第六話「なんで山なんか登ってんですかね。出張編〜妙法ヶ岳・曇天」
あれ……なんだ?
周りを囲む樹林、踏み固められた登山道。気がついたら山道を歩いていた。それはまるで夢から覚めたような感じで感覚としてはっきりしてはいない。しかし足はさも今まで歩いていましたよと言わんばかりに軽快にいつものリズムを刻みながら進んでいる。
自分の体を自分で制止できるかという当然のチャレンジができないような、そんな恐怖が身を包んだので試しに立ち止まってみた。止まれるな。そりゃそうだ。
「どしたん?」
前を行く会長が振り返った。その存在が本当にここに在るのかさえわからない。ぼんやりとした存在。でも見るからに会長だ。横には桐生と吉岡もいる。でも、なんか、これは変だ。
「……なぁ、変なこと聞くけどいいか?」
「なに?やらしい質問?」
「違うよ。でも、たぶんもっとドン引きするような質問」
「場合によっちゃぶん殴るぞ」
いっそぶん殴ってほしい。それで意識がはっきりするならいくらでも殴ってほしい。それくらい意識というか存在というかこの場所が希薄なのだ。
「ここどこ?」
当然の間が空く。
「……どこって、どういう意味?」
「どういうも何もそのままだよ。ここ何県?何の山?俺何でここにいる?どうやって来た?今何時?」
「……なぞなぞ?」
違うんだな。いいから答えてくれ。
「殴った方がよさそうだな」
「うん。マジで殴ってくれ」
間髪入れずに答えた俺に冗談で固めたであろう拳が力無く垂れる。
「……殴られたい奴を殴る趣味はねぇ」
「いや、別に殴られたいわけじゃないんだが。まぁいいや。よく考えたら痛いのやだし」
「っていうか冗談もいい加減にしないと御朱印貰えなくなっちゃうよ」
「冗談じゃないよ!御朱印ってなんだよ!?ここ山だろう!?」
「一応三峯神社の境内だろうが……ってなんであたしがこんな馬鹿な妄言に付き合ってんだ」
三峯神社……?って事はとりあえずここは秩父なのか。
「会長!頼む!一生のお願いだ!ここがどこなのかとかここまで来た経緯とか全部教えてくれ!冗談でもなんでもいい!!なにかこうハッとなるような気がするから!!」
「……必死すぎて怖いんだけど」
「必死なんだよ!!」
分かってる。自分がどう見られてるか。それでも知りたい。何でここにいるのか。最悪帰りに病院行かなきゃ行けないかもしれない。
「まぁ、いいや。高山の記憶喪失ごっこに付き合ってあげるとするよ。なんかこの前から高山おかしいし」
おかしい……?俺が……?いつから……?聞いたところで話がややこしくなるだけだ。とりあえず静かに耳を傾けよう。
「最初は高山が急に『なんでかわかんないけど妙法ヶ岳ってところ行かなきゃいけない!!』って騒ぐから来たんじゃん。んで『雲取山の登山口だから少し遠くなるよ?』って私が言っても『とにかく行かないとヤバい!!』って。記憶にない?」
「まったく。ここまでの記憶がない」
「でも、ここ登山って感じしないね。道は山道って感じだけど」
「そりゃかなり標高高いところからスタートだしな。景観もそこまでいいわけじゃねぇのにどうして急にここなんか来たがるかな」
「この先に三峯神社の奥宮があるし、ひょっとして高山魅入られちゃったんじゃないの?神様においでおいでってさ」
「……ありがたいけどすごい不気味だな」
「不気味なのはお前の存在そのものだ」
とりあえずこことここに来るまでに俺が何かを喚いた事だけは分かった。でも記憶がない。場所が場所だけに鳥肌も止まらない。
山道は至って普通の急勾配もない登山道だ。道標は山頂である奥宮まで2キロ。コースとしても短い部類に入る。それでも山道の2キロは小一時間のコースタイムを見た方がいい。
どうやら御朱印を目的に歩いているそうだから、3人のペースは早く、のんびり歩いているとすぐに置いていかれる。時刻は3時を回ろうとしている。本当にこれまでの記憶がない。
ポケットを探るとずっしりとした重さの御朱印帳があった。買った記憶も当然ない。
とりあえずこれ以上探るのはやめて今は登るのに集中しよう。
登山道にはチェックポイントのように鳥居が数カ所点在している。鳥居をくぐると幅の広かった登山道は狭まって人二人並んで通るのがギリギリの道になる。踏み外せば結構な傾斜の下へ滑っていく。
