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うらの  作者: 付焼刃俄
6/8

管理人室と天井裏 裏野政夫

 裏野ハイツはある意味で病に侵されている物件だった。

 祖父の代からの遺産で、30年前から(うら)()(まさ)()がオーナーをやっている。それまでしがないサラリーマンだった裏野は、父親から経営権を引き継いだ時に心底ほっとしたものだ。

 もともと人付き合いが嫌いで事務職を選んでいたが、どうにも人というのは良しにしも悪しにしも他人を求める習性があるらしく、裏野はもっぱら職場内のしわの寄せ所だった。陰口はさることながら、年中行事ではやりたくもない余興をやらされてはバカにされ続けた。ストレスではげ上がった頭まで笑いのネタにされた。

 そんな勤労生活でねじ曲げられた裏野の精神は黒く濁っていて、他者への不信感からある行動に掻き立てられた。

 裏野がオーナーになって間もなく、裏野ハイツには二階建ての管理人室が増設された。取って付けたような代物で、建物の外観を不格好にしている。

 それは謂わば裏野ハイツの悪性腫瘍だった。おまけにこれは転移するのだ。

 裏野は余剰預金をはたいてハイツの改造にのめり込んだ。管理人室を出発点に、光が漏れないように二重構造の出入り口を造って配管点検用の中2階と屋根裏に通じさせた。各部屋毎に数カ所の覗き穴を作りつけ、特殊なルーペを差し込まなければ使えないように細工した。

 『人間観察のケージ』が完成したのだ。人権侵害。パーソナルの陵辱。プライベートを裸にする。

 早い話が覗きだった。

 裏野が覗きたかったものを言葉にするならば、人間の脆弱さだった。どんな人間だって自分の空間に戻れば正体を露見させる。人の悪口を言い、怒りを爆発させ、悲観に涙し、目的もなく嘲り、あらゆる弱さを開放するのだ。

 裏野ハイツに住んでいる住人達のことで裏野の知らないことなどなかった。

 101号室の大場秀一郎は年齢差を憚らずに恋した女性を殺して人形にした異常犯罪者。

 102号室の時田弘樹は年末年始の2日間に実家に帰っては、金を払わせ続けるために躾けようと母親を殴りつけている最低の引きこもり。

 103号室の宮武夫妻は子供を持つ資格などないのにできちゃった婚をしたヤンパパ、ヤンママ。息子の昇に暴力こそ振るわないものの育児ネグレクトを決め込んでいる。

 201号室の千葉清恵は孫の死体を後生大事に隠し持っている人格破綻者。

 202号室の氷室洋平は大学の研究を自宅にまで持ち込んで進めるマッドサイエンティスト。

 203号室の冴島耕介は自称に域を出ない作家もどきの甘ったれボンボン。おまけに今は無名の出版会社にその文才とやらを搾取される下積み段階だ。

 そう言った人間の欠陥を垣間見たとき、裏野は例えようもない安堵感に包まれるのだ。これまで自分だけが変な人間だと思っていた。だがそうじゃなかった。どんな人間にも欠点と悩みと秘密があるのだ。

 そして今は、それを知ることが何よりの楽しみだった。

 知れば知るほど無闇にアドバンテージを取ったような気がしてくるのだ。優位に思えてきて人を怖がらなくて良くなる。歪んでいるとはいえ、卑屈だった裏野の精神は段々と快方に向かっていき、この数年は尊大なまでになっていた。

 だからその日も軽い気持ちで覗きを始めたのだ。

 朝の散歩とばかりに淀みない足取りで二重扉を潜り、まずは中2階の103号室から覗いた。

「なんだ? いないぞ」

 息だけで小さくそう呟く。宮武家の朝はいつも慌ただしく、会社員の主人が先に出勤した後にパートタイマーで働いている妻が家を出る。その時に妻は息子を中2階に押し込むのだ。託児所にあずける金をケチってのことだった。だからそれよりも早くこの階での覗きを終わらせなければいけないのだが、今朝は宮武家の誰一人見当たらない。

