罪もない一般人をおぞましい怪人へと改造する悪の秘密結社と、右腕をカニにされた時点で麻酔が切れた一般男性
……暗い。身体が動かない。
なんだこれは、俺は……そうだ、バスに乗ってたはずだ。営業先から家に帰る途中だったんだ。スーパーでサバの押し寿司を……娘の、マナミの好物を買って、バスに乗って、それから、どうしたんだっけ……。
たしか、大きな音が鳴って、バスがすげー揺れて……熱くて、暗くて……。
「――心拍数正常、オーガナイザー細胞定着確認」
声、声だ。誰かいるのか。かろうじて目を開けると、視界にいっぱいに光が広がった。
天井の馬鹿でかい照明、鉄の匂い、血の臭い……規則的になる電子音……そして俺の両脇には白衣を着たマスクの男が二人。
なんだ、ここは、手術室……?
なんで俺が手術室にいるんだ?
「ジーンハーモニクス異常値、被検体から拒絶反応あり」
「投薬量を1.5から2へ」
「ダメです拒絶反応値下がりません!」
切羽詰まったやり取りが耳朶を打つ。なに、なんだ、何が起こってんだ。
「投薬量3へ。急げ」
「これ以上は被検体が持ちませんよ!」
ちょっと、え、なんだ? 俺そんなやばいのか?
「最悪死んでも構わん。変わりはいくらでもいる!」
おいおいおいおいふざけんな、死ぬのは困る、死ぬのは――「困る! 娘が家でまってるんだから!」
「えっ?」「はっ?」
両脇に立っていた白衣の男たちと同時に目が合った。
彼らは互いに目配せし合い、何か計器のようなものと、俺の顔とを交互に見比べた。
「あの、被検体、覚醒、しました、けど」
「か――覚醒しましたじゃないよ、早く麻酔かけなおせ!」
「や、やっています、が、全く効果がないんです! おそらく新しく定着した怪人細胞の抗体が、麻酔に対応してしまったのでは……なんせ今回使用する細胞が、これまでになく強力ですし……」
「強力たって、どうすんだよお前これ。まだ右腕しか終わってないんだぞ!?」
何か知らんが揉めているようだ。どうやら手術の途中で麻酔が切れたらしい。しかし痛みらしい痛みは全く感じないし、麻酔が切れたのに身体が動かないのもおかしい。
俺はたまらず口を開いた。
「おい、ちょっと待ってくれ。さっきから細胞とか改造とか、何の話だ。俺はなんでここにいるんだ。バス、そうだ、俺はバスに乗ってて……」
「あ、ああ、えっと、そう! そうなんですよ。あなたはバス事故に遭われて……それで、我々の病院に緊急搬送されたんです!」
「そう、なのか……俺のケガはそんなにひどいのか?」
「そりゃあもう! 全部取り替えなきゃいけないってぐらいに――」
男が言いかけた瞬間、手術室のドアが勢いよく開け放たれ、鉄仮面と黒いマントをつけた男が入ってきた。
「おーい新しい怪人の改造手術もうおわった? ワシもう昨日から楽しみで、あんま寝れなかったんじゃけ、ど……あれ?」
……なんだって? 怪人? 改造……手術?
