マジッキスト ~雷爪竜(デルトリウス)と禁忌魔法~
まえがき
この作品は、ぼくが高校生の時に「ひとまず書かねば」と決心して書いたものです。
その時読んでいた小説――悲劇やライトノベルに多分に影響されながら執筆した為、文章にムラがございます。なにとぞ温かい目で見て頂けたらと思います。
また、作中に登場する『』内の言葉は物語中で初めて登場する専門用語ないし造語でありますが、覚えて頂く必要はございません。雰囲気のみで、読み取って頂けたら幸いです。
感想、批判、アドバイス等のコメントを随時受け付けております。
マジッキスト ~雷爪竜と禁忌魔法~
籔田 すいみん
異動が言い渡された。急だった。
いや、どういうタイミングで言われたとしても「急だった」と思うのであろうが、急だった。
ジリリリリリリリとけたたましく鳴る目覚ましを叩くように止める。それから感覚で30秒程の間、頭の中でぐちを言った。伸びをしながら時計を見る。7時5分だった。起きる時間を5分過ぎている。がっくりと俯いた後、もぞもぞとベッドから這い出た。
ハムとチーズを適当に挟んだパンをほぼ噛まずに飲み込む。バナナを食べる。ミルクを飲む。バナナを食べる。皮を後ろに投げた。山なりに飛んでゴミ箱に丁度――入らなかった。ペチョ。今日のおれは全然シャープじゃなかった。いつもの事だが。舌打ちをして立ち上がる。
クローゼットを開いた。ギルドの青い制服のほかは黒いチュニックだった。そのうちの一つを取った。
玄関横の、杖が収められた箱を執る。ドアに手を掛けたところで、おれは振り返った。
「行ってきます」
どこからも返事はなかった。黒いチュニックを着た彼の目に光はなく、何もない空間にただ黙々と薄い青を湛えていた。彼は少し目を伏せると、ドアを開けて朝日に包まれていった。
寮から出ると直ぐに『ギルド』だった。
ギルド本部の規模は敷地が550haで、最長距離が6kmあるが、9割が『運鳥』の牧場である。血気盛んな『執行部』やハンター連中が世界を股に行ったり来たりしている。ご機嫌なものである。その中でおれはいたって平和な資材部だった。2階の共同ロッカーから青の制服に着替えて1階のカウンターに立つ。ほとんどが女の子だった。要はハーレム。2年経った今ではもう何とも思わないが。
「「おはようございます」」
時刻は午前8時。顔を見合わせた瞬間、同時に挨拶が交わされる。
「夜、何かありました?」
「はい、依頼主・目的地不明のクエストが合計13件。クエスト失敗が52件。以上です」
出勤した人間は、1時間の間に引き継ぎを兼ねた世間話を始めにしておく。彼女たちは夜番だ。
「了解です。死んだ人がいなくて良かったですね」
我ながら声に感情がない、と思った。これもまた社交辞令――所謂テンプレートである。ギルド側の人間が死なない限り、こちらとしてはハンターが何人傷付こうが知った事ではない。どこか他人事なやりとりがここにはあった。
資材部の仕事は管理である。運鳥の飼料の確認、本部に寄せられる依頼の選り分け、『ギルドマート』の商品在庫の確認、それに売り上げ(クエスト受注の際の手数料を含む)の照らし合わせ確認……これらを、基本的に『ポス』の前に立ちながら、休憩も交えてローテーションで終わらせていく。確認と報告の連続。肉体的には疲れないが、神経を使ううちに気が付けば夕方だった。
午後16時3分。『夕勤』の女性人がわらわらと出勤してきた。これで今人手は実質2倍になる。どこか解放された雰囲気が1階のフロア全体に伝わっていき、おれも初めて天窓を見上げて大きなため息をついた。
空はもう濃いオレンジ色になっていた。その中にちょうど2羽の鳥……いや、小型の翼竜が飛んでいた。
「「おはようございます」」
「今日は何かありました?」
「特に何もありませんでした。依頼主・目的地不明のクエストは――」
これで1日が終わる。どこか他人事な、いつも通りで、テンプレートの……? なんとなく頭の片隅で嫌な予感がした。
2階から元執行部長のダンテさんが下りてきた。アロウ、つまり自分に話があるという。鋭い眼差しはこちらに歩いてくる間中かたときも外されなかった。殺られると思った。
「1週間後から、お前さんは執行部に移ってもらう」
ほぼ軍人上がりの、要件を先に言う口調で、ざっくりとやられた。
「……え? なぜです」声と顔が揺れていたと思う。
「執行部の新人が軒並み辞めてな。人手が足りんのだ」
しかも選択権がない。黒いムキムキは勝手に話を進める。
「悪いが、急を要する。最初は慣れないとは思うが、給与は変わらん。新人が来るまでの辛抱だ」
