成りきれるかって?無理でもやり通すしかないんだよ (三男)
「お~、テッペイ。お前さっきの講義ちょっと寝てただろ。三百円でコピーとらせてやるぞ」
「ギャハハ!てめぇの汚い字なんかコピーしてまで見たくねぇよ」
「テッペェ~、妹尾君!今日飲みに行かない?」
「俺らこれから用事あっから、また今度な~」
「え~?!用事って何よ~?」
「え?!え、えぇっと……」
僕が兄ちゃんの体になったときは、一人称も“俺”にして、多分兄ちゃんならこんな感じに返事するだろうなってことを口にする。
明るい性格の兄ちゃんは大学じゃ色んな人と知り合いだ。同期の人は勿論、後輩、先輩、選択してないはずの講義の教授からにだって声をかけられる。どういう経緯で知り合ったんだよって言いたくなるような服装をした人にも、挨拶されたことあった。……あのときは本当に泣きそうになったなぁ。
いっぱい知り合いがいるのは良いことだと思うけど、こうして入れ替わったとき凄く困るんだよね。僕と兄貴にはいい迷惑です。
「昨日こいつがパンクさせた俺のバイクを取りに行くんだよ」
でもこうして困ったときは、必ずムカイ君が助け船を出してくれる。
「じゃあな」と寄ってきた女の人達におざなりに手を振って、ムカイ君は僕の腕を掴むとズンズン歩き出した。ちょっと機嫌が悪そうで、僕は内心びくびくする。な、何か兄ちゃんらしくないこと言っちゃったかな……?
「ムカイ君。僕、何か変なこと言った?」
「は?何で?」
「だって、怒ってるよね?」
「それはその……あの女、これ見よがしに胸元チラつかせてただろ。だからお前が、その……」
「ああ、兄ちゃんとムカイ君を誘惑しようとしてたんだよね。体当たりで凄いよねぇ」
「………はぁ」
よく分からないけど、大きな溜息を吐かれてしまった。でも機嫌治ってくれたみたいで、歩調もゆっくりと僕に合わせてくれた。
そんなこんなで昨日兄ちゃんがパンクさせたっていうムカイ君のバイクを預けたショップに行くと、既に処置は施されていた。
直したっていう店長さんと話を始めたムカイ君を尻目に、僕は他の修理中のバイクを見て回る。
凹みがあったり、塗装が剥げてたり、サイドミラーがなくなってたり……どんな運転して出来たんだろうっていうような酷いものまである。……運転してた人、大丈夫かな。
車の免許は兄貴も兄ちゃんも持ってるし、僕も将来必要になるだろうから取りたいとは思うけど、こういうの見てたら正直、そういう意志は揺らぐ。だって怖いもん。被害者にも加害者にもなりたくない。
「コラ、テッペイ!お前ちゃんとこいつに謝ったのか?」
ぼうっとしてたのと、呼ばれたのが兄ちゃんの名前だった所為で一瞬反応が遅れた。そうだった。今の僕は兄ちゃんなんだっけ。
僕は初めてこの店に来たけど、兄ちゃんもムカイ君と同じ時期に免許取ったし、店長さんとは顔馴染みなのかもしれない。店長さんの表情からもそんな雰囲気が伝わってくる。
「あ、えっと……ご、ごめんなさい」
どもっちゃったけどムカイ君にそう謝罪の言葉を告げたら、何故か店長さんに目を剥かれた。唇に挟んでた煙草がポトリと落ちたその様子からも、かなり驚いているのが窺える。
ちゃ、ちゃんと謝ったのに何で……?
