二室目 203号室 冴島耕介
202号室に耳を押しつけていたらしい清恵が急に血相を変えて自分の部屋に戻って行った。それから程無くして彼女の絶叫を聞いた。
冴島耕介は通報してやって来た二人の巡査の聴取でそう答えた。
アブラゼミの放つ騒音に取巻かれた裏野ハイツ二階の通路で向かい合っている巡査は真っ黒なファインダーに挟んだ調書をボールペンで小突きながら訊き返してきた。
「じゃあ、隣の部屋から子供の暴れる音がしたので、冴島さんは苦情を言おうとして202号室の氷室さんを訪ねた。でも住人が出てこないからさらに隣の千葉さんを訪ねた。と――」
「はい」
耕介は相槌を打つ。
「千葉さんはよく知らないと言っていたけれど、何か知っていそうな素振りがあった」
「はい」
「彼女と話していても埒が開かないと思って一度部屋に戻ったのだけれど、戻った途端にまた子供が暴れ始めて部屋を出た」
「そうです」
「すると千葉さんが202号室のドアに耳を押し当てていて、急に顔色を変えて自室に戻って行き、程無く部屋の中から彼女の叫び声が上がった」
「はい」
耕介が頷くと警察はボールペンの尻でこめかみを掻いた。
そこに、せわしなく階段を上がってくる足音がした。
「冴島さん困りますよぉ。勝手に警察なんか呼んでもらっちゃあ」
開口一番にそう言ったのは裏野ハイツのオーナーである裏野政夫だった。現場検証からオーナーの確認が必要と判断されたので来てもらったのだ。
「オーナーのアタシだってここに住んでるんだよぉ。さきにこっちに言ってもらわないとぉ」
「何が困るんです?」
「こっちだって客商売なんだからぁ、心証が第一なんですよぉ。あんたもそんな物々しい制服姿で来てくれちゃってさぁ。へんな噂でも立って入居者が減りでもしたらどうすんのぉ? どうにかしてくれんのかぁ? あぁ?」
相変わらず語尾を伸ばしたしつこいニュアンスだ。入居時は腰を低くしてペコペコしてたのに、手の平を返したように裏野は冴島と巡査に悪態を突き続ける。
「とにかく変わったところがないか中を確認して下さい」
巡査はげっそりしつつ202号室を手でさした。
「確認て言ったってぉ、ドアは開いてたんでしょお?」
ドアを開け放った裏野は巡査に先に入るよう促した。まがりなりにも事件現場だ。先陣は切りたくないのだろう。
「あんたも来なよぉ。気になったから通報したんだろぉ?」
裏野は嫌みたっぷりな抑揚を聞かせてきた。
「もう家主はいないだからぁ、アタシが入室を許可するよぉ。しっかり取材していくといいや作家先生ぇ」
言い方には苛ついたが現場を見てみたいのは本当だった。何かネタになる物があるかも知れない。それに、先ほど現場検証を終えた巡査の報告は気になる。
冴島が部屋に入るのを、裏野は細めた目でジロジロと見てきた。
最後に裏野が入ってドアが閉じられる。
入ってすぐにリビング兼キッチン兼ダイニングの9畳間がある。角部屋なので左手の壁には窓があり、その向い側には洗面所やトイレ、バスルームに続く通り口。奥に寝室に使っているのだろう洋室に続く通り口がある。
間取りは冴島の部屋と同じだが、老人特有の乾燥した加齢臭が充満していて鼻を突かれた。
「先ほども言ったと思いますが、何も異常は見つけられませんでした」
巡査を先頭に部屋の中を簡単に回っていく。部屋は綺麗に片づけられていて、レースのテーブルクロスが掛かったダイニングテーブルの周りには、食器棚や炊飯器、冷蔵庫、小振りのテレビが置かれている。洗面所などの水回りの部屋も強いて挙げる物はなく、寝室も別段問題は無かった。
「まあ、他の部屋は扉から何から閉っていたんですけど、寝室のクローゼットだけ開いてました。でも、それだけですね」
「これは?」
冴島はクローゼットのポールに掛かっている洋服をどかして床の染みを見つけた。
「くそぉっ! あの婆さんお茶か何かこぼしやがったなぁ!」
洗浄費用のことを云々言い出す裏野をよそに冴島は床に屈み込んだ。目を凝らすと床に埃みたいな粉が積もっていた。その粉は染みの上だけ拭き取られたようになっていて、その特徴からクローゼットの戸口から奥に向かって拭かれるようになっている。
……まるで何かが引きずられて行ったみたいだ。
冴島は胸に高揚感を覚えた。
ここしばらくご無沙汰だったあの感覚だ。創作意欲という名の冴島にとっては何にも物にも勝る活力だった。
それがこの先にあると思って冴島の目はその跡を追っていった。
が――、壁があるだけだ。
それでも諦めきれず目を這わせていると、妙なことに気が付いた。引きずった跡は壁まで続いているのだが、それは壁の存在を無視しているかのようだった。
跡が途切れてる。冴島にはそう思えたが、試しに壁を押してみても隠し扉なんて見付からなかった。
この先には何かがある……。
冴島はそんな気がした。
ふと、玄関のドアが開く音がして、まだ幼さが残るテノールが聞こえた。
「先輩、いますか?」
「ああ、奥にいる」
巡査が玄関に呼び掛けると、もう一人の若い巡査が寝室に入ってきた。
「どうだった」
「はい、一階の方達なんですけど」
若い巡査が続けた言葉に冴島は耳を疑った。
「誰も悲鳴も物音も聞いてないそうです」
「あの冴島ってやつぁさぁ、職業が作家なんですけどねぇ。駆け出しもいいところなんですよぉ。あの203号室っていうのはねぇ、ある出版社と契約してましてぇ、芽があるやつをあそこに放り込んじまうんですわぁ」
「はあ……そうなんですか」
「一応うちのたなこになるってんでねぇ、経歴も聞かせてもらったんだけどぉ。あいつもう30歳でねぇ、創作活動始めたのが数年前なんですがぁ、親父さんが実業家だもんでぇ、これまで働いたことがなかったって言うんですぅ」
「それで?」
「初めてなんですよぉ。責任をおっかぶされんのがぁ。聞けば一ヶ月で長編一本書き上げろって担当から言われてるらしいんですがねぇ。
もう半月になるけどぉ、おそらくあれは一ページも書けてないねぇ。アタシはもう何人もあの部屋で頭壊れたやつ見てるからさぁ分かるんだよぉ。ありゃあ、精神やられちまってるよぉ。
だからありもしない音や物が見えちゃったのさぁ」
「なるほどぉ……」
冴島が部屋に戻った後、裏野は聞こえよがしに巡査達と話していた。ノートパソコンを前に苛立っている間に話し声は聞こえなくなった。
「……くそっ!」
冴島は思わす横の壁を殴りつけた。
「金はあるんだ! 働かなくて何が悪いんだよ!」
逆を言えば金しかなかったんだあの家は!
