次元の渦と別れ
異世界生活20日目、ついにこの日がきた。
時刻にすれば昼過ぎの事だった。
「滑らないよう足元気をつけろよ」
アヴィの忠告を受けながら少し小高い岩肌の丘のようなとこを登っていく。
丘の先が見えない。あの先はどうなっているんだろう。
不安で、アヴィの手を握る手に力が入った。ギュッと握り返された手の感触に心が和らぐ。
この手を握るのは、万能アヴィだ。これまでその有能さは見てきた。だから大丈夫。何があっても大丈夫。
手を掴むアヴィの力が強まった。
「ここからはゆっくり行け」
「………分かった」
いよいよだ。いよいよ…………。
数歩踏み出し、踏み出しかけたとこで足が止まった。
踏み込もうとしたそこには、地面は無かった。
そこにあったのは暗闇。
突如ポッカリと開いた真っ暗な深い深い大きな穴がどこまでも広がっていた。
ゾゾゾっと背筋が凍るような寒気がして、数歩後ろに退がる。
底が見えない程暗く深そうなのに、何かが動いているように見えた。とぐろを巻くように、うねる様に闇が動いてるようだ。
「怖っ………」
更にもう一歩退がった。
立ちくらみでもして、落ちていきそうで心底怖い。
丘の上にポッカリと開いた深い深い穴。
これが、次元の渦………………。
「って何も起きないんですけど」
「そうだな」
「え?どうして?何で?ここに来れば帰れるんじゃなかったの?まさか、ここに飛び込まなきゃいけないの?」
底の見えない深い深淵に、ゾクゾクと鳥肌が立った。
無理!絶対無理!怖すぎる!こんなとこ飛び降りたら死んじゃう!
そんな腰の引けた私を見ながらアヴィがポソリと言う。
「前にさ、ここに落ちたらどうなるんだろうと思って魔物投げ入れた事があるんだよ」
「えっ、ど、どうなったの?」
「闇に吸い込まれるように消えてった。しばらく見てたけど、それっきり出てこなかったな」
「落ちてっちゃって死んだってこと?」
「さあな。別の世界から来たカエデなら何か起こんのかもしれないと思ったけど、何もなかったな」
暗い穴の中を赤い瞳で見下ろしながら、アヴィはガッカリしたように言った。
そうか。思えばここまで着いてきてくれたのも、その何かが起こるのを見たかったからなのかもしれない。
だとしたら、とんだ期待はずれだった訳か。
何も起こらなかった今、これからどうしたらいいのか分からない。
目標が無くなってしまった。
元の世界に帰りたいのに、その方法が分からない。
こんなところで、この世界で私が生きていけるとは思えない。
ここまでこれたのはアヴィがいてくれたからだ。
そのアヴィも、何も起こらなかったから私にもう興味を無くしただろうか。行ってしまうんだろうか。
何だかアヴィを見るのが怖い。
どんな目で私を見てるんだろう。
「…………とりあえず、周りでも見てみるか?」
頭上から降ってきた声に、思わず顔を上げる。
見上げたそこには、いつもと変わらないアヴィの顔があった。
その事にホッと安堵すると同時に、涙がぶわっと溢れ出した。
「お、おい、どうした?」
「だって………ここに来たら帰れると思ったのに、何にも起きないし、これからどうしたらいいのか分からないよ」
ポロポロと涙が溢れるのと同じく、不安も口をついて出ていく。
「これからどうしたらいいの?帰れない事なんて考えてなかった。異世界なんてあり得ないよ、こんなとこで生きてけないよ。嫌だ、帰りたいよ」
こんな事言われたってアヴィだってどうしようもない。困らせる。それか面倒くさくなって行ってしまうかもしれない。
「元の世界がいい。普通に学校行って、友達がいて、帰りに寄り道したりそんな当たり前の生活がいい。帰りたい、帰りたいよ」
こんなとこ私がいる場所じゃない。
帰りたい、私の家に。お父さんもお母さんもきっと心配してる。私の帰りを待ってる。帰れないなんて嫌だよ。
こんなふうに泣きじゃくる私は面倒臭い女だ。
早く泣き止まないと。アヴィに飽きられちゃう。
「お前泣くとホント不細工だな」
ニヤニヤと笑いながら、アヴィは繋いでない方の手で私の頭をポンポンと叩く。
「あ、飽きれてる?」
「いーや。もっと泣けよ」
そう言ってアヴィは私の鼻をギュッと摘んだ。
「ちょっ、酷ーい!もっと優しくしてよー!優しくしてくれないと私もう頑張れないよー!」
うわーんと大きな声で泣き出した私を見て、アヴィは可笑しそうに笑う。
「あははっ、ホントお前その顔似合うわ」
「何なのよもう、意地悪ー!」
ワアワアと泣き続ける私を、御満悦の表情で見てるアヴィを見ていたら、何だか泣いてるのも馬鹿らしくなってきた。
人の泣いてる顔見て喜ぶなんて、変態じゃないの。
でも、今すぐはいなくならないよね。まだ楽しそうに笑ってくれてるんだもの。
「…………周り探索するの手伝ってくれる?」
「それしかする事ないもんな。ほら、行くか」
アヴィがグイッと手を引っ張る。
「アヴィ、ありがとう」
助けてくれて、そばにいてくれて、力になってくれて。
