャの低い声が聞こえた。

「……あの女…またリアム様に近付いてるわね」

怒りを込めたその声は決してジーン様に聞かせてはならないと思うの。

ちょっとマーニャ、淑女の仮面が外れまくってるわよ?

「ソフィア!いきましょう!」

ぐい、と腕をとられそのままリアムの元へと歩き始める。

どうしようかしら。

そんな風に迷いながら視線をリアム達に向けてみる。

リアムと、その隣にいる女性。

同じく簡素な服装をしている女性はリアムと同じ騎士団に所属しており、部隊は違えど今日は混合演習をしているようだ。

女性の騎士は珍しくもあるが、それでも毎年一定数ほど騎士団へ入団する女性がいるのは確かであり、そんな一人である彼女はリアムより一年遅れて騎士団に入団した。

彼女の名前はイザベラ=カロライン。

そう。

彼女こそがリアムの想い人であり、騎士団でとても人気が高い侯爵令嬢だ。

侯爵家の御令嬢がなぜ騎士団に?と思うけれど、彼女の家系は生粋の武家。

騎士団団長を務めるカロライン侯爵は、娘が騎士団に入ることへ何の憂いもないみたい。

むしろ誇りなのね。

確かに素敵だもの。

女性なのに強くて、凛々しくて。

けれど女性的な体付きと甘いお顔が、ただ強いだけの女性ではないと示している。

ぷっくりと艶のある赤い唇、切れ長の茶色い瞳は長い睫毛に縁取られ、高い位置でまとめられている青みがかった黒髪が隣に並ぶリアムの瞳とよく似合っている。

互いの色彩まで揃えたように馴染んでるわ。

羨ましい。

私の体にはリアムの色がない。

ピンクゴールドの髪も、エメラルドグリーンの瞳も。

薄い色素で出来ている私には、彼女の妖艶な濃さが羨ましくて仕方がないのだ。

「やだ、リアム。あなたってば本当に冷たいんだから」

くすくすと笑うイザベラ様が、楽しそうにリアムの肩へ何度も触れる。

常日頃からそういう接触が当たり前なんだろう、そんな気安さが二人の空気にはある。

私はもう見慣れたものだけど、そうは行かないのがマーニャだ。

彼女、私の為にすごく怒ってるわね。

眉間に皺を寄せそうなのを我慢し、淑女たるもの確かに感情は隠さなければならない。

でもね、マーニャ。

目が、目が凍て付くような冷たさをもってイザベラ様を見つめているのよ。

怖すぎるわ、マーニャ。

私が止める間もなく、マーニャのハッキリとした足取りに程なくリアム達が気付く。

自然と向けられたリアムの視線はマーニャを一瞬捉え、そしてすぐさま私へと向けられた。

少しだけ丸まったその目に、私はふにゃりと笑みを浮かべる。

だって仕方ないじゃない、リアムなのよ。

リアムと目が合えば周りの喧騒なんてどこかへ吹き飛んじゃう、目にはハートが浮かんで、リアムのことしか考えられなくなるんだもの。

「ソフィア」

感情を読み取れないリアムの顔が私を見つめる。

邪魔しちゃったかしら。

お菓子だけ渡してすぐに帰ろう。

そう決めて、イザベラ様とリアムにカーテシーを披露する。

リアムだけならば簡易な挨拶で済ませるが、今は隣にイザベラ様がいる。

私と彼女じゃ爵位は圧倒的に彼女が上だ、彼女から声をかけられるまでカーテシーを解くことは出来ない。

「ごきげんよう、ソフィアさん。マーニャさん」

簡素な服装でも、イザベラ様がカーテシーをした瞬間まるで輝く女神のように美しく洗礼されてしまう。

さすが侯爵令嬢だわ。

「ごきげんよう、イザベラ様。リアムも」

「……ごきげんよう、イザベラ様。リアム様」

全く乗り気じゃないマーニャの挨拶に苦笑いがこぼれそうになるが、我慢我慢。

「こんにちは、マーニャ嬢。ソフィアも」

リアムの優しい声にじんわりと胸が暖かくなる。

急な訪問で二人の逢瀬を邪魔しても、リアムは絶対に怒ったりしない。

そんなリアムであるから、ますます彼を丸ごと愛したくなるの。

そう、イザベラ様を好きなリアムを丸ごと。

「急に来てしまってごめんなさい、リアム。お菓子の差し入れを持ってきたくて」

リアムは優しいけれど、逢瀬の邪魔をしたのは事実だわ。

そんな気持ちで元気なく声をかけると、リアムが小さく微笑んでみせる。

「どうしたソフィア。そんなしおらしくなって、悪いものでも食べたのか?」

「まあ!私がしおらしいと変みたいじゃない、失礼ね!」

頬を膨らめて見せればリアムが意地の悪い笑みで私の目を覗き込んだ。

「お前はそれくらい元気な方が合ってるよ。今日はなに?」

そう言ってひょいと私の持っていたバスケットを取り上げ、かぶせられた布をさっと取り除いてしまう。

ななななによ、合ってるだなんて!

そんな男の色香を滲ませた悪い顔で見るなんて、破廉恥だわ!

好き!!!

「お。俺の好きな紅茶のケーキじゃないか」

嬉しそうなリアムの顔が格好良いのに可愛い。

甘いものがそれほど得意でないリアムには、いつも甘さ控えめのお菓子を差し入れしている。

今回の紅茶ケーキも砂糖を少なくし、紅茶の香りとふわふわな生地の食感が楽しめるよう作られている。

我が家お墨付きの料理人であるトーマスのおかげよ。

彼にずっとお菓子作りを教えてもらっているおかげで、今じゃ私もかなりの腕前だ。

「わぁ、すごい。相変わらずソフィアさんの作るお菓子は美味しそうね!」

隣でキラキラと目を輝かせているイザベラ様は、バスケットを覗き込む形でかなりリアムに体を寄せている。

それに気が付いているマーニャから凍土のような冷えた気配を感じるけれど、ここは触れないでおくのがベストだわ。

だってほら、リアムは何も感じていないでしょう?

イザベラ様の体が腕に密着していても、リアムの態度は変わらない。

それはつまり普段からその距離感が当たり前ということで、あまりにも近いということに気付きもしないのだ。

だから私は何も言わないし、それに納得しているもの。

「良ければイザベラ様もいかがですか?後で休憩中にでも皆様とお召し上がり下さい」

私よりも背の高いイザベラ様を見上げて言えば、嬉しそうな笑顔が返される。

ああ、綺麗。

自信に満ち溢れた瞳も、妖艶な赤い唇も、陶器のような健康的な肌も。

女性的な美しさが詰まっている彼女は、美しいリアムの隣にぴったりだ。

「おいおい、俺への差し入れじゃないのか?」

不満を顕にしたリアムが微かに怪訝な顔をして私を見つめる。

そんな子供のような態度も可愛くて格好良い。

私のお菓子を独り占めしたいなんて、優しすぎるのよリアムってば。

「あらリアム。ソフィアさんが良いって言ってくれたのよ、差し入れしてくれた彼女の意志を尊重すべきだわ」

悪戯っぽく微笑む彼女はますます妖艶で、女の私でさえドキドキしてしまう。

「イザベラ、お前は遠慮というものを知るべきだな」

「いやねぇ、リアムってば心が狭いんだから」

そう言って嬉しそうにリアムの腕をパシパシと軽く叩くイザベラ様に、リアムが不満気な顔を浮かべる。

けれどその群青の瞳は本気で嫌悪を抱いてはいない。

そういえば、私はここまでリアムに触れたことあったかしら?