冴島はこの半月の間、悩まされ続けていることにまた思考を絡め取られた。
金儲け以外のことを教えられなかった! 創作の楽しさも、人と関わっていく幸福も、数字を増やすこと以外には何も無かった!
だから……。
書き始めたのだ。この数年、書き上がった作品を出版してもらおうとあちこちの出版社を訪ね回った。賞に送ろうなんて一切考えなかった。とにかく自分がやった何かをこの世に残そうと必死になった。
そこを拾ってくれたのがあの出版社だったのだ。才能を確かめるためにと与えられのが、新たな一作を書き上げることと一ヶ月という期間、そしてこの部屋だった。
大学を卒業して以来ずっと逆らっていた親の家をようやく飛び出せたのだ。
でも、ここに来てからはただの一文字も書けなくなってしまった。
特にどうという理由はない。画面に向かいキーボードに手を置いた途端に親のことが頭をよぎってしまい、どうしても書けなくなってしまうのだった。
残り14日しかない……。
なのにどうして邪魔してくるんだ。どこまで追いかけてくるんだ。
冴島にとって親とはそういう名前の足枷であり、そう言う名前の看守だった。どこへ行ってもついて回り、どこまで行っても見張られているのだ。
それを忘れさせてくれるのが小説だった。あの高揚感だった。
久々に思い出したあの感覚はあの壁の向こうにこそある気がした。
あの壁の向こう……。
つまりは202号室だ。間取りが同じなら今自分が居るのと同じ6畳の洋間に続いているはずである。
もし、あの引きずった跡がクローゼットの壁の向こう側まで続いているとすれば、千葉とかいう老婆が引きずられて行ったと考えるのが自然だ。警察もオーナーの裏野も冴島が妄想症にとらわれていると決め付けているようだが、冴島は千葉が202号室に何かを感じ取った瞬間を目撃している。
あれが妄想なわけがない。よし! 202号室に住んでるのがどんなやつなのかつきとめてやる。今度は自分で一階の住人に聞き込みを――。
突然〝ボソッ!〟という砂が崩れるような音が部屋に響いた。冴島が音のした方に目を馳せると、壁に穴が空いていた。床に切り取られるようにして半円形の穴が、ちょうど人が通れるほどの大きさでポッカリと空いている。穴の向こうから砂埃が小さく吹き出しては吸い込まれていて、まるで呼吸しているみたいだった。
冴島はその穴の向こう側を思って絶句する。穴が空いているのは202号室とを隔てる壁だった。
ゆっくりと椅子から腰を上げた冴島はそろそろと穴に歩を進めた。何となく足音を立てるのははばかられた。穴は今しも眠っているように静かな呼吸を続けていて、野暮な音を立てたが最後、怪物を起こしてしまうような危うさを感じたのだ。
穴に向かって屈み込むと、酸性の臭気を含んだ湿った風に顔を撫でられた。吹きかかってきた風は向きを変えて今度は穴に吸い込まれていく。
冴島は穴の奥の暗がりに目を凝らした。影が何層にも重ねられている闇は光が入る隙間がないので何も見えはしない。でも、冴島は何かに見られている確信があった。それも圧迫感を覚えるほどすぐ近くに……。
冴島は穴から膨れ出てきた闇と向かい合っているような錯覚を覚えた。
異常な状況だ。突然空いた穴に向かい合っている。脈絡はある。冴島の頭には嫌でも201号室から消えた老婆のことが思い出された。
蝉時雨が鳴り響いている外にいつもと変わらぬ日常を感じながら冴島は背筋を粟立たせた。
誓ってもいい。自分はもっとも真相に近い人間だ。
恐怖に駆られて逃げ出す。それが普通だ。自分の足に躓きながら玄関まで走るが何故か鍵が開かなくて、その間に穴から出てきた何者かが背後に迫ってくる。良く言えば王道、悪く言えば陳腐な展開だ。
冴島はそんな物に用は無かった。むしろその何者かに自ら迫っていく物語が好ましい。けれどもそれは本やテレビ越しの話だ。絶対な安全を確保されいるという条件付だからこそ人は恐怖は楽しめる。
はたして冴島はおのれの精神が正常なのか分からなかった。
創作意欲に手を引かれてか。探究心に背中を押されてか。
それとも現実逃避に駆られてか。
冴島はさらに身を屈めると、腹這いになって穴の中へと入っていった。