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「……なして?」
聞き慣れない声による、耳慣れない言葉。
たしか『なんで?』とかを意味する、どこぞの方言だったような。どのあたりの地域のものかは知らない。というより、いま問題にすべきなのはそっちじゃない。
「へっ!? あ……、えっ、ええ!?」
動揺に様々な驚きの声をあげ、口や喉に手で触れる。
元々男にしては高い声ではあったが、これは明らかに違う。女の子の声だ。自らの口から発せられる、心地よい音色。それがもたらすのは不快感ではないにせよ、強烈な違和感だけはどうしても拭えない。
「なっ、ななな、なんで!?」
いまだに現実を受け止めきれず、ほっぺたをつねる。ちゃんと痛い……そして、びっくりするほどやわらかい。
「どうだ、アタシの自信作だ。めちゃくちゃかわいいだろ」
「うん、かわいい。――じゃ、なくってぇ!」
「あん?」
「なんでボク、女の子になってるの!?」
ボクとしては当然の抗議だったはずが、なぜかセレナさんはきょとんとしている。
「……はあ? オマエがそう望んだんだろ」
「へっ?」
「『女の子として生きたい』って言ったじゃねえか」
「……はいぃ?」
今度はボクがきょとんとする番だった。
遠くに聞こえる鳥のさえずり。吹き抜けるさわやかな風。セレナさんの金糸の髪が、魅惑的になびく。それに負けじと、男の頃に比べてずいぶんと長くなったボクの青髪も揺れている。
そんなしばしのフリーズの後、ようやく事態がのみこめてきたボクは、ちぎれんばかりに首を左右にぶんぶんと振った。
「い、言ってないよ! ボクは『女の子と〝いちゃいちゃ〟して生きたい』って言ったのー!!」
閑静な自然をぶち壊す大絶叫がこだました。自らの声で耳がキーンとしてしまっている。
それほどの大音量だったにもかかわらず、セレナさんの反応はなかった。と、いうか……表情さえ、ない。
「凛、オマエ」
「はい」
「そんなでっけえ声、出せたんだな」
「出ちゃいました」
「で、まあ、わかりきってたことなんだが」
「はい」
「想像以上の、マジもんのムッツリだったんだな」
「…………はい」
この間ずっと完全なる真顔のセレナさん。どうせなら思いっきり軽蔑してほしかった。汚物を見るような眼差しで射抜いてほしかった。それが叶わぬなら、もう消えてなくなりたい。
話をまとめると、どうやら『女の子といちゃいちゃして生きたい』――ボクはそう言ったつもりが、羞恥心からもにょりすぎて、『いちゃいちゃ』の部分がセレナさんには上手く聞き取れなかったために、このような事態に陥ってしまったらしい。
「いやでも、どのみち間違ってなくね?」
「どこがー!?」
「オマエ、女の子同士がくんずほぐれつしてるような本が好きだったじゃねえか。だからてっきりオマエも女になって、あんな人生を送りたいのかと思ったんだが……違うのか?」
さーっと血の気が引く音がする。
ボクの愛読書の内容なんて誰にも教えたことがない。教えられるはずがない。ボクのみぞ知るトップシークレットのはずだった。
「……なんで知ってるの」
「くどい。何でも知ってるって、何回言わせんだ」
無論そのような発言をしていたことを忘れたわけではないが、信じたくない気持ちがあったし、何よりこの偽女神さま自体がいまいち信用ならないのだ。
それに、都合のいいとこだけ知っておきながら、ボクの正確な望みは知らなかったのだろうか。そんな不満も募る。
「あ。そういや、事故に遭った時もそういう本持ってたよな?」
「う、うん……持ってたけど?」
「それな。跡形もなく消しといてやったぞ」
「……え」
さきほど引いたはずの血の気が、瞬く間に全身を駆け巡る。
「なんてことしてくれたのー!? 楽しみにしてたのにぃー!」
目の前の相手がどんな存在であるのかもお構いなしに、柄にもなく憤慨した。
「いやいや感謝しろって。あれを他人に見られてたら、どうなってたと思う? オマエは身を挺して少女を守ったはずが、あんなもん持ってたことを知られた暁にゃあ、最期に幼女に抱き付きたかっただけの変態野郎に成り下がるかもしれねえんだぞ?」
「そっ……そそ、そんなこと……」