「可愛い面してふてぶてしい態度したあのテッペイが、素直に謝るなんて……」
確かに兄ちゃんなら「悪ィ、悪ィ」なんて、全然反省した様子も見せないで謝罪するかも……。
どうしよう、どうしよう、とムカイ君の顔を見たら、ほんの一瞬だけ小さく笑って店長さんに呼びかけた。
「あいつだって反省するときゃ反省しますよ。素直な弟の爪の垢でも飲んだんじゃないですか?」
「えぇ~。今更キャラ路線変えられても気持ち悪いんだけど」
ハハハ、と笑ってムカイ君が鞄から財布を出す。支払してお暇するらしい。
「そういやテッペイも前、弟は素直で良い子だって自慢してたな。天邪鬼だし、本音とは裏腹に口じゃ貶すこと言いそうなのによ。お前ら二人してべた褒めするくらいだから、よほど可愛いんだろうな」
「はい。テッペイなんかとは比べ物にならないくらい」
凄く柔らかい笑顔を浮かべながら一切の迷いも見せず即答したムカイ君に、僕は恥ずかしくて思わず俯いた。
兄ちゃんも、人のいないところで何言ってるんだよ……!う、嬉しくないわけじゃないんだけどさ。
「じゃあしっかり掴まってろよ」
「うん」
ヘルメットを被ってムカイ君の腰に腕を回す。僕自身の腕で回すよりも、兄ちゃんの体の方が余裕でムカイ君に抱きつける。目線はあまり変わらないけど、やっぱり兄ちゃんの方が背が高いのかな。でもまだ成長期だし、僕だってこれからどんどん伸びるはず!
牛乳あとどれくらい残ってたかなと、冷蔵庫の中にある物を思い出して、それから今日の夕飯は何にしようかと考え事が脱線する。
ほうれん草に茄子、アスパラ、人参、椎茸、玉葱、卵……そういえばスパゲティの麺もあったっけ。冷凍庫にミートソースもあったはずだし、よし、ミートスパゲティにしよう。兄ちゃん、野菜あんまり好きじゃないけど、そういうのだとちゃんと食べてくれるし。
赤信号で停まったのを確認して、ムカイ君の服を引っ張ってこっちを振り向かせる。
「ミキさん今日仕事早く終わるって言ってた?」
「いや、クライアントに呼び出されたらしいから、きっと遅くなる。でもヒロキ君は内勤だし、タツヤさん辺りが送り届けてくれると思う」
「そっかぁ」
僕が兄ちゃんの体だから、今は兄貴の体に兄ちゃんがいるんだよね。そういうときって兄ちゃん、タツヤさんと食べてくるからなぁ。
よくよく考えれば、兄貴だっていつ帰ってくるか分からない。明日は会議だっていうのに、うちの学校の特色をあまり分かってない兄貴が、今は僕になってるわけだし。カナタがどうにかフォローしてくれるとは思うけど……。
二人とも、何時くらいに帰ってくるかなぁ……。
バイクが発進して、次の赤信号で捕まる。
その短い距離で、ムカイ君は僕のちょっとした不安を察してくれたらしい。
「もしかしたらお袋泊まりかもしれないし、朝飯も貰った身で図々しいけど、良かったら晩御飯も呼ばれていい?」
「う、うん!勿論!」
嬉しくなって、ついついムカイ君の腰に回してる腕に力を入れちゃったけど、ムカイ君は何も言わなかった。
確かカレーのルゥもあったし、今晩はムカイ君の好きな野菜カレーにしよう。とびきり美味しいの作って、喜んでもらえるように頑張ろう。
ムカイ君の後ろで、尚且つヘルメットを被ってたおかげで、だらしなく緩んだ顔を誰にも見られずに済んだ。
*
戻るときも、やっぱりタイミングは眩暈。いつ頃戻るかは場合によってまちまちだ。三時間ほどで戻るときもあれば、二十時間くらい経って漸くってときもある。
幸いなことに、一日を超えたことは今までない。
「あ、兄ちゃん。おかえり」
「おう、ただいま。お前もおかえり」
「ただいま」
さっきまで兄ちゃんの体で勉強してたから、部屋に入れば元の体に戻った兄ちゃんがいた。心なしか疲れた様子だ。兄貴の体から戻ったときはいつもそうなんだけど、理由を訊ねてもいつもはぐらかされるから、最近はもう敢えて何も言わないようにしてる。兄貴も、これは兄ちゃんとタツヤさんの問題だって言ってたしね。
兄ちゃんが部屋から出たのを見届けて、カーテンの後ろを捲ってとある物を手に取る。それの底には短く折った爪楊枝に糸が括り付けられてて、その糸は窓の外へと繋がっている。
「ムカイ君、聞こえる?元に戻ったよ」
そう声を掛けたら、すぐに「おかえり」って嬉しそうな声が返ってきて、僕は嬉しくなった。