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フィリフヨンカ

作者: ニカ

「フィリフヨンカ」深い山の中に囲まれた、雪が少しだけ積もる町。といった始まりは、コンクリートに覆われた多くの男女が行き交う大都会の一部、なんていう導入だとか、俺のなんとかはなんとかなわけがない、なんていう奇をてらったような題名より遥かに風情と情緒があって良い。どうにも、ここのところコンクリート無法地帯ファンタジーインターネットスラングジャングルみたいな話に囲まれすぎて辟易していたところだったから、もっと人の心の深いところに触れるようなことを考えたいと思っていたところだ。わたしはできるだけ今を生きる人でありたいけれど、携帯端末に夢中になってほとんどの人が目にも留めないような景色の表情の機微とか、綴じ部分が外れかけてしまうくらい一冊の本をバイブルのように読み直してみるとか、そういったことに、そういったことだけを見つめ続けていたいと思っている。


 深い山の中に囲まれた、雪が少しだけ積もる町、というのは、わたしが生まれ育った町というわけではない。わたしの叔母が暮らす町の様子である。わたしの叔母とは、わたしの母から見て七つ下の妹のことである。三十代になってからも結婚せず子供もおらず、ずっと一人で暮らしている。物静かで、少し何を考えているのかわからなくて、会社勤めをしていて、黒髪で、母に良く似た幅の広い二重である。これは母方の家系に遺伝していて、わたしの目も例に漏れず同じような形だった。この目があって得をすることは、ほとんど、ない。ずいぶんと目が大きいんだねえなんて言われても、わたしの生活はちっとも楽にはならない。

 わたしの住んでいるところは海辺の近くだった。五分も歩けば海が見え、ごうごうと風が唸り潮の薫りを街全体に知らしめていた。変わりやすい天気と錆びやすい自転車のことを抜きにすれば、海の近くで暮らすことに嫌なところはなかった。大きな波の音を聴いたら、たいていの悩みごとは塵のごとく吹っ飛んでいく。


 自分が嫌味ったらしい人間に育ってしまったことは、それはもう周囲の人が思うよりもっと強く深く自覚している。わたしはこのあいだの三月七日で十七歳になった。その折に、わたしは山間部にある叔母の家に遊びに行った。来いと言われたわけでも、祝って欲しいと言ったわけでもないが、叔母はわたしの誕生日くらいは覚えてくれていて、ささやかながら洋菓子を出してくれた。

「ユキちゃんは昔からそんな感じだったね」わたしが改めて自分の性格を説明してみると、叔母は言った。

「人が何か言う前に自分から仕掛けていくような、でも最後はおどけて笑ってみせるような」

「何言ってるかよくわからない」

「そういうところよ」

 叔母は窓の外を見ながら笑った。

 すくなくとも、わたしは、昔からこんな人間ではなかったと思っている。幼かった頃は無口で、素直で、世間知らずで、箱入りだったはずなのだ。アルバムをめくってみると、そんな邪気のなかったころのわたしが戸惑いがちにはにかんで、かわいらしく写っている。

 そう、わたしが捻くれたのにもきちんと理由があるのだ。わたしには歳の離れた妹がいるが、わたしとはまるで違う扱いを受けながら育ったので、わたしは妹が憎い。わたし以上にわがままで、いい学校に入れてもらって、いい楽器を買ってもらって、習いごとの送り迎えをしてもらって、そしてそれを特別と思っていない思慮の浅さが何よりのこぶつきで、同じ目をしていながら同じ血が通っていないのではと思ってしまう。

「ねえ、十七歳ってどんな感じ?」

 ケーキの皿を洗いながら叔母がわたしに問うた。わたしはそのとき叔母の本棚に挟まっていた「暮しの手帖」を読んでいて、叔母の質問を頭の中で処理をするのに数十秒、答えを考えるのに一分強もかかってしまった。

「十六歳よりはまし」

「そういうところなんだよなあ」

 そういうところってどういうところなのだろう、具体的に言葉を持って説明してほしい。


 わたしは嫌味であると同時に、やけに達観した人間になってしまった。無茶をすることの美徳を否定する。どうせ駄目になる上に歯止めが効かないから服は気に入ったものだけを何年も着る。それは十七歳じゃないねえと友は言うが、紛れもない十七歳は、静かに頷いて器用な笑みを浮かべるだけだった。

 海沿いの夏は暑い。この時期になると、叔母の住む山間地帯が妙に恋しくなる。白い綿のワンピースの皺を丁寧に伸ばして、茶色の革の時計を左腕にまとうと、夏の苛々もどこかへ飛んでいくような気がした。

 この時計は、十七になってから貯金をはたいて買った一生モノの時計だった。わたしとこの時計は、街路樹の並ぶ素敵な通りの時計屋で、春、運命的な出会いを果たしたのち、一ヶ月悩んでついに購入したものである。たとえわたしが将来的にミニマリストになったとしても、この時計だけは手放さないだろう。

 わたしは街路樹の木陰にできるだけ入れるように人を縫って歩くと、本屋に入って一息ついた。曲がりなりにも大学受験を控えていたわたしは、参考書を買って隈なく勉強をする必要があった。中身を念入りに確認し、ひとつの英語の参考書だけを手に取ると、それを購入し鞄の奥へしまいこんだ。