それこそ子供の頃は手を繋いで走り回っていたけれど、中等部になったあたりからそういうこともなくなった気がするわ。

淑女教育が進み、リアムも紳士としての教育を、そして騎士として勉強し始めてからは本当に触れ合いなんてなくなってしまった。

エスコートの為に触れる以外、そういう接触は皆無と言って等しい。

私がリアムを好きすぎて触れられないというのもあるけれど、イザベラ様はリアムを好きでもこうして触れることが出来るのね。

やっぱり両想いという事実が大きいのかしら。

そんな風にぼんやりと考え事をしていると、不意に腕をぐいと引っ張られた。

「そろそろいきましょう、ソフィア」

私の腕を強くとったのは、怒りを堪えきれないマーニャだ。

まあ、マーニャったら。

淑女の仮面が完全に剥がれてるわ、眉間の皺がすごいわよ。

「そ、そうね。行きましょうか」

これ以上マーニャを怒らせては大変なことになってしまう。

急いでカーテシーをし、二人に別れの挨拶をする。

「訓練の邪魔になりますので、これで失礼いたしますわ。またね、リアム」

リアムを見上げれば、やっばり感情の読めない無表情に近い顔に何とも言えない気持ちになる。

この顔も。

触れ合わなくなるのと平行して、リアムは表情を取り繕うことを覚えてしまった。

貴族として感情を顔に出さないことは当たり前なのだけれど、リアムの場合上手くなりすぎた気がする。

昔はリアムのことが何でも分かったのに、今じゃその顔から何の感情も読み取れない。

イザベラ様を見つめる目が優しいことは分かるのに。

「いつもありがとう、ソフィア。大事に食べるよ」

「ふふ。また近々差し入れに来るわね。お仕事頑張って」

にこりと微笑めば、リアムもその鋭い瞳をきゅ、と柔らかく細め微笑んでくれる。

ああ、格好良い。

数秒ほど見惚れたあと、私は踵を返しマーニャと共にその場を去った。

さて。

今度は怒りに染まったマーニャの相手だ。

「…あ、あのね、マーニャ?」

「なんなのあれは?!あんなにベタベタべたべた、あなたが許可してくれれば嫌味の一つでも言ってやるのに!」

確かに。

確かにイザベラ様の態度は良くないものだ。

婚約者のいる相手にあれほど触れる女性は淑女とは言い難い。

けれど、騎士団員というどこか男性に近いその立ち位置が彼女の気安さを許し、当たり前のようになっている面もある。

それに加えて、二人は両想い。

例えリアムに婚約者がいても、二人の距離感はおかしなものじゃないと私は納得してしまう。

だからこそマーニャにはイザベラ様へ何も言わないようお願いしているのだか、彼女にとってみればそんな状況は苦痛でしかないのだろう。

もともと白黒はっきりしている性格のマーニャだもの、許せないのは分かるの。

「ごめんね、マーニャ。嫌な思いをさせて」

「違うでしょ、ソフィア!」

マーニャがずい、と私の方へ向き直る。

その大きな声にすれ違う団員が驚いて振り返った。

「ま、マーニャ、もう少しボリュームを…」

「嫌な思いをしてるのはあなた!あなたなのよ?もっと自覚をもって!」

あああ、声のボリュームが大変だわ。

何事かと他の団員が寄って来そう。

ほら、あそこの人達がこっちを見てーーーあら?

ちょうど、廊下の中央で立ち止まっている私達の方に、数人の男性が近寄って来る。

その中央にいるのはよく見知った顔の男性だ。

柔らかな雰囲気をまとった優しそうなその人は、小さく微笑みながら背後からマーニャへと声をかけた。

「おやおや。こんな場所で騒いでるのはどこの可愛いお嬢さんさんかな?」

「っ、ジーン!」

愛しの男性の声で、マーニャの怒りは瞬時に鎮火したようだ。

さすがジーン様。

マーニャを一瞬でたしなめることが出来るなんて、愛ゆえによね。

素敵。

「どうしたのマーニャ。それにソフィア嬢も」

「あっ……い、いえ。何も、ないわ」

リアム達に怒りを覚えているとしても、それをジーン様に話すことは出来ない。

世間的には醜聞だもの、私のことを思って言えないマーニャに、申し訳ない気持ちと感謝が入り交じる。

彼女はいつだって私のことを考えて行動してくれている。

それが嬉しくて仕方ない。

「大丈夫?何か大変なことが起きたわけじゃないね?」

「ええ、大丈夫よ……ごめんなさい、こんな場所ではしたなかったわ」

「いいや、何も起きてないなら良いんだ。良かった」

思いやりのあるジーン様の言葉に、胸の奥が暖かくなる。

さすがマーニャの好きな方、素敵な男性だわ。

感動して二人を見つめていると、ジーン様の隣りにいた男性が私の方へ視線を送ってくる。

「ソフィア嬢、今日もリアムへ差し入れに?」

低めのバリトンボイスが心地良いこの人は、リアムの二年先輩でありまだ入団して五年目ながら一つの部隊を任されている、とても有望な騎士だ。

名前はトラヴィス=ジョハンセン、ジョハンセン侯爵家の次男であり、男らしい淡麗な容姿に高身長と、女性がとても好みそうな要素をふんだんに詰めた男性である。

私もリアムがいなければこの方にときめいていたかもしれないわ。

そんな風に想像できるほど、とにかく素敵な人だ。

「はい、先程本人に渡しましたわ。たくさん作ってありますので、宜しければ皆様でお召し上がり下さいね」

そう言って微笑むと、トラヴィス様は柔らかく微笑んでくれる。

「君の作る菓子は特別美味しいからな。ありがたくいただくことにするよ」

「まあ、お世辞でも嬉しいですわ」

「世辞じゃないさ、可憐な君が手ずから作ってくれたものだ、他のどんな菓子より勝る」

あらあら、まあ。

どこまでも出て来る褒め言葉に心から感心してしまう。

さすがは侯爵家の男性、女性を褒めるという行為が板に付いている。

リアムも侯爵家の人間だけれど、私とは幼馴染の気安い関係だから。

こんな風に埋もれるほどのお世辞は出て来ないし、今のトラヴィス様のようにまるで口説くような言葉は言ってくれないもの。

ああ、もしリアムが私を口説いてくれたらどうなるかしら。

まず、確実に鼻血が出るわね。

それも命の危険を感じるほどの量よ。

心臓が止まってしまうかもしれないわ。

顔もきっと淑女らしからぬデレデレの顔になってしまうだろうし、嬉しすぎて泣くかもしれない。

そんなどこまでもリアム思考の私の眼前に、気付けばトラヴィス様の顔がある。

あら、近い。

「ソフィア嬢?大丈夫?」

ぼーっと意識が遠退いていた私の目を、トラヴィス様が悪戯気な目で覗き込んでいる。

トラヴィス様の目は、深い緑なのね。

そんな事実に気付きぼんやりと見つめていると、トラヴィス様の瞳が薄く細められる。

「ソフィア嬢の瞳は、朝露に煌めく新緑のように美しいな…ずっと見ていたくなる」

「まぁ。トラヴィス様の瞳も、生命に満ち溢れた力強い深緑のように輝いていますわ。素敵です」

「はは、それは嬉しいな、ありがとう」

淑女たるもの、男性を褒めるのも朝飯前だ。

当たり前のように褒め返しをしたところで、ジーン様が何とも言えない表情で私達の間に割り込んで来た。

「トラヴィス様、距離感がバグってますよ。リアムが知ったらどうなるか」

「なんだ、ジーン。距離感がバグっているのは俺だけじゃないだろう?」

「トラヴィス様!」

咎めるようなジーン様の声に、私はああなるほどと納得する。

私は鈍いわけじゃない。

どちらかと言うと敏い方だからリアムとイザベラ様にも気付いたのだし、今の会話でジーン様もトラヴィス様も、二人がリアム達のことを知っているんだと気付いてしまった。

そうね。

確かに、あれほどの距離感を常日頃からしていれば、他に気付く人がいてもおかしくないもの。

でも、リアムに醜聞はふさわしくないわ。

愛しいあの人は本当に優しくて、思いやりがあって、真っ直ぐな人なの。

イザベラ様を想うだけで何かを行動に起こしたことはない、それはきっと私への配慮であり彼の誠実さとも言えるだろう。

心は、どうにもならないわ。

だから態度だけでも誠実であろうとするリアムに、私はとても感謝しているし、愛が溢れて止まらない。

それにリアムからイザベラ様へ触れたことはないもの。

その事実は私の中でとても大きかった。

なので、誠実であろうとするリアムが醜聞にまみれないよう気を付けるのも、婚約者である私の仕事だ。

「トラヴィス様、ご心配には及びませんわ」

そう言って、何も感じていないのだと知ってもらう為に出来るだけ柔らかく微笑みかける。

そんな私にトラヴィス様が軽く目を見開くが、効果あったと見ていいのかしら?

「私、幸せですのよ。それはもう、とても」

すべてを理解したうえで、許し、受け入れている。

いやだわ、許すだなんて偉そうね?

とにかく、良いのだと婚約者の私が言えば、それは問題のないことなのだ。

そう暗に伝えた私を、聡明なトラヴィス様はきっと理解して下さる。

そう思いもう一度にこりと微笑めば、トラヴィス様の驚いていた目が徐々に薄く細められる。

それは先程までとは違い、どこか獲物を狩る野生の動物のように危険な色香を滲ませた目に内心どきりと心臓が震える。

これはときめきではなく、危険を察知した感覚だ。

やだ、何かしら。

怖いわ、この瞳。

「…ソフィア嬢ほど素敵な女性は早々いないな。リアムが羨ましいよ」

にこり。

微笑んでいる筈なのにどこか圧を感じる。

何かしらこれは。

よく分からないけれど、いけないことのように感じてしまうわ。

これ以上長居しないほうが良い。

そう思いマーニャを見れば、彼女もどこか怯えた目でトラヴィス様を見ている。

「マーニャ、差し入れは渡したのかしら?」

「ーーっあ、わ、忘れていたわ!」

私の一声でどうかこの場の雰囲気が変わりますようにと祈りながら、慌てて先程お店で買ったお菓子を取り出すマーニャを見つめる。

未だトラヴィス様の視線を感じるが、ここはスルーしておきましょう。

「ジーン、良ければ皆様で召し上がって?訓練はお腹が空くでしょう」

「わぁ、ありがとうマーニャ!助かるよ」

嬉しそうに微笑むジーンに、マーニャの頬がほんのりと赤く染まる。

そんな彼女を見て心が和んだ私は、そのまま彼女と共にカーテシーをした。

「それではまた、失礼いたします」

なるべくトラヴィス様を見ないように挨拶をしたが、その圧倒的な存在感をどうしても感じてしまう。

「また来るのを楽しみに待っているよ」

そんな彼の言葉にもろくに反応出来ず、そそくさとその場を後にする。

今まであの人にこんな感覚を抱いたことはなかったのに。

何かしら?

