四室目 101号室 大場秀一郎
「今朝のことですよねぇ? そんな声は聞きませんでした。それほど大きな声を上げていたのなら分かると思いますし――」
大場秀一郎は聞き込みにきた若い警察官にそう答えた。これ以上このアパートについて警察に嗅ぎ回られたくなかったからだ。
今のご時世独特の若さからだろう、目の前にいる警察官のタマゴは食い下がるということもなく、本当に二、三質問してさっさと隣の部屋のドアへと歩いて行ってしまう。
大場だってそんな警察には興味も関心も湧かなかった。そんな小事よりも大事な問題に直面しているのだ。
彼女を助けなければ……。
大場はここ二、三日頭を悩ませていた。
愛しか取り柄のない男から神はまたもやそれを取り上げようとしている。
同居人の小野美紀子が難病におかされたのだ。
彼女は大場の愛そのものだ。
出会ったのは数年前の春。大場の勤める部署の庶務として配属された美紀子は当時23歳。それまで職を転々としていてデスクワークは不慣れだった彼女にパソコンを教えることで交流を深めた。何度か一緒に食事もした。
感極まって告白したが相手にされなかった。それも当然だろう。当時の年の差でも干支二回りに近いほど離れていたし、美紀子には恋人がいた。
しかし、現実を突き付けられても我慢が出来なかった。美紀子を自分の物にしたかった。彼女のそばに男がいる。その現実だけは受け止められなかった。
だからさらったんだ。
美紀子の家族にも恋人にも彼女の携帯から適当な理由を送って、美紀子は現在も失踪あつかいだ。彼女からいろいろな埃を落とすのは少々手間取ったが、苦労の甲斐あって邪魔が入らない二人の生活を手に入れた。
大場はただ美紀子に自分を知ってもらいたかっただけだった。そして、受け入れて欲しかった。
だが、それは無理だった。それもそうだ。どうして自分の生活を壊した相手を受け入れられようか。正しい形で愛を与えられない人がどうして愛を得られようか。
亀裂が入ったまま始まった二人の生活はすでに破局を迎えていた。
美紀子は大場にあらん限りの幻滅と失望を吐きかけた。言葉は日を追うごとにきつくなり暴言になっていった。
大場はそんな彼女を見てられなくなった。美紀子が自分で自分を傷つけているように思えて仕方なかった。
だから殺したんだ。
これ以上彼女を傷つけるわけにはいかなかった。美紀子は美しくなければならない。変わってはならなかった。保存しなければいけなかった。
だから人形にしたんだ。
時間はいくらでもあった。美紀子の身体を綺麗に分解して小分けにし、それぞれの部品をアセトンで段階脱水して、シリコンを溜めた浴槽につける。生前の写真をもとに顔と身体を整えて、最後は椅子に座らせて珪酸ガスと乾燥剤を使って乾燥させた。
目を綺麗なガラス性に変え、化粧を施し、爪も健康的な色に塗り替えた。
美紀子は座っていることしかできなくなったけれど、美しさは永遠だ。
生まれ変わった彼女との生活が始まった。
静謐と安寧に満ち満ちた日々だった。
家に帰れば美紀子がいる。寡黙になった彼女はいつもただ優しく微笑んでくれた。
大場がそうさせたのであってそこに彼女の意志は無い。そう言われてしまえば否定のしようもないが、なんと言うことかその状態の美紀子こそ大場の求めていた温もりのある生活を与えてくれた。
普通に考えれば歪んだ愛情に毒された独り善がりなのだ。
しかし、本当ところはどうだろうか?
お互いの意見を交いすることもないのだから喧嘩などあり得るはずもなく、二人の時間を邪魔する最大の要因である子供が産まれることもない。もとより彼女を穢す方法もない。
完全にプラトニックだ。大場にとっての愛の完成形とは肉体関係を超えた信頼だった。
美紀子はもう自分を裏切ることはない。
大場はそう信じて疑わなかった。
けれど、彼女は裏切り始めた。
ほんの数日前まで何ともなかった美紀子の身体は急激に劣化しだしたのだ。
顔や手の皮膚にぼつぼつと穴があくようにして崩れ、微笑んでいた顔は醜悪な怒りの形相になろうとしている。
パテでの応急処置しでは間に合わない。やはり大本を取り替えなければ。それでは美紀子の身体ではなくなってしまうが、なに移植手術みたいなものだ。生きている人にだってよくあることだ。
問題は彼女にあうドナーがいるかどうかだ。皮膚の質感や肌理の具合や色。それらを兼ね備えている逸材を探さなければならない。そして、例え該当者が見付かったとしても、こちらにミスが生じればもとのもくあみだ。まずは移植の予行演習をしなければ……。
時間がない!
