最奥を後に
「冗談……だよね? それこそ……?」
語尾が震えているのが自分でもわかる。
いくらなんでも信じ難いのだが、いやでも最近は年齢的にあってもおかしくない出来事で、だけど千歳はそういうタイプには見えなくて……。
「おい。瞳孔開いたままになりそうだけど」
冷静に鷹槻が言ってくる。
「だだ、大丈夫、閉じる。閉ざすから」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
こういう時は深呼吸だ。これでもかというくらいに息を吸い、力いっぱい息を吐き出す。そんな作業を三回ほど繰り返してから改めて鷹槻と千歳を見た。
「で。変な冗談はやめてよ」
「いや、冗談でなく」
相変わらず憎いほど淡々と鷹槻は言ってのけた。
そのまま卒倒しそうになったが、最後の望みをかけて千歳を見た。
「千歳サン……マジですか?」
「あはは」
花のような笑顔が今は哀しい。
別に悪いわけではない。昔なら十七で結婚して子供がいたって普通じゃないか。
若年層の結婚の負の面ばかりがニュースや新聞では取りざたされることも多いが、皆が皆、そうなわけじゃない。お互い相手の人生を考えて想い合い、新しい命を育て……そんな夫婦だっている。
だから悪いわけではない。
そう。悪いと言っているわけじゃなのだが意外というか、何というか、頭が酷く混乱している。
「何?」
じっと見つめていると、千歳が居心地悪そうに身じろいだ。
「いや、奥様とお子様はお元気かなーとか……」
すると千歳の笑顔がわずかに翳った。
「死んじゃったよ。だいぶ前」
その目は本当に悲しげで、嘘なんて一片も感じられない。聞くべきではなかったと痛感させられる。
「ごめん。私……」
「いいって。第一結恵より鷹槻だろ? ったく。余計なこと言いやがって。それに俺は厳密にはバツイチじゃないって。先立たれただけで」
「あーそうなんだ」
「何だよ、さっきの渋い白茶の仕返しか? ガキだよなぁ」
今までで一番大人びた表情を浮かべて千歳は息を吐いた。
「さて。そろそろ丑の刻だ。いい加減ガキ共はベッドに帰ったほうがいいぞ」
千歳の目線の先には、午前二時を指そうとしている地球儀型の時計。
「あ。うん……ごめん。遅くまでお邪魔して」
「いいって。それより説明してやれなかったな。鷹槻、明日昼食会だって?」
「ああ。敷地内のガキは全員呼ばれてると思う」
「そっか。大人たちへのお披露目はまだ先なら平気だろ」
千歳はまだ項垂れる私を見て苦笑し、力なく垂れた右手を取って何かを握らせてきた。手のひらを開くとそこには赤い包みの一口サイズの直方体。
顔を上げると千歳がにっこり笑っていた。
「さっき言ったろ? ベルギー土産だって言うチョコ。美味いから一個やるよ。それ食って歯を磨いて、早く寝ろ?」
「……うん」
優しい言葉をかけてもらっても罪悪感は拭いきれない。掴みどころのない千歳が見せた、本当に寂しげで悲しげな目が忘れられない。
いくら親しく接してくれるからといって、なぜ会ったばかりの人にあんなに踏み込んだことを聞いてしまったのだろう。礼を欠くにもほどがある。
「じゃあ途中までは鷹槻に送ってもらえな? 鷹槻、結恵のこと頼むな」
「ん」
「じゃあな。結恵」
「うん……」
まだ俯き加減の私の頭上で、千歳と鷹槻が呆れたように顔を見合わせた。
「おい。嫌なこと言ったのは俺なんだから、結恵が気にする必要ないと思う」
「そうそう。悪いのは鷹槻だって。だから結恵は気にしなくていいんだ。むしろ鷹槻には一回くらい殊勝な態度を見せてもらいたいもんだ」
「ドーモスイマセンデシタ」
「……全然殊勝じゃないっての」
軽く笑って、千歳は私の両頬をつまみ上げて顔を上げさせた。
「ほら、どうせなら笑い皺にしろって言ったろー?」
「うひゃ」
顔が伸びる。かなり伸びている。
抗議の目線を投げかけると、千歳は勢いよく両頬をつまんでいた手を離した。頬はゴムのように弾みをつけて元の形に戻る。
「いっ痛ぁ」
頬をさすりながら涙目で千歳を見た。
千歳は笑っている。どこまでも無邪気に。
「じゃあな。またいつでも来いよ。俺は大抵ここにいるから。出来れば大人たちのお披露目の前にもっかい来いよ」
「……来てもいいの?」
「ああ。結恵は本家だからめんどくさい決まり事は問題ないし、そもそも俺がいいって言ってんだからなー」
「じゃあ、また来る」
「ああ。待ってる」
にっこりと笑い、千歳は言った。
「じゃあ千歳……っと。渡し忘れ」
鷹槻はジーンズのポケットから何かを取り出し、千歳に放り投げた。
