1-2
「――――……きて」
「ん……」
何かが、聞こえる。
「起きてください……凛」
誰かが、ボクの名を呼ぶ。
その声にも、口調にも、覚えはない。
けれど、どこか懐かしい気がして……。
「――チッ」
……気のせいでした。こんな強烈な舌打ちをする人なんて知らないです。
「起・き・な・さ・い……?」
「ひゃいっ!?」
字面だけは丁寧でも、底冷えするような怒気をはらんだ声に、瞬時に飛び起きる。
「ご、ごめんなさ……はれっ?」
慌てて辺りを見回すも、そこには誰もいなかった。それどころか、完全なる闇。
ぱちくりと瞬きを何度かしてみるも、変化はない。
「目が覚めましたか、凛」
その声とともに、一人の女性が目の前に唐突に現れた。灯りのない暗闇だというのに、どういうわけかその人の姿だけは、はっきりと見えている。
「あ、あなたは……? なんでボクの名前を?」
「貴方のことなら知っていますよ、藤咲凛。何でも、ね」
「……え、えと?」
よくよく見ると、その人は少々奇抜な格好をしていた。
風もないのに幻想的に揺らめく、腰に至るまでの長い金糸の髪。色とりどりの宝石が散りばめられた、煌びやかなティアラ。肌が透けて見えてしまうほどの薄い布を纏っただけの、豊満な肢体。
無遠慮にまじまじと眺めてしまっていたけれど、はっとして目を逸らす。ボクには少々刺激が強すぎる格好だった……はずが、どういうわけか、いやらしさは一切感じなかった。むしろ、絵画のような神々しい印象さえ受ける。
その姿は、そう、まるで――
「――女神さま?」
気づけば、そんなふうに口走ってしまっていた。
「あっ、いや、あの……」
慌てて口をおさえた。
おそるおそるその人の顔色をうかがう。さぞ変な顔をされているかと思いきや、その人は否定も肯定もせず、ただふわりと微笑むだけだった。
見蕩れてしまいそうになりながらも、改めてその顔を見つめる。何度見直したところで、やっぱり覚えのない美人さんだ。
「これは……夢?」
見知らぬ場所、見知らぬ人。現在自分が置かれている状況がさっぱりのみこめず、いっそそうであってほしいという願望に近いつぶやき。
「いえ、現実です。――残念ながら」
不意に、女神さまの表情が曇る。
「残念……って?」
「覚えていませんか? 貴方の身に、何が起こったかを」
「ボクの身に……?」
言われて、おぼろげな記憶を順にたどる。
朝早くに家族のお墓参りに出かけたこと。その足で買い物に行ったこと。帰りのバスに乗り込んで、そして……。
突として蘇ったのは、最期の光景。
「あぁ……ボク、事故に遭って――」
「はい」
「……」
正直、頭が追いついていなかった。
視界に映るは、女神さまただ一人。地面に足がついている感覚すらもない。こんな不思議な空間にいるとはいえ、手も足も自分の意思で動かせているし、喋ることも、考えることも、違和感なく普段通りできている。だから、実感がさっぱり湧いてこない。
でも、女神さまの言動や表情から察するに、あの事故でボクは命を落としてしまったらしく。どうやらここは、死後の世界というやつなのかもしれない。
「……そっか」
唐突に訪れた非現実を前に、感情の方も追いついていないだけかと思った。しかし、よくよく自問してみても、自分がそこまで落ち込んでいないことに気づく。
家族を事故で亡くした。だから、事故は起こるもの。起こってしまうもの。とっくの昔に、そう清算されてしまっているのだと思う。
両親の死後は、父方の祖母が育ててくれた。その祖母も、二年前。ボクが大人になり、独り立ちできる頃合いを見計らったかのように息を引き取った。だから、不幸中の幸いというべきか、天涯孤独の身なわけで。残してきてしまった人がいないんだ。
そして、特にこれといって思い残すようなことも――
「…………そう、かぁ」
いや、あった。ついでに、悲しむ人も一人だけいた。
思い至った未練はというと、とうとう一度も異性とお付き合いができなかったこと。悲しむ人というのも、何を隠そうボク自身。
なんて寂しい人生だったんだろう。結局、彼女いない歴イコール享年となってしまった。あまりに惨めで、涙が込み上げてきそうになる。
「どうか、そう気を落とさずに……」
気づかわしげな表情の女神さま。これはたぶん、命を落としたことに対して悲観的になっていると思われてそうだ。なんだか申し訳なくなる。
けれど……直後、気づかされる。
そんなボクのしょうもない未練も、緊張感の欠片もない悩みも、心底どうでもよかったことに。
「何とも痛ましい事故でした。死者三名、重傷者八名。そのほとんどは、貴方と同じバスに乗車していた者です」
