三室目 102号室 時田弘樹
カーテンを閉め切った部屋はエアコンの可動音と時田弘樹の貧乏揺すりだけが響いていた。電灯も点けず、過度に冷やされた寝室で毛布にくるまりながら時田はモニターの青白い光に顔を照らされていた。
その日は急遽メンテナンスが行われるとかで、ゲームが繋がらなくて苛々していた。
せっかく自分が主催のイベントを告知していたのに、消費者にまともなサービスを提供しないなんて、このゲーム会社詐欺じゃないか。
新マップをアップロードしてからバグが発見されたらしく、時田が最近はまっているネットゲームは昨夜から改修作業が行われているとSNSで騒がれている。おまけにそのバグのせいで既存のシステムにも悪影響がでてしまったようで、むこう一週間はゲームが出来ないことが報じられた。
「なんだよ、このウンコゲーム!」
普段まともに使っていない喉でタンが絡んだような声をだして時田は暴言を吐いた。
一晩中根を生やしていた椅子から立ち上がり、毛布を纏ったまま用を足した後、居間の冷蔵庫からビールを数本取ってくる。一本目を一息に飲み干し、二本目に口を付けていると天井から物音がした。
「またかよ」
時田は眉間に皺を寄せながら天井を見上げた。昨日今日と子供が跳ね回る音が絶えないのだ。それに昨日は突然二階に住んでいるらしい老人の悲鳴まで聞こえてきてうるさかった。
「人への迷惑も考えられないのか最近のババアはよお!」
かててくわえてその後警察がやって来て事情聴取までされた。201号室の千葉とか言う老人が行方不明になったらしく、何か知っていることはないかとか、悲鳴を聞いたかとか色々訊かれたが、時田は一貫して「知らない」と答えた。
何があったのかは知らないが、面倒事に巻き込まれるのはご免だった。
時田はそんなことよりも重要な問題を抱えていた。充電しておいたスマートフォンを取り上げて母親に電話を掛けた。早朝5時だがそんなこと知ったことではない。
留守電になっても執拗に何度も電話を掛けて母親が起きるのを待つ。
3分ほどかけ続けて、ようやく母親が電話に出た。
「なにチンタラしてやがんだよババア! 俺が掛けてんだからさっさと出ろよクソが――!」
そこで時田は自分の声にむせて老人のように咳き込んだ。
「テメェ最近ボケてんじゃねぇのか? さっさと金振り込めよ!」
相手が母親かどうかも確かめもせずに罵詈雑言を放言し尽くす。たっぷり1分は送話口に声を叩きつけると、電話の向こうから弱々しく「すぐに振り込むよ」という言葉が返ってきた。
「ちゃんと振り込めよな! クレジットの督促状が来てんだ! 面倒かけんなよ!」
通話を切りスマートフォンを充電にかけてモニターの前にもどる。もちろんゲームは依然としてメンテナンス中だった。
こうなると昼間はやることがない。時田は家に居られるが、世間は仕事中である。夜になるまでSNSでの会話もライブ配信もない。
ようするに本当に一人になるのだった。
だから時田は昼間は酒を飲んで寝ることにしている。以前は普通に寝ることが出来たのに、最近ではアルコールの助けがないと寝られないのだ。そうしないことには嫌に気分になってしまう。本来血が通ってなければいいけないはずの心臓が空になり、脳が乾いたスポンジに化けてしまう。思考から潤い失われて、何もかもが自分に向けられた悪意に思えてくるのだ。
空にした三本目の缶を放り出して時田はベッドに足を向けた。掛け布団をどけてベッドに潜り込もうとした彼の肩に何かが〝ポタッ〟と滴ってきた。
雨漏りかと思ったがここは一階である。しかし、見上げた天井からは水が染みだしていた。
じゃあ、二階の住人が何かやっているのか?
だとしても確かめようがない。時田は昼間はおもてに出られないのだ。自分では外出する必要がないと思っているが、本当のところは外が怖いだけだった。
仕方なくベッドをずらして、先ほど空けた缶を水が滴ってくる位置に置いて水受けにした。これでは足りないだろうが、如何せん洗面器も食器もない。ゴミ袋のカップ麺の容器出すのも面倒だ。夕方にでもオーナーを呼んで対処してもらおう。
そう思ってもう一度ベッドに入ろうとしたが、今度は別の場所に水滴が落ちた。数拍おいてまた別の場所に水滴が落ちる。
なんだ? 二階の水道管が破裂でもしたのか?
「ん?」
目をやった天井で何か光った気がした。
でも、時田は気にしていられなかった。水滴の落ちる感覚が段々と短くなっていき、落ちる場所も部屋全体に広がってきた。
「おい、勘弁しろよ!」
とにかくパソコンを濡らさないようにゴミ袋を持って来ようとした時、時田の肩に激痛が走った。それもいまだかつてないほど強烈なものだ。
時田は痛みに絶えきれず床を転げ回った。
天井から滴った新たな水滴に体を打たれると、その部分にも同じ痛みが張り付いた。
硫酸!?
頭にそんな単語が瞬いたが、煙や薬品の匂いは立ちのぼっていない。
次々に水滴が体を打ち、その度に痛みが上塗りされる。今や時田の部屋は夕立の様相を呈してきて、全身を襲う染みこむような激痛に声も出せない。
そんな中、何故か耳だけが冴えてきて耳鳴りのどこかに何かの音を拾った。
蝉の鳴き声……。
アブラゼミかミンミンゼミかクマゼミかツクツクボウシかヒグラシか――。
数え上げられる種類よりも多い。それらすべての蝉が一斉に鳴いているかのような騒音が瞬く間に近づいてきて耳を覆われた。
じゃわじゃわという音しか聞こえないある意味無音の中でも体は痛み続けている。思わずかかげた手の平が目に入った瞬間――。
時田は悲鳴を上げた。
穴開け用のパンチで無理矢理穿ったみたいに穴だらけになっている。よく見ると傷口に吸い込まれるようにして肉が体の内側に入り込んでいっていた。
みるみるうちに表皮がなくなり、脂肪や血管、筋組織が外気にさらされる。
うなされるみたいに不安定な声を上げながら、時田は崩れていく自分の身体と鼓膜に張り付く蝉の騒音に引き裂かれた。