まるで自分が捕食される小動物のように感じたわ。

逃げるように騎士棟を後にした私達は、敷地を出てからやっと大きく息をつく。

その直後、マーニャが叫びだしそうな声で私の肩をつかんだ。

「ソフィア!あの人絶対にあなたへ好意を寄せてるわ!」

ああ、マーニャ。

それは思っていても口に出してはいけないものよ?

「どうかしら、軽々しくそんなことを言うのは失礼にあたるし……」

「だってあの目!見たでしょ?!あなたを見るあの目はライオンよ、獲物をロックオンした獣のようだったわ!」

「ま、マーニャ、私には婚約者がいるのよ?忘れてない?」

「〜〜っだって!リアム様はあんな調子じゃないの!思わずトラヴィス様の方がと考えてしまうのは友人として仕方ないじゃない!」

これはだめだ。

彼女は興奮しすぎている。

これ以上話してはいけないと思い、足早に歩き始める。

「帰りましょう、マーニャ」

「っ、ソフィア、」

「今日はもう帰りましょう。ね?」

「っ……、」

私の意を汲んでくれたのか、マーニャはグッと唇を噛み締めると渋々私の横を歩き出す。

その後はもう、彼女の口からトラヴィス様の名前が出て来ることはなかった。


[newpage]


私の好きな人はリアムだ。

リアム=ベルシュタイン。

他の誰もこの心に入り込む余地はなく、例えそれがどんな令嬢をも魅了して止まない男性であったとしても、私の心にはミジンコ程度も響かないのである。

そんな私の愛の大きさに、リアムは気付いているのかしら。

この間のトラヴィス様の件で、ふとそんなことを考えた私は居ても立っても居られなくなった。

リアムに格好良い、素敵だと伝えるのはいつものこと。

けれど、そこに好きという気持ちを言葉にしていたかと考えると、意外にもあまり伝えていないという事実に気付いた。

これは盲点だったわ。

私の態度はあからさまにリアムが好きだと言っているけれど、言葉にはあまりしていなかったのね。

いつも頭の中はリアムで埋め尽くされているものだから、あえて言葉にすることを忘れていたなんて。

由々しき事態、これはすぐさま行動に起こさなくては。

そう思い、すぐにリアムと予定を合わせ会う時間を作ってもらった。

今いる場所はリアムのお屋敷にある、とても丁寧に手入れされた中庭だ。

薔薇のアーチや色とりどりの花々、それらに囲まれて鎮座するテーブルと椅子は真っ白に加工されており、まるで夢のように美しい場所である。

何度もここでリアムとティータイムをしてきた私にとって、この庭園はとても大事で思い出深い場所なのだ。

「ほら、ソフィア。お前の好きなマスカット」

瑞々しく大きな粒をたわわに実らせたマスカットが、繊細な装飾を施されたお皿に盛り付けられている。

私の大好物。

こうやってリアムはティータイムの度に私の好きなものを用意してくれている。

それが嬉しくて、幸せで。

満面の笑みを浮かべながら、私は今日の目的を実行し始めた。

「ありがとう、リアム!大好きよ!」

「ーー、あぁ」

私の言葉に、リアムが一瞬驚いたように少しだけ目を丸くする。

これよ、これ。

私、全然この言葉を言い足りてなかったんだわ。

自分の心が満たされていくのを感じながら、にこにことマスカットを一粒口へと運ぶ。

「幸せそうな顔」

ふ、と微笑んだリアムの顔の、なんて格好良いことか。

ついついまたいつものように頬を赤くしてぽーっと見つめそうになるが、目的を思い出した私は目を覚ます為に数度瞬きを繰り返す。

そして。

「幸せだわ。だって大好きな人とこうして会って話してるんですもの。好きよ、リアム」

「ーーー」

あまりの幸せに蕩けて崩れそうなまま笑みを浮かべれば、リアムの顔が瞬時に真顔へと変化した。

あら。

なんで??

これは、紳士教育の賜物、ポーカーフェイスだ。

さっきの微笑みは消え去り、その温度すら消して真っ直ぐに私を見ている。

何を考えているのか分からない顔。

この顔になられると少し寂しく感じてしまうのは仕方ないでしょう?

「どうしたの、リアム?」

「、何でもない」

強張った声。

もしかして。

私が愛を伝えたのがいけなかった?

その可能性に気付き、なんとも言えない気持ちになる。

リアムの好きな人はイザベラ様だ。

そんなリアムに私の愛を伝えることは、もしかしたら彼を苦しめる原因になるのかもしれない。

そのことに思い当たり、自然と先程まであった覇気がなくなっていく。

どうしましょう。

好きだと言葉にしたいけれど、それはリアムにとって良くないことかもしれない。

「……どうした?」

リアムの優しい声色につられ、彼の方を見上げる。

暖かな、優しい目。

そこに恋慕の情はなくても、それでも、好き。

「いきなりしょんぼりして、何を考えてる?」

あなたのことよ。

あなとのことしか、考えてないの。

私の世界は彼が全てだから。

「…………リアムが、好きだわと思って」

「ーーーーっ、ぉ、前なぁ……っ、」

リアムが片方の手で自分の額を覆う。

瞳を閉じたまま溜息を吐く姿は、苦しんでいるのだろうか。

あぁ。

私の想いは、彼を苦しめるのね。

言葉にしたかった。

想いを、好きという感情を彼に伝えて、もっともっと知って欲しかったけれど。

自己満足ね。

これは悪手だったわ。

独り善がりだったことに気付き、すぐに好きだという言葉を封印する。

彼を苦しめたくはない。

私を婚約者として選んでくれた彼に、私も誠実でありたいの。

苦しめたくもないし、意地悪や嫌味なんて以ての外、我儘もだめよ、ただ傍にいられればそれで。

「……はぁ、よし、大丈夫」

一人ぶつぶつと何か呟くリアムに、私は視線だけを向ける。

再び開かれた群青の瞳は普段通りで、私を見つめるその目は優しさに満ちていた。







リアムとイザベラ様が両想いだと知ったのは、今からニ年ほど前のことだ。

あの頃はようやくリアムが騎士団に慣れ余裕が出て来た頃で、私もそのタイミングを見越し差し入れを始めるようになった。

厳しい訓練を日々こなしている彼に何かしてあげたかった私は、訓練後にはお腹が減るという話を聞きすぐさま実行に移した。

初めて差し入れを持っていった日、リアムは驚きに目を見開いた後、慌てて群がって来る他の騎士を追い払っていた。

その中にはイザベラ様もいて、あの頃彼女の存在をあまり知らなかった私はこんなに綺麗な人も騎士として活躍しているのだなとひどく関心したものだ。

それから私の差し入れが日常化し、顔パスで門を通ることが出来るようになった頃、その出来事は起こった。

本当に、本当にたまたまだった。

たまたま通りすがった場所にイザベラ様と友人の女騎士がいて。

たまたま、タイミング良く会話が聞こえてしまったの。


『両想いなんでしょ?あなたとリアム様』


大好きな彼の名前が出たことで、私の足はその場に縫い付けられた。

柱で隠れ、彼女たちからは見えない位置。

けれど彼女たちの声が聞こえるその場所で、これは悪いことだと分かっていながら私は聞き耳を立ててしまう。

『うん……そうだ、と…思う』

遠慮がちに呟くその声は苦しさを感じさせた。

『ほら、私、侯爵家の令嬢でありながら、騎士団に入ったでしょう?それを良く思わない人達もいてね。そんな相談をずっと彼にしてたの……彼は私を偏見の目で見なかったから』