「首領、ちょ、ダメです、終わってないですよ! 手術中のランプ点いてたでしょうが!」
「いや、消えてたから、オッケーかなって思ったんじゃが」
「すいません、あれ昨日から豆球切れてるんです」
「はあ!? 交換しとけって言ったろうが昨日よお!」
「だってドンキ閉まってて」
「おい! さっきから何の話だ。何だよ改造手術って! さてはお前ら医者じゃねえな!」
「医者です医者! れっきとした医者だから安心して眠ってて下さい! このお爺ちゃんはちょっとボケちゃってて、ホラお爺ちゃん基地に戻りますよ!」
「ふざけるな、痛くもない腹を探られてたまるか、俺は出る! 出せ、出しやがれ!」
「わーちょっと暴れないで暴れないで! 拘束具がハマってるんだから、絶対外れないし下手に動くとケガしますから――」
男の言葉を遮って金属が悲鳴を上げ、右腕の拘束具が勢いよく視界を横切った。
「は、外れたー!?」
「クッソ、外れたのは右腕だけか、まあいい、この調子で他の部分も……」
視界の端に映る得体の知れない物体に、俺は絶句した。
キチン質の甲殻に包まれたそれ。
築地とか昔出張で行った道頓堀でよく見るそれ。
その馬鹿でかい異物は俺の意志で動き、俺の意志でハサミを開閉させ、俺の右腕が本来いるはずの位置にいた。バカな、そんなバカなことがあるか。認めたくない、絶対認めたくないが、俺の、俺の――。
――腕がカニ。
「カニー!? おい、カニなんだけど! 俺の腕がカニだ、カニだぞ? えっ、カニだよな? カニであってるよな? ……エビ!?」
「カニです! 落ち着いて、カニであってますから落ち着いて! 自信持って!」
「落ち着いてられっかこれが! カニだぞ、カニ! なんなんだよこれ! 何の種類のカニなんだよ! ワタリ? タラバ? ズワイ!?」
「混乱しすぎです! 種類は別に今は特に関係ないですから! ちなみにタラバです!」
「ふっざっけんな! なんで俺の腕がカニにならなきゃいけねんだよ、どういうことだ説明しろよ!」
「いやこれはその……ギプス、そう! ギプスなんです!」
「カニの形にする必要性まったくないだろうが! つーかギプスなら外せるよな、外せ! 今すぐ外せ!」
「外せないんです、一生外せないタイプのギプスなんです!」
「そんな悪夢みたいな欠陥品あってたまるか! 外さねえなら、俺が力尽くで……」
「あ、あ、暴れないで! 壊れる、あっ、あっ! この設備高いんですから! わかりました、説明します! ちゃんと正直に説明しますから!」
白衣連中のリーダーらしき男から事の顛末を聞く。
要するに、バス事故に遭い気絶していた俺を拉致して、怪人細胞とやらを植え付け悪の怪人にする手術をしていた、ということらしい。
「――で、その手術が終わらないうちに、麻酔が切れてしまったと」
「は、はい……。でもこんなことは我々秘密結社ウロボロスの歴史の中でも初めてで――」
「そんな言い訳なんざどーだっていいんだよ! 俺が問題にしてんのは腕だ! この腕の! カニ! これについてどう落とし前つけるかって言ってんだよ!」
「いや、まあ、それは、何となくごまかして生活していただくしか……」
「お前右手が巨大なカニになってんの何となくごまかして生活してるやつ見たことあんのか? そういうことじゃねえだろうが! 人の身体勝手にいじくった挙げ句失敗してることについて言ってんだよ!」
ふいに鉄仮面の男が肩をふるわせ、くっくと笑い出した。
「なに笑ってんだよ鉄仮面、テメェ」
「フ……フハハハハハ! よくぞ目覚めた【怪人右腕カニ男】よ!」
「今さら『元々こういう怪人が作りたかったんで失敗じゃないです』みたいな空気出してもおせーんだよ! なんだ怪人右腕カニ男って、絶対人気出ねーだろ!」
「えー……じゃあ、逆に聞きますけどお、我々にぃ、一体何しろっていうんですかあ?」
「おまえこの状況で逆ギレできるとかどんな心臓してんだよ。まず腕を戻せ。その上で俺をこんな目に遭わせた慰謝料なり何なり、きっちり払うまで追い込むからな」
白衣に身を包んだ奴らがチラチラ俺を見ながら、何やらこそこそと囁き合った。
「何だよ。聞こえるように言え、聞こえるように」
「いや……その戻すってのが、まず無理なんですよ」
「は? なんでだよ。カニの腕つけたんだから、戻すのもできるだろうが」
「だって……あなたもう麻酔効かないし……元の腕だって……処分しちゃったし……」
「処分? 俺の腕を? 処分しただと!? じゃあどーすんだよこのカニ!」
「替えの、他の腕に変えるとかなら、できます、けど……でも……」
「でもじゃねえよ、どんな腕だってカニよりマシだろうが! 他に何の腕があんだよ、教えろ」
「あ、じゃあこれ、怪人細胞のカタログです」
『サワガニ・アームズ』
淡水河川で大活躍! サイズも小型で子ども怪人向け!