それは円柱形の筒に、カラフルな丸がたくさん描かれているお菓子の箱だ。
「マーブルチョコ?」
尋ねると千歳は更に嬉しそうに答えてくれた。
「そ。いやーたまに食べたくなるんだ。サンキューな。鷹槻」
「ん」
鷹槻は言葉少なに、初めに彼が来た壁を手で押した。それはやはりカラクリ屋敷のごとくくるりと回り、薄暗い回廊へと繋がっている。
「じゃあな。二人とも」
「ああ」
「結恵も」
「うん。あ、お茶と干菓子ありがとう」
お茶と干菓子に関するお礼は予想外だったのか、千歳は一瞬目を丸くしてから笑いだした。
「どーいたしまして。結恵はそこの老け顔とは違うなぁ。俺が茶を淹れてやったって礼なんて言ったこともないんだぞ?」
「うるせぇな」
鷹槻はわずらわしげに言って、石造りの回廊へと足を踏み出し私を振り返った。
「来ないのか?」
「あ、行く」
鷹槻の淡白な言葉に答え、私も部屋を出る。
「それじゃあおやすみ、千歳」
「おやすみ。二人ともいい夢を」
くるりと扉が閉まるまで、千歳は手を振っていてくれた。
ゴトンという重い音と共に完全に中の光が遮断されてから鷹槻は前へと歩き始めた。私もその後を追う。
鷹槻は無言で前を歩いていた。けれど置いていかれることはなく、身長差などを考えれば多分私に歩くペースを合わせてくれているのだろう。
千歳といい、鷹槻といい、この二人は何と言うか話しやすい。波長が合うというか、同じ空気というか一緒に過ごしていて楽でいられる。初対面の人間には多少なりとも緊張して地を出せない私には珍しく、この二人とは普通にしゃべることができた。
千歳はあの独特のマイペースが。鷹槻は無関心なようで気遣ってくれるところが無意識に緊張をほぐしてくれて。
(いい人達なんだよな、きっと)
そんなことを思いながらペタペタと相変わらず間抜けなスリッパの音を立てながら、造り自体は来た時に通った道とほとんど変わらない回廊を歩く。
前を歩く鷹槻の足元を見ると、彼はスニーカーだった。確か室内でも靴を脱いだりしていなかったから千歳の部屋は土足厳禁と言うわけではないらしい。欧米だったら珍しいことでもないが、日本ではあまり見ない光景だ。
地上の屋敷では土足禁止で大叔母含め室内履きを履いていたが同じ敷地内、家屋内にあっても千歳の部屋に限っては別なのか。
本当に覚えなければならないことは山積みだ。
先程の千歳と鷹槻との会話からも、この家が私の今まで十五年間の常識などこれっぽちも通用しない家だということがよくわかった。
その上派閥。自分の置かれた立場。
(絶対王制……か)
綾峰という家の歴史は以前大叔母から少し聞いたことがあるし、自分で調べたこともあるので少しは知っている。
綾峰家というのは元は地方の豪商だったという。安土桃山時代。織田信長、豊臣秀吉が南蛮貿易を推奨する波にもいち早く乗り出し、以来常に時代の波に乗り綾峰家は時の有力者達の御用も受けるほどの大商家となったらしい。
その後、徳川幕府をはじめ各地の有力な諸大名の確かな信頼を得て、動乱の時代・幕末から明治時代にかけても確実な道を迷うことなく歩みその地位、財力、そして商人の命でもある信用は国内有数のものとなっていたと言う。そして宮内省御用達、爵位拝命など様々な名誉を経て、千歳財閥と名乗るようになった綾峰家の隆盛は留まるところを知らなかったそうだ。
それが第二次大戦で日本は敗戦。連合国軍最高司令官総司令部から財閥解体の指令があり、千歳財閥という名は消え、綾峰本家によって統括されていた事業も分散され個々に行われるようになったように見られたが、綾峰家の繋がりと言うのはそう脆いものではなかったらしい。それからまた時を経て、旧千歳財閥はチトセグループとして名乗りを上げた。
それからは国内外のあらゆる事業での成功、バブル崩壊すらまるで予想していたかのように最善の経済対策が整えられていたため、その損害はよそに比べれば無いも同然だった。過去にも同様に1923年の関東大震災、1929年の世界恐慌でも被害を最小限に留めてきた。
綾峰家は確実に時勢を読み取り、一度としてこの隆盛を衰えさせたことのない世界的にも伝説のような家なのだと言う。
こうして改めて考えてみれば綾峰家が絶対的地位、財力、権力を誇ることは間違いない。それだけ規模が大きな家だ。歴史上、血生臭い事件なく平穏無事に現代まで続いてきた王家などない。政争のひとつふたつ、王位継承争い、そんなものあって当然だ。
ではこの綾峰家ではどうなのだろう。この国で未だ絶対王制を敷く、この家では。
間違いなく現代社会の上流に位置する綾峰家の人間たちは、自分たちより上の『王家』を認めるものなのか?