売り言葉に買い言葉で応じようとするも、言いよどんでしまう。仮にもう一度似たような極限状態に追い込まれた際に、そんなふうに血迷わない自信があんまりない。可能性はゼロじゃない。
「少なくともあの時のオマエに不純な動機がなかったことぐらい、アタシはわかってるさ。けど、他のヤツらには知りようもないことだからな」
死人に、口なし。ボクがどんな思いであんな行動を取ったのか、本当のところは誰も知る由がない。受け取り手側に想像してもらう他ないが、ボクがああいった本を所持していた事実は、確かに誤解される要因になりかねない。
死してなお不名誉なレッテルを張られるなんてことは避けたいところではあるし、そう懸念したセレナさんの気遣いは本来感謝すべきなのだろう。
「はぁ……」
けれど、あれらの本を読む機会は、もう二度と訪れない。その事実がただひたすらに悲しい。
「ま、別に思う存分イチャイチャすればいいだろ? その姿で」
「えぇ~……」
大切な本の件のみならず、聞き間違いにより変えられてしまった身体のことも受け入れろというのか。いまだかつてないほどの膨れっ面になる。
見る分には、二次元ならば、女の子同士が好きだ。でも現実にはノーマルカップリングに限る。やっぱり、男として女の子と付き合いたい。
「あいにくやり直しはきかないしな。アタシみたいなエセ女神にゃあ、こんなん一度が限度だ。めんご」
舌を軽く出し、手刀を立ててみせ、少しも悪びれた様子のないセレナさん。
「そんなぁ……うぅ……」
どうしても諦めきれず、しょぼくれる。
「なんだよ。元はと言えばオマエの声がちっちぇーのがワリいんだろうが」
「だってぇ……そんなこと言うの、恥ずかしいしぃ……」
「恥ずかしいだあ? 女々しいことほざいてんじゃねえよ、このムッツリスケベ野郎が」
「う、ぐう……」
まさしく正論。ぐうの音も出ない。いや、ぐうの音しか出せない。
「それでも文句があるってんなら、今すぐ終わらせてやろうか?」
「えっ」
「このアタシの厚意をすべて無に帰そうってんだ。一思いに、気の遠くなるような時間をかけて、この世のものとは思えないほどの痛みと苦しみを味わわせながら逝かせてやるよ」
「女の子になれてうれしいなぁ、わぁい」
言葉とは裏腹に、抑揚も感動も一切ない口調。
いちいち信用ならないセレナさんだけれど、こういう言葉だけは即座に信用できてしまう。命あっての物種だ。ただその代わり、ボクの目は死んだ。
「はじめっからそう言っときゃいいんだよ。ほーら笑えって。かわいいぞ、〝リンちゃん〟。名前も女っぽくてよかったな」
「……」
学生時代にも、そんな風に散々からかわれました。
「んで、これからなんだがな。リンちゃん」
「……ふぁい」
魂の抜け落ちた返事。
「この道にそって歩いていけば、すぐに街が見えてくる。ひとまずそこへ向かえ。《メルシオ》っつってな。この辺りじゃ最も繁栄している商業都市だ」
「める、しお……」
目は虚ろながらも、しっかりと反芻し、その名を頭に刻み込む。
「あ、間違っても寄り道とかすんなよ。あっちの方に見える森とか一歩でも入ってみろ。運が悪けりゃ秒で死ぬぞ」
「ちょっとぉ!?」
また新たな命の危機に瀕し、魂が早期帰還した。
のどかな風景だと思っていたのに、視界にあるすべてが一気におどろおどろしいものに見えてくる。なんて危険な場所に降ろしてくれたのだろう。
「せっかくくれてやった命だ。そう簡単に死んだら殺すからな」
なに言ってんのこの人こわい。
「まあ安心しとけって。身体変えるだけじゃ不憫だと思って、ちゃんとオマエにおあつらえむきな能力もサービスしといてやったから」
それを聞いた瞬間、目に好奇の光が宿る。
「え、どんな?」
「それはその時のお楽しみだな」
「何が起こるかわかんないとか、楽しめないってより怖いんだけど……」
ゲームなんかでもランダム要素のある呪文やスキルは怖くて使えない性質だ。〝パル○ンテ〟とか、〝ゆ○をふる〟とか、ほとんど使った試しがないし。
「誰がオマエが楽しむっつった。楽しむのはアタシに決まってる」
「さいですか」
もはや突っ込む気力もなかったので、そんな空返事になる。
「だがオマエには絶対に必要になる代物だ。持ち腐れになるようなことはねえよ」
「……だといいんだけど」