『タカアシガニ・アームズ』
すらっとしたフォルムで女性に大人気! 遠くにいる敵も一網打尽!
『スベスベマンジュウガニ・アームズ』
最強の毒を持つ超攻撃的アームズ! 触れた敵を一瞬で毒に冒すため、前線に出る怪人にオススメ! ※ただし自分自身にも毒は作用するため、定期的に解毒剤(別売)を服用してください。
「カニばっかじゃねーか!」
「ひい! だからそう言おうとしたのに!」
「なんでカニのラインナップだけ豊富なんだこのカタログ、いい加減にしろ!」
「い、いや、でもですね、あなたのそのタラバアームズは我々の最高傑作で、今までで一番強いしかっこいいといっても過言じゃないんですよ、本当に! うらやましいくらいですよ! ね? そうですよね首領様、ねー」「ねー」
「『ねー』をハモらすな気色悪い! カニについての美意識なんか知ったこっちゃねんだよ! 替えの腕もない、元の腕も捨てられた……じゃあどうすりゃいいんだよコレ……娘になんて言えばいいんだよ。私のパパは腕がカニ、って作文に書かれちまうよ……」
「あ、娘さんカワイイですよね。六歳ぐらいですか?」
「そうなんだよ。小学校あがったばっかでさ、毎日パパ、パパ、つって学校であったこと話してくんだよ。妻が早くに死んじまったから、俺がしっかりマナミの面倒を見てやんなきゃ……って、オイ。お前なんで俺の娘のこと知ってんだ」
「いや、財布に写真が」
「勝手に見てんじゃねえよクソカスロリコン野郎があ!」
思い切り腕を振り抜いた瞬間、強烈な衝撃波が発生し、手術室の内壁を抉り飛ばした。
手術室内に悲鳴が満ち、全員が俺から距離を取るように壁に貼りついた。
「おい、なんだよ、この力……」
「だ、だから言ったじゃないですか、その腕は史上最強のカニ細胞を使ったって……」
「最強……ほう? 最強ね。つまり、このカニの腕に敵うやつはお前んとこにゃいないってわけだな?」
「え、そりゃまあ、そうですけど、い、一体何を!?」
「何って決まってんだろ。お前らがこの腕を戻せねえっつーなら、こんなふざけたところに用はねえんだよ!」
カニ腕で力任せに拘束具を引きちぎる。熱さ二センチはあろうかという鉄製の拘束具が、まるでアルミホイルを破るように簡単にバラバラになった。
「ひいいい! け、被検体二十七号が脱走! 脱走だ! 非戦闘員は直ちに退避! 待機怪人は至急本部中央通路に集合、繰り返す、被検体二十七号が――げぇ!」
内線機を力任せに握り潰し、手術室の扉を無理やりぶち破り外に出た。
通路にいた構成員らしき奴らが情けない悲鳴をあげて散り散りに遁走する。
後を追って通路を抜けると、今度はロビーのようなところに出た。
「くそ、出口はどこだ、無駄に広いなここは――うお!?」
どこからともなく飛んできた刃のようなものが、行く手にいくつも突き刺さった。
「貴様が脱走怪人だな」
真後ろから声が聞こえ、俺は反射的に飛び退いた。
いつの間にか、全く気配すら感じさせないうちに、そいつは俺の背後に立っていた。
「ろ、ロキ様、そ、そいつです! そいつが右腕カニ男です!」
物陰に隠れながら白衣の男が叫んだ。
ロキと呼ばれたそいつは、つかつかと俺の前に歩み寄った。
その身体は、光沢のある真っ赤な甲冑でつま先から顔まですっぽりと覆われ、背骨の辺りから無数の刀のようなものが飛び出していた。右腕がカニの俺とは対照的に、随分スタイリッシュな怪人だ。
「あんたも改造された怪人ってやつなのか。その出で立ちじゃあ、さしずめ怪人千手観音男ってところかな」
「ウロボロス四天王【千刃のロキ】だ。被検体二十七号」
「川藤源一だ。そのアホみてえな番号で呼ぶな――アホがっ!」