リアムは優しい人だ。

優しく、誠実で、真っ直ぐ。

人の心が分かるあの人なら、絶対に偏見の目を持たないことが分かる。

変に冷静な頭がそう考え、身動き一つとらない私の心臓はもしかしたら止まっているんじゃないだろうかと思う。

『そしたら……その、彼、すごく慰めてくれるの。優しくて、温かくて。ついつい彼に縋って泣いてしまっても、受け止めてくれるのよ。彼の手……逞しかったわ』

彼の、手。

幼い頃と違い、私に安易に触れなくなったリアムを思い、冷えた心はますます冷え切って行く。

『何度も見つめ合ったわ……彼の瞳は私の髪と同じ色。すべてが通じ合っているみたいで、私はすっかり彼に溺れてしまったの』

私にはない、リアムの色を纏う彼女の言葉に、とうとう私の心にはパキリとヒビが入ってしまう。

『でもリアム様には婚約者が……』

『ええ、そうね。昔から両家が決めた婚約者が、いるわね』

両家が決めた、その言葉には恐らく本人の意思ではないという考えが元にある。

そしてそんな彼女の考えは、間違ってはいないのだ。

リアムは、私を好きなわけではない。

いつも優しく穏やかで、少しだけ口調が荒いけれど酷い言葉は絶対口にしないリアムから、熱の籠もった目を向けられたことはない。

いつも、ただひたすらに私が想いを溢れさせているだけで、彼は一度だって私に好きだと言ったことはなかった。

『でも相手は子爵家の令嬢なのでしょう?家格ではあなたの方がリアム様に相応しいわ』

『それでも彼はとても誠実なの。婚約者がいる事実を戒めのようにして、自分を律しているわ……立派な人よ』

戒め。

立派。

彼女が言う言葉はどれも、リアムが私を好きではないけれど家の為に自分の気持ちを殺して生きていると言っているように聞こえる。

間違ってないんじゃないのかしら。

リアムは私を好きではないもの。

ぼんやりとそんな事を考えながら、冷えてヒビが入った私の心はぴくりとも反応してくれない。

ただひたすらに彼女の言葉を受け止め、噛み砕き、飲み込んでいる。

『だから私もーー我慢するわ。仕方のないことなのよ。私の方が出会うのが遅かった……仕方が、ないの』

『そんな、イザベラ……』

友人の悲しそうな声を最後に、二人は肩を落としてその場から去って行く。

そんな二人の後ろ姿を見送りながら、私はこれからのことを考えていた。

冷えた、心で。

冷めきった、頭で。

確認しなきゃ。

それだけを強く思い、その場を後にする。

聞いてしまった。

彼女の想いを知ってしまった。

ならば次は、リアムの想いを確認するだけだ。

両想いだと言っていたけれど、それを言ったのはイザベラ様だ。

リアムが、彼がどう感じているのか。

それを確認しなければ。

そう考え、私はその日からリアムを観察することにした。

直接本人に聞くことは出来ない。

そんなことをしてもし婚約が解消になってしまったら、一体自分はどうなってしまうのだろうか。

怖くて怖くて、聞くことなんて出来ない。

ただ、彼の態度からある程度の予測を立てることはできる。

確かではないけれど。

でも。

そうしてリアムを観察し、一月、二月も経てば自ずと結果は見えてくる。

リアムがイザベラ様に見せる砕けた態度。

優しげな目に、包み込むような空気。

そして何より、私よりも肉体的に近いその距離感に、確かではなかった私の考えは確かなものへと変わって行く。

ああ。

そうか。

リアムは、イザベラ様が好きなんだわ。

私に触れなくなったリアムが、イザベラ様の接触を許す。

それでもまだ私の心のどこかには、救いを求めるような気持ちがあって。

一度だけ、私の方からリアムに触れたことがある。

それはエスコートのように軽い触れ合いではなくて。

子供の頃のような無邪気な行為でもなく。

私だって、私の方が。

そんな風に汚れた邪な感情のまま、衝動的にリアムへ抱き着けば、驚くほどのスピードで体を離された。

その時のリアムの顔は、無表情。

紳士教育で培ったポーカーフェイスに、私のひび割れていた心は砕け散ったのだ。

そうか。

そうね。

そうだったのね。

その日を境に、私の思考は変化した。

仕方ない。

そう、仕方ないのよ。

リアムが私を好きじゃないことは、仕方がないの。

リアムに別の想い人がいることは、仕方ないのよ。

私は大好きな彼の婚約者、それで十分じゃない。

一体何を考え違いしてたのかしら。

元々彼は私を恋愛的な意味で好きではなかったわ。

そんな彼が別の女性に心を惹かれても仕方がないじゃない。

好きな人と結婚が出来る私は幸せだわ。

それ以上に何を望むというの。

全てを手に入れるだなんて、なんて烏滸がましい。

私の心はそれこそ律され、貴族の令嬢として実に正しい考えを身に付けることが出来た。

我儘なんて言わない。

傍にいられるだけでいいの。

それだけで、いいから。


だからーーーーーー私を、捨てないで。


[newpage]


「え?」

「ーーっすまない、本当に」

目の前で深く頭を下げるリアムに、私は驚きを隠せずぼんやりとそのつむじを見つめる。

リアムが。

リアムが、私の卒業パーティーに、来れない。

その事実をパーティーの数日前に聞かされ、なかなか飲み込む事ができずどうしても言葉が出て来ない。

「急な召集がかかったんだ。選ばれたのは部隊からそれぞれ数名ほどで、近くの街外れに現れた野党を討伐する辞令がかかった」

部隊から数名ずつ。

過去にそうして召集されたとき、決まってそれは将来有望株である騎士を集め選定を行う討伐だった。

身体能力に優れ判断力もあるリアムは期待されていると、差し入れに行く時よく先輩騎士が聞かせてくれていた。

討伐ともなれば危険が伴うけれど、騎士という仕事に真剣に取り組んでいる彼が選ばれたのは素直に嬉しい。

これは本心だ。

ただ、私の卒業パーティーにリアムが来られないことは、単純にすごく悲しかった。

酷くショックを受けた心はジクジクと痛み、大きな声をあげて泣き出してしまいそう。

そんな自分を必死に押し込め、ぼんやりとした眼差しでリアムを見つめる。

苦しそうに、辛そうに、眉間に皺を寄せて俯くリアムに胸が痛くなる。

私のことを思い、心を痛めてくれているリアム。

そんな彼に私がしてあげられることは、無事を祈りながら笑顔で彼を送り出してあげることだ。

「リアム…私は大丈夫だから、そんな辛そうにしないで?」

自然と溢れた私の笑顔は、彼の良心をすこしでも慰めてあげられるだろうか。

「騎士はいついかなる時も、救いを求める声があがれば駆け付けるものでしょう?」

「ーーソフィア」

「私は、そんな立派な騎士の妻になる女よ?これくらいで泣き言なんて言わないわ」

だから大丈夫。

そんな辛そうな顔、やめてちょうだい?

「っ、ソフィア……、」

歪めた顔のまま、リアムの右手がぴくりと揺れる。

それはそのままゆるりと持ち上げられ、私の腕に触れそうになった。

もしかして。

そんな期待はすぐさま打ち砕かれ、リアムの右手はぎゅうと拳を握り締めると元の位置へと返っていく。

……抱き締めてくれるかも、なんて。

浅ましい願望ね。

自嘲しそうになるのを堪えたまま、私は極力元気にリアムへ声をかけた。

「ほら、リアム!あなたまだお仕事中なんてしょう?急にここへ来て驚いたけど嬉しかったわ。その気持ちだけで十分よ!」

きっと、この悲しい事実を直接彼の口から私へ知らせるべきだと思い、強い責任感をもってここに来たのでしょう?

私が悲しむと分かっていながら、それでも逃げずに真っ直ぐ向きってくれるリアム。

そんなあなただから、大好きなの。

「ね、戻って?リアム。私は大丈夫」

「…………すまない、ソフィア」

「いやね、謝ってばかりじゃ悲しくなっちゃうわ。また今度埋め合わせしてもらうから!約束よ?」

「……ああ、絶対に」

やっとリアムの口から小さな笑みがこぼれる。

それが嬉しくて笑顔を向ければ、真っ直ぐ向き合ったリアムが強い瞳で私を見た。

「討伐は早朝からだ。出来るだけ早く済ませて、途中でも必ず駆け付けるから」

「いいのよ、私のことは。無理しないでね。無事を祈っているわ」

「そこは応援してくれないか」

「……うん、待ってるわ」

「ああ、必ず」

優しいリアム。

野党の討伐だもの、早く終わるわけがないのは分かってる。

それでもそう言ってくれるリアムの優しさが嬉しいと同時に、苦しい。

どこまでも誠実で。

どこまでも、他人を思いやるリアム。

名残惜しそうにするリアムを見送り、私は呆然と自分の部屋のベッドに座る。

そう……リアムは、来れないのね。

卒業パーティー用にあつらえた服装はその日だけの特別なもの。

私の色を纏った彼の服に、彼が袖を通すことはないのだ。

「……私はまだまだ、浅ましかったのね……」

公の場で、私の色を纏う彼をみんなに見て欲しかった。

そしてその隣で、彼の色を纏う自分を、見て欲しかったのだ。

そんな浅ましい気持ちが浮き彫りになり、己の卑しさに涙が溢れて来る。

元々、身の丈に合わない婚約だった。

侯爵家と子爵家なんて、釣り合う筈がない。

それでも親の縁の元結ばれたこの婚約を、周りのみんなに認めて欲しかった。

例え、リアムの心に他の人が住んでいたとしても。

それでも婚約者は私なんだと。

そんな浅ましくも卑しい気持ちを、きっと神様は見ていたに違いない。

ずっと。

彼の心に気付いても手放さず、必死に縋り付いていた私を、神様は見ていたのだ。

だから彼は来れなくなった。

そうなんでしょう?


ねえ、神様。

あなたは神様だもの、物事の正しさや善悪が分かるのでしょう?


私のやっていることは、間違っているの?


他の人を想う彼と結婚しようとする私はーーー間違っているんでしょうか?


