10.ひとつの幸せ
「あーあ、完全に落ちちゃってるね、あのお客サン」
開かれっぱなしの窓の奥。仲睦まじげに話す二人の男女を視界、店の店主は呟いた。大切そうに抱えたドールに軽く頬擦りをかます彼に、ドールが『やめなさい』と否定を示す。店主は残念そうにドールから顔を離した。
「僕と君のように海よりも深く結ばれた関係なら仕方のないことだろうけど、これはちと重症だよね。まるで麻薬に落ちた愚か者のようだヨ」
『誰と誰が結ばれていると? 冗談はその姿形だけにしてくださいな』
「うーん、つれないなぁ、ハニー」
でもそんなとこも好きだよ、と、幸せそうに笑う男に、ドールは呆れたといわんばかりのため息を一つ。深々と吐き出してみせた。
こいつには何を言っても伝わらない。
それを知っているからこその落胆である。
『……まあでも、あなたの言うことにも一理あるわね。あの方、最近ずっとああですもの。さすがに心配になってくるわ』
「こっちは儲けるから良いんだけどねェ」
けらりと笑う店主を、ドールはじとりと睨んだ。睨んで、諦めたように視線を窓の方へ。淡い夢に溺れた女性を、哀れむように見つめる。
『かわいそうなことだわ……そろそろこの夢から覚ましてあげないと廃人になってしまうわよ』
「いいじゃないか。それも儲けになるんだから」
『あなたはもう少し他者のことを考えてあげてはどうかしら?』
儲け儲けと喧しい。
鼻をならしたドールはそっぽを向き、その反応を見た店主は困ったように頬をかく。
「そうは言われてもネェ……」
呟く彼は、どこか真剣だ。
「あのお客サンにとっては、ココが唯一の救いだ。下手に引き剥がそうものなら、とち狂って自害でもしてしまうんじゃあないかい?」
『でも、だからってこんなことを続けていては、あまりよろしくないわ。精神に異常をきたしたらどうするというの』
「もう手遅れだよ、ハニー」
にんまりと。笑う男に、ドールは言葉を止めた。
彼女とて理解はしているのだ。あの女性は既に狂っていると。彼女はこの窓屋の夢にとりつかれて、そうして逃れることすらせずに呑まれていると。
なんともいえない、複雑な心境を抱くドールを片手、店長はそれよりもと明るく告げた。開かれっぱなしの窓から背けるように視線を外した彼は、一番左側の窓へ。取り付けられた枷を外し、一歩、二歩と後退する。
「さあ、ハニー。次なるお客サンだよ!」
高らかに告げられた言葉と同時、枷を外された窓が音をたてて開け放たれた。勢いのよいそれに一瞬ビクついた店長は、気を取り直すように咳払い。窓の向こうにいる人物へと向かい、恭しく頭を下げる。
新たに開かれた窓の向こう。そこにいたのは白く輝く一羽の鳥だった。人間一人分ほどの大きさがあるそれはひどく神々しく、見ているだけで畏れ多くなるほど品位がある。
「やあ、ようこそ。イラッシャイマセ」
笑う店長に、鳥は一度その目を瞬くと、軽く頭を下げて室内へと入り込んできた。かと思えば、己の羽を一枚引き抜き、それを店長の目の前に突きつける。
『いつもの場所へ』
響く声に、店長は何も言わずに頷いた。
代金として羽を受け取った店長は、まず女性が入っていった窓を一度閉めた。そうして、中にいるであろう彼女のことすら気にかけず、窓枠を二回ほどノック。ゆっくりと開け放ってみせる。
改めて開かれた窓の外、虹のかかる高原が広がっていた。目に優しいその光景に、鳥が動く。
潜るように窓をくぐった鳥は、一度その場で身震いした。かと思えば、ぐるりと周囲を見回し、その場の景色を確認。眺めるように、目を細める。
『……ふむ。いつ見ても見事なものだな』
告げた鳥に、店長はにまりと笑った。「いやぁ、それほどでも」なんて調子づく彼を、ドールが叩く。
調子に乗るな。そう言いたいようだ。
「いたいなぁ、ハニー。なにも殴ることはないじゃあないか」
ぶちぶちと文句を一言。唇を尖らせる店長に、ドールは自業自得だと鼻を鳴らした。
『ふはは! 相も変わらず、仲睦まじい夫婦よな!』
目の前で繰り広げられるやり取りに笑う鳥。当然、ドールからは素早い否定が返される。
『夫婦などと、おやめください。反吐が出ますわ』
「照れないでよ、ハニー。僕と君の仲だろう?」
『お黙りなさい!』
どこまでもむかつく男だ。
憤慨するドールに、鳥は再び小さく笑った。笑って、なにかを見つけたのか、そちらに向かい両の羽を広げて飛び立っていく。
「おーい!」
誰かが、手を振っていた。