不意をついてカニ腕を横様に振り抜いた。
だが腕が辿り着くより早くロキは距離を詰めた。
眼前にロキの赤い甲冑が迫る。俺はカニ腕を盾に仰け反った。
鈍い金属音と共に、腕に強烈な痺れが走った。
「いい運動神経だな。しかし、これならどうだ」
前屈みになったロキの背中から、無数の刃が伸び、まるでそれぞれ意志を持つかのように俺に斬りかかった。
「おい、ちょ、なんだそれ、卑怯だぞ俺はカニ腕一本しかねえのに!」
目の前でめまぐるしく閃く白刃の連撃を、カニ腕を振り回しながら凌ぐ。凌ぐ。凌ぐ。
もう少し首を掻ききられそうになりながら、心臓を突き刺されそうになりながら、足首をもがれそうになりながらも――それら全てを紙一重でかわす。見える。
俺は自分自身の能力に驚いた。
カニ細胞が影響してんだか何だか知らないが、デタラメに襲いかかってくる刃の動きが見える、かろうじてだが全て見えるのだ。
「く、こ、この男……」
ロキの声色に焦りの色が混じった。思わず笑みが漏れる。俺の目はもはや完全に刃の動きを捉えていた。白刃が一直線に重なる一瞬、俺はカニバサミを広げ、それらを一気に挟み、そのまま一斉に砕き割った。これで武器はない。勝ちだ、俺の、勝ち――。
「――と、思ったか?」
ロキが不敵に言った次の瞬間、脇腹に激痛が走った。
「ぐ、うおっ!?」
ロキの手首から飛び出した刃が、俺の脇腹を抉っていた。
「私が手に何も持っていないからといって、油断したなゲンイチ。完全に手術を受けていればこのような遅れを取ることもなかったろうに。残念だよ」
俺は慌てて脇腹に手をやった。
安堵の溜息が漏れる……痛みはひどいが傷はそこまで深くない。かすり傷だ。
「おいおいおい、この程度の傷でどんだけ得意げなんだよお前は。こんなもん、傷のウチにもはいらねーぞ」
「それで充分だ。貴様の命は持ってあと二十秒というところだろう」
「……どういうことだよ」
「言ってなかったか。私の刃は全て猛毒の牙だ」
「猛……毒? おいおいおい、猛毒だと……?」
まさか、そんな、てことはつまり――そうか。
「わかったぞ! お前、スベスベマンジュウガニ男だな!」
「なっ――!?」
ロキの赤い甲冑がさらに深紅に染まった。
「何を言っている、私の名はロキだ。ウロボロス四天王【千刃のロキ】だ。さっきからそう言ってるだろう!」
「さっきカタログ見せてもらったから知ってんだよ、やーい! スベスベマンジュウガニ~! スベマン~!」
「やめろ、その名で呼ぶな! あとスベマン言うな!」
「『私の刃は全て猛毒の牙だ』 ぷふーっ! かっけー! スベマン先輩かっけーっス! かっこよすぎて腹痛えー!」
「だ、黙れ! なんと言おうと貴様の命はもはや五秒もない! 念仏でも唱えろ、バカ! バーカ! はい四、三、ほら死ぬ、死ぬぞ! 二……いち……ゼロ! はい死んだ! 死ん……あれっ?」
五秒過ぎても倒れる様子のない俺を見てロキが素っ頓狂な声を上げた。
確かに脇腹は傷の深さの割にズキズキ痛むが、かといって死ぬようなもんじゃない。
「えっ、うそ、やだっ、なんで?」
ロキは何度も自分の刃と俺と見比べ首を傾げた。
「俺だって知らねえけど、とにかく効かないんだろ。さっき麻酔も途中で効かなくなってたしよ。ところでもう隠し球はねえのか? ん? ロキ先輩よ?」
「ひっ、く、来るな!」
「テメェが先に売った喧嘩だろうが、よお!」
正面のロキめがけ渾身のカニストレートをぶっ放す。
防御する間もなくカニ腕はロキの顔面を捉えた。
「きゃああ!」
ロキの深紅の兜が無残に砕け散り、その中から豊かな黒髪が溢れた。割れた兜の中から、綿雪のような白い肌が見え……って、オイ。