頼んだぞ、と、おれの手の2倍くらい重いそれで、肩を叩かれた。死んだ。
それからどうやって帰ったか覚えていない。変な汗が止まらなかった。
*
翌日、仕事帰りに資料室に寄った。
「やあ、今日は休みかい」
30㎡(平方メートル)ほどの落ち着いた空間。沈みかけた太陽を背景に、カインは文庫本を読んでいた。
「ああ、お疲れ様」
カインは顔をあげる。彼は銀のメガネの中で爽やかに微笑していた。本をポンと閉じて立ち上がるとともに、どちらかともなく軽いハグを交わしてから、アロウは「何を読んでいたんだ?」と言った。
「『車輪の下』さ。ヘルマン・ヘッセのね」
「お前さんは東洋思想に興味が?」二の腕を掴み合ったまま、二人は白い歯を見せている。
「作詞に興味が」カインはにやり、と片眉をあげて覗き込んで来た。
「平和主義って言っとけよ! そこは!」
「バカ言え。実はハイルナーみたいに、こうして、文学的青春を……」
カインは続けて手持ちの小説の、或る一節を空で読みながら距離を縮めて来る。
「『ゆっくりと * は腕を伸ばして * の肩をつかまえ、互いの顔がすぐ目の前にくるほど、自分のほうへ引きよせた。それから、急に * は、相手の唇が自分の口にふれるのを』……」
「感じない。お前がやるとシャレにならない! てか、そこじゃないだろ、作者の言いたかったことは!」ピシッと手を払いのける。
「君はハンスに似ていない」カインは寂しげな顔になってみた。
「お前はハイルナーそっくりだよッ」
「ところで、何かあったのか? 昨日とか」
夕方の、窓の向こう、2頭の翼竜が遠くで縺れながら鳴いている。カインは俯いたまま、背表紙に影を作っている。銀のメガネを人差し指で正しながら、独り言のように沈黙があった。
「……異動になったんだ」アロウは見るともなしに上を見た。「もう一緒に仕事は出来ない」
「……執行部の人間が、不定期に失踪しているらしいね」
「ああ、新人も怖がってさっさと辞めてる――逃げてるんだ」アロウは窓際に寄りかかっていたのをやめた。両手を広げながら、奥の本棚の方に歩いていった。そして吐き捨てるように続ける。「上の奴らが――ダンテが行きゃァいいのに、『鬼のダンテ』がさっ」
やがて振り向いた彼は何か堰を切ったように、誰かに向かってまくしたてた。
どうしておれがこんな目に? 仕事で大きなミスをしでかした事もなければ人間関係が気まずくなった訳でもない、しかもだいたいよりによって『鬼のダンテ』を寄越しやがるとは、糞、卑怯な! 人事部が。恨んでやる。ああ~ッ嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。全ッ然納得出来ない。たった2年……? 肩を叩かれるのが早すぎる!
おれは頭を抱えたり両手を振り下ろしたりして、こういう困惑とか怒りをぶちまけるのを、しばらくの間繰り返した。……
非生産的な八つ当たりの後の、乾いた静寂。おれは荒い息を整えつつ、黒いチュニックで勢いよく顔を拭った。
そこでふと何か奇妙な感覚になった。感情に任せて引き倒した本棚で見えなかった所の壁、人の頭くらいに広がった赤黒いシミを見つけた。
「……?」
木目に染み込んで乾いたのか、ほとんど黒くなっているが、床にずり落ちたように下に向かって伸びている。無意識に、だが注意深く手を伸ばした。その時
コトッ
左から振り向いた。音が聞こえた気がする。本棚と本棚の間、丁度今陰になっているあたりから。
「アロウどうした?」後ろの方でカインが何か言っている。おれはチュニックの裏、ポケットから急いで杖が入った箱を取り出して構えた。「そこに何かいる!」と叫ぶ。小さく息を吸った。あんなシミで事件性を疑うのは少し神経質かも知れない。本棚の陰にゆっくりと近づいていく。だが、こういう時の勘はよく当たる。杖を握り直す。震えていた。いちいち軋む床が煩わしい。そして、ついに左下、突き当りの陰を覗き込む瞬間、
左脇腹の後ろに、いきなり何かを突き付けられた。とっさに体を捻って右に跳んだ。呼吸、ゴヒュ、吐いて吸うのが一度に行われて背中を本棚にしたたか打った。目の前には髪の長い白い女がこちらに笑って手を伸ばしていた。もうダメだ――沢山の本たちが嫌にスロウに力無く落ちていった。
女は、人差し指をこちらに向けて小さく笑っていた。
――ああ、おれが異動になったら、ましてやここで死んだら、何より我が愛しのマオを拝む事が出来なくなってしまうではないか。
「エへへ、驚いた?」
……は?