教えてちょうだい、神様。











「あぁ、ソフィア。本当に綺麗だわ」

薄っすらと涙を浮かべるお母様が、感極まった笑みを浮かべたまま私を抱き締める。

その温かさは昔から私を安心させてくれた。

そっと抱き締め返せば、隣からお父様が私達二人を抱き締めてくれる。

「本当に、大きくなったな……ソフィア」

今日で私は学園を卒業し、一人の大人として社会に出るのだ。

何だかまだ自覚が湧かないけれど、私もこれでリアムと対等の大人になれる。

そう、対等の。

「ソフィア。パーティーでハメを外しすぎて、お目付け役として行く俺を困らせるようなことだけはしないでくれよ?」

「まぁ、お兄様!立派な淑女に育った私にそんな酷いことおっしゃって!」

四つ上の兄リチャードは、この子爵家を継ぐに相応しい大人へとすでに成長を遂げている。

本人の強い意思で未だ結婚はしておらず婚約者もいないが、広大な土地を持つこの子爵家を継ぐ嫡男とあればそれなりに引く手数多、結婚相手を探すにはきっと困らないだろう。

そんなお兄様をじとりと睨み付ければ、愉快そうな笑みをたたえたまま私の頭をぐりぐりと撫でてきた。

「やめてください、髪型が崩れますっ」

「はいはい、綺麗に着飾っちゃってまぁ。ドレスはリアムの目の色か?」

「ーーそうですわ、リアムの美しい群青色です」

「散りばめたダイヤが星みたいだな」

リアムの瞳の色である群青が、ドレスの裾へいくにつれて黒へと変化している。

そんなグラデーションの中、いくつものダイヤが散りばめられたこのドレスは、まるで澄み渡った夜空のようだ。

リアムの色を纏った私。

とても嬉しい筈なのに。

なのに。

午前の式は、終わり、あとは午後に行われるこの卒業パーティーのみ。

卒業パーティーでは皆パートナーを伴うか一人で来るのが普通で、両親が来ることはあまりない。

私もリアムの代わりにお兄様にパートナーとして着いてきてもらう予定だが、きっと会場に着けばパートナーのいない御令嬢がお兄様の元へ集まって来るのだろう。

お兄様ってば、顔もとても良いんですもの。

これでもうすこし爵位が上だったならば、王家の姫君からお声がかかってもおかしくないくらい、お兄様は見目麗しい。

「さて、行こうかお嬢さん?」

「ふふ、エスコートお願いしますわ、お兄様?」

お兄様の腕に手をかけ、両親や執事たちに見送られて家を出る。

リアムがいない寂しさを頭から追い払い、今日という日をとりあえず楽しもうと決めた。

一生に一度の卒業パーティーだ。



リアムの色を纏うのも、もしかしたらこれが最後になるかもしれないから。





「ソフィア!あなたすごく綺麗よ!」

会場に入って早々、愛らしい顔を輝かせながら近付いて来たマーニャに私も負けじと顔を輝かせる。

だって、マーニャ!

すごくすごく、すごーく綺麗なんだもの!!

「マーニャ!あなたこそとっても綺麗!!ジーン様のお色ね!」

思わず興奮してマーニャを頭から爪先まで見てしまう。

ジーン様の瞳に合わせて、マーニャのドレスは真っ青な海のように美しい。

溌剌な性格の彼女にぴったりの爽やかなドレス。

隣にいるジーン様も同様、マーニャのオレンジの瞳を取り入れて、白をベースとした服の要所要所にオレンジが差し色として入っていた。

勿論ネクタイもオレンジ、完璧だわ。

「こんにちは、リチャード様、ソフィア嬢。今日はリアムが残念だったね」

悲しそうな目でそう言われるけれど、いいえ、大丈夫よ。

私はもう、大丈夫。

「こんにちは、ジーン様。リアムのことは残念だけれど、誇らしいことだわ。後は彼が怪我をしないよう祈るだけよ」

あのあと、私はたくさん泣いた。

様々な感情が入り乱れ、呼吸困難に陥ってしまいそうなほど、たくさん泣いたの。

そして、たくさん、考えたわ。

本当に、色んなことをね?

私はもう、大人になる。

リアムと対等な、成人した大人になるのよ。

他人を思いやり、大好きな人の心を守れる大人になるの。


それが私に必要なものなんだと、やっと決心がついたから。


「リアムも今日の君の姿をこの場で見たかっただろうに……」

残念そうに呟くジーン様に、何も言わず笑顔だけ見せる。

ジーン様は本当に優しい。

こんなに優しい方がマーニャの婚約者で、本当に良かったわ。

想い合っている二人が、婚約者で。

本当に。

それは、大事なことだから。

「あ、開会の式が始まるわ!前へ行きましょう」

興奮冷めやらぬマーニャが私の手を取り歩き始める。

今日は楽しもう。

学園最後のパーティーだもの。

今日だけは、楽しまなくちゃ。


[newpage]


開会の式が終わり、パーティー会場は活気に包まれる。

このパーティーは無礼講とは行かないまでも、学生最後のパーティーだ。

みな生徒たちは心行くまで楽しむ気でいるし、パートナーがいない者はいない者同士で繋がりを作るためそれなりに必死になる。

案の定というかなんというか。

フリータイムが始まった途端、お兄様の周りには御令嬢が集まり始めた。

私をダシに断ろうとしていたようだけど、当の私が「いってらっしゃい」と笑顔で送り出せば、紳士であるお兄様が御令嬢達の誘いを無碍にすることなど出来ない。

後で覚えていろよ、そんな目付きで私をひと睨みしてから、お兄様は御令嬢の輪に飲み込まれていった。

ふふふ、お兄様も領地経営の勉強は一通り終わったのだから、そろそろ結婚を考えるべきだわ。

どこか女性に対して一本線を引いているあのお兄様に、素敵な御令嬢が見付かれば良いと思う。

そうしている内に次は音楽が流れ、パートナーがいる者は広い会場の真ん中へ移動し、ダンスを踊り始めた。

私を置いて行くことに気が引けたのか、マーニャが気付かぬふりをしたまま私の隣に立っている。

「……マーニャ?」

「ねぇ、ソフィア。あそこのフルーツ食べましょう?あなた、フルーツ好きでしょ?」

「マーニャ、ダンスの時間よ」

「ケーキもあるわ、さぁ、ソフィア」

「こら、マーニャ!」

「っ、」

素知らぬ顔で通そうとするマーニャ、私はあえて怒った顔を見せ付ける。

もう。

あなたってば本当に、友達思いなんだから。

でもね、今日は一生に一度の卒業パーティーよ。

記念に残るこの日に、パートナーとダンスをしないなんて選択肢、あるわけがないわよね?

そんな思いをふんだんに乗せて彼女を見れば、すぐさまこちらの意図に気付いてくれる敏さが愛しい。

「…………ソフィア」

「いいから行ってちょうだい?ジーン様も待ってるわ」

「……ありがとう、ソフィア」

マーニャだって、今日のこの日に好きな人と踊りたいに決まってる。

申し訳なさそうに眉を下げる彼女へ、愛が伝わるよう満面の笑みを浮かべて見送ってあげる。

大好きなマーニャ、楽しんで来てね?

彼女たちを見送り、一人になった私はとりあえずフルーツが置かれたテーブルの前へとやって来た。

大好きなマスカットがある。

これはもう、食べるしかないわね。

踊っていない人はいるが、一人の人はほとんどいない。

あまり目立つのは好きじゃないわ。

私はお皿にフルーツを盛ると、壁の花になるべく会場の隅へと歩いて行った。

さて、大きな粒のマスカットを一口頬張る。

あら、美味しい。

絶妙な甘さに舌鼓を打ちながら、ざっと会場を見渡してみる。

年上のパートナーを連れ立っている御令嬢が多いのは、やはり昔からの習わしで若い娘ほど好まれるからだろうか。

私の年齢は十七歳。

結婚適齢期というやつだわ。

このまま順風満帆に行けば私も結婚という流れだった。

だった、だ。

あの日から考えている私のこの思いに、はたしてリアムはどう答えるんだろうか。

まず浮かぶのは、両家のことよね。

親同士の縁があっての、婚約。

互いに旨味もあるこの婚約が、もし解消されるなんてことがあれば。

そうなった場合、両家の関係性はどうなるのかしら。

悪化する?

けれど、そんなものじゃ崩れないほど両親たちみな仲が良いもの。

きっと、私とリアムの関係が良好のままなら、婚約を解消したとしても悪い結果にはならないだろう。

そう。

私は、リアムとの婚約を解消する方向で考えている。

婚約解消。

その言葉だけで胸が張り裂けそうなほど辛い。

あの日から張り詰めているこの気持ちを、少しでも解けばきっと止め処ない涙が溢れ出てくる。

苦しい。

悲しい。

辛い。

でも。

きっと私の想いが、間違っていたのよ。

私のこの、リアムを好きだという想いが、彼を雁字搦めにして見動きとれなくしていたんだわ。

彼はいつでも誠実だった。

私を一番に考えてくれて、自分の気持ちは二の次だった。

私は彼に好きだという感情をぶつけ続け、彼の心を閉じ込めさせてばかりだったの。

そして。

そんな事実を知りつつ、わざと意識しないでおこうとしたのよ。

私は気にしない、そんな言葉を建前にして。

私は、あの人が他の誰かを想っていても気にしない。

私は、あの人が私を好きじゃなくてもいいの。

私は。

私は。


私はーーーー自分のことばかりだった。


やっと、自分の汚さに目を向けることが出来た。

やっと……彼のことを、一番に思いやれる人間になれたのだ。

彼の心を守るため。

婚約は解消するわ。


私は、大丈夫。


「ーーーーひどく泣きそうな顔だな」

「っ、」

急にかけられたその声に、全身が固くなる。

だってこの声は。

こんなに耳障りの良い声、思い当たる人間は一人しかいないもの。

でも、どうして。

なぜ彼がこの会場に?