 おかしいなぁ……。

 仕方なく次の102号室の時田を見てみる。が――。

「嘘だろ、なんであの引きこもりまでいないんだ?」

 今は夏である。例年なら周辺機器のごとくパソコンの前に座っているはずの時田がいない。居間とトイレも見てみたが見当たらなかった。外出かとも思ったが靴は土間にある。

 消えた理由が分からず小首を傾げつつ裏野は狂気殺人者の大場が住む103号室に足を向けた。

「えっ?」

 大場の部屋を見た裏野は声をひそめるのを忘れていた。ここにも誰もいないのだ。それも、大場だけでなくいつも椅子に座っている遺体まで消えている。

 さすがに気味が悪くなった裏野は早足で管理室に戻った。朝食用に準備しておいた濃いめのお茶を湯飲みに注いで一口すする。

 おかしい……。

 裏野は千葉がいなくなったことも合わせて引っ掛かりを感じた。なにせ昨日今日である。嫌が応にも何らかの作為を感じざるを得なかった。でも昨日は警察が帰った後、一応はオーナーとしても千葉の部屋は調べたのだ。結果はやはり何も見付からなかった。

 クローゼットの床にあった染みは確かに気になったが、あれだけの老人で一人暮しだ。それこそボケてきてあそこで用を足していたこともあったかも知れない。

 いや、それにしたって1階の住人がいっせいにいなくなるなんてあるか……?

 いくら頭をこねくり回しても答えは見えてこなかった。

 それでも温かいお茶というのは老体にも鎮静作用がある。次第に裏野は落ち着いてきた。

 何も全員がいなくなったわけじゃないだろう……。

 湯飲みを空にした裏野は、無理矢理に屋内に設えた急な階段を上がって二階の屋根裏に続く二重扉を潜った。

 (はり)に足を下ろしながら思う。

 もし何か起こっていたとして、いずれにしろ確認するのは自分しかいない。

 しかし、裏野は覗きに夢中でもっとおかしなことが起こっているのに気付いていなかった。一階と二階共に天井裏からゴキブリや家ネズミが姿を消し、空気中に含まれる水分と塩分、そして気配が増していることに。

 裏野は203号室の覗き穴に屈み込んで自作したルーペーを差し込んだ。

 一目見てほっとする。買い物袋やレトルト食品のゴミが床に散らばる中、パソコンのモニターが点いていた。冴島自身は見当たらないが、少なくとも彼がいる痕跡は発見できたのだ。おおかたコンビニにでも行ったのだろう。ただ便になって出てくるだけの食料を買いに。

 ルーペのつまみを調節してピントを合わせる。パソコンを見てみて裏野は鼻で笑った。

「相変わらず文章作成ソフトを立上げただけで一文字も書けてないな。食ったところで何も出てきやしない。小説の内容は作者の内面を表すって聞いたとあるけど、そうなるとあいつの頭ん中は空っぽてことだな」