どうやら騙されたらしかった。呼吸を整える。おれとした事が、脇腹を突っつかれただけだった。しかもこの痴態を、当のマオに見られるとはッ! もう死にたい……。
顔を上げる。ゆるいウエーブのかかった黒髪が柔らかく揺れている。透き通るような白い腕。人形顔負けに整った顔を俯かせ、口元を隠して淑やかに笑っていた。まつげ長ッ。
「え~え、さぞオモシロイ吹っ飛び方をかましやがったでしょうねおれは!」
向こうでカインが苦笑いだった。後ほどキッチリと黙らせて置かねばなるまい。
「ごめんなさい、でも、面白かったよ」
バチッと開かれた必要以上にデカイ瞳に背中の痛みも吹っ飛んで、おれは簡単に許してしまった。単細胞もいいところである。
「ったく……。とにかく、手伝ってくれよ? 本拾うの」
人生最大の嘘だった。しかし、愛しい人に、それ以上何かを言うのは、おれには出来なかった。もちろん、今までありがとうとか、好きになってごめんなさいとか、それじゃあ行ってきますとか伝える事なんて、……出来るわけなかった。
*
今日は休みだったはずだ。
ジリリリリリリリとけたたましく鳴る目覚ましを叩くように止める。酒に酔ったようにむにゃむにゃとぐちをこぼす。あくびをしながら時計を見る。7時5分だった。がっくりと俯いた後、もぞもぞとベッドから這い出た。
マヨネーズを塗って焼いたパンをほぼ噛まずに飲み込む。バナナを食べる。ミルクを飲む。バナナを食べる。皮を後ろに投げた。山なりに飛んでゴミ箱に丁度――入らなかった。ペチョ。今日のおれは全然シャープじゃなかった。いつもの事だが。舌打ちをして立ち上がる。
異動に向けた準備期間としての五日間の休養。しかし、なぜ今、おれはこうしていつものルーチンで出勤の仕度をしているのか。皮を確実に捨てながら壁のカレンダーを見やった。
「休み 鬼のダンテと魔法講習 8時~」と書いてある。アロウは口を歪ませて横に首を振った。
クローゼットを開いた。中は全部、黒のチュニックだった。そのうちの一つを取った。
玄関横の、杖が収められた箱を執る。アロウはふと、その長細い箱を眺めてみた。もう2年間開けていない段ボール素材の箱は、角が丸く潰れている。
Dear Arrowという金文字が消えそうなくらい細く、隅に刻まれている。そこを親指でさすった。
黒塗りの蓋をゆっくり開けてみた。そこには、螺旋状に捻れながら細くなっている木の杖が婚約指輪のようにぴったりと収められていた。20㎝ほどの長さだろうか、指の形に窪んだ柄よりも下には、細い穴が――わりとしっかりとした紐が、キーホルダーさながらに伸びている。
これを丁寧に閉めた後も、アロウの瞳の中にはしばらく仄かな光が残っていた。
ドアに手を掛けたところで、おれは振り返った。
「行ってきます」
案外、まんざらでもないかもしれない。
やっぱり帰りたい。
「あの……、ダンテさん……よろしいですか?」
アロウは泣きそうな声で問いかけた。
「何だ」ダンテは腕時計を気にしている。
「講習って、おれひとりですか」
「そうだ。もうすぐ8時だ、始めるぞ」
大空に向かってマジですかーッ! と叫びたかったが、『鬼のダンテ』の手前、やめておこうという結論に至った。代わりにがっくりと俯いて「かしこまりました」と返事をした。一面の芝生がそよそよと風になびいている。
「ま、そう落ち込むな。お互い休みで、どうせ給料も出ない。気楽にやるか」
え? 給料が出ない? 聞いてないぞ。
「え? ……給料が出ないって……」もはや返ってくる答えはわかってはいたが、聞き間違いの可能性もある。恐る恐るもう一度聞き返す。
「今回の演習は自由参加、休みの扱いだ。ふ、お前がどれだけ魔法を使えるのか調べるためだけに、会社が金を払うわけがない」何を当たり前の事を、と言わんばかりにケンカ腰で諭された。おれは絵に描いたように晴れた空を見上げた。翼竜が2頭旋回していた。
「マジですかあア亜あああァーーッ!」
帰りは何時になりますか?
元執行部長、通称『鬼のダンテ』と呼ばれるムキムキテカテカの現役タンクトップおじさんと個人レッスン! 入会金・年会費・治療費はゼロ!
「さて。午前8時だ。とにかく、杖を出せ。魔法を使ってみろ。俺を、倒してみろ」
そう言うと、ダンテは準備運動をするようにしゃがみ込んだ。この広いアイドラ牧場には、他に障害物は無い。確かに魔法を試すにはおあつらえ向きの場所だ。しかし、ヒトとヒトが争う文化などギルドにはありはしない。手が震えていた。
最後に杖を使ったのは2年前。卒業前の試験で、ビーカーに入れた500㎜ℓの水を沸騰させた時以来だ。アロウはそれを思い出した。ダンテに杖を向ける。どうなっても知らないぞっ。
戦闘開始!