目を見開いて息をのみ、ぐっと奥歯を噛んだ。
見知った顔はなかった。たまたま同じバスに乗り合わせただけの、まったくの赤の他人。それでも、どうしようもなく胸が締め付けられる。
ご年配の方もいた。高校生ぐらいの男の子たちもいた。ボクの向かい側の席には、やさしそうなお母さんと、元気盛りの女の子も――そこで、はっとする。
あの女の子は……どうなったのだろう。
「しかし、バスの乗客の中でただ一人、比較的軽傷で済んだ者がいました」
「……え?」
「貴方が、身を挺して庇った少女です」
あのとき、反射的に動いた体。今思い返してみても、なぜそんな行動を取ったのか……取れたのか、わからない。
だけど覚えている。
ボクは座席から飛び出し……女の子を抱き、自らの体で覆うようにして……無我夢中で、守ろうとしていたんだ。
「無事、だったんだ……あの子……」
「ええ。他ならぬ、貴方の功績ですよ」
女神さまがやさしく、ふわりと微笑む。
直視なんてとてもできないほど、きれいな笑顔で。それがボクに向けられたものだと――ボクの行動を称賛してのものだと思うと、嬉しくて。だけど小恥ずかしくて、くすぐったくて……落ち着かない。
これまでの人生で経験したことのなかった、形容しがたい高揚感。その心地よさをしみじみと噛みしめていると、
「そんな貴方の勇気ある行動を――たてゃぇっ」
噛んだ。女神さまが。
「……」
「……」
二人して黙り込んでしまう。
「……貴方の、勇気ある、行動を、讃えて。この場へこうして、貴方をお迎えしているのです」
何事もなかったかのようにTAKE2。噛まないようにと細心の注意を払ってか、一言一句をゆっくりと発している。
「……噛んでません」
「は、はぁ……」
何か言いたげなボクの視線を感じ取ったのか、ややムキになった様子の女神さま。
「……」
「……」
再び訪れる静寂。
なんと声をかけるべきか、どうやってこの状況を打破したらいいか。突発的にそんな無理難題とエンカウントしてしまい、おろおろしていると、
「あぁぁぁぁっ、もうっ! メンドーくっせえッ!!」
口調をガラリと変え、急に叫び出した女神さま。
「め、女神……さま……?」
大きく目を見開き、一層うろたえるボク。
「元々柄じゃねえんだっつの、こんなキャラ。クッソ、歯が残らず浮いちまう」
顔をしかめつつ、頭をがしがしと掻き乱し、せっかくのきれいな髪をボサボサにしてしまった。
「ああ、今更だが、女神なんて呼ばれる柄でもないな。セレナだ。改めてヨロシクな」
女神さま――改め、セレナさんが、ニッと口角を上げる。さきほどまでの微笑みとは似ても似つかない、雄々しい笑顔。たたずまいすらも男臭くなり、足を開き腰に手を当て、今に豪快に胡坐でもかいて座り込んでしまいそうだった。
思えば、先刻の強烈な舌打ちの出所もこの人だったのだろう。これまでは特大級の猫を被っていたらしい。いくら見てくれが極上でも、こんな本性を明かされては、たとえ百年の恋でも冷めてしまうと思う。
「ちっとばっかし話が逸れたが、元に戻すぞ」
「あ、うん」
自分でも驚くほどの、さらりとした返事。はじめこそ面を食らったが、この人にはこの口調の方がしっくりきている気がして、早くも慣れ始めている。
「まあ、あの女の子は無事だった。ひとまずは、オマエはよくやったよって話でな」
「ん。ありがとう」
自然と、笑みがこぼれた。
「嬉しそうだな?」
「うん。後悔はしてないから」
「へえ?」
元々そう落ち込んでもいない上に、こんなボクでも誰かを守ることができていた。悔いはないどころか、充足感すらある。無意識の行動だったとはいえ、自分自身のことを褒めてあげたい。
「……家族は?」
「うん?」
「家族は、どう感じると思うんだ? 待ってるんだろ、あっちで」
天国にいることも、ちゃんと知られていたようだ。ボクのことなら何でも知っているというのも、あながち嘘とは言いきれないのかもしれない。
「ん~……。こんな早く家族のもとへ行くことになっちゃったのは、正直、申し訳ない気はするよ。けど、それでも」
言葉を区切り、今一度、家族のことを想う。
それでも、やはりというかなんというか。浮かんでくるみんなの顔は、記憶にある、もっとも温かく、もっともやさしい表情で。
「みんな、笑って許してくれるかな……って。そう思うよ」
たぶんそれが、みんならしい反応で。そしてみんなからも、ボクらしいなと言ってもらえる気がする。
今はただ、あの女の子が無事でよかった。それだけで胸がいっぱいだったんだ。
「――笑えないな」