そんな思いで顔をあげれば、トラヴィス様の端正な顔が視界に入る。

「……トラヴィス様」

「大丈夫か?」

微かに心配を滲ませたその顔へ、私はわざとらしくならない程度の笑みを浮かべる。

「嫌だわ、トラヴィス様。パートナーのリアムがいなくて寂しくなっていただけですの、気になさらないで」

婚約者の名前を出すことで彼を牽制する。

自意識過剰と思われようと良い。

彼は危険な男だと思うし、私の憶測はそこまで外れてもいないと思う。

関わってはだめ、付け入る隙を与えてはだめな人よ。

自惚れで終わるならそれに越したことはないわ。

思った通り、危険な色香をのせた目が射抜くように私を見つめ、私を気遣っている筈の彼から強い圧を感じる。

獲物を狩るライオン…ね、マーニャ、あなたの考えあながち外れていないかも。

「これは手厳しいな。俺はただ悲しげな瞳の女性に声をかけただけだが」

そう言って小さく笑うトラヴィス様の姿に、少し離れた場所で御令嬢たちがほぅ、と息を漏らす姿が見えた。

「それは、お気遣いいただきありがとうございます。ですが大丈夫ですわ」

なので私のことは放っておいてもらえるかしら。

私のそんな思いが分かっている筈なのに、トラヴィス様は私の隣りに立ち同じ壁の花になるつもりらしい。

いや、この場合私がいるから壁の花にはならないのかしら?

困ったわ、私は一人でいたいのに。

こんな、どうしてトラヴィス様と。

婚約者のいる令嬢が男性と二人きりなんて、例えたくさんの人目がある場所とはいえあまり外聞の良いものてはない。

しかも相手はトラヴィス様。

御令嬢たちに大人気の男性となると、やっかみやら

妬みやら、そういった負の感情がいらない尾びれ背びれを付けてくるに違いないのに。

リアムに迷惑をかけたくない。

彼とは婚約解消するにしても、悪い感情なく綺麗にお別れしたいのだ。

そうすれば、彼の中の私の記憶が仲の良かった幼馴染だと、そんな風に綺麗なまま残ってくれるかもしれないじゃない。

せめてそれだけでも、叶えさせて欲しい。

綺麗なまま。

昔の、まま。

「そういえば、卒業おめでとう、ソフィア嬢」

「ありがとうございます」

祝の言葉を告げられれば無視するわけにもいかない。

いや、この人は侯爵家の人間だから、そもそも無視は出来ないのだけれど。

「今日は妹もこの卒業パーティーに出ていてね。婚約者が隣国に出ているものだから、俺が付き合わされたってわけだ」

「まあ、そうでしたの」

そういえば。

ここに来て、ようやく彼の妹君が遠く離れたクラスにいるという事実を思い出す。

子爵家と侯爵家、あまりにも爵位が離れているものだから、学び舎も別の棟だったのよね。

すっかり忘れてしまっていたわ。

「確か……リリーナ様ですよね?」

「ああ、そうだ。我が妹の名前を知っていただき、光栄だね」

「トラヴィス様のご兄妹ですもの、知らない筈がありませんわ」

忘れていましたけれど。

そこは貴族、澄ました顔で微笑んでおく。

「…くくく、本当にあなたは可愛らしい人だな」

まぁ、可愛らしい人、ですって。

婚約者のいる令嬢にそれは適切な言葉かしら?

「お褒めに預かり光栄ですわ」

さらりと流せば、なおもトラヴィス様は小さく笑い続けている。

この人、こんなに笑う方だったかしら。

何だかこの雰囲気を壊したくて、手に持っていたお皿から再びマスカットを一粒摘む。

それを口にふくめば、隣から物凄く視線を感じたけれどこれはスルーするしかない。

「……今日はリアムが来れず、残念だったね」

「……仕方がありませんわ」

この方とは、あまりリアムの話はしたくなかった。

何故かと問われれば、それはまぁ、そういうことでしょう。

私は敏い方なの。

自惚れで済むならそれでいいと思ったけれど、どうやら自惚れではない気がしてきているのよ。

「まあ、今回の討伐に選ばれたことは、彼にとってプラスになるだろう。彼は特別期待されているからね」

「そうてすわね……」

部隊を一つ受け持つトラヴィス様がそう言うのだから、やはり今回の討伐部隊は未来の幹部候補生で組まれているのだろう。

侯爵家を引き継ぎ、騎士団の幹部になる。

そんな彼の輝かしい未来への第一歩である今日を、私の卒業パーティーなんかで躓かせては行けなかったのだと再認識する。

笑顔で送り出せて良かった。

「部隊にはイザベラ=カロラインも選ばれていたな」

「ーーー」

なんて、意地悪な人なの。

思わず睨んでしまいそうになるのをぐっと堪え、マスカットをもう一粒口へと運ぶ。

食べているので喋れませんアピールをして。

「ふふ……リスみたいだな」

リス?!

食べる姿がリス?!

楽しそうな声色にからかわれているのだと分かるけれど、それでも沸々と怒りが湧いて来る。

無神経な言葉を言うのも、リスだなんて失礼なものに例えてくるのも、多分私の感情を揺さぶる意図があるのだろう。

どうしてそんなことを、と思うけれど、相手はトラヴィス様。

危険な野性味溢れるこの人の考えを予測するのは難しい。

なので私は、澄ました顔で聞き流すしかないのだ。

「踊らないのか?ソフィア嬢」

「踊りませんわ」

間髪入れずにそう答えれば、トラヴィス様の目が射抜くように見つめて来る。

「せっかくの卒業パーティーなのに?」

「ええ、踊りません」

強く言い聞かせるように返事をする。

お願いだから、その先は言わないで。

何故ならあなたは侯爵家の人間であり、私は子爵家。

いくら婚約者がいるとはいえ、この場にいないこの状態でこの先の言葉を言われれば、私には非常に断り辛くなってしまう。

そんな願いも虚しく、トラヴィス様はわざわざ私の目の前に跪くと大きな手のひらを私へ差し出して来た。

「では、妹の付き添いで来た肩身の狭い男へ慈悲を下さいますか?どうか、私と一度だけダンスを」

「ーーーー」

なんて。

なんっっって嫌な男なのかしら!

怒りに顔から表情が抜け落ちる。

リアムに迷惑をかけたくない私の気持ちなど無視して、こんな誘いをかけるなんて。

固まって何も返せない私の顔を、下から見上げるようにしてトラヴィス様が見て来る。

その眼差しの強さに危険信号を示す赤い点滅が脳内でうるさいほど光り続ける。

「……ソフィア嬢。あなたはもっと肩の力を抜く方がいい。そしてぬるま湯に浸かった馬鹿な男に思い知らせるべきだ、自分の価値をね」

「っ、」

あからさまにリアムを指すその言葉に、目の前がカッと真っ赤に染まる。

私の最愛の人を馬鹿にされた。

そのことが信じられないほど腹立たしく、ついに彼を怒りの形相で睨み付けてしまう。

「黙って聞いていれば、トラヴィス様!あなたはーー」

「何をしているんですか」


え。


聞こえたその声は、たった一声で私の心をぐっと捉えて離さなくなる。

トラヴィス様ほどの魅力はないのかもしれないけれど、それでも私にとって、世界一素敵で、安心出来て、そして一番大好きな声だ。

「何をーーしているんですか、トラヴィス様」

視線を移したその先に、肩で息をするリアムの姿があった。


[newpage]


え?

リアム??

どうして、ここに???

理解が追い付かない頭は、目の前にリアムが立っているという事実だけを認識し、勝手に心臓をバクバクと弾ませている。

「リアム…?」

この場に彼がいる。

嘘でしょう。

え?

現実なの??

息せき切って走って来ましたとでも言うようなリアムの様子はいつもと違っていて、苦しそうに呼吸を繰り返しながら憎悪をたたえた目でトラヴィス様を睨んでいる。

「お疲れさま、リアム。随分早かったじゃないか」

そんなリアムとは対象的に、トラヴィス様は涼しい顔でそう言うと跪いていた状態からおもむろに立ち上がった。

「もう少し早く誘っておけば良かったか」

「ーートラヴィス様!」

呟くように吐き出された言葉に驚くほどの勢いで噛み付いたのはリアムだ。

え?

リアム?

どうしたの??

普段の彼からは想像もつかない怒りに満ちたその態度に、どうしたらいいのか分からない。

戸惑う私を置いて、リアムは私へ視線を向けるや否や、すぐさま腕を取ると強引に体を引っ張って来た。

「きゃっ、ちょ、ちょっと、」

「すまない、ソフィア。遅くなった」

遅くなった、って。

えーーー。

え?

そ、そういうことなの?

リアム。

あなた、私の為に。

間に合わせてくれたの?