大場は日に日に朽ちていく美紀子を思って胸を焦がした。取り急ぎ予行演習の材料になりそうな素材はないかと記憶を手繰る。とにかく試せればそれで良いのだ。いなくなっても誰も気にしないような孤独な女性はいないか……。
二階に住んでいる千葉なら大丈夫だ。
素材的にはかなり老朽しているがこっちは試せれば良いのだから。孫と一緒に住んでいると小耳に挟んだが、真下に住んでいるのに彼女のもの以外に物音は聞かない。一応オーナーの裏野にそれとなく訊いてみたところ、娘夫婦にトラブルがあって孫を引き取る運びになったそうだが、それっきり世帯数の変更手続きもないし、孫の姿など見たことがないそうだ。
実際に一週間千葉老人の生活を追ってみたが、彼女は一人分の食料しか買い込んでいないことが分かった。つまり彼女は昨今でも社会現象になっている独居老人なのだ。
こうなってくると大場は千葉の住む201号室の真下に住んでいることが幸運に思えた。この上下ふた部屋を阻んでいるのはわずか数センチの床板でしかない。簡単な工事を施工すればたやすく行き来できるようになる。
トンネルの開通個所をクローゼットに設定した大場は築年数や建材を調べて入念な下準備をした。 あまり時間はかけられないが失敗は許されない。工事時間はたったの30分と当たりが付いた。
そうして今日が決行日だったというわけだ。
しかし問題発生だった。
千葉が行方不明だというのだ。今朝忽然と姿を消したらしい。わざわざこの大事なときにだ。
他に天涯孤独の身のやつなど、202号室に住んでいる氷室しかいない。でも当人は男性なのだ。女生とは身体の勝手が違いすぎる。
「どうしたものか――彼を実験台にして予行演習になるだろうか?」
大場はまた肌の一部を欠けさせた美紀子を見て歯噛みする。
「ダメだ。悩んでいる暇なんかない」
軽率な行動は愚の骨頂ではある。いやしかし、こうしている間にも美紀子は朽ちていくのだ。たとえ無茶でもする価値はあるとしか思えかった。
「なに、ひと部屋またぐだけだ。どうってことない」
大場がそう思ったのは、下調べで天井裏を見た時にこのマンションの1階と2階には高さ1メートルほどの中二階が存在していて、全室とつながっているのが分かったからだった。
クローゼットの天井にある点検用の穴ににじり上って中二階に入る。途端に妙なにおいがして大場は鼻をおさえた。
大場は懐中電灯を点けて周囲を見廻した。意外にもゴキブリ一匹いない清潔な印象を受けた。
だけど、このにおいはなんなんだ?
「――痛っ!」
工具を持って数歩の行ったところで爪先を何かにぶつけた。
「なんだこれは?」
照らしてみると銀色の箱のような物がある。なんとなく持ち上げようとしたが固定されいて1ミリも動かなかった。手触りからして金属性。正方形の上面から円筒状の穴が掘ってあり、穴の底にぽつんと光が覗いていた。
「……まあいいか」
関係ないと切り捨ててさらに歩を進めて行く。距離感が正しければそろそろ102号室の洋室の真ん中に来ているだろう……。
そこで大場は進めなくなった。
一歩ごとにきつくなっていたにおいが嗅覚の限界を超えてきた。
なんなんだこのにおい? 魚が腐ったでもないし、植物のものでもない。どうにも生気を感じないのに死臭でもない。
ただ生温かく酸っぱいにおいが鼻を通って脳に直接干渉してくるのだ。
でも行かないことには美紀子は救えない。
大場は決然としてさらに一歩踏み出した――。
おかしな物体があった。
嫌に活き活きと動くそれを見た大場は、悪臭の原因はこれに違いないと直感した。
砂時計状の繭のような物で、色合いは腸などの内臓を思わせる退紅色だ。それが202号室の床と102号室の天井をつなげるように両端を張り付けている。脈を打っていて、上から下に向かって何かを送り込んでいるようだった。
「おい勘弁しろよ!」
足元から聞こえてきたしゃがれた声は101号室に住んでいる引きこもりだろう。下からは声だけではなく何だか雨のような音がしている。
いや、ちがう……蝉だ。
101号室から蝉の声が立ちのぼっていた。それも何百何千もの数を想像させる大合唱だ。
どうやら下にいる引きこもりは蝉に悩まされているらしい。
ではこの物体は蝉を送り込んでいるのか?
