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コドクトリップ  作者: 上野羽美
クエスト達成、お伊勢参り
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「クエストを達成しました:お伊勢参りinおかげ横丁」

 時間は遡って2日目。

 内宮前おはらい町にて昼飯を食べる。


 おはらい町は内宮前に立ち並ぶ古風な街並みの一つ。お土産屋さんや伊勢名物を立ち食いできる露店が並ぶ。


挿絵(By みてみん)


 川越…かな。なんか帰ってきた気分になった。神宮とは別の意味で。


 昼飯はお膳に色々と乗っかっていて、そして、なんとなく「これだけじゃないんだろうな」と嫌な予感がした。


「伊勢うどんです」


挿絵(By みてみん)


 予感的中。ここまで1日目の昼夜、2日目の朝昼と伊勢うどんの応酬を受けてきた。ラッシュラッシュ。いい加減普通のコシがあるうどんが食べたい。


挿絵(By みてみん)


 昼食後の自由時間。おはらい町を抜けてそのうちの一角であるおかげ横丁へ。そもそもなんでおかげ横丁なんでしょう。


 実は江戸時代にお伊勢参りがめちゃくちゃ流行った。60年に一度の周期と短いんだか長いんだかようわからん周期で江戸の人たちが伊勢まで押し寄せたのだ。


 この60年に一度の周期をおかげ年といい、いつしかお伊勢参りはおかげ参りという名前に変わったのだ。


 お伊勢参りが流行っていた事例として抜け参りというものがある。大きな家に奉公していた人が主人に無断でお伊勢参りに行くというなんだか不穏な単語だがお伊勢参りに関しては「その一族のために神様に挨拶をする」ということもあり、お守りやお札を持ってくる事でお咎め一切なしという風潮すらあった。


 江戸時代の人々にとって、お伊勢参りとはそれほど尊いものだったのだ。


 流石に賑わいを見せるおかげ横丁。ここで是非とも買っていってほしいお土産がある。


挿絵(By みてみん)


 それがこれ。おかげ犬グッズだ。まぁ可愛い。


 このおかげ犬、単なるゆるキャラじゃない。


 江戸時代に流行ったおかげ参り。身分も関係なく誰もが行けた伊勢までの旅路だが、中には体の自由が利かなかったり、病気だったりする人もいた。


 そこで飼い犬に代理としてお伊勢参りしてもらうのだ。


 犬の首にお金と袋とをしめ縄につけて下げさせ、他のおかげ参りに行く参拝者に連れていってもらう。道中様々な施しをしてもらいながら、神宮へ向かうのだ。


 お金をぶら下げるなんて…と思うが、当時の人たちはお金を取ることはない。飼い主の気持ちを汲み、犬を慈しみ、餌を与えたり、寝床を貸したりとなんとも心温まる人情がそこにはあったのだ。


 これは風習なのでおかげ犬は何匹もいた。記述によれば福島からやってきたおかげ犬もいるらしく、無事飼い主の代わりにお伊勢参りを終えたおかげ犬のシロはその功績を称えられ、今でもお寺に塚が残っているという話もある。


 あぁ…心がぽかぽかするねぇ。


 おかげ犬は明治になって政府による野犬狩りが行われるまで続いた。本当なら今でも残したい風習である。


 キーホルダーや小物、ぬいぐるみまでお土産として喜ばれる品が揃っているので是非とも伊勢に来たら買って行こう。


挿絵(By みてみん)


 おかげ横丁には犬だけでなく、めでたい招き猫屋さんもある。招き猫だけでなく猫グッズも目白押しだ。犬派も猫派も思わずほおが緩む。


 ついでに財布の紐も緩んだ。職場へのお土産3種類買う馬鹿どこにいます……?


挿絵(By みてみん)


 伊勢名物のひとつ。赤福。伊勢市に着いたら絶えず視界に入る赤福コール。伊勢に来て買わない理由はない。ミスターダメだって!!