そんなに、汗を流すほど走って?

息が切れるほど、必死に?

私の、為にーーーー。

私の為に、あなたは。

「ーーーーっ、」

「っ、ソ、ソフィア?!」

ぽろり。

私の目から、大粒の涙が一粒こぼれる。

それは次々と溢れ出し、私の視界をすぐさま歪ませてしまった。

「っど、どうした?!なんで泣いっ……まさか、」

焦り慌てるリアムの視線がトラヴィス様へと移る。

そんな様子に私は首を横に振り、止まらない涙を何とか止めようと必死になる。

「失礼だな、何もしてないよ。原因はお前にしかないんじゃないか?それが分からないなら婚約者失格だそ、お前」

「〜〜あなたには関係ありません!ソフィアにちょっかい出そうとしたくせに、離れて下さい!」

「おーこわ、青二才の嫉妬は見るに堪えないな。自分がしてきた事をまず見つめ直したらどうだ?」

「はあ?!なーーっんです、かそれは、あんた、あなたに何の関係がっ、」

「あるよーーー俺はソフィア嬢が気に入っている」

「ーーーー……は?」

リアムの声が一オクターブ下がる。

先程までの剥き出しにした幼い怒りではなく、研ぎ澄まされた静かな怒りに変化した瞬間、トラヴィス様の顔が興味深げににやりと歪む。

「……それ以上の言葉は、いくらあなたでも許しませんよ?」

「へぇ……?」

くすくすと小さな笑い声をこぼすトラヴィス様を、凍土のような凍えた怒りに染まったリアムが射抜くような眼光で睨み付ける。

「っ……、リアム、」

これは、だめだわ。

未だ涙が止まらないまま、それでもリアムの腕をとり、無理やり私の方へと意識を向かせた。

「リアム……ごめんなさい、リアム」

「ーーーーなぜ、お前が謝るんだよ」

怒りをおさめきれないまま、リアムの目が私に向けられる。

このままトラヴィス様と喧嘩をさせてしまっては、絶対に良くない。

二人は同じ騎士団だし、そもそもこんな喧嘩、リアムにとって醜聞でしかないじゃない。

私のミスだわ。

どうしてこんなことに。

私の為に、駆け付けてくれたのに。

私の為に駆け付けてーーーー服、を。

あぁ、リアム。

ちゃんとその服を着て、ここに来てくれたのね?

今リアムが着ているその服には、私の瞳の色であるエメラルドグリーンが差し色として入っている。

そして、ピンクゴールドのネクタイピン。

可愛すぎるかと思ったの。

思ったけれど、やっぱりどうしても私の色を全て纏って欲しくて。

だからーーーーもう。

リアム。

大好きなリアム。

世界で一番、大切な人。


あなたのこの姿を見れて、私はもう十分よ。


「リアム、ここまで付き合ってくれてありがとう」

すんなりと出た感謝の言葉に、まだ怒りの残ったリアムが怪訝な顔をする。

「え?なにが、」

「あなたの優しさで、どれだけ私が救われたか」

「ソフィア?」

ありがとう。

私を大切にしてくれて。

ありがとう。

私を一番に考えてくれて。

「もう、十分よ。私は大丈夫」

あなたからもらったたくさんの優しさで、私はこの後の人生を生きていけるわ。

だから。


あなたを、解放してあげる。


「婚約解消しましょう、私たち」


今度は私が、あなたを一番に考える番だもの。


「ーーーー」

すこん、と。

リアムの顔から感情が抜け落ちる。

さっきまであった怒りも、私の態度に対する戸惑いも。

一瞬驚きの表情を浮かべた後、一切の感情をその顔からなくしたリアムは、じっと私を見ている。

そして次の瞬間、私の心臓がばくりと嫌な音を立てた。

だって。

え?

感情が抜け落ちた筈のリアムの顔が、なぜか悪魔のように見え始める。

冷徹で、冷酷無慈悲な、今すぐ人を殺めてしまいそうなその目は真っ直ぐに私を見つめ続けた。

射抜く、なんてものじゃない。

もはや、刺す、だ。

視線で刺し殺されそう。

「……り、あむ?」

「…………へえ?解消?婚約を?」

「っ、」

そうよ。

そう答えたいのに、言葉が出て来ない。

リアムの目を見ていると、これは絶対に言ってはいけない言葉のように感じてしまう。

え?

これは、なに??

「ぃたっ、」

つかまれていた手を物凄い力で握り込まれ、その痛みに思わず顔を顰めてしまう。

「ーーおい、リアム。暴力は、」

「分かってます、当たり前だ、そんなの。これでも死ぬほど抑えてるんですよ、分かるでしょう?」

低く冷えたリアムの声から明らかに感情を押し殺しているとわかり、どうしていいのか分からない私は濡れた目のままリアムを見つめた。

「ここまで、待ったんだ。待ったんだよ、死物狂いで」

「……り、リアム?」

ぎり。

じわじわと寄り始めた眉間の皺に、思わず視線が引き寄せられる。

絶望に染まったような暗い瞳が苦しみに悶えているようで、思わず差し出した私の右手をリアムの左手が難なく抑え込んでしまった。

「お前が触れて来ないよう、お前に触れないよう、必死に理性を抑えてここまでやって来たんだよ。なあ、ソフィア?」

え?

ちょっ、と、待って。

え???

すぐには理解出来ないその言葉を何度も脳内で反芻しているうちに、気が付けば私はリアムに抱き抱えられていた。

え?

お姫様抱っこ???

私が、リアムに???

リアムが私を?????

「おい、リアム!ちょっと落ち着け、お前」

「失礼します」

「リアム!」

トラヴィス様の静止を振り切り、リアムは私を抱きかかえたまま歩き始める。

こんな展開は想像してない。

というか、なにこれは?

どうなってるの???

現実?????

ずんずんと歩いて行くリアムに何も言えず、こうなったらもう好きな人に抱き抱えられているというこの事実を堪能するしかない。

欲深い私を許してなんて言わないわ。

だけどこんなの、抗えるはずがないでしょう?

大好きな人にお姫様抱っこされてるんだもの。

「っ、」

落とされないよう抱き着くふりをしてリアムに体を寄せれば、リアムの呼吸が一瞬止まる。

「ーーーー〜〜っとに、何なんだよ、お前は!俺を弄んで楽しいのか?!」

「弄んでなんていないわっ、私はただ、その……り、リアムが抱っこしてくれてるから、そのぅ……」

「そういうとこだよ!昔からお前はそうやって俺の理性を試しやがって…!」

「何の話よ?!いつ私がそんなっ、」

「いつもだろ!!いつもいつもいつも!この前なんて好き好き言いやがってっ…俺がどれだけ堪えてたか分からないだろ?!」

ちょっと待って何の話?!

これじゃまるでリアムがわたしのことを好きだと言ってるみたいじゃない?!

そんなことあるわけがないのに、そんなことを言うリアムのせいで馬鹿みたいな期待を持ち始めた自分がいる。

「なんて罪深い男なのあなたって!」

「それはこっちのセリフだろ?!ふざけんなよ、くそ!」

「きゃあ?!」

いきなり視界がぐるりと回転し、狭い庫内に押し込められた。

これはーーーー馬車だ。

リアムの家の、馬車。

そうよね、リアムがこの場にいるんだもの、会場まで馬車で来たとしてもおかしくない。

ただ、今私がこの馬車に押し込められたことがおかしくて。

そして。

座席に横たわった私の上に、リアムが覆い被さっていることが問題なのよ。

え?

夢???

「もう我慢出来ない、ていうか我慢しねーよ。婚約解消なんて馬鹿なことを言うお前を、逃げ切れなくなるまで追い込んでやる」

「ぃや、あのっ、リアム、まっ、」

リアムの凛々しい顔が怒りに染まっている。

そんな姿は男臭さに溢れていて、どうしよう、心臓がときめいて仕方ないの!

諦めると、手放すと決めたのに、そんな!

「しっかりと体に刻み込んでやるから、覚悟しろよ?

刻み込むだなんて、なんて破廉恥な言葉!!

ーーーーへ???

怒りに歪んだセクシーな顔が近付いたかと思うと、唇に初めての感触が襲いかかって来た。

え??

「ーーーーん、む、」

うそ、まって。

うそでしょ、かみさま?

