プロローグ と 一室目 201号室 千葉清恵
プロローグ
やった やった
生まれ変わった 自由だ
僕 正しい
一室目 201号室 千葉清恵
明の死体が消えた。
千葉清恵は十数年間毎朝欠かさず開けては中を確認していたクローゼットの前で立ち尽くした。数えるほどしか掛かっていない洋服達が隠してくれいる床に寝かせておいたはずの孫の死体が忽然と消えたのだ。
清恵は思わず常にポケットに入れてある明の写真を取り出して握り締めた。昔撮った物で明の写真はこれ一枚しかなくもうぼろぼろだった。
腐ると思っていたのに死蝋化した明は、黒ずんでしまったけれど当時の面影をそのままにずっと清恵と一緒にこの201号室に居た。
明の死因は溺死。恐らくは自殺だった。清恵が引き取ったその日に明は死んだのだ。
明の母親、つまりは清恵の娘である純子はある意味で息子を虐待していた。
明が生まれたとき、純子にとっては初めての子供、清恵にとっては初孫ということでそれは可愛がったものだ。
だが、可愛がるもの度が過ぎれば害になるということを清恵は娘に教えられた。純子の明へ対する寵愛はすぐに狂気じみていった。
病気になるかも知れないから明は外へ出さないと言って聞かなかった。七五三などは惰性の風習で行く必要はないと言い、誕生日は外食に行かずに純子がテーブルに乗りきらないほど料理を作って祝った。
おのずというか、やはり幼稚園には行かせないと純子は言い出した。たしなめようとする夫の言葉を「行けば絶対にイジメられる」と突っぱねた。
夫婦の間で諍いが絶えなくなり、次第に夫に信用しなくなった純子はあからさまに夫から明を遠ざけた。明も母親である純子の方が正しいと信じ切って意識的に父親を見ないようなった。
呆れ果てた夫は二人を捨てて出て行った。
夫というブレーキが無くなった純子の歪んだ愛情はさらに狂っていった。
明がテレビ見ていると電源を切る。明が絵本を読もうとすると捨ててしまう。明が遊んでいたぬいぐるみはハサミで切り裂いた。
純子は愛する明の関心が常に自分に向いていないと気が済まなくなったのだ。しかも、明はそんな純子のことを頭から信じ切っていた。
さすがに病的なモノを感じた清恵は純子を無理矢理精神科に受診させた。
結果、強い執着意識を持った強迫性不安障害と診断された純子は、清恵の管理の下で服薬での治療を始めた。だが、清恵の目を盗んでは薬を捨てていたらしく、純子の病状は悪化の一途を辿る。
ある日、ついに決定的な事件が起こった。
「どれだけ愛してもいずれは死に別れてしまうから……」
後に担当医師にそう語った純子は6歳の明との無理心中を図った。方法は入水自殺だった。
それが未遂に終わった直後、純子は隔離病棟へ強制収容され、明と離ればなれになったことを苦に病室で舌を噛んだ。
そして……。
明は純子が自殺したことを病院からの電話を受け取った清恵の言葉から感じ取り、母親の後を追ったのだろう。明を引き取った清恵だったが、母親への信頼という呪縛から救い出すには至らなかったのだ。
あんなに可愛かった孫の死を受け止めることが出来なかった清恵は、無意識に浴槽から持ち上げた明の死体を裸のままクローゼットにしまった。
しかし、明は消えた。
クローゼットの床には、死蝋化する前に漏れ出た体液の乾燥した跡だけが残っている。
誰かが持ち去ったの? そんなことしても何の得があるのか分からない。じゃあ、死体がひとりでに動いた? それこそあり得ない。
もう一度よく探そうと清恵は屈み込んだ――。
奥の壁に穴があった。ちょうどトンネルのように半円形の穴が半畳ほどの直径で空いている。向こう側は真っ暗で何も見えない。ここに入居するときに全ての部屋の間取りは同じだと言っていたからこの向こうは202号室の洋室があるはずだ。
しかし、奇妙な穴だった。何かを道具を使って後から空けたと言うよりは、初めからそう設えたみたいに縁は滑らかに磨かれている。もちろんの事だが入居時こんな穴はなかった。オーナーや管理会社からこんな穴の話は聞かされていないし、多分その二方も知らないことだろう。
ならこの穴はいつ空けられたの?
その時、穴を満たしている闇の中で何かが動いた。
清恵はとっさに身を引き、状況を整理できないでいるとインターホンが鳴った。
小さく悲鳴をあげて清恵は玄関へ目をやった。動けないでいるとまたインターホンが鳴らされる。
もつれる足でドアまで行きスコープを覗き込んだ。随分と貧相な顔が見える。またぞろインターホンを鳴らしているのは若い男だった。
少し前に二つ隣の203号室に引っ越してきた冴島だ。引っ越しの挨拶で「自分は作家です」と鼻に掛けていたが、それ以来は顔を合わせたこともない。
一体なんの用?