 そしてこの赤福は単なるあんころ餅ではない。餅の上にあんこが乗っかってるとかそういう次元じゃない。あんこに餅が混入したとかそういうレベル。8割あんこ。


 甘党を自称するならまずこれを一箱平らげてみろ。それが始まりだ。


 本当は猿田彦神社やら月読宮やらもツアーに組み込まれていたが、掘り下げることも特にないのでまとめに入ろう。


 帰宅した翌日、仕事にやってきた僕は僕がいない間、色々と大変なことがあったことを告げられた。


 具体的な内容は省くが、仕事のことではなく、職場の人が色々と大変なことになってたらしい。それも一つではなく二つほど。かなり深刻な内容だ。その話を聞いた僕は「旅行から帰ってきて聞きたくはない内容だな」と返した。


 それくらい重苦しい出来事だったのだ。


 それからしばらく間を置いて、僕はあることに気づいた。


 すこし話が逸れるが神宮にはおみくじが一切置いていない。

 その理由とは「神宮に参拝に来たこと自体大吉だから」という暖かい理由がある。


 確かにこの三日間は紛れもなく、大吉だった。


 好きで旅行に行ってるのだから楽しくないわけがない。大海原を前に身を清め、美味しい料理に舌鼓を打ち、旅館の退屈さという贅沢を知り、外宮では忙しさに明け暮れながらも神様に挨拶をすることができ、内宮では日本の原風景に郷愁すら覚えて自然と涙の膜が張るほど感動した。言うまでもなく大吉だ。


 こういう考え方は不謹慎かもしれないが、僕が一連の騒動を知ったとき、それが起こった時に僕は伊勢にいて大吉とも呼べる時間を享受していたという状況から、神様は普段僕から不幸を遠ざけてくれていたのではないかと思ってしまったのだ。


 同時に普段から何事もなく不平不満を述べながらもなんだかんだで生きているということがどれだけ難しく、どれだけ尊いかを知った。


 明日、僕は事故に合うかもしれない。明日、僕の身体を重病が蝕むかもしれない。明日、僕は明日を迎えることのないまま死んでいるかもしれない。


 どれ一つ取ったって絶対に起こらないとは言い切れない。起こったところで小さな島国の小さな市のちっぽけな命が一つなくなっただけだ。世界はおろか、日本、いや、僕に関わらない人は絶対に目にすらかけない小さな死だ。


 そうでなくとも毎日の生活には落とし穴のように平凡に生きては行けなくなるような選択肢だってある。それを選ばず、どうにか落とし穴に嵌らずにやってこれた。


 あらゆる偶然の重なりが、僕を、貴方を幸せにして或いは不幸に陥れる。もしかしたらこれを読んでる人は「いや、俺はお前と違って不幸のどん底にいるんだよ。神様なんておめでたい頭しやがって」なんて思うかもしれない。


 でも貴方はそこにいるだろう?ここまでやってこれたでしょう?


 それを僕はひとえに神様のおかげと言い切るつもりはない。間違いなく貴方の選択の上でここまでやってきたんだ。どうにかやってこれたじゃないかって自分を励ます権利くらいある。


 それは僕だって同じだ。神託を受けたわけじゃない。道を指し示されたわけじゃない。運命を感じた覚えはない。全部僕の選択の上で僕の人生は成り立っている。


 だけど、そういう考えがあってもなお神様がお守りくださってたって気づいた。


 ……何言ってるか分からないだろう?僕も分かんないんだよ。


 でもその時の僕にあったのは「だから感謝するんだ」っていう納得だった。


 いざこうして文章にすると全く納得がいかないんだけど、あの時は自分の中ですごい腑に落ちたんだ。


 言いたいことを端的にまとめるなら「言葉じゃない」ってこと。


「正宮では感謝を述べてくださいね」


 何に感謝するの?