「『ブレンネン!(燃えろ)』」
ダンテのスキンヘッドの頭が急に炎上した。しかしダンテはぐらつきもしない。掛け声は所詮、記号でしかないか。
「『シュテルケン(固めろ)』」
頭の火が消火された。さらに「ハイレン(直せ)」というと焼けただれた頭皮がきれいに元通りになった。杖など使っていない所を見ると、ダンテがこの系統の魔法を得意としているのがわかる。鋼色に硬質化した目と目が合った。一瞬、頭の後ろに寒気を覚える。次に仕掛けてきたのはダンテだった。
「『シュトース(向かえ)』」
ぐぐ、と少し屈んだかと思った矢先、10mほどあったダンテとの距離が一気に無くなった。無意識に危険を感じて上体を曲げる。だが、間もなく左脇腹に激痛が走った。
「ううげえっ」
肺の中の空気が全て押し出された。ハンマーで殴られた痛みと重み。そのまま2m近く吹き飛んでごろごろ転がる。
あばら骨がきしむ。腹を押さえる。間違いなく、拳を「シュテルケン」で固めてあった。取りあえず息を……。
「ぜひゅーっ!」出来なかった。あばら骨の痛みが増してゲホゲホとむせてしまう。しかし逃げなくては。何も打つ手が無いが、とにかく時間を稼がなくては。
そう思ったが早いか、遥か遠く、黄色の小屋――運鳥の小屋が目に留まった。杖を振るって「シュトース」と唱える。青い光がピシィ! と飛んでいく。
その瞬間、おれの体重が無くなった、いや、浮いたのだ。そしてそのまま胸倉を掴まれたように、遠くにある小屋に引き寄せられる。物凄いスピードである。
……ああ、そういえばこのバランスの取り方は学校で習ったな。
人間の重心は腰にある為、少し工夫をしないと膝ないし股間から激突する(ここ笑う所)。ゆえに、腹筋に力を入れて馬に乗るように飛ぶか、鳥になったようにうつ伏せになる必要がある。特に男子。
「うげげっ」
小屋の手前で思いっ切りみっともなく不時着してしまった。肘や頬が擦り切れるが、構わず地を這う。とにかく考える時間を……。
どぼっ。
また左脇腹を、蹴り上げられた。鈍痛。迷彩柄――鉄色の脚が目に入る。
「~~~~~~~~~~っ!」何を叫んでいるのか、何が出ているのかもはや自分でも分からない。
そのまま飼料小屋の壁を打ち破った。背骨に痛みが走る。瓦礫と藁が雨のように降ってきた。もうすでに体が動かなくなっていた。
「どうした? お前が使える魔法は『ブレンネン』と『シュトース』だけか」
満身創痍のアロウは……壁を踏み越えて来る鋼の鬼――ダンテを、見るともなしに見ていた。
「その程度では、あの上空で旋回しているカスみたいな翼竜すら、狩ることは出来んな」
アロウは虚ろな目で空を見上げた。
翼竜か……。少しだけ、あの生き物のように、自由になりたかった。この、何の意味もない、ただ繰り返すだけの生活から、ほんの少しの間、解放されたかった。
気が付いたら、震える杖を伸ばして、「シュトース」と唱えていた。体が空に溶けた気がした。
人生で最高の気分だった。こんなに空が広かったとは。隣にはカラフルな翼を持った竜が驚いた顔をしている。それがなんだか教科書にあったプテラノドンみたいに滑稽で、笑ってしまった。
ああ! おれは飛んでいる! 鳥になったように!
「あっはっはっはっは! あ~~~~~~っ!」
遠くの山に叫んだ。つい先ほどまで辛い思いをしていたことなど、もう何処かへ行ってしまった。標高200mほどだろうか……? いや、考えるのはよそう。地上が、かざした手のひらよりも小さいのだ。指の隙間から風を感じる。黒いチュニックが、羽のようにはためいている。杖をちょいと、上にいる翼竜たちの方へ向けて、「シュトース」を放った。体が舞い上がる。
「フォーウッ! はっはっはっはは!」
再び彼らに並んだ。色とりどりの翼竜たちは目を剥いている。ぼろぼろのアロウは少年のように歯を見せて笑っていた。両手を広げて、右に行ったり、左に行ったり……しばらくは自由という開放感に溶け込んでいた。
だが、ダンテも自分に向けて「シュトース」を使ってくることを予期していた。こういう時の勘はよく当たる。そうした場合……? アロウは心の隅になんとなくの閃きを感じた。地上に目を落としてみる。相手は百戦錬磨の格上。良くて道連れになる可能性の方が高かった。
地上。天を仰ぐ鬼のダンテは、硬質化した拳を割れんばかりに握りしめる。そして呟くように。
「逃げられると思うなよ、小僧。……シュトース」ダンテの体が浮いた。
「『ヴェーエン!(吹き飛ばせ)』」
気付かぬふりをしていたアロウは急に振りかぶって呪文を唱えた。赤い光がダンテを捉える。てっきりN系呪文を使ってくると読んで全身を「シュテルケン」で鋼にしていたダンテは面食らった。「ヴェーエン」と「シュトース」は反対呪文である。相殺され放り出されたダンテの拳は紙一重で空を切る。そこへ再び……!