 うまくいくと、いい。

 この件に関して思うことは、ただこれだけだった。


 ちょうどこの頃、両親が別居するだの離婚するだの夜中語気を荒げているような状況だった。正直、ものめずらしい光景ではないだろう。一人で生きていく女性も多い時代だし、うまくいっていない夫婦は世の中大勢いるのだから、運悪くそこにはまってしまっただけだと思っていた。しかし、意外にも十七歳の心は脆いのか、それは僅かながら心のなかでひとつの悲しみとして蓄積され、彼らが嫌そうな顔をするたびそれが肥大していくようで、勉強どころではない日も稀にあるくらいだった。

 ただ、わたしは二人が、他人と他人であることを知っている。手を取り合うことも、手を離すのも、それは彼らの自由だと思うのだ。だから特に止めなかったし、大学までは面倒を見る、という言葉だけでむろん十分だった。

 結局、秋になったころに父が一旦家を離れることになった。母は、清々したようだった。家の中が少しだけ穏やかになった。

 一方妹は、わたしがあまり見ていないところで、最後まで二人の間に挟まってなんとか考え直してもらうよう必死だったらしいと、叔母から聞いた。父が家を離れてから母は働くことを決心し、手を掛けていた妹からだんだんと手を離すようになった。その変化も妹には苦痛だったのだろう、単語帳を眺めるわたしを見て、まるで悲劇のヒロインを気取るかのように

「いいよね、お姉ちゃんは。勉強だけして、家のことがどうなったっていいんでしょ」

 などと言った。わたしは捻くれているので、

「いいでしょ」

 と言ってまた単語帳を眺めた。


 最後の模試で、偶然そこそこの点数しか取ることができなかった。わたしは教師に呼び出されて、いろんなことを聞かれた。勉強に集中できているのか、とか、滑り止めを増やすことも考えているのか、とか、とかく具体的なことだった。ある程度、わたしの家の状況を把握して言っているのだと思った。

 生きていくのに必要なものってなんだと思いますか。わたしは、最後まで投げやりにならないことだと思います。

 わたしはそう言って、放課後の教室を後にした。ぽかんとして何も言えなかった若い担任の顔が一瞬だけ面白かったけれど、校舎を出た途端に忘れた。

 自分の成績については、模試の結果が出たあの悪魔の日から、誰かから何かを言われる前に星の数ほど悩んだのだ。そしてもう答えは出ていた。人の悩みほど耳に入らないものはない。自分の悩みも、所詮そんな程度なのだから、まず悩む時間が無駄であることも悟った。わたしは、校門を出て、電車に乗って、いつもと違う場所で乗り換えた。深い山の中に囲まれた、雪が少しだけ積もる町を目指して。

 叔母はその日たまたま有給を消化している日だった。ドアのベルを鳴らすと、部屋着のまま出てきて、前回見たときと同じ表情で「コーヒーでも飲む?」と言った。ただ頷いて、わたしはローファーを脱いだ。

 叔母は何も言わず、白いマグカップにスプーンをさしたコーヒーを出してくれた。テレビがついていて、何かの映画が流れていた。

「わたしのお母さんに、いいよねお姉ちゃんは、って言ったこと、ある」

 わたしはテレビを見つめ続けながら言った。

「逆に、言われちゃったかなあ。なにがそんなに羨ましいのかわからなかったけど」

「いいでしょ、って言った?」

「覚えてないなあ」

 叔母は眠そうに言った。


 わたし、ほんとうに、このまま大人になっていいのかしら。この歳になって、十二月、ようやくそんなことを思うようになった。

 十七でこんな状態なのだから、きっとろくな大人にならないにちがいない。身近な大人を見てみても、どう考えても子供の頃の自らの延長で大人になっている気がするので、自分で変わろうと思わなければ、きっとこのまま行きずりで大人になるだけなのだろう。そう思って、背筋がぞっとした。

 世の中には、じつにくだらないものがごろごろ転がっている。無責任な言葉も、嘘も、悪書も、粗悪品も、心を蝕む地雷も。もちろん、いいものも転がっている。でも、それを見抜くための技法は、学校ではとうとう教えてくれなかった。

 十七歳はどんな感じ? 昔聞かれた問いに、そろそろきちんとした答えを添えてもいいだろう。それは、満天の星空の下で、ひとり、そっと猫を抱えこむようなものだった。それ以上でもそれ以下でもなく、悲しくも嬉しくもない。しずかで、透明で、冷たい風が吹いている。


 叔母の言う。

「ユキちゃんは、昔からそんな感じだった。自分ひとりで歩いていけるような、でも本当は人一倍寂しがりやのような」

 わたしはそのときすでに叔母に背を向けていた。帰るところで、別れの挨拶も済ませたのに、叔母は後ろから語りかけるように呟いたのである。

「いいことがあるといいね」


 二月の末、わたしは大学に無事合格し、晴れて春から一人暮らしを始める。大体の荷物は処分し、時計だけは一緒に持っていく。


 もうすぐきみの誕生日だね。

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