いや、ま、そんな、

唇に当たるそれは、恐らくそれだ。

私の唇に、リアムの唇が。

点と点が繋がり線になった瞬間、私の脳内は爆発した。

それはもうどかんと、盛大に。

「ッん、む!んあ、うそうそだめ!」

「っは、ダメなわけないよな?好きなんだろ俺のこと?」

「大好き!!っだけど、だめ、あ、ん!」

否定を口にする度、キスが降りかかる。

唇を当てるだけだったそれが次第に緩く吸い付き始め、遂には舌が伸びて来た時私の涙腺は再び崩壊し始めた。

「〜〜っぁ、ん、ダメっふ、んぅ、」

舌と舌が触れ、絡み合う。

そんなあからさまな性的接触に頭の中は真っ白で、私はただひたすらに体を震わせることしか出来ない。

涙で濡れた目でリアムを見上げれば、切なげに歪められた顔のあまりの色気に全身の体温が恐らく一度は上がった。

「〜〜っふ、ぅ〜〜リアムのえっちーー!ばかぁ!」

「おまっ……泣き顔でそれはやばい、俺を殺す気かよっ」

やっとキスが止まり、けれど抑え込まれた両腕のおかげで溢れる涙を拭うことも出来ない。

大パニックに陥った私はこの訳が分からない状況から何とか逃げたくて、まるで幼い子供のようについついリアムを責め立ててしまう。

「リアムのばか、無神経!人でなし!」

「なんだよそれ?!いきなり婚約解消なんて言ってきたお前の方が無神経だろ?!」

「違う!リアムの方よ!私っ……わた、私はただあなたを解放してあげようとっ」

「は?!解放?!それがどう婚約解消に繋がった?!俺を解放してくれるつもりならむしろ結婚を早めるべきだろ!それとも婚前が許されるならこの後すぐにでもっ……」

「意味が分からないわリアムのばか!なんで私になんかキスするの?!なんでっ……、なん、で、なんでぇ、」

ぐす、ぐす、ぐす。

溢れて溢れて止まらない涙のせいで、とうとう言葉が出なくなってしまう。

リアムは何度か息を吐くと、ゆっくりと私の腕を離してくれた。

けれどこの状態から逃してくれるわけではなさそうで、そのまま私を抱き寄せるとゆっくりとハンカチで涙を拭い始める。

「……ごめん、泣かせて」

「う、ぅっ……ひっく、」

「悪かった……ソフィア?」

あまりにも泣きじゃくる私に怒りが鎮火したらしい。

優しい声色で呼びかけて来るリアムに、涙を流しながら瞳を向ける。

「……ソフィア……」

数秒見つめ合った後、リアムの唇が優しく寄せられる。

ちゅう、と唇を吸われ、私はまた大きく涙を流した。

「〜〜っだからなんでキスするのぉお?!」

「え?!今の流れは完全にそれだったろ?!」

「ふざけないで!私のこと好きでもないくせに!!」

「ーーーーは?」

私を抱き寄せるリアムの腕に、ぐ、と力が入る。

またその顔から感情が抜け落ちてしまった。

「ソフィア……お前、今なんて?え?好きじゃない?」

俺が?

お前を??

一言一言確認するように紡がれるそれが、なぜだかすごく恐ろしい。

じわじわと温度を上げていくように、リアムの表情が厳しく険しいものへと変化していく。

「俺が、お前を、好きじゃないって??は???」

責め立てるような、そして再び射殺しそうな恐ろしい目で睨まれている。

「え?好きだけど?めちゃくちゃ好きだけど?七歳の頃父上にソフィアと結婚させて欲しいと土下座で頼むほど好きだけど?結婚までお前の純潔を守る条件出されて何が何でも結婚する為、お前に触れると自制出来なくなるから死物狂いで触れないよう必死だったくらい好きだし、『結婚するまでの我慢』を戒めにお前がどれだけ好意を顕にしても堪えて堪えて堪え抜いたぐらい好きだけど、その俺に好きじゃないって?は???」

「ーーーーごめんなさい」

「いや許さねぇよ」

あまりの強い圧に咄嗟に謝った私へ、リアムの更なる追撃が降りかかる。

「俺の愛情を理解するまで絶対に許さない」

「っだ、だって!だってリアムが!!」

これまでの展開で、すでに私のキャパは超えている。

ダム崩壊だ、取り繕うことなんて出来ないし、そう簡単に納得出来るわけもない。

そんな私の口からはリアムを咎める言葉がするするとでて来た。

今まで我慢して、諦めて、納得して捨ててきた感情たちが。

「リアムはイザベラ様が好きなんでしょう?!」

決定的な言葉を口にしたというのに、リアムは怪訝そうに眉根を寄せたあと、とてつもなく低い声で「はあ?」と口にする。

「イザベラ?なんで俺があいつを好きなんだよ?今言った通り俺の頭の中はお前のことしかないしお前しか女に見えてない」

なっ!

ななな、なんなのそれ?!

なになになに、どういうこと?!

予想外の言葉にますますついていくことが出来ない。

まるで宇宙人と交信しているようで、理解出来ない私は更に言葉を重ねていく。

「だってあなた、演習場でよくイザベラ様と一緒にいたわ?!」

「そうか?そんな認識はないが、たまたまじゃないのか。俺からあえてあいつに声をかけることもあまりないし」

「嘘でしょ?!」

じゃあなに?

まさかあれは、あの、私が差し入れするタイミングでよくイザベラ様に遭遇したのはまさか、まさか彼女がそのタイミングに合わせて話しかけてきていただけだというの?!

まさかよね?!!

そうなると、話が劇的に変わってくる。

「じゃ、じゃああれは?!そうよ、イザベラ様はいつもあなたにベタベタベタベタ貼り付いていたわ!あれはどう説明するの?!」

「ああ、あれはあいつの騎士団への希望でな。自分を女として見て欲しくない、男同士のように、触れ合っても決して意識するなと。だからあいつはどの団員にでもああやって距離が近いんだよ。俺は元々あいつを女として見てなかったから気にもしてなかったが……そうか、よく考えたらお前は良い気分じゃなかったよな。すまなかった」

「はっ……は、はあ??冗談でしょ??」

そんなおかしな願いが通ってしまうの?

男の人って、馬鹿なの???

「……なぁ、ソフィア。それってつまり、お前がイザベラに嫉妬してたってことだよな?可愛いすぎんだろ、お前」

嬉しそうに瞳を細めたリアムが、蕩けるような目で私を見て来る。

「ばばばばか!変なことしようとしないで!」

「まだしてない」

「まだって何よぉ?!」

おかしい。

何かが違う。

物凄く違うの。

これって夢じゃないの??

え、じゃあリアムは本当に私を好き?

私との結婚を生きがいに、今まで頑張って来たの?

嘘でしょう?!

「〜〜〜っ、」

ぽろりとこぼれる涙を、今度はすぐさまリアムが指で拭ってくれる。

そんな優しい手付きに胸が震え、溢れる気持ちを抑えることが出来ない。

「〜〜っ、りあ、む、が、好き、なの」

「ああ……俺も、好きだ」

「っ、ずっと、ずっ、と、好き、なのよっ…」

「俺も。昔からお前しかいない」

「〜〜もっと、早く言ってよ、ばかぁ!」

「うん……不安にさせて、すまない。好きだと伝えれば、止まらなくなりそうで言えなかった」

「〜〜もおぉぉ!許すわよ、ばかぁああ!」

「ーー愛してる、ソフィア」

二人きりの馬車の中で、何度も何度もキスをした。

泣いて、抱き締めて、キスして、笑って。

お互いの気が済むまで気持ちを確かめ合ってから、泣き果て疲れきっていた私はそのまま眠ってしまったようだ。

ダンスも出来ない、料理もろくに食べられない、そんなとんだ卒業パーティーになってしまったけれど。

でも、想像していたどんな卒業パーティーよりも、幸せで素敵な最高の一日になったから。



その後、誤解が解けた私たちは予定より少し早めの四ヶ月後に結婚式を挙げた。

勿論、リアムがゴリ押ししたことは言うまでもない。

それはそれは盛大な式で、さすが侯爵家と言わずにはいられない。

リアムの上司であるトラヴィス様も来ていたけれど、どうやら二人はどこかのタイミングで和解していたみたい。

楽しそうにリアムを茶化すトラヴィス様。

意地悪な人ではあるけれど、それほど悪い男ではないのかも。

マーニャは心から私の結婚を喜んでくれて、私の誤解だったと分かった瞬間更にイザベラ様へ怒りを募らせていたのはジーン様には内緒よ。

あんなに怒り狂ったマーニャ、ジーン様は知るべきではないわ。

お兄様には未だ婚約者が出来ず、というか作らないのでお父様たちもそろそろ焦り始めたみたい。

まあ、あの素敵なお兄様だもの、その気になればいつだって出来るでしょう。

その気になれば、だけどね?


そしてイザベラ様。


彼女はどうやら騎士団の中で問題となっていたようで、勿論あの接触過多な態度が原因だ。 

しかも、お気に入りのリアムと自分がさも付き合っているかのように見せかけ、騎士団内の女性騎士や、婚約者である私にマウントをとっていたそうな。

なんて女なのかしら。

彼女のせいで団長であるカロライン侯爵は、団内を騒がせた責任をとるため団長の任を自ら辞し、辺境の警備兵へと降格したらしい。

イザベラ様本人は騎士職から解雇され、歳離れたどこぞの公爵家へ後妻として嫁いでいった。

まあ、自業自得というやつね。


そして私は、幸せな日々を送っている。

リアムの愛が思っていた百倍重くマーニャはドン引きしているけれど、そんなリアムの重い愛も心地良いのだから、私の世界はどこまでもリアムを中心に回っている。


愛してるわ、私の旦那さま。


そんな言葉と共に、今日は頬へのキスでお出迎えしようかしら。

それともいきなり抱きついてみる?


そんな幸せな選択に頭を悩ませながら、私はのんびりとマスカットを一粒口に放り込んだ。



end

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