血と言っていたけれど今は古い時代じゃない。古い家は自分たちの血縁を重視する傾向にはあるようだけれど、一度は家を出た人間の子孫をその『血』として認めるものだろうか……。
考えれば考えるほどとてもそうは思えなくなる。
今更になって、なぜ自分がこの家に来ることができるようになったのか疑問に思う。大叔母は善人で、祖父の孫の私を可愛がってくれている。それはいい。けど他の人間は私という存在をそうも容易く容認できるものなのか?
思い切り頭を掻き毟りたい衝動に駆られたが目の前にいる鷹槻の存在を思い出し、何とか思い止まった。危うく初対面で変人というイメージが植え付けられるところだった。
そうやって気を抜いたためか、スリッパの中で足が滑った。そして滑った足ごとそのまま私の体は前のめりに倒れた。
「ーっ!」
ベチっというスリッパの音以上に間抜けな音が回廊に響く。
数歩先を歩いていた鷹槻は何事かと振り返った。
転んだ瞬間、地面に両手をついたので顔面をぶつけるという失態は避けられた。ついた両手は多少擦りむけたが。
「おい、大丈夫か?」
呆れ混じりの鷹槻の声が降ってくる。
「大丈夫……」
心配してくれるのはありがたいがやはり恥ずかしい。十五にもなって私は一体何をやっているんだろうか。慌てて立ち上がり、熱を持った両手の擦り傷に息を吹きかける。
「痛ぁ」
特に強くついた右の掌は血が滲んでいた。
薄暗い回廊の中。
白い掌。
滲み出る赤い鮮血。
高く、心地よく鳴り響く心臓。
あの廊下に足を踏み入れてからずっと感じていたざわめき。
ルビーのように鮮やかな赤。
珠のように滲み出た、赤い赤い血液。
「血が……」
掌を眺めながら、無意識にそう口にする。
心臓の音が、体中を巡る血液が、私を形作る細胞のひとかけまでが、何かを訴えかけてくる。何か何か、何か――……。
思考が闇に消えかける寸前、唐突に赤は私の目の前から消えた。いつの間にか掌は鷹槻の手によって、まるで私から隠すように握られていた。
「鷹つ……」
鷹槻の顔に焦燥にも似た表情を見る。
こんな顔もするのか、と呑気に思っている間に鷹槻は私の手を引き、足早に先へと歩き始めた。私が何度石畳に足を取られかけようと、決して止まることなく。
それはまるで何かから逃げるように。
長い長い回廊を進み、階段を昇る。そしてまた平坦な道を歩き、階段があれば昇る。その繰り返し。
そうしてようやく行き止まりへと突き当たった。
鷹槻は私の手を握ったまま片手で石の壁を押した。それは重い音を立てて、千歳の部屋の扉のように回った。
歩み出た先には暗闇の中に小さな明かりがぽつぽつと見える。
芝生を踏みしめる感触。
多分ここは本家の奥庭だ。そしてあの小さな明かりは庭先を飾る外灯だ。
冷たい夜風にさらされ、ようやくあの閉塞的な石造りの回廊から外に出たのだと実感する。
それから背後でまたあの重たい石のこすれる音を聞き、鷹槻が壁に見せかけた扉を閉めたのだと気付いた。
いつの間にか手は放されていた。
「誰にも言うな」
私が何を言うより先、鷹槻が有無を言わせぬ口調でそう言った。
驚いて鷹槻を見ると、細い月の明かりに照らされた彼の顔はやっぱり綺麗で、けどどこか落ち着かない様子がはっきりと伝わってきた。
「……鷹槻?」
「桂子ばあさんにも、昼食会で会う奴にも、使用人にも、他の誰にも言うな」
「言うなって……何、を?」
頭の中では何となく答えが出ているのに聞かずにはいられなかった。
鷹槻の目が一層鋭くなる。そして今までで一番低い声で言った。
「血について」
右の掌に滲んだ血は既に止まっていた。
「どういう、意味?」
鷹槻の鋭い黒い瞳が月の光で褐色に映った。だがその鋭さはさらに増す。
「『当たり』の可能性があるから」
低く押し殺したような声がそう言った。
「当たり?」
その言葉に疑問を感じている間もなく鷹槻はさらに続けた。
「昼食会では俺とお前は初対面だというフリをする。お前もそうしろ。そのほうが色々と便利だ。それから……今日俺と千歳と会ったことも絶対に誰にも言うな」
「千歳も?」
「絶対にだ。お前は面倒事は嫌う性質に見えるがどうだ?」