途中、石を積んだ目印であるケルンが出てくるあたり確かに本格的な登山だ。前から来る人は登山の服装でない参拝客から、ガッチリウェアに身を包んでストックを突く登山客と綺麗に分かれている。
不意に開けた場所に目をやる。晴れていればそこそこの景観なのだろうがしっかりと曇っている。しかし、霧がかった山も乙なものだ。
鳥居を再びくぐる。銀色の階段に狭い山道。根っこも姿を消して荒々しい岩が突き出る登山道へと変わった。それは鳥居をくぐるたびに人の世界から自然界へ、そして神域へと扉が開いていくような、そんな感覚を覚える。
「たぶん、そろそろだよ」
神社の境内にしてはやけに長い道が続き、とうとうすれ違いできない道を曲がるとそこに鎖場が見えた。
「鎖場まであるのか……」
「確かに山登りだねぇ……」
とりあえずは急な勾配に鎖が垂れているだけなので、難なくクリアする。登り切った瞬間、音を立てて強い風が俺たちを叩いた。まるで俺たちの来訪に合わせたような風だった。
総立ちした鳥肌が想像を超えるものを本能で感じている。
「ついた!コンパクトだけどちゃんとした登山だったねぇ」
妙法ヶ岳山頂。標高1332メートル。奥多摩山域の中ではそこそこの高さを誇る山だ。山道はあっけなかったが、通常の奥宮をイメージしてここまで来ると疲労を強く感じるかもしれない。
奥宮には三峯神社の眷属である狼が鎮座している。脇にも違う表情、違う大きさの狼が半ば朽ち果ててそこにある。
山頂は狭く、景観も望めないがここは三峯神社の中でも一番のパワースポットで……ってどこからの情報だろうか。少なくとも俺は調べた記憶もない。
狭い境内で四人が並んで二礼二拍一礼。これからの登山の安全を願う。
「ほれ、やっぱり奥宮の御朱印ももらえるよ」
「帰りのバスもあるし急がなきゃね」
バス……?俺は車できたんじゃないのか。ここぐらいなら行けないこともないだろうに。
奥宮ともあって、途中雲取山の分岐以外に道はなく、往路を戻るしかない。
帰り始めてから数分して、木立を雨が叩いた。
「降ってきたな……」
桐生が心配そうに上を見上げた。
「それに……なんだか急に霧が立ち込めてきたね」
まるで俺たちを帰らせまいと言わんばかりに登山道を真っ白な霧が覆い始めた。見る見るうちに50メートル先は霧の中に消えていく。往路がわかりやすいから助かったものの、道を外せば戻って来れそうにもない。
「不気味っていうか……神秘的っていうか……高山はどっち?」
「……どっちもかな。なんか自分のこと含めて心配事が多すぎる」
「少なくとも、今のお前は不気味なだけだ」
木立の間から何かが覗いていてもおかしくないような、そんな気がした。鳥居をくぐり、先へ進む。
「……ケルン、この辺だったよね」
吉岡が呟いた。五里霧中の俺たちに不安を覚えさせるには十分すぎる言葉だった。
「気のせいだよ美優ちゃん。あんまし景色変わんない道じゃん。きっとこの先にあるって……」
そう言った会長だったが、言葉尻に不安をあらわにしているのは明白だった。
歩き始めてそろそろ一時間が経とうとしている。登りを焦りすぎたとはいえ、そろそろコースタイムも過ぎている。つまりは奥宮へ続く入口の鳥居まで着いていてもおかしくない時間だ。
「……あたしたち、迷ってんのか?」
「いや、それはないよ。分岐もないし、登山道だって明白だし……」
「じゃあ次はどこ歩けばいい?」
桐生の言葉に我に帰った俺たちは自分達が明らかに登山道から外れていることに気づいた。踏み固められた土はなく、ずぶずぶと腐葉土に靴が沈んでいた。
「……嘘でしょ?」
「……ほら、じゃあ戻らなきゃ。いいかい?山で迷ったことに気づいたらすぐさま引き返す事。どんなに行けそうでも先に進んじゃいけないからね」
「戻るってどこにだよ?」
「そりゃ、自分の来た方角から……」
振り返る会長。その時彼女の体がグラっと傾いた。
「えっ」
「……会長っ!!」
音もなく、会長が目の前から消えた。近寄ると切り立った崖がそこにあり、その先は白い靄に包まれ何も見えなかった。
「……そんな!」
「楓ぇっ!!」