「ヴェーエン!」赤い閃光がダンテを地上へ吹き飛ばす。低い呻きと共に急降下していく。だが、ここで相手にもこちらの考えが読まれた。
「プラル(来い)」
「ぐえっ」胸倉を掴まれる感覚。これで重力に魔法が加わるスピードで落下する。正直これは食らいたくなかった。しかしお互いにはもう片時片時も唱えぬことは出来ない。
二人は速まっていく自由落下の中、ほとんど意地だけで叫びあう。
「シュトース! シュトース! シュトース! うおおおお……!」
「ヴェーエン! ヴェーエン! ヴェーエン! あああああ……!」
赤と青の閃光がぶつかり合い、弾けて消えて、またぶつかる。それは戯れる翼竜のごとく。地面が迫る。このまま着地すれば、いくら骨まで鋼にしたところでとても生きている高さではない。しかし紫の火花は未だ繰り広げられている。
「わかった、俺の……負けだ。参った」
やがてダンテは呪文を唱えることを諦めたように辞めて、体をぐったりと投げ出した。
だがもう遅すぎた。地面が迫る……!
視界が暗くなり、どん、という音と共に何も聞こえなくなった。
*
「それは大変だったね」カインは遠慮がちに労った。
午後16時ごろ。資料室に来ていた。アロウは日暮れの窓を背景に、両手を影絵のように広げて見せる。
「ああ、『それだけの魔法と度胸があれば、異動先でも上手くやっていけるだろう』、だとさ。」声色をあえて似せないあたり、我ながら嫌味たっぷりである。上手いこと負けりゃ良かったよ、などという皮肉も付け加える。
あの時、ダンテは自らの負けを認め、死を覚悟した。しかし、アロウは諦めていなかった。いや、助かったと思った。
「『プラル(来い)』」報いるべきアロウは、1度死んだダンテに向かって急ブレーキをかけるように呼び寄せた。間一髪、スキンヘッドの頭は芝生に影を作るのみ、抱き寄せてから上に突き飛ばす。「シュトース!(向かえ)」助かるべきアロウは天を仰ぐように。だが……。
地面に後頭部を打った。どん。ついでに上からダンテがずしり、とのしかかって来た。誰得だよ。
「ったく、感謝して欲しいね。」
「ふふ、君が利用した翼竜、あれは旗の竜と書いて『旗竜』と言うんだ。災厄、アンラッキーの前ぶれ」
「何ッ。と言うことはありゃ、ダンテにとっての旗竜だったってのか」
窓から身を乗り出した。空の向こうには2頭の小さい翼竜が飛んでいた。
「字の通り、国旗に使われているから全く悪いヤツらではないんだけどね」
アロウは頭の包帯を触るともなくいじりながら、また続けて親友の過去を何の気なしにいじり出した。
「そういや、カインはもう魔法は使ってないんだっけ」
ここでカインはああと言ったきり俯いて、唖のごとく黙ってしまった。彼は、高校卒業と同時に自らの杖を2つに折った。首席で卒業したにも関わらずに。
彼は人差し指で銀のメガネを正しながら、呟くようにこう切り出した。
「君はこの世界に魔法が必要だと思うかい?」
「ああ、思うね。無から有を生み出す魔法が存在しなかったら、誰も宇宙の誕生――ビッグバンを説明出来ない。それに……翼のない人間が、鳥のように空を飛ぶことも出来ない」両手を広げて見せる。
「そうか……君はまるでテンプレの『Magicist』だな」彼は俯いた。
「そういうお前は生粋のリアリストだよ。皆、魔法を必要だと思ってるし、欠かせないとも思ってるだろう」彼の気持ちは悪いが理解出来ない。
「魔法の存在が――概念が、今日の科学技術を『銃火器が作れるレベル』に留めているんだっ」愛すべき彼は、途中、顔を上げて再び食い下がる。
「魔法で産み出されたドラゴンたち外来種が、この世界の生態系を根本から覆してもいる! 僕にはそれが許せない!」
「弱肉強食だろ? 自然発生説、だったか」
「アリストテレスはもう古いッ!」
珍しく熱くなったカインは、それこそ凄まじい剣幕で言い放ったが、やがて落ち着きを取り戻すと共に、いつもの、どこか憂いを帯びた厭世的な表情になった。
「こいつを貰ってくれないか。何の卵かは僕にもわからないんだけど」
そう言ってカインがチュニックから取り出したのは大ぶりの卵だった。曰く、絶滅した『ダチョウ』のそれと、形も大きさもそっくりなのだという。
「アロウ、君とはまた、こうして争うことになる」
「ああ、こういう有意義なやりとりなら大歓迎だね」
「そうじゃないんだ……、いや、そうだな。ごめんアロウ」
夕暮れの似合う彼は笑った。整った顔に寂しそうな影を作りながら。……
*
その日彼女に会ったのは、異動前最後の休み、午前11時ごろだった。
ギルド本部1階の、集会所及び運鳥牧場へのエントランス下見。ちょっとした広場、カウンター、掲示板、ギルドマート、そして牧場へと続く明るいエントランス……。それら全ての施設に、はっきり言って雑多なくらい人が集まる。カウンターから見えていた光景と何ら変わりはないが、視点が違うのか、それぞれに初々しいヴェールがかかっている。
向こうの食堂で打ち上げらしき宴会が催されていた。すっかり出来上がった顔の彼らは、互いに生きている喜びを分かち合うように、また盃をかち合わせていた。おれはまだそれを明日の自分と実感出来ずに、透明の壁を隔てて見ていたのである。あ~あ、センチメンタル……。おれは肩をすくめた。
ふと視界の端に彼女を捉えた。くすんだ作業服に白珠のごとき肌を隠して、フローリング床にこぼれたビールをこそこそと掃いていた。
そういえば彼女は――マオには父親がいないらしかった。
腰をくの字に屈めた姿はまるで老婆だ。とても同じ学校を卒業したとは思えない。
しかしなぜだ? アロウの心には、これっぽっちも「カワイソウ」とか「ミジメ」とかいう感情は湧いて来なかった。むしろ神々しいまでの……?