鷹槻の強い視線に射られる。
ここまで流されるままだった自分が、その強い視線に呼応するように叩き起こされる。
一度目を伏せ、まっすぐに鷹槻を見上げた。
「鷹槻の言うとおり、面倒事は大嫌い」
鷹槻は頷き、壁にもたれかかった。
「出来るだけ早く千歳に会いに行ったほうがいい」
「会ったことを言うなって言ったばかりの口が言う?」
「他人に公言して会う事と、秘密裏に会う事じゃ意味が違う」
しれっとした顔で鷹槻は言った。そして鋭い視線を向けてくる。
「ここで自分の目的とそのための敵・味方の判別を誤るな」
その言葉の強さに一瞬言葉に詰まる。
だがその言葉は私がここに来た理由と繋がっている。
「わかった」
「頼もしい限りの返事だな」
鷹槻は壁から身を起こし、都心より星の多い空を見上げて伸びをした。
その姿を見ていると、ふと疑問が湧き上がってきた。
「鷹槻と千歳は私の味方?」
瞬間、強い風が吹き抜ける。
巻き上げられた髪を押さえながらも鷹槻から視線を外さない。
黒髪をなぶられながら鷹槻はあの淡白で抑揚の少ない口調で、けれど確かな強さを持って答えた。
「俺はお前の目的を知らないから断言は出来ない」
けど、と鷹槻は続ける。
「進んでお前の敵になりたいとは思わない」
曖昧だが本心だと分かる言葉に思わず口元が弛む。
「そっか」
「千歳は絶対的にお前の味方だと思っていい。あいつは俺の味方だし、お前の味方でもある」
意図をくみ取りにくいその言葉に思わず眉を顰めた。
「それって私と鷹槻の利害が一致しなくても?」
「そうだ」
一片の迷いもない答えが返ってくる。
「千歳は俺の思いも、お前の思いも最大限に尊重してくれる」
その言い方に、初めて千歳は鷹槻より年長なんだと意識させられた。
「千歳もさっき言ってたろ。迷ったら千歳に相談するといい。あいつは信用していい」
「大叔母様は?」
あの人こそこの家で一番に頼るべき人だと思っていたのに。
「桂子ばあさんも信用していいだろうな。けど当面、少なくとももう一度千歳に会うまでは余計なことは言わないほうがいい。ばあさんに心配かけたくないのなら」
「……私は本当にこの家のこと、何も知らないんだね」
「いきなり来たばかりの奴がこの家のこと把握出来たら怖ぇよ。それくらいここは奇怪な家だ」
「知りたいような、知りたくないような」
「怖いもの知らず」
ぽつり漏らし、鷹槻はまた歩き出した。
「ちょっ、待った! 置いてかないでよ、迷うのよこの家!」
「わかってる。ほらここ。この壁も隠し扉になってる。階段下に繋がってるからここから入って見つからないように部屋に戻れ」
コン、と鷹槻はどう見てもただの壁にしか見えない部分を叩いた。
「……ありがとう。でも何でこの家、こんなに隠し通路とか多いわけ?」
「そういう家だから。ほら、開いたからとっとと入れ」
有無を言わさず開いた扉に放り込まれあっという間に壁、もとい扉は閉められ、そのまま私一人が屋敷の中に入れられた。
女子に対し少々乱暴すぎやしないかだとか、なぜ鷹槻はこんなに隠し通路に精通してるのかなど、言いたい事はまだまだあったけれど、言われたとおりそのまま大人しく部屋へ戻ることにした。確かにこの家のことなどまだ知らない私にとって、鷹槻はお釈迦様の蜘蛛の糸並みにすがりたい存在だ。自分で全てを判断できる材料が揃うまでは誰かを頼ったほうがいいんだろう。
そしてまるで泥棒のようにこそこそと誰にも見つからないように私室へと戻り、両手の擦り傷に軽く軟膏を塗り、再びベッドに入ったのはもう午前三時半になろうかという頃だった。
数時間のうちにあった不思議で変な二人の親戚。
分からないことだらけの家。
今日の昼食会。
そして何より、血。
この家が最も重視するという血。
あの全身がざわめくような感覚。
まるで自分が自分じゃない生き物になったようだった、と今になると思う。
不安と不安に似た恐怖を感じながらきつく瞼を閉じた。千歳も鷹槻も、大叔母もいるから大丈夫だと言い聞かせて。
そして眠りについたのは遮光カーテンの隙間から薄い光が差し込み始めた頃だった。