少しでも、やれる事を探してやっていかないとね。
その先の現実を知るのは怖いけど、その時にもアヴィが隣にいてくれるといいな。いて欲しいよ。
その後、しばらく次元の渦の周りをくまなく歩いてみた。
大きい穴なので、ひと回りするだけでもかなりの距離でクタクタになった。
だが、何かあった訳でもない。何もなかった。本当に何もなかったのだ。
そんな気もしていたけれど、気持ちは深く沈んでいった。
夜になったので、木の根元に座り自分の膝に顔を埋めた。
どっと疲れて、体が重くて仕方がない。
これからどうしよう……………。
「まあ、水でも飲めよ」
目の前に水の入ったビンが差し出される。
「…………ありがとう」
喉もカラカラだった。それを受け取り、一気に飲み干すとどこか元気が出てきた気がする。
「ちょっと復活した」
「ちょっとか。カエデは体力ないから、ポーションじゃなくてハイポーション今度用意しといてやるよ」
「ポーション?」
「今飲んでたろ。回復薬みたいなもんだ」
「そ、そうなんだ……………」
今まで水だと思って飲んでた。そう言われてみれば、歩いた疲れもあれを飲むと取れてた気がする。
今更明かされた事実。知らずのうちに恩恵にあずかってたわけね。
「お腹空いてるだろ、ほら食えよ」
アヴィは皿に入った肉料理を取り出すとパンを添えて渡してきた。
「優しさが骨身にしみるわ〜」
有り難く受け取ると、お腹も空いてたのでむしゃむしゃと食べ始める。美味しいものを食べると、こんな時でも少し気分は浮上した。
「この食事って思えばどうやって手に入れてるの?あの空間に湧いてくるの?」
これも今更だが、聞いた事なかったな。
「人間のとこ行った時に、この空間にポンポン入れてくんだ。使えばなくなるから補充してく感じだ。時が止まってるから腐りもしないし、適当に目につくものがあったら入れてってた」
「便利だね、私も欲しいくらい」
それがあったら、しばらくは私1人でも生きていけるかな。
「人間は不器用だから作れんのかな。でもカエデはこの世界の人間じゃないから、出来る事も違うかもな」
「いろいろ出来ないと、これから困っちゃうよ……………」
まだ信じたくないけど、私これからこの世界で生きていかなきゃいけないのかな。嫌だ…………。
「俺が生まれた時から次元の渦はあったけどさ、他の奴が言うには100年前にはあそこはただの大した事ない凹みだったらしい」
「前はなかったの?」
「みたいだな。いずれまた消えるんじゃないのか。俺らがどうこうできるもんじゃないし、あやふやなもんだよ」
「そんな………………」
あれが消えたらどうしたらいいの?今どうにもならなくたって、次元の渦があれば帰れる可能性があるのに。あれは私の希望だ。
だからといって、私に出来る事なんて何もない。
「なあ、この世界が嫌だ嫌だって言うけど、この世界だっていいとこはあんだぞ。そりゃ、自分の世界が慣れてていいんだろうけど、こんな森だけじゃなくて、人間とこ行けば食べ物はいっぱいだし、祭りとかもあるし、学校ってのだってあるし」
「この世界の人間の生活…………」
私も帰れないのなら、そこで暮らす事になるのかな。
でもどうやって?何も分からなすぎて、怖い。
働いてお金を稼いだりも、手段として分かるけど、そこに至るまでどうすればいいのかが分からない。
「………そんな顔するなよ。もし帰れなかった、俺といるか?」
その言葉に顔を上げる。
向かいに座って、じっと私を見ているアヴィと目があった。
それって、ペットとしてまだ私の面倒をみてくれるって事?
私に愛着湧いちゃったの?
そうだよね、駄目なペットでも1度飼うと、情も湧くよね。
じっとこちらも見返して見つめていると、アヴィはぷいっと横を向いた。
「返事は?」
「私の面倒みるのが楽しくなってきちゃったのね〜。じゃあ、これからもペットでいいからよろしくお願いね」
いや〜、本当アヴィと出会えて良かった。
帰る方法は、今後アヴィに面倒みてもらいながらその生活の中で探っていくしかないだろうな。
それにしても助かった。
「ペットって……………。嫁にしてやろうかって言ってんだよ」
「よ、嫁!!?」
嫁!?嫁って………あの嫁!?奥さん!?妻!?ワイフ!?
「ちょ、ちょっと待って、これ変換合ってる?あっ、そうか、アヴィよく意味分かってないんだね。大人ぶってみたかったんだ」
まさか、これまで見てきたお子様アヴィの口から嫁なんて単語が出てこようとは。
おままごとで、ごっこ遊びみたいな感覚かしら。
「今度はペットじゃなくて、お嫁さん役してほしいのかな〜」
「は?ちゃんと意味分かってるし」
「本当に?」
すると、アヴィが身を乗りだしてくる。
そして、どんどん近づいてきて、え?と思った時には、その唇が私の唇に重なっていた。
すぐに唇は離れ、アヴィはどうだ、というように笑う。
「こうゆう事すんだろ、嫁と」
………は?はぁーっ!?キ、キ、キス!?今キスした!?