「マジか。お前、女かよ!」
「だからなんだ。珍しいか、女が」
「いや……その、すまん」
「私を侮辱しているのか? 私が負けたのは、女だからだと言いたいのか? バカにするな、戦闘において男も女もあるものか!」
「いや……スベスベマンジュウガニ男じゃなくてスベスベマンジュウガニ女だったんだな、って……」
「そこ訂正しなくていいから、そこは一切気にしなくていいところだったから! って、お、おい。どこへ行くんだゲンイチ。私にトドメを刺さないのか。背後から貴様を闇討ちするかもしれんぞ、おい!」
俺はボリボリと頭を掻いた。
「いやなんつーか、俺さ、娘がいるんだよ。六歳の」
「だから、なんだ」
「これから娘が育ってさ、あんたみたいな別嬪になったら、超いやだけど彼氏の一人もできると思うんだよ。んで結婚とかして子どもとか産むと思うんだよ。超やだけどさ。でもさ、何かの事故で顔に傷でも出来た日にゃ、そんなの全部なかったことになっちまうかもしれねえじゃん。嫌じゃん。彼氏連れてくるのも嫌だけど、女の幸せが全部ナシなるほうが、つれーじゃん。俺さ、あんたの顔に傷がないのを見て、ホッとしちゃったんだよね。だから、まあ、なんつーか、そんな感じよ」
自分でもよくわかんなくなったので最後は適当にごまかした。
「――待て、ゲンイチ、待て!」
「なんだよ。まだなんかあんのかよ」
「お前は、その腕で外に出てどうするつもりだ。日本中、いや世界中探してもそれを元に戻せる医者など存在せんぞ」
「えっ、そうなの?」
「バカかお前は。なんとかなると思っていたのか。その腕は遺伝子改造を施された、お前自身の肉体なんだ。くっつけるとか取り外すとか、そういう次元のカニではないんだ。お前はその腕を一生ぶら下げて暮らすつもりか?」
「いや、お前、そんなこと言われても……じゃあ、どうすりゃいいんだよコレ」
「解決方法はただ一つ、ゲンイチ、ウロボロスに入れ」
「俺に、怪人になれってのか」
「そうだ。完全な改造人間になれば、姿をコントロールできる。私のように!」
ロキが指を鳴らすと彼女の甲冑が見る見るうちに崩れ、中から滑らかな裸体が現れた。
「お前は改造手術が不完全だから、カニの腕をコントロールできないでいるんだ。本来であれば私のように……見るな、あんまこの格好を見るな。……いいか、本来なら私のように変身時とそうでないときの……見るな、見るなって! や、ちょっと、見ないでってば!」
顔を真っ赤にしながらロキはまた甲冑を身にまとってしまった。
「ま、まあとにかくそういうことだ。ウロボロスに入れば全て解決する」
「本当なのか? 本当に、人間の姿に戻れるのか?」
「本当じゃとも」
いつの間にか鉄仮面の男がロキの後ろに立ってた。今まで隠れてやがったなコイツ。
「彼女の言うとおり、不要なときは人間の姿を維持することが出来る。でなければ、我々の存在などあっという間に明るみにでてしまうからな。違うか?」
「た、確かにそれは、そうだが」
「ゲンイチ、ウロボロスに入れ。我が組織は貴様を決して悪いようにはしない」
「しかし、俺は家に帰らなきゃいけないんだ。こんなところで怪人ごっこしてる暇はねえよ」
「必要なときは呼び出す。それ以外は家にいてもらって構わん」
「ほ、本当か……?」
「無論だ。さらに休日はカレンダー通り、手取りは最初二十万だが半年ごとに昇給のチャンスがあるし、残業手当と特別戦闘手当がつく。我々に仇なすヒーロー戦隊を倒した場合、さらにインセンティブがつく。ボーナスは三ヶ月分。福利厚生として基地内の食堂とマッサージルームも自由に使える」