その時三角巾を巻いたマオは静かにこちらをふり向いた。
「くは」
思わず息を呑んだ。その美しさたるや、いつか見たヨハネス・フェルメール作「真珠の耳飾りの少女」にそっくり重なった! その感動は、もはやアロウに告白を決心させるには十分過ぎたのである。
「ああ……えと……。今日何時上がり?」
「ん、4時」
「ああそうか、……気が合うな、おれもだ。4時上がり」
彼女は忙しそうだ。
「本当ね。今は休憩中?」
「そう、休憩中。それで……」
向こうの方でガラスが割れる音とどよめきが聞こえた。それから笑い声。マオは後ろを気にし出した。こんな時に!
「もう戻らなきゃ。仕事中だもの」
「待って。その……一緒に帰らないか?」
「旗竜。翼竜種。活動範囲の広い小型の翼竜。色彩豊かな翼は、ギルドを初めとする国旗に使用されている。魔物言葉は《災厄》《前ぶれ》」
午後16時ごろ。資料室。夕暮れの暖かな光が2人と1冊の本を照らしている。いくつかページをめくる音がする。
「雷爪竜。爪竜種。盆地に生息する、雷を纏う大型の竜。黒い甲殻が太陽光を集め電気エネルギーに変換する。魔物言葉は《全力》《突撃》」
椅子に座って本を読むおれ。床にぺたんと座っているマオ。再びいくつかのページを送る。
「『幻龍』。幻龍種。伝説の中でのみ登場する白龍。見たことがあるものに姿を変えて身を守るという。ドッペルゲンガーの発祥とも。魔物言葉は《嘘》《理想》」
太ももに、マオの頭がこてん、と預けられている。カールがかかったブラウンの毛が――世界一幸せな空間が広がっている。次のページに進む。
「『黒焉龍』。幻龍種。伝説の中でのみ存在する黒龍。宇宙より降臨し国を亡ぼすという。魔法を禁じる眼を持つとも。魔物言葉は《真実》《現実》」
ホワイトピーチの甘く強い香りがする。このふわふわの髪の毛からだ。マオは香水を何度も付けるくせがあった。まるで何かを隠すように。しかしそれが逆に愛おしい……。きっとおれはこの先、この子に何をされても赦してしまうだろう。それほどに心を許している。愛してしまっているのだ。この時間が永遠に続けばいいのに。
そっと、小さな頭に触れてみた。ぴくりと反応したきり、何も言って来ない。もしかして、寝ている? そう思ったら、ヘタに手を離すわけにはいかなくなってきた。心臓が爆発しそうなくらい脈打っているのが自分でも分かる。急に顔が熱くなってきた。髪に触れている手のひらもものすごく熱い。起きているのか分からない上に身動きできないこの状況……、いや、これは逆にチャンスだ。数時間前、自分で決心したはずではないか。小学校の頃離婚した父親の代わり、とまではいかないまでも、金銭的に支援出来ればボロに身を包むこともない、と。何より……、君とずっと一緒にいたい、と。
「マオちゃん……、好きだ。大好きだ」
人生最大の真実だった。
彼女はやはり眠っていた。それが良かったのか、悪かったのかは分からない。ただ、ありったけの思いを乗せて言った後、しばらくは自然にとめどなく涙が流れた。初恋のひと――もう会えないひと、さようなら。
*
今まで鼻白んで送り出していた連中の1人におれがなるとは。
「簡単な講習を始める。準備はいいか」
「はい……」
午前8時ごろ。運鳥牧場への吹き抜け構造になっているギルド1階のメインエントランス。
ちょっとした広場、カウンター、掲示板、ギルドマート……。それぞれの施設に、『カタナブレイド』や『アインハンダー』などを担いだハンターたちが、いたるところで挨拶や相談をしている。この光景にはほとほとうんざりしているのである。アロウは眉を上げながら口を歪ませる、お得意の「勘弁してくれ」という顔をした。
「まずは得物を選べ。ギルドが装備の貸与も行っていることは、お前も十分理解しているだろう」
そういうダンテはすでに、スキンヘッドより下を鎧で武装している。魔法で戦えば良いのにと思ったが口には出さなかった。無益な取っ組み合いは……?