「うわっ!」
もう一度繭に目をやった大場は声を上げて後ずさった。
いつの間にか繭の中心にぼこりとイボみたいな一対の目が飛び出していて、ゴルフボールだいのそれはグリグリと散眼してから大場をとらえた。
すると矢が放たれるように繭の一部が伸びてきて大場の腕に突き刺さった。まるで五寸釘を突き立てられたみたいな激痛が走る。
途端に蝉の声が耳に取り付いているように大きくなった。
大場は唸りながら遮二無二それを振り払って数歩さがった。
食われる。
咄嗟にそう思った大場が逃げる体勢を整えているうちに、相手も攻撃の準備を整えたようだった。
さらに何本かの針を形成して伸ばし、拳をためるみたく構えている。
大場は迷わず背中を向けて自室へ戻るため穴へと転び込んだ。
2メートルを超える高さからの落下は初老の身体を壊すには十分だ。落下の衝撃をしたたかに受けた大場の身体は肩から背中にかけて言うことを利かなくなった。
自分の城に戻って少しは安心できたが、耳に張り付いている蝉大合唱は変わらない。
はっとなって見上げた天井の穴からさっきの針が入り込んでくるのが目に入った。横に転がってクローゼットから出ると大場は叩きつけてるように扉を閉めた。扉と行っても物置の折り込み戸だ。強度なんて鍋の蓋そう変わらないだろう。
とにかく美紀子を連れて逃げなければ――っ!
目を馳せた先には美紀子が座っている。その真上から別の針が伸びていて身をくねらせながら彼女に迫っていた。
「やめろ! 美紀子に触れるな!」
針の先から水滴が滴って美紀子の頬に落ちた。すると瞬く間に水滴は頬に染みこみ、その部分が内側へ凹んでいく。
その凹み方は見覚えのあった。思わず大場は今し方刺された腕に目をやる。やはりそうだ、大場の腕にも美紀子と同じ傷が出来ていた。
それで大場は理解した。
美紀子の病気の原因はこいつだ。なぜかは知らないが、美紀子のことを少しずつ苦しめていたのだ。
大場は立ち上がるとがむしゃらに駆けだした。今しも美紀子に組み付こうとしている針を払って彼女を抱きかかえる。
部屋からでさえすれば……。
玄関に足を向けると同時に、大場の背中には数点の激痛が打ち込まれた。耳を悩ませる蝉の合唱が病的な害音へと移り変わり頭が割れそうになる。
意識が飛びそうになりながらも、美紀子を落とさないようにと大場は膝を折った。
気が付けば天井から雨が降っていた。普通の雨ではない。雨に晒された美紀子の身体は、雨粒が当たったところが次々に落ちくぼんでいく。おそらくは大場の身体にも同じ事が起こっているだろう。
大場は美紀子をかばってその身を盾にした。それでも彼女の顔はどんどん壊れていくのだ。
「美紀子……、君は美しい。どんなに変わっても愛してる」
口を突いて出た言葉に大場ははっとした。
そうだ、例え美紀子がどんなでも愛していたんだ。なら、どうして全てを愛してあげられなかったんだ。
「美紀子、愛しているよ」
大場は崩れていく彼女を抱きしめた。もはや大場の手には感覚がない。あちこちに不格好な穴が空いた手の平は支えることが出来なくなった指を二本三本と落している。
ついには腕が外れた大場は、美紀子に縋りつくように倒れ込んだ。
美紀子も腰から折れてしまい、大場は彼女の上半身を抱え込む格好になる。
今しも美紀子の顔形が醜く崩れていく。
どうして全てを愛せなかったのだろう……。
どんな性格だろうと、どんな事をしようとも、醜くなっても美紀子は美紀子なのだ。相手の心を全て受け止めるのが愛じゃないか……。
50を超えた身の上でようやくそれを理解出来た。美紀子が教えてくれた。
通常人とは死に直面して初めて哲学するのではなかろうか?
「ありがとう……ありがとう」
世界の音が蝉時雨でいっぱいにされながら、大場はついに最愛の人と溶け合った。