 自分が今生きていることや、ここに来れたこと、平穏であること、当たり前に感謝すること。


 コドクトリップを書く前から分かってたことだ。神社に参拝せずとも神様に感謝をしなさいって言ったら大半の人が上記のことを言うだろう。


 ただ、なんだかよく分かってなかった。分かってたけど実感できなかった。言葉でしかなかった。心では無かった。

 今までの回、今回も含めて、神様に心から感謝したこと一回もなかったかもしれない。


 それは神様がどんな風に自分をお守りくださってるのか分かってなかったから。今でもよく分からないけど、次に神社に参拝した時は心から感謝できる自信だけはある。


 僕がこれほど、自分でもよく分からないことを言葉にして伝えようったって、結局言葉でしかない。

何度も言うけど、心なんだ。なんだかよく分からないけど、ふとした瞬間にストンって落っこちたんだ。


 帰ってきてから読んだ本に「伊勢の神様は自分が普段神様に守られていることを気づかせてくれる神様」といった内容が書かれていた。


 本当にその通りだと思わずにはいられない。


 僕にとっての神様はたぶん願いを叶えてはくれない。開運!だとか金運アップ!だとか表紙に書かれている本を手にとってもどうしてもうさんくささが拭えない。僕にとっての神様は僕個人にそういうことをしてはくれない。幸か不幸かは自分が決める。金持ちになれるかどうかは自分の選択の上にある。


 それでも僕は神様はいると信じてやまない。関東平野から遠く見据える奥秩父や南アルプス、自分の近所の寂しげな佇まいの氏神様、お守りやお札、或いはもっと身近なところ。

神様はあそこにいて、そこにいて、ここにいる。


 それで十分じゃないか。お金持ちになれずとも、あの娘と結ばれなくても、毎日のそこかしこに信仰を覚え、感謝する。この「普段自分の身の回りにある当たり前に感謝する」ことこそご利益なんじゃないか。


 先ほど紹介したおかげ犬のエピソードは誰もが心暖まるような話だ。この話の根幹を成すものはやはり信仰心につきるものがある。

 神様の下にご挨拶に行くのなら、自分もその手助けをしてあげよう。

 信仰心が優しさになった。その優しさが今現在も語り継がれて僕の心をほっこりさせてくれた。


 信仰心は確かに心や行動に良い影響を与えるのだ。


 昔の人は言う「今はすっかり他人に冷たくなった。誰も信じられないような人が増えた」その根幹にもやはり信仰心が日々薄れていっているという原因があると僕は思う。


 でもそうしたのはこの国で起きた痛ましいカルト宗教の事件だ。あれ以来、神様を信じる人は少なくなった。


 本来の宗教とカルト宗教。一番の違いは個々人の将来を約束するかどうかにあると思う。


 信じれば必ず救われる。信じなければ痛い目を見る。

 たぶんこれは違う。信じるからより良く生きようとする。より良く生きようとするから人生が良くなっていく。だから当たり前を感謝できる。


 信仰心が神様を創造する。若しくは信仰心が神様を見せてくれるのかもしれない。


 どちらにせよ、僕は並大抵のことじゃ不幸にはならなくなったような気がした。


 一生に一度は伊勢参り。江戸時代から続くキャッチフレーズだ。

 もしかしたら何か大事なことに気付けるかもしれない。

 当たり前に感謝するために、一度は行ってみてもいいんじゃないかな。絶対に損はしないから。




 クエストを達成しました。以下のアイテムをボックスに保存します。

・伊勢のお土産:ノリで買ったお土産。だいじにとっとこう。

・伊勢の思い出:とても楽しかった。また今度行く時のためにとっておこう。

・感謝の気持ち:伊勢で得た教訓。神様からの大事なものだ。だいじにしよう。

・無理した旅行費の証:贅沢した反動。所持しているとお金が溜まらなくなる。さっさと働こう。

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