 さあ次に行こうと思って目を上げかけたとき、ルーペの映す球面湾曲した視界の中に見覚えのないものがるのに気が付いた。

 目を凝らしてみると――。

「入り口?」

 あまりに自然とそこにあったので見落としそうになったが、部屋の壁に間取りにはない入り口が開いているのだ。

 あの壁の向こうと言えば……。

 裏野は無意識に顔を上げて入り口の先を目で追う。

 202号室……氷室の部屋だ。

 いつ壁をぶち抜いたんだ?工事をするような音は聞いていないし、昨日も全部屋を見た。なにより一晩かそこらでやった突貫工事にしては仕上がりがまともすぎる。

 裏野は急ぎ足で氷室の部屋を覗いた。だが部屋の中は数週間前から変わらない。

 氷室の部屋には誰もいない。

 裏野は202号室をくまなく覗き回った。公にはしていないが氷室も行方不明なのだ。ある日をさかいに部屋にこもりだしたかと思ったら、数日後に忽然と姿を消していた。

 生物科学研究所の研究員という不規則な生活になりがちな職業柄、家賃は引き落とし制にしていたから放っておいたのが、状況が状況である。

 裏野は室内に何か変化はないかと目を這わせた。けれど、何も変わっていない。几帳面にキチッと整理されているだけだ。

 まあ当然と言えば当然だ。氷室は失踪中なのだから――。

 流れで201の千葉の部屋も見てみたが、ルーペの球面レンズには昨日と同じがらんとした部屋の俯瞰が張り付いているだけだった。

 もう見るものはないと管理人室に足を向ける。

 202号室を通り過ぎようとしたとき裏野は何か踏みつけた。ベチャッとしていたので思わず飛び退く。足元に目を落としたが何もない。足の裏にも何もついていなかった。

 でも確かに――なんだ今の?

 足を払っていると妙なことに気が付いた。覗き穴の光が消えているのだ。周りを見廻すと203と201の覗き穴から光を漏れさせている。

 202号室の洋間だけ光がなくなった……。

 裏野は恐る恐るルーペをさし込んでレンズを覗き込んだ。

 すると何か見えた。暗くなったわけではなく、何かかが光を遮っているようだ。裏野は何が光を遮っているのかすぐに分かって顔を離そうとした。

 しかし動けなかった。

 耳鳴りがだして、それが蝉のような騒音に変わっていく。

 レンズ越しに見えたのは、円形の中にいくつかの円形が重なった特徴のある形。外側の円は幅広く白地に細い枝分かれした赤い筋がある。内側の円は放射状に茶色と黒のマダラ色で拡大と収縮を繰り返し中心にある漆黒の真円の大きさを絶え間なく変えている。

 目だ。

 見入られたように動けない。裏野は全身が総毛立った。

「まったくいつも人を上から見下ろしやがって」

 血の気が引いて気が遠くなりかけている頭に声が響いた。

 突然、左目を掴まれた。いや、似ているが別の感覚の激しい痛みに襲われる。眼球の裏側を感じ取れるほどだ。いつだったか間違って爪楊枝で目を刺してしまったことがあるがそんなもんじゃない。我慢の利かない激痛だった。

「それは個人的な制裁だよ」

 のたうち回る裏野の頭にまた声が響いた。

「第二の人生、覗き回るだけに使うならその目は迷惑なだけだ。必要ないね。僕が取り除いてあげよう」

 痛む目を押えていた手に何か落ちてきた。残った目を開いてみると白と赤と透明が入り混じったドロリとした液体の神経らしき筋がひっついている物が手の平に溜まっていた。 それが自分の左目のなれの果てと分かると裏野は悲鳴を上げた。しゃがれてた老婆のようなキンキンした声で叫んでいると急に天井板が外れた。

 床に叩きつけられいくつかの骨が折れる。全身硬直してしまい、あちこちに痙攣が起こっている最中こちらを見下ろす影が目に入った。

 食虫植物を想起させる細い影だった。

「裏野さん」

 はっきりとした声を耳に聞かせてきた影がこちらに屈み込んで来る。

「少し話があるんだ。ああなりたくなかったらね」

 細くも節くれ立った影が指さす方に自由のきかない身体をねじ曲げて目をやるとクローゼットの中が見えた。

 一瞬、裏野にはクローゼットが水槽になったように見えた。その水槽には形をなしていない人が何人も浮いているのだ。しかし水槽ではなかった。正体の知れない煮凝りみたいな塊がクローゼットいっぱいに詰まっていた。

「さあ、話をしましょう」

 目眩を起こしだした目を影へ向ける。すると影の正体がやっと明順応しだした目にうつった。

 生態的な色合いと質感でボール状の物体に入った切れ目から歯と舌が覗いている。それの下から喉仏だろう筒状の軟骨に肺がぶら下がり、支えるように歪んだ幹が脈打ちながらフローリングの床に根を降ろしていた。

 何かの冗談だろうと思っていると頂辺のボールが口を開いた。

「それとも、もう片方も失いますか?」

 幹の部分から細く枝分かれした部分が針を形作って裏野の右目に伸びてくる。眼球に触れるか触れないかというで裏野の緊張は限界に達し気を失った

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