嘘!?私ファーストキスだよ、これ!こ、こんな形で奪われるなんて………!
これはあれだ。幼稚園児とかが、見たまんまのキスとかを真似て、キスキス〜とかでぶちゅうとやってしまうあれだ。
見た目は大人だけど、中身はアヴィなんだから、俺だってこんな事出来るんだぞ、どんなもんだいってその程度のもんよ。
深く考えたらいけない。
「お〜い、何とか言えよ」
アヴィの長い指が、ツンと私の唇に触れる。
ハッと我に返った瞬間、アヴィの唇が目に入り、体がまるで沸騰したかのように熱くなった。
キ、キス!この唇とキス!うわー無理!中身はお子様でも、見た目は大人だし!キスよキス!
「お〜赤くなった」
「ちょ、ちょっとアヴィ!キ、キスなんてお子様はしたらいけません!せいぜいほっぺにチューですよ!」
「ほっぺなんて赤ちゃんの時に散々チューされたよ。大人はこうだろ」
アヴィの手が私の顎をつかみクイっと上を向かせた。
ぶつかるアヴィの瞳と、その美貌に頭に血が昇っていくようでくらくらとした。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
慌ててその手から逃れ横を向く。
あ、あんたお子様アヴィでしょ。どうしちゃったのよ?
「なあ、嫁にしてやるよ。俺の嫁になれよ」
その言葉に、チラリと見たアヴィは優しい顔で私を見て微笑んでいたので、ドキッとした。
な、何?私に惚れちゃってんの?不細工だ何だと言っといて、実は好きとか、素直になれない子供あるあるかい。
でも誰とも付き合ったこともないしのに、全てをすっ飛ばしていきなり嫁だなんて。
「アヴィ、私の世界では結婚する前にまずは恋人になるのよ。そこでお互いを知り、この人と共に人生を歩んでいきたいと思ったら結婚するのよ」
「仕方ない、合わせてやる。まずは恋人になろうぜ」
「んなサラッと………。んも〜、じゃあまずはプラトニックな恋人からよ、お互いを知る事から始めるの」
「カエデの事なんて知ってるっつーの」
「更に深くよ。お互いに知っていくのよ」
この世界に残るのなら、いつかはここで私も誰かと結婚するかもしれない。それならば、誰だか知らない人よりもアヴィがいい。背も高いし、強いし、顔もとびきりいいし、この単純な性格もそんな嫌いではない。それに、一緒にいる間に躾けていけばいい。
今から少しづつアヴィと愛を育んでいって、いずれは結婚してもいいかな。そう思えた。
「いい、プラトニックよ。気軽にキスしちゃ駄目よ」
「嫁になるんだろ?」
「それは先の話で、今はまだ準備段階なんだから」
「面倒臭せーな」
アヴィにグイッと手を引っ張られ、バランスを崩して倒れかけたのをアヴィが受け止める。
そして、そのままギュッと抱きしめられた。
アヴィは上半身が裸なので、温かい肌の温もりに埋められた顔は熱を帯びたように熱くなった。
これまではこの温もりに安心して眠りについていたのに、今は心臓が痛いくらい高鳴って音を立てていた。
「抱っこはいいんだろ?」
いや、抱っこっていうか、普通に抱擁でしょ、これは。
けど、抱っこでこれまで通してきたので、今更言えない。
「アヴィ………」
落ち着かない。胸が騒いでうるさいくらいで、とても安心なんてできない。
「ト、トイレ」
アヴィをグイッと押して離れ、立ち上がって数歩下がった。
恥ずかしい。昨日まではお子様なアヴィだと思ってたのに、今は急に男の子に見えてきた。
こんな意識してしまって、これから普通に過ごせるだろうか。
「あの、アヴィ…………」
ゴゴゴゴゴ。
不意に低く響く地鳴りのような音がした。
何?そう思った瞬間、まるで縄にでも巻かれ引っ張られたかのように、体が宙に浮き、視界からはアヴィが消えた。
木々の小枝にぶつかりながら、凄い勢いで何かに引っ張られるように体が宙を飛ぶ。
痛いし、怖くて体は強張って、声も出なかった。
そして、次の瞬間、真っ暗な穴の上へと私はいた。
次元の渦!!!
深い深い真っ暗な闇の中で、底が渦巻いてるその姿にゾッとして背筋が凍る。
その暗闇の中へと、体が力を失ったように落ちていった。
「ア…アヴィーっ!アヴィーっ!!」
嫌だ!怖い!嫌だ嫌だ嫌だ!!
遠くで、私の名を呼ぶアヴィの声が聞こえた気がした。
ギュッと固く目を瞑った。
怖くて目を開く事が出来なかった。
そんな私の耳に、音楽が聴こてきた。
それに沢山の人の話し声。
え………?何?どうしたの?
恐る恐る目を開けると、そこには見慣れたショッピングモールの風景があって、雑貨屋さんの前に私は立っていた。