六室目 202号室 氷室洋平
氷室洋介が秘密裏に進めていた研究が明るみなると彼は研究所から叩き出された。
非人道的で自然摂理を敵に回す暴挙だそうだ。これまで完膚無きまでに自然を破壊し尽くした人類の分際に自分の研究成果の全てを取り上げられた氷室は憤った。
あらゆる神に逆らうこと。それが人間の科学だ。
体毛がないから服を着た。牙と爪がないから武器を手にした。失うのが怖く欲望を満たしたいがために武力を断行した。
それが人類の進歩と調和だ。
氷室が研究していたのは人類の進化だった。それも人類の枠組みから外れた限界の無い進化だ。
その鍵となるのはアメーバなどの原生生物である。
世間で確認されてはいないが人間を含む全ての生物は日々進化している。それは表面上に現れず、目で確認ができないほどささやかな進化だが、人間と違って世代交代の期間が極めて短い昆虫類や単・多細胞生物の間で生き馬の目を抜く勢いなのだ。人間の行ったあらゆる環境の変化が彼等に急激な対応力を促していた。
そんな中、ついに放射線すら物ともしない種が発生している。その一つがアメーバーである。体外を覆う特異な保護膜と他の多細胞生物同士の共生による分解作用のためで、それを詳しく知るための研究だった。
氷室は最初うちはこの特性を研究して被爆者の治療に役立てられるのではないかとしていた。そうなればいくら原発が暴走しても実質無害な状況が出来上がる。
まあ、人間にとってはという話だが……最初のうちはそのつもりだったのだ。
研究を進めていくにつれその特異性のメカニズムが見えてくると、人間にも搭載できることが分かった。でもその範囲は放射線の無効化だけにとどまらず、更なる進化の可能性をも示唆されていった。
結果から言おう。人間は牙も爪も持つことができるようになる。アルマジロのような硬い表皮を手に入れられる。鷹みたく翼を生やせる。魚のように水中でも視界がぼやけない魚眼と水に含まれる酸素をエラから取り入れられるようになる。
早い話が怪物に変化できるのだ。
その方法がアメーバなど原生生物との共生である。
これは過去実際に行われていた遺伝子組換えによる生体変化の実験に似ている。しかし、当時の技術力では奇形の範囲を出ないまさに神のイタズラほどの水準でしかなかった。
そこで彼等を遺伝子レベルで体内に組み込むことにより安定した変化をもたらせるのではないか、人類以外の生物が持つ有利な属性を人類に付加させることができるのではないかと氷室は考えた。
ようは宿主と寄生体の関係である。この場合、宿主は寄生体に繁殖に適した温床をあたえ、寄生体には宿主を守らせるために適切な変化を与えてもらうのだ。
そして被験者を探す段階に上ったところで見付かってしまったのだ。
もう研究所では活動ができない。だが自宅なら話は別だ。氷室はいくつかのサンプルを自宅に保管していたので研究を進めることができた。いずれ試験薬が出来上がる。被験者は誰あろう自分自身しかいない。
氷室は自分を追い出した分からず屋共にたいする憤りに押され一片の怖じ気もなく自身に試験薬を投与した。
薬が体内に巡り始めるのが痛みによって全身に伝えられた。自分の遺伝子情報が書き換えられているのをありありと体感したのだ。
頭痛、吐き気、目眩、平衡感覚の喪失、五感の喪失――、およそ人体へ被りたくない悪影響のすべてを味わわされた氷室が事切れる前、最後に記憶に残っているものがある。
それは音。何千何万とも知れない蝉の群を思わせる音だった。
それは数多の微生物たちが氷室の身体を駆け巡る足音だった。
そうして氷室は生まれ変わった。
倒錯する意識の中で目を覚ました氷室は一度に膨大な情報を脳に叩き込まれた。まず強烈に刺激されたのは視覚である。見ようとする必要もなく202号室の間取り全体を床も壁も天井も、冷蔵庫の裏まで目視することができた。視界などという概念はなくなっていた。次に触覚が刺激され、部屋に置いてある物ならどれでも感じることができた。そして聴覚が意識上にのぼり、そうしたいと思うだけで聞く場所を選ぶことができた。
情報量で言うなら人が人生をかけて得られる絶対量を大きく上回る記憶の成長が起こった。
数十兆を超える人体細胞全てに目と耳がついているような感覚。自我崩壊が起こってもおかしくない学習。そんなモノをいっぺんに脳ヘと入力された。
しかし、味覚と嗅覚が損なわれていたことが自我崩壊を防いだ。初めは馴染みある感覚を失ったことに戸惑ったが、すぐに生きるには必要ないと理解した。
どういう事かというと、氷室は人間の身体を失ったのだ。
氷室の身体は投与された微生物たちに微細に分解され部屋全体に広がっていた。それは自我を保有した生物の新たな姿だと氷室は思った。
とにかくこの身体に慣れなければ。
身体を動かす。そんな当たり前なことが氷室にとっては困難を極めた。なにせ手足が無くなったのだ。感覚は全体に及ぶのに作用を促すシンボルがない。何かしたくても意思を伝える物理的干渉ができない。
感じれるだけだった。
丸一日、拡大された感覚の把握に手間取った。そうしてようやく気付いた。微生物に命令を下せばいい。
簡単なことだ。彼等に意識を集中してどうしたいか思考すればいいのである。思いを伝えるのだ。
すると面白いことが起きた。部屋の中央、意識を集中させたカ所に感触の集中が起こり、骨がまるで樹木が成長するように立ち上がり、筋肉が絡みつき、神経を帯びて皮膚に覆われ、見る間見る間に腕が形成された。
なるほど……。
氷室は自分の提唱した理論が正しかったことを確信した。
聞くより見るは明白だ。氷室は否定した連中をここに集めて実証してやりたくなった。いいや、実証だけじゃあ気がおさまらない。今起こった人体形成の逆行させて食い尽くしてやる。
……食い尽くす?