叫ぶ桐生。しかし返答がなかった。
俺はただ呆然と事の始まりと終わりを目に焼き付けていた。
「だっ……誰か!呼ばないと!助け!」
「とりあえず電話だ!すぐにレスキューを!」
「……クソっ電波が繋がらなくなってる」
絶望が白い霧とともに訪れた瞬間、堰を切ったように吉岡が走り出した。
「おい!待て美優!こういう時に走るんじゃねぇっ!」
「でっでも!いま鈴の音聞こえたよ!登山道に戻れる!」
「あたしにゃ聞こえなかったぞ!いいから戻れ!」
「でも!」
その時俺は駆け出した吉岡の正面に信じられないものを見た。
霧の中に現れたたくさんの子供の姿。シャツに短パンと半ば昭和じみた服の子らは誰も皆モノクロで、眼球のある場所は真っ黒な孔が空いているのみだ。誰も彼も大きな口を開けて吉岡を手招きしている。
(お・い・で)
(お・い・で)
(お・い・で)
声は聞こえずとも開閉する口が何を言っているのか分かってしまった。
「吉岡!!」
おそらくは桐生も彼らの姿を見ていたのだろう。信じられないものを見たような表情でお互い足がすくんで動けなかった。
吉岡がどうなったのかはわからない。ただ霧の向こうへ消えると、子供達も消えていった。無事ではないという事だけ理解せざるを得なかった。
「……逃げるぞ高山!こんなふざけたことに付き合ってられるか!」
「おい待て!それ死亡フラグ!」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ!いいからついてこい!」
桐生が俺の手を引いて駆け出す。フラッシュバックするあの日の記憶。……これ走馬灯じゃないよな。
見れば先ほどの黒い目の子供達が正面の木陰から半身だけ出してこちらをじっと見つめていた。
「おい、桐生!あいつらわかるか!?見えてるか!?」
「うっせぇ!見えてねぇ!んなもん幻覚だ!」
そうは言っても桐生は正面の木陰から子供達が姿を出すと明らかに避けていた。見えてるんだ。桐生にも。
深まる霧の中、結局登山道に辿り着けなかった俺たちをいつのまにか子供達が囲んでいた。
「あははは!!!」「キャハハハ!!」
甲高い笑い声が山中にこだまする。
「こいつら……何しようってんだよ!」
「しらねぇけど……くそっ」
ゆっくりと、ゆっくりとそれらが近づいてくる。駆け出すことも出来ずにうずくまる俺たちに、腐葉土を踏みしめる足音が聞こえてくる。
「やめろ……!来ないで……!!来ないでくれよ!」
震え切った叫びも虚しく、背中に異常に冷たい温度が触れた。
鼓膜を破るようなその甲高い声が、頭の中を駆け巡った。
「あははは!!!あはははははははは!!!!!」
「ぎゃんっ」
自分の声で目がさめる。真っ暗な闇、肌寒さすらこの時期に感じている。
この時期……?その言葉と今の場所に疑問を覚えて手を伸ばすとやけにふかふかした感触が伝わった。
……シュラフか。そういや、今赤岳にいるんだった。寝る環境が違うと混乱すること、あると思います。
それにしても寝汗が酷い。びっしょり濡れている。アンダーウェアのおかげで汗冷えすることはないだろうが、いかんせん不快さが拭えない。
なんか……酷い夢を見たような。思い出そうとしても夢の大半を忘れてしまった俺が唯一覚えているのは、妙法ヶ岳という山の名称だけだった。
……気になるな。
ギリギリ届く電波を頼りに、夢で見た妙法ヶ岳の名を検索するとそれは確かに奥秩父にあった。
「……本当にあったよ。怖」
どうやら妙法ヶ岳という山は三峯神社の近くにあって山頂には奥宮があるらしい。三峯神社って……あの?
「なんだこれ。呼ばれてんのか?」
怖っ。なおさら怖っ。
こういうのって行かなきゃいけないのかな。まずいよな。おぼつかない記憶だけど、妙に行かなくてはという気持ちだけは残っている。
明日あたり会長たちに言ってみよう。「何をわけわからんことを」なんて言われようと行かなきゃマズい事になりそうだ。
感じた寒気と猛烈な尿意。これはたぶん朝まで我慢できないやつだ。ヘッドライトを装備して嫌々ながらテントを出る。真っ暗な闇の中、頭上に星が輝いているとはいえ、赤岳鉱泉のトイレまでの道のりはどこか恐ろしく思えた。