「マジかよ……なんでそんなに雇用体制が整ってんのか知らねえけど、普通に魅力的に見えてきた……あ、でも娘は? 戦闘とやらをしてる最中、娘を家に置いとくわけにはいかないぞ。うちにゃ母親はいねえんだ、誰が娘の面倒見るんだよ」
「そういうことなら、私が面倒を見よう」
意外にもロキが名乗り出た。
「いや、お前簡単に言うけど、子育ては結構大変なんだぞ?」
「心配ない。私は保育士の免許を持っている。人間のときに取った」
マジかよ。
「あとは貴様の気持ち次第だ、ゲンイチ。ウロボロスに来い。我々は貴様を歓迎する」
そう言って鉄仮面の男は右手を差しだした。
俺は少し逡巡したが、頭の中では選択肢なんてないことはとっくにわかってた。
「わかった、わかったよ。どうせこの腕じゃ、今の仕事なんて続けらんねえしな」
俺は差し出されたその手を固く握った。
鉄仮面の男が悲鳴をあげて悶絶した。
あごめん、そういや俺の右手カニだったわ。
* * *
「話っ、がっ、ちげーんだけど!」
ヒーローたちの武器から繰り出される光線やらブーメランやらをカニ腕で弾き返しながら俺は肩に挟んだ携帯に怒鳴った。
「ウロボロスに入ったら改造手術してくれるって話だったろうが! なんで右腕だけカニのままでヒーローと戦わなきゃなんねーんだよ!」
『貴様が手術に必要な器具やら何から何まで壊したからに決まっておろう。それらが復旧するまで当分そのままで戦ってもらう。あと復旧費用も貴様の給料から天引きするからな』
「天引きってなんだよ聞いてねえぞ――あ、切りやがったクソ鉄仮面野郎が!」
「追い詰めたぞ怪人右腕カニ男! 今度こそ貴様の最後だ!」
五色揃ったヒーロー戦隊が、それぞれの武器を合体させた、なにやら仰々しい兵器を俺に向けて構える。そこから放たれるこれまた色とりどりの強烈なビーム攻撃――のはずだが、俺のカニ腕はそれすら呆気なく弾いた。
「なに、我々のヒーローキャノンが効かない――ぐわあああ!」
「レッドがやられた! 一旦退くぞ!」
「覚えてろ怪人右腕カニ男、次会ったときが貴様の最後だからな!」
「うるせーバーカ! どうでもいいけど右腕カニ男って呼ぶな! それを定着させるな! ……ったく」
戦隊が散らかした武器の破片やら何やらを掃除していると、今度は携帯に着信があった。出ると、素っ気ない女の声が聞こえた。
『ロキだ。そっちはどうだ』
「ちょうど終わったとこだぜ。娘の様子はどうだ?」
「マナミちゃんなら丁度いま宿題をして――ん? どうしたの? このお電話はねパパからでちゅよ。もうすぐ帰るから、お勉強がんばってね、だって! ――それでこちらに着くのは何時頃になる?」
「お前そのキャラ疲れないのか?」
「黙れ。味噌汁に一服盛るぞ――ん? どしたのかなマナミちゃん、パパとお話したいの? 遊園地? 行きたいって? うんうん、じゃあそう伝えておくからね――マナミちゃんから貴様に伝言だ。富士急ハイランドに行きたいそうだ」
「お前いま完全に自分が行きたいところをねじ込んだろ」
「何のことだ」
「まあいい。世話してもらってるのは感謝してるから、富士急でもディズニーランドでも連れてってやるよ」
「着く前に擬態剤を飲むのを忘れるなよ。その腕、マナミちゃんが見たらびっくりするぞ」
わかってるよ、といって電話を切った。なんかあいつ通い妻みたくなってきたな。
言われたとおりジャケットの内ポケットから擬態剤を一錠取り出しかみ砕く。これで半日は人間の姿でいられるはずだ。怪人として働くことは慣れてきたが、さすがに娘にこの姿を見せる勇気はない。
「さあて、押し寿司でも買って帰っかな」
背筋を伸ばし、家路を急ぐ。
怪人一年目の空は、穏やかな夕暮れに包まれていた。