ズズン……。
上の階、資料室のあたりから大きな揺れが起こった。周りがざわめく。資料室のあたりから? 昨日、眠ってしまったマオを丁度ソファに寝かせておいたのだ。まさか……? 全身に寒気を感じた。こういう時の勘はよく当たる。考えるより先に走っていた。
我先に外へ避難しようとする雑多な制服たち。各部屋から洪水の川のように合わさっていく。悲鳴を上げて逃げ惑う人間の流れに逆らい、掻き分けながら進む。ギルドにはこんなに人間がいたのかよ、と新しい皮肉を思いついたが、それどころではない。しかし、力いっぱい込めてもなかなか前に行かない。臆病な周りに対する怒りともどかしさで何か叫びそうだった。
その時、頭上を鎧が――迷彩柄の、最も勇敢なダンテが通り過ぎていった。魔法で移動している。その手があった。皮肉られるべきは自分だったではないか。直ぐにアロウは杖を取り出す。
「~~~~~~~~~~シュトースッ!」
資料室は壊滅していた。本棚はなぎ倒され、あらゆる本は破られ、灰のように紙が散っていた。そこにうずくまる、ひとつの人影を捉えた。
「マオちゃん!」
彼女は壁を背にしたまま息をつめらせて泣いていた。アロウは一歩部屋の中へ足を踏み入れると、即座にそれを後悔した。重々しいまでの威光を肌で感じる。アロウは目を剥いた。
資料室にいたのは、雷爪竜――デルトリウスだった。「恐竜」に似た大きい顎、稲妻を纏う発達した両腕、黒い鱗。鋭利な爪。狭そうにあたりの本棚を押し退けている。確かに盆地に生息している情報はあるが、山に囲まれたギルドで大型竜が確認されたことは一度もない。さらに不思議なことに、視界の端、部屋の窓――ガラスが一つも割れていないことを確認した。ならどうやってここに?
デルトリウスは視界にマオを捉え、動きを止めた。静寂。目の前のモノがエサであるかどうかの品定めが始まったのだ。マオのすすり泣く声だけが、白昼の中に微かに響く。
やがてマオがアロウに気が付いた。泣き濡れた彼女は弱々しく助けを求める。
「アロウ?」
それが決定的な契機となり、デルトリウスは咆哮した。
まるで衝撃波のようなそれは、一瞬で全ての窓ガラスを割った。アロウは左耳の中で何かが破れる音がした。痛みに勝る恐怖。体が動かない!
「~~~~~~~~~~ッ!」
雷爪竜はさらに、マオに向かって剛腕を振りかぶる。そこに全身を鉄にしたダンテが体当たりした。しかし、制服のエプロンごと、胸を裂かれる。
「ヤア~~~ッ!」
鮮血。マオは噴き出すように声を上げた。
「何やってる! お前も戦え!」ダンテは振り向きざま、声を張り上げる。
そこでやっと我に返った。おれは何をしている? 目の前で守るべき彼女が竜に襲われ、助けを求めているではないか。動け! 動けおれの足!
しかし、再びアロウの頭は真っ白になった。
デルトリウスが掌に光球を作り、突き立てるようにダンテを串刺しにしたのだ。
「ぐあがががががあッ!」
感電、長い痙攣。「体を骨まで鉄に変える」シュテルケンが仇となった。雷を誘い、いつまでも地面に流れない。続けざまにもう片方の剛撃を受け、壁にしたたか打ちつけられた。そして鉄になったまま砕けた。
それを見たアロウの顔は元がわからないくらい、ぐちゃぐちゃになっていた。
無理だ! あんなの! 勝てるわけない! ありえない……!
執行部の精鋭、鬼のダンテが殺された事実が、アロウの勇気を簡単に吹き消した。
雷爪竜は発達した両腕で突っ立ちながら、アロウを見下している。再び品定めが始まった。
そして、信頼するべき、だが今は危険すぎる聞き慣れた声が、余裕たっぷりに耳に入ってきた。
「『努力スレバ報ワレル』って、本当かな? アロウ」
紛れもないカインのそれだった。アロウは目を剥いた。バカな? なぜこんな所に?