「おーい! こっちだよ! こっちー!」
叫ぶ誰かは、麦わら帽子を被っていた。
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべるそれは、遠目から見ているために絶対とは言い切れないが、恐らく男。どちらかというと、青年くらいの年齢の子供だ。
青年は羽ばたく鳥を見上げながら、大きく手を振り、駆けていた。時々足をもつれさせながらも進む彼の元へ、鳥は美しくも舞い降りる。
「やあ、ベティ! 会いたかったよ!」
勢いはそのままに、降り立った鳥の首に飛び付いた青年に、寄り添うように鳥も頭をもたげてみせた。安心したように目を閉じる鳥の姿に、二人の仲の良さが自然とわかる。
「ベティ、久しいね、ベティ! 元気していたかい? 怪我は? ちゃんとご飯食べてる?」
『ああ、大丈夫。大丈夫だとも』
矢継ぎ早に飛び出してくる質問に嫌な顔一つせず、鳥は優雅に頷いてみせる。返されたその答えに、青年は安堵したようだ。ホッと小さな息を吐き出し、笑う。
「君がいなくなってからというもの、いつも不安で仕方がないよ。こうして会えるのも極僅かだし……」
『仕方がないことだ。私とお前は異なる種だからな。いつも共にいるということはできない』
語る鳥は、どこか悲しげだ。本当はもっと、彼と共にいたいのだろうと、その声色から察することができる。
「美しい君は人から狙われてしまうしね。全く、嫌な話だよ」
『まあそう言うな。人も飢えているのだよ』
「飢えで君を狙うなんて、それこそ許せない案件だよ、ベティ」
そっと鳥の頭をなで、青年は唇を尖らせた。どこか拗ねたような態度の彼に、鳥は笑う。優雅に笑う。
『ステキだわ……』
ぽつりと、ドールは言った。どこか羨ましげに前方の様子を見つめる彼女に、店長が無言の視線を送る。
その視線に気づいたのだろう。ドールはこほん、と咳払いを一つ。『なんでもないわ』と、そっぽを向いた。
「……会いたいのかい?」
そんなドールを知りながら、店長はにまりと笑ってそう問うた。意地の悪い質問に、ドールはカチリ、カチリと間接を鳴らす。
「会わせてあげてもいいよ? ただし、条件付きだけどネ」
『条件……?』
「ああ、条件サ」
抱えたドールの髪を愛しそうに撫でながら、彼は続けた。その言葉を。
「会わせてあげる代わりに、君の一生は僕がいただく」
まるで悪役のような台詞である。
『……嫌な人ね』
どこか警戒心を抱くように、抱えられた彼女は告げた。心の底から軽蔑する、そんな彼女に、店長はケラリと笑ってみせる。
「当然だろう? 僕は君を逃がす気はないからね」
逃がすもなにも、な話である。
諦めたように一つ息を吐き出したドールは、もがくように店長の腕の中で身じろぐと、やがて床の上へ。真っ白なそこを滑るように歩き、室内に設置された簡素な椅子にちょこんと座る。
あなたとはいたくない。
彼女なりの反抗だ。
「つれないなぁ」
にんまり口で一言。店長は一度閉ざされ、再び開かれた窓へと目を向ける。
見つめる視線の先、いるのは先ほど窓へと踏み込んだあの女性であった。
どこか満足したような顔をしているその女性は、店長をみると僅かに微笑み店の中へ。懐に手を入れると、桃色の財布を取り出し、そこから三枚の紙切れを取り出した。
「いつもありがとうございます。これ、お代です」
言って差し出された紙切れは、万のつく代物だった。決して少なくはない金額だ。
店長は笑顔でそれを受け取ると、「まいどあり」と一言。受け取った札を懐に仕舞う。
「本当に、なんとお礼を言ったらいいのか……。ここに来るだけで、私は幸せを感じることができます。ええ、本当に……」
「それはよかった。窓屋として鼻が高いヨ」
あっけらかんと告げた店長に、女性は笑った。憑き物が取れたかのような華やかな笑みに、ドールが哀れむような視線を送る。
彼女はすでに狂っている。
この窓屋の夢にとりつかれて。
これを哀れまず、なにを哀れむというのか……。
「また来ます。今度は友人を連れて」
「そう? 助かるヨ。こっちも商売あがったりだからねぇ」
「うふふ、ご冗談を」
歩む女性が扉の前へ。振り返るように、店長、そしてドールの姿を視界に入れる。
「この店にとりつかれた人間は、きっともっといるのでしょう?」
確信を得たような発言だ。
少し黙った店長は、「……さあ? どうだろうネ」と首を捻る。その顔には依然、不気味とも言える笑みが張り付けられていた。