氷室は肺が焼け付くような暴力衝動に襲われた。
なんでだ、僕は温厚なはずだ。そうだきっと腹が減ってるんだ。なんたって丸一日何も食べてない。
そう自分を納得させた氷室は手始めに冷蔵庫を開けて中身を食い尽くした。すると絶大な満足感に満たされた。味も匂いもしないのに空腹だけが報われていく。混じりけのない潤いが身体を充実させてくれた。
これが本当の食事か……。
微生物たちが絶えず食べ続けている理由が分かった気がした。
この快感に変わる娯楽なんてあるだろうか?
氷室はさらなる快感で腹を満たしたくて仕方がなくなった。しかしもう自分の部屋に食べ物はない。
新たな食料を得るために氷室は活動範囲の拡大を図った。
点検口から屋根裏に入るとあちこちにネズミとゴキブリがいた。氷室の食料観念はもうないも同然で、喰えればなんでもよかった。
屋根裏のを食い尽くしたので次は下の天井裏に食いに行った。ゴキブリやら何やらならいくら食っても問題ない。
そうやって食いまくっていると――。
「だれかいるの?」
やけに幼い声をかけられた。この身体になって初めての人間との接触だった。
その相手が宮武昇だった。可哀想に彼は3歳の身の上で親からネグレクトを受けていた。 まあ今時珍しくもない。
そうは思ったがいつかの自分と似た境遇であった。近しいものを感じて関係を続けて行くうち、昇は氷室のことを友達と思い始めた。
だから利用した。
食糧不足は火を見るより明らかだったし、それ以上にある仮説が立った。人を喰うことでその思考や記憶を取り込むことの可能性だ。
201号室の千葉老人ならテストサンプルに丁度いいとおもった。
彼女の部屋に穴を開けるのは簡単だった。開けようと思えば、寄生体達が協力してくれて、音も無くミクロン単位で切削作業を施工してくれる。
しかし開けてみて驚いた。千葉はクローゼットに子供死体を隠していた。おそらくは噂に聞いた孫だろう。
氷室は怖がること無く逆に面白がった。死体からも記憶の回収が行えるかどうか試すいい機会だ。でもそれは失敗した。細胞が死んでしまっていては無理らしい。
やはり生体で試す必要がある。さっさと試したかったので、孫の死体をエサに千葉老人を誘い込んだ。昇も子供声を使って一役買ってくれた。さすが老人だ孫の声なんか覚えていない。
早速千葉老人を食い始めるのを昇は無表情で見ていた。皮膚が無くなり、筋肉を溶かし、段々と骨が覗いてくる。
氷室はやったと思った。予想どおりだったのだ。生体から取り入れた新鮮な細胞は記憶を損なっていない。千葉の記憶と自我情報、そして人体構造まで全部自分の物にできた。今や氷室の身体は分子レベルの目を持っているのと同じで、染色体のらせん構造すら目視できた。これは人体の設計図を手に入れたようなもので、氷室には余分な材料さえあればプラモデルを組み立てるように人を作り出すことができる。それに何も人の形をとらせなくとも内臓だけをその機能を保った状態で巨大化させるという工夫すらできる。
これは、さらに面白い事ができるかも知れない。そろそろこの実験も第二段階を考えなければ……。
ところで、千葉の顔の皮がただれていくの目の当たりにしても昇は眉ひとつ動かさなかった。恐ろしモノだ。人間は親が親だと生後三年で感情を失うらしい。それこそ怪物に取り入るために実の親を人身御供するほどに……。
こんな子供は生きていても仕方ないだろうと思った氷室は早々に昇を処分した。痛みを感じないように痛覚神経を切ってから食った。せめてもの情けだ。
お荷物が無くなって身軽になった氷室はさらに範囲を拡大し始めた。
101号室の大場宅には面白い物があった。本当の人間で作った人形だ。細胞は死滅していたがタンパク質はまだまだ喰える。それにしても大場は面白いやつだ。人では無くして、人形にしてからようやく愛情を理解した。
102の時田は別にどうでもいい。死んだところで誰も困らないし悲しまない。
だが203の冴島は違った。サンプル捕獲用の穴を開通すると自分からこっちにやって来た。氷室は最初、ただ食うつもりだった。だが二、三言交わしているうちに冴島が氷室という存在に興味を持ち始めている事が分かった。なんでも小説のネタに困っていたらしく、氷室はネタとして打って付けだった。
冴島から面白い提案をされた。
しかし、その提案にはもう一人協力者が必要だった。
そう例えば天井裏でこそこそと出歯亀しているこのハイツのオーナー裏野とか――。