まもなくインターホンが間断なく鳴らされだす。
清恵は恐る恐るドアを開けた。
「どうも」
冴島は不機嫌そうな声音を聞かせてきた。
「なにかご用ですか?」
「隣がうるさいんですけど」
「はい?」
「隣ですよ! その部屋!」
声を荒らげた冴島は202号室を指さした。
「朝からバタバタバタバタ部屋中走り回ってて、うるさくて仕事にならない! まったく、やっと気分が乗ってきたっていうのに!」
「あの、それがうちと何の関係が?」
清恵の言葉に冴島は耳を貸さずにまくし立てる。
「これだって立派な営業妨害だ! だから苦情言ってやろうと思って隣に行ったら突然静かになりやがって、何度インターホン押しても出てこない!」
それまで202号室のドアを睨んでいた目が清恵に向けられる。
「あんたずっとここに住んでるんだろ? となりのやつのこと何か知らないか?」
「さあ、私もよくは知りませんけど。何かの学者さんだったかと思います」
普段は気さくな清恵だが、こう勝手な物言いをされては尻込みしてしまうし、何よりも202号室と聞いて思い浮かぶのは先ほど見つけた穴だけだった。
「ちっ……」
その舌打ちの後には「使えねぇやつだ」と続くのだろうと思って清恵はうんざりした。
「最近のやつはガキの躾けもまともに出来ないくせに子作りだけはしやがって、国勢調査だけじゃなくいっそのこと家族計画も国で管理されればいいんだ」
え、子供……?
清恵は冴島の言い分が気になった。202号室の住人は男の一人暮しのはずなのだ。
それを訊こう思った時には冴島は蓬髪を掻きむしりながら自分の部屋に戻って乱暴にドアを閉めていた。
清恵は202号室のドアに近づいてそっと耳を押し当てた。しんと静まり返っていて心臓もないドア自体の音に耳を澄ませているみたいだった。
――が。
深い静謐の中に音がにじんだ。
足音だ。歩幅からして子供の足音だった。歩調から幼さが感じ取れる。幼稚園から小学校の低学年くらい。
明と同じくらいの子供の足音だった。
「また始めやがった!」
勢いよくドアを開いて冴島が飛び出してきたが、清恵は無我夢中で部屋へ取って返した。つっかけを土間に放り出して足早にクローゼットヘと向かう。
〝 そんなわけがない
あの子は死んだのよ
それも私の不注意で死なせてしまった
私が殺したのも同然なんだ
だから隠してしまったのよ 〟
けれどその場所に明の姿はない。
あるのは明がいた名残と――。
202号室に続いているだろう穴だけだ。
屈み込んで穴を覗き込む。
穴を満たしている暗闇は脂っこくて、今にも表面を膨らませて溢れそうに見えた。
「アキ君、そこにいるの?」
清恵の声は耳鳴りに負けてしまうほど弱々しかった。
声が穴に吸い込まれて消え入る。
すると、幽かにだが足音がした。
「アキ君なの?」
まるで清恵の言葉に応えるみたくまた足音がする。
そして足音は段々と大きくなっていた。
もうすぐそこまで来ている。
清恵は無意識に穴へと手を伸ばしていた。今は恐怖よりも自責の念の方が強くあって、叶うものなら謝りたかったのだ。純子をあのように育ててしまったことも結局何もしてあげられなかったことも毎日毎日懺悔し続けたが、その度にもう手遅れなのだと改めて感じさせられるだけだった。
程無く穴から手が伸び出てきた。明の手だ。十年以上一日も欠かさず見続けた清恵が間違えるはずはない。
久々に握った孫の手は固く乾燥していた。
「ごめんね。アキ君、守ってあげられなくて」
撫でるように掴んでいた清恵の手を明は握り返してきた。
明の手は次第にしっかりとした力を帯びてきた。その力には確かな意思が感じられる。
「お、お婆……ちゃん」
躊躇いがちに自分を呼んだのはまさしく明の声だった。
「会いに来てくれたの? 本当にごめんなさいね」
清恵は明の存在を確かめたくて強く握り直した。明も握り返してくる。
しかし、明の力は友好的なものではなくなり始めた。清恵の手は肉が歪み骨が軋みだした。握る形から握られる形へとなり清恵の手は明の手の中で筒状までに絞られる。
清恵は痛みに悲鳴を上げたが、なおも明は握力を増させていった。ギリギリと止まることなく圧力が強くなる。まるで機械が設定された動作を実行しているようだった。
ついに手という構造物の限界がやって来た。清恵の手は濡れたダンボールを潰したみたく無様な形状になった。湿った枝を思わせる『ベキッ』という破壊音が部屋に木霊し、清恵は明の手の中でひしゃげた自分の手と重力に任せて揺れだした指を目にして叫んだ。
目を白黒させながら見やった穴にボウッと何かが浮かび上がった。手から順に腕、肩と明が姿を現す。明の顔を見た清恵の思考は恐怖に塗り潰された。
明の目はカッと見開かれ、唇は捲れ上がって歯を剥き出しにしている。いや違う。明は目を開けているわけでも、唇を剥いているのでもない。目蓋と唇がなくなっているのだ。眼球も歯も感情を表現でなくなった禍々しい顔で明は清恵を見据えていた。
怖気で目眩がした次の瞬間、子供とは思えない力で清恵は引っ張られた。
肩が外れ激痛がはしる。清恵は顔をしかめている間に肩から持って行かれるように穴へと引きずり込まれた。