2-1
生い茂る草の中、かすかな轍を頼りにひた進む。
――この道にそって歩いていけば、すぐに街が見えてくる。
セレナさんはそう言ったものの、首をひねる。
これは本当に『道』で合っているのだろうか。轍があるということは馬車か何かが通ったのは確かなのだろうけれど、その跡もほとんど消えかかっている。
はたしてこれは『道』と呼べる代物か。いつどこで途切れてしまってもおかしくない、ひどく頼りないしるべだ。こうなると『すぐに』という言葉の信憑性も疑いたくなってくる。
左手側には森。正面には緩やかな丘。右手側には草原が広がり、はるか遠くには屹立した山が見える。見渡す限りの、豊かで閑かな自然。周囲に人気はなく、建造物の影も形も見当たらない。仰いだ空には雲一つなく、なんとも暖かな陽気だ。実に素晴らしい行楽日和ではあるが、のんびりしている暇などない。
――あっちの方に見える森とか一歩でも入ってみろ。運が悪けりゃ秒で死ぬぞ。
ぞくり、と悪寒が走った。
その森というのも、もはや目と鼻の先。たとえ足を踏み入れずとも、謎の危険生物が森の外へ出てこないとも限らない。すでにこの草原のどこかに潜んでいる可能性だってある。早足でかつ、なるべく音を立てないよう一心不乱に歩を進める。
いまいち信用ならないセレナさんの発言を考慮するに、かなりの距離を覚悟していたものの、丘の頂点まで登り、左手側の視界を塞いでいた森がひらけると、景色ががらりと変わった。
「わっ……!」
眼下には大勢の人々が川のように連なっていた。大きな街道に合流したらしいとはいえ、今の今まで人の気配すらなかったというのに。途方もない数に圧倒されてしまう。
これほどの大所帯、皆こぞってどこへ向かっているのだろうと人々の流れていく先を目で追ってみる。すると、遠方に石造りの人工物らしき姿が見えた。
「もしかして、あれが……セレナさんが言ってた、《メルシオ》?」
引き寄せられるように丘を駆け下り、群衆に混ざる。人々の流れに流されるまま近づいていくに連れて、その全容が明らかになってくる。
先ほどから見えていたのは、およそ人間にはよじ登ることなど不可能であろう、高くそびえ立つ堅固な壁。それに周囲を覆われた、巨大な城郭都市。
それが《メルシオ》だった。
「はぁぁ~……」
感嘆のため息がこぼれる。
眼前に在るは、見上げ続けていたら首が痛くなりそうなほど大きな門。そこから覗かせる街並みには、ますますもって目を見張る。
石畳でできた道。ベージュを基調とした建物。景観を飾る街路樹。奥の方にかすかに見えるのは噴水だろうか。月並みかもしれないが、まさしくゲームやアニメで見たようなファンタジーの世界が、門の先には広がっていた。
特に肝要なのが、これが今のボクの現実であるということ。すなわち、この世界へこの身で実際に踏み入ることができるということ。そう思うと童心や冒険心がくすぐられ、否応なく胸が躍る。
そんな具合ですっかり心を奪われ、目をきらっきら輝かせて立ち尽くしていたら、
「ここへ来るのは初めてですか?」
ボクのすぐ横に立つ女性が、そう声をかけてきた。はっとして我に返り、そちらを向く。
山吹色の髪に、浅葱色の瞳をした、大人の色香漂う落ち着いた雰囲気の女性。背格好や年齢はボクと同じぐらいだろうか。特筆すべき差異があるとすれば、ただ一点。
大きい。胸が。すっごく。
「すみません、急に声をかけたりして。あまりに可愛らしかったものでしたから、つい」
あらぬ場所へ釘付けになっていた視線を、慌てて顔へ移す。向けられたのは、親しみある柔和な微笑み。
「こ、こんな立派な街、見たことなかったから。びっくりしちゃって」
「驚かれるのも無理はないです。ここ《メルシオ》は、大陸でも随一を誇る都市ですからね」
そう語る女性の口調は、どこか誇らしげだった。おそらくはこの街の住民であり、この街のことをこよなく愛しているのだろう。
「この度はどのようなご用向きで? ご家族と一緒に行商などでしょうか?」