いや、もう既に大体の事情は飲み込めている。しかし、体だけが認めていないのだ。目を見開いたり、魚のように口を開けたりして、目の前の現実から逃げようとしているのだ。
「僕は1番の成績で魔法学校を卒業した。君は2番だ。しかし同じギルド内でのこの待遇の違い……、何とも思わないか?」
アロウがいつもやって見せるように、両手を広げながら、こちらに近づいてきた。
「ここは――ギルドは典型的な資本主義のクニだよ、アロウ。くそったれだ。ハンターは使い捨て。高騰するだけのギルドマートの物価。そういう奴らが魔法のように民主主義を唱える。はっきり言って、むかつくんだよ……虫酸が走ると言ってもいい」
温厚な彼が汚らしい言葉遣いをすることに驚きを隠せない。カインは銀のメガネをかけ直し、笑みを浮かべながら、声を落とした。
「このままだと……『車輪の下に圧しつぶされてしまうよ』?」
アロウは暗い絶望の中に激しい劣等感を感じた。同時に、1つの禁忌魔法が、心の底に溜まった憤りにぷかりと浮かんできた。
「自分がしたことの意味を、分かってるのか」
「自己顕示しようなどとは思っちゃいないさ。『世のためだから』なァんて正当化も必要ない。ただぼくはここが――」
カインは邪悪な微笑みに顔を歪ませる。
「親友を貶めるギルドが憎い」
ふと心の中で、彼は、理想という名の魔法で戦っている、と感じた。
デルトリウスの咆哮、突進。数10㎏(キログラム)あるであろう本棚を軽々と張り倒しながら。
アロウは素早く杖を構え、勇敢に呪文を唱えた。
「ヴェーエン!」
杖から放たれた赤い光は、デルトリウスの顎に的確にヒットし、首を逆方向に折った。ごきり、と鈍い音がする。そのまま吹き飛ばす。3m程ある高さの本棚を次々と打ち倒し、半開きの口をがっくりと垂れる。
はずだった。瓦礫にめり込んでいたのはおれだった。なぜ? 腕と腹を深く切り裂かれていた。
「ぐああゲボッ? ? ?」
激痛。いや、驚くほど冷静に、頭では「致命傷だ」という認識がある。ただ、靭帯がえぐられたことで、力が全く入らないことに空恐ろしさを感じる。
「『シュトース』さ。きみが話して聞かせたとおりの方法だね?」
相殺したというのか。2日前の話から、おれがシュトースを使うことを読んで? 狂気の親友は寂しげに微笑んでいる。やはりこいつ天才か。
ふと、壁の赤黒いシミに気が付いた。それはちょうど今の自分と同じくらいの高さに広がった跡。これはまさか、血痕?
……執行部の人間が、不定期に失踪しているらしいね。
未曾有の悪寒が全身を包んだ。およそ半年に渡る、執行部の失踪。クエスト生還者が消えていることから、自主的に退いていると考えられていたが、事件は、最も身近な場所で繰り返し起きていたのだ。なぜもっと気にして見なかったのだ!
「言っただろう? アロウ、君とはまた、こうして争うことになると」
「最初からこれを狙っていたのか。繰り返していたのか」
「そうとも。……アロウ、君やギルドが資本主義だとするならば、ぼくは共産主義だ。どちらが将来、社会として成功するか――生き残るべきか、賢い君ならもうわかるだろう?」
まるで自己正当化された悪に、頭から怒りが噴き出そうになる。
しかし突然、雷爪竜が割って入り、カインもろとも俺を串刺しにしようと振りかぶるのを見た。おれは忘れていた死の恐怖に身が竦む。
それを打開したのは、呼び出した張本人であるカインだった。彼は振り向きもせず「シュトース」を放った。デルトリウスの顎に的確にヒットし、首を逆方向に折った。ごきり、と鈍い音がする。そのまま吹き飛ばす。3m程ある高さの本棚を次々と打ち倒し、半開きの口をがっくりと垂れる。
……ああそう、おれたちは永い間、こうして何度も争いを繰り返していたのかもしれないな。何の意味もない、ただ繰り返すだけの人生。
「昨日……いや、一昨日だったかな? カイン、お前はおれの事をテンプレのマジッキストだと言ったろ」
端正な彼の顔がぴたりと止まる。上から見下げる冷ややかな目。今まで一度たりともこんな表情は見たことがなかった。胸の奥がきつく締められる感覚が襲う。
「その時おれは、魔法が無かったらビッグバンも有り得ないと言った」
アロウは立ち上がろうとするが、傷だらけで何度も崩れ落ちそうになる。生まれたての小鹿のような姿だが、眼差しだけはしっかりと見合わせている。
「もう無駄な抵抗はよせ。結果なんて最初からわかってるだろ。『バオム(木よ)』『シュトース(向かえ)』」
どす。本棚の一部だった鋭利な木片がアロウの心臓を貫いた。
「ぐああ……」確実な死の痛みと喪失感。結果はわかっている。おれは死ぬ……しかし最後にやることがある。霞む視界の中、雷爪竜に向け最後の――禁忌の呪文を唱えた。
「『ウーア・クナル(ビッグバン)』」
ばちり。突然発生した爆発は、デルトリウスの変換殻に帯電した夥しいエネルギーと融合し膨張する。
ほぼ閉鎖された空間に収まりきらない莫大なエネルギーは、一瞬凝縮したかと思えるほどである。
「カイン、生まれ変わったらお前とは……、ずっと友達がいいな」
爆発。それはギルド、牧場に留まらず、地球や銀河系を1個の点に集め、そして墓標に似た光とともに霧散した。