「疑ってんなあ? ちったぁ信用しろっての。大丈夫だ、なんとかなるなる」
「誰のせいだと思ってるの」
「さあな。さっぱりわからん」
こういう人だから信用ならないというのに。全神経を目に集中させ、この上なく恨めしげな視線を送りつけるも、どこ吹く風と受け流されてしまった。
「ま、とりあえずは好きなように堪能してこい。この世界でやりたいこと、見つけてこい」
「見つかる……といいなぁ」
「見つかるさ。そんで、見つかったならとことん挑め」
どきり、と心臓が跳ねた。
ここに至るまで、ずっと雄々しかったセレナさんの表情。今現在ボクへと向けられているのは、それとは似て非なるもの。まったくといっていいほどの別物だ。
それは事故から目覚めた直後、暗闇の中に煌めいて見えた面貌。まさしく女神のようだと感じた、あの微笑み。
「なんだってできるんだ。オマエが望むならな」
ふわり、とセレナさんの言葉がボクを包む。
一言一句、同じ台詞を先刻にも言ってくれた。決断力に欠けるボクの背中を押してくれるような、力強く胸に響くものだった。
しかし表情と同様、こちらもまた別物で。そっと包み込まれ、心の芯までしみわたる、ほんのりと熱のこもった、やさしさのかたまりのような声音だった。
「……ん。わかった、ありがと」
ぶっきらぼうな口調や言い草は、いかにもこの人らしい。疑う余地なく、それが素の顔なのだと思える。
けれど今しがた垣間見えた一面も、演技では決してありえない。この人自身が持ち得るものだと強く感じた。それこそ複数の人格が同居しているのではないかと錯覚してしまうほどに。
「アタシはいったん帰るが、ちょこちょこ様子は見てっから。連れてきておいて、それっきりハイサヨナラってことはしねえよ」
「セレナさん……」
じーんとして、ついには本物の女神のように崇めてしまう。
ここは右も左もわからぬ別世界。未知への不安は大いにある。そんな中でも、セレナさんがこの先も見守ってくれている。こんなにも心強いことはない。やはりこの人の本質は、慈愛に満ち溢れているのかもしれない。
……そう思ったのに。
「放っとくわけねえだろ。オマエみてえな面白そうなヤツ。いやぁ、人生の楽しみが一つ増えたわ」
「……」
前言撤回。この数秒間の感動をぜんぶ返して。
「んじゃ達者でな。――『あなたの旅路に、幸あらんことを』」
さも女神っぽい台詞を、茶目っ気たっぷりにウィンクをしながら言う。ちぐはぐも甚だしい。台無しもいいところ。
すっかり呆気に取られてしまい、返す言葉を探そうと思い立つよりも前に、最初に現れたときよろしく、その姿は煙のように消えていってしまった。
「――ふう」
なんだかどっと疲れたなと、大きく息を吐く。急激に静かになったせいか、うらさびしさが胸をかすめる。
何気なく見上げた空は、どこまでも澄み渡っていて。きれいではあるけれど、記憶にある青空とそこまでの相違があるわけではない。
でもこの空は、ボクが知らない空なわけで。
「ここが……ボクが、新しく生きる世界……か」
奇跡的にも、新しい生を与えられた。そのこと自体は心から幸運に思う。身体の――性別のことは残念であるものの、その幸運の代償としては些末なことだ。
ただ……自分だけ、こんな恩恵を授かってしまった。そんな後ろめたさは、どうしても頭にこびりつく。
「……ごめんね」
あの世界へ戻ることはないのだろう。もうお墓参りに行くことも叶わない。家族と会うのは、かなり先までお預けとなってしまった。
「でも、いいんだよね?」
――オマエにはもっと生きてほしかったって思ってるに決まっている。
そう、セレナさんが教えてくれた。
再会は出来る限り先延ばしになることが、家族みんなの願いであると。
――せっかくくれてやった命だ。そう簡単に死んだら殺すからな。
そう、セレナさんなりの激励もくれた。
長く、幸せに生きること。この命をまっとうすること。それがセレナさんへの恩返しに……ひいては、みんなへの手向けとなる。
そう、信じて。
「……さよなら」
その言葉は、しばしの別れとなる家族へ向けて。
もう戻ることのない世界へ向けて。
さらには……自分自身へ向けて。
今日は、藤咲凛の命日。
そして……リンの、誕生日。
ここから始まる新たな人生を、ボクは女の子として歩んでいく。