「いえ、ボクはひとりで……」
「貴女のようなお若い女性が? おひとりで?」
女性は驚いた様子で目を丸くさせ、口に手を当てる。
「あっ、こう見えてもボクはおとこ――」
いつものように反射的に否定しかけて、言葉に詰まった。
そうだ。今のボクは、れっきとした女の子だった……。
「――おとこ勝りなところがあるから……ね。あ、あははっ」
ごまかすように笑う。
「ふふ。意外な一面がおありなのですね」
「へ、変かな? 田舎から出てきたばかりだから、いろいろと疎くって……」
とっさに田舎者と言い訳してみたけれど、この世界での一般的な感覚としてどうなのだろう。ボクぐらいの歳の女の子が、たった一人で街を渡り歩くというのは。
そんな懸念をするボクに、女性は朗らかな笑顔で応えた。
「いえいえ、そんなことはありませんよ。私の姉妹も各地を単身飛び回ってるぐらいですし」
「へえ~……」
「お陰でなかなか家に帰ってきてくれないのが悩みの種なんですけどね。今頃どこで何をしていることやら」
困った子たちです、と言わんばかりの苦笑。まるで母親のような表情を見せる。
自由人な姉妹に挟まれた、常識人なしっかり者。そんな印象を受けた。
「――と。そういうことでしたら、ちゃんとご挨拶しておかねばなりませんね」
女性は何か良いことを思いついたかのように、ぱんっと両手を叩く。
「私、この街の《冒険者ギルド》に勤めております、プリシラと申します」
「ボクは、えと……リン、です」
思わず見とれてしまうほどの、流麗なお辞儀。つられて、ぎくしゃくとした惨めなお辞儀を返す。名乗る名に少しの逡巡があったものの、結局『リン』で落ち着いてしまった。
「当ギルドでは、リンさんのような旅の方々へお仕事の紹介をしております。主には討伐依頼や護衛任務など腕に覚えがある方へ向けたものが多くを占めますが、街の中だけで行える簡単なお手伝いの募集などもございますから。滞在費や路銀の足しになるかと思いますよ」
「おぉぉー……!」
実にありがたい情報だ。いまさらのことながら、自分が無一文であることに気づく。当然、食料だって何もない。
前もって断っておくけれど、あの人が素直に尊敬や感謝をさせてくれる人であったならば、ボクだってこんな恨み言を抱いたりしない。
ボクを散々もてあそび、余計な恐怖心や不信感を与えるより先に、他にもっと与えるべき物があったのではなかろうか。本当に薄情な偽女神さまだ。
「それに冒険者が集まる場所というのは、希少な品や情報、さらには指折りの人材が集まる場所でもあります。何かお困りの際にもお力になれるかと思いますので、お気軽に足を運んでみてくださいね」
「ご丁寧にどうもありがとう。後で必ず訪ねてみるよ」
「はい。お待ちしております」
先ほどまでと変わらぬ、魅力的な微笑み。とても営業スマイルには見えず、胸が高鳴ってしまうのを感じる。
「この街での滞在が、リンさんにとって有意義なものでありますように。では、ごきげんよう」
最後にもう一度ふわりと微笑み、会釈とともに歩き出すプリシラさん。
去りゆく背中を、少しの名残惜しさを覚えながら見つめる。
「……きれいな人だったなぁ」
気分はすっかり夢心地。今の自分の性別のことなどすっかり忘れて、妄想にふけってしまう。もしあんな人とお付き合いできたなら、きっと人生バラ色だろう。
美人さんで、明るくて、やさしそうで、笑顔が素敵で。それになにより、胸が――
ぶんぶんと頭を振り乱す。そんなところを最大の理由に惹かれてしまうなんて、さすがに自分でも引いちゃう。
「んっ!」
ぺちんと両頰を引っ叩く。活を入れるため、邪念を払うために。
「……」
しかし、脳裏に刻まれた光景はたやすく払えるものではなく。油断すれば、すぐまた目に浮かんできて――
「よ、よっし!」
気を取り直し、街へ向けての一歩を踏み出す。
それはあまりに不格好で、妙に意欲に満ち溢れた一歩だった。