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最奥の住人

 その廊下には等間隔に壁に備え付けられたランプの明かりが灯っている。床は絨毯。人ひとり通れるくらいの狭い廊下。

 けれどそれはどこまでも一本道に続いている。果てなど見えない。

 ここはどこに繋がっているんだろう。しばらく歩き始めてようやくそう思った。

 窓の感じからしてあの部屋のあった辺りはこの屋敷の北辺だ。と言う事は、東西に伸びたこの屋敷の奥なのだと思うのだが。

 ふと、眼前に入ってきたものを見て足が止まった。

 まっすぐ平坦に続いていた一本道の廊下の先が下り階段になっている。

「……地下?」

 地下は使用人のテリトリーだから、私達は軽々しく足を踏み入れてはいけないのだと言われた。

 けど今の私は別に軽々しく足を踏み入れるわけじゃない。純粋に道に迷って、手助けが欲しいのだ。……情けない話ではあるが。

 それに地下ならさっきも厨房に行っている。

 道に迷った以上は誰かに聞くしかない。こう広い家だと自分の部屋へ戻るどころか、他に人を見つけることすら出来ないのだから。

 そう思い、地下への階段へと足を踏み出す。

 いつの間にか絨毯はなくなり、石造りの階段にスリッパの足音が間抜けに響く。滑って転ばないように注意しながら先へと進む。

 いつの間にか明かりが壁の上部と足元、二か所になっていた。転ばないようにという気遣いだろう。

 パタパタと石造りの廊下に響く足音。

 仄かな明かりに浮かぶ、自分の影。

 何だか今までの場所と空気が違う気がする。

 言葉にするのは難しい。けれどこの先は何だか、うすら寒い。怖い、のだろうか。

 何だろう。体中の血がざわめくような、この感じは。

 それにしてもよくよく考えれば、本当に私はここに来ても良かったのだろうか。居候一日目にしていきなり人の家を散策するなどマナー違反な気がする。

 気がすると言うか絶対にそうだ。せっかく大叔母は私を家族と呼んでくれたのに、いきなり私は礼儀に反した行動を取るのか。

「……」

 私はここには来なかった。

 そう自己暗示をかけて来た道を引き返そうとした時。

「帰るのか?」

 唐突な声が石造りの廊下に響いた。あまりの唐突さに心臓が飛び上がり、背筋が凍りつく。

「ひっ! だっ、誰!?」

 今まで誰もいなかったはずなのに。

 ふいに、昔聞いたり読んだ話が急激によみがえってくる。

 お城の地下に住む幽霊。

 オペラ座に住む怪人、ファントム。

 金田一耕助の八つ墓村では村の旧家の屋敷の地下へ降りると鍾乳洞に繋がっていて、そこには行方不明だった男の死体が……。

「嫌ーっ!!」

 腹の底から悲鳴を上げてそのまま走り出そうとすると、腕を冷たい何かにつかまれた。

「まぁ待てって」

 その冷たさが恐怖を増長させる。

「ごめんなさいごめんなさい! 勝手に入ってすみませんでした! だから勘弁して下さいっ!」

 実は思っていた。

 古い由緒ある洋館。

 これで嵐の晩だったりした日には『出そう』とか。密かに思たりしていたのだ。

 別に私は特別怖がりなほうではないつもりだが、目の前にしてしまったらやはり怖い。腕を取る冷たい何かから必死に離れようと足掻くけれど、一向に腕が解放される気配はない。

 ああ、このまま気絶できたらどれだけ幸せだろう。

 でもこのまま気絶したら、もう二度と目が覚めない気がする……。

「じょ、冗談じゃない! 私はまだやることがあるんだからっ」

 今にも頭がショートしそうな中、力任せにその冷たい何かを引っ張る。

「悪霊だろうと怪人だろうと、私の野望の邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえっ!」

「え」

 掴んでくるその冷たい何かを空いた片手で取り、そしてがむしゃらにかけていた力を一点集中。

「どっか行けーっ!」

「え、おい」

 その声と共に腰を落とす。石畳に重いものが叩きつけられる音。気付いた時には冷たい何かは私の腕から離れていた。

 代わりに私の手がその冷たい何かの正体、人の腕を掴んでいた。

「……人?」

 思わず目を凝らすと、私の手が掴んだ腕の先には確かに人の形をしたものが仰向けに転がっている。人の形をした……と言うか、人そのものだ。間違いなく。

その仰向けに転がった『人』と目が合う。

「……気は済んだか?」

 私が投げ飛ばした人は笑顔だけれど青筋を浮かべ、そう訊いてきた。

「す、済みました………じゃなくてごめんなさいっ!」

 慌ててその転がったその人へ手を差し出すと、その人は眉間にたっぷり皺を寄せて私の手を取って立ち上がった。それから手を放すと、いててと言いながら思い切り石畳にぶつけた背中をさすった。

「初対面で随分なご挨拶だなぁ。最近流行りの挨拶の仕方か?」

 その人は全然笑っていない目で、口元だけを笑みの形に歪めて私を見た。その笑っていない目つきに鳥肌が立ちそうになり、慌てて頭を下げた。

「ほ、本当にごめんなさい!」

 そっと目線だけを上げると、視界に入ったその人は驚いたことに私より若干年上かという頃の男の人だった。それも随分と整った顔立ちをしている。

 真っ黒な髪に真っ白な肌、睫毛の長いアーモンドみたいな形の目。かわいい、綺麗、かっこいい、そのどれにも当てはまらないけれど不思議に人目を惹く。

「お前、名前は? どこの家の誰?」

 その人はじっと値踏みするように私を見てきた。

「綾峰結恵です」

「ユエね。で、どこの家の?」

 何だか会話がうまく噛みあっていない気がするのは私だけだろうか。

「だから、綾峰の結恵です」

「綾峰は分かってんだって。だからどの綾峰だって聞いてるんだよ」

 若干呆れを含んだ声が嫌がらせの謎かけのようなことを聞いてくる。

 その尊大な態度にこちらも苛立つ。

「綾峰は綾峰です。綾峰結恵!」

「だーかーらー」

 その人は腕組みしていい加減うんざりした様子で言ってきた。

「本家、二ノ峰、三ノ峰、四ノ峰、五ノ峰。どの家の関係者だって聞いてるんだよ」

「にのみね、さんのみね……」

 それは確か三波さんにもらった地図に書かれていた言葉だ。

 と言うことは目の前の彼が聞いているのは、私がどこの家に住んでいるのかということか。

「私は今日から本家でお世話になることになった綾峰結恵です」

「……本家?」

 彼の目が丸くなる。

「結ぶに恵みって書く名前は、ユエって読むのか?」

「……そうですけど?」

 何でそんなことを知ってるんだと不信感を隠すことなくその人を見上げる。だけど彼はそんな視線などまるで気にせず一人で納得している。

「あーそうか、あれでユエって読むのか。なるほど」

「ああ、あの」

「そう言えば年齢も聞いてた通りっぽいし、外見的特徴も一致するな。ふーん」

 今度は悪意や害意ではなく、好奇心剥き出しでじろじろとそいつは私を見てきた。

「綾峰ユエ。十五歳。肩より長い髪に160センチくらいの背丈」

「あの……」

「へーそう言えばうちの家系っぽい顔立ちだな。目とか口の感じとか」

 全く聞いていない。聞こえてないのか聞く気がないのか知らないが。

 だけどこれでは埒が明かないと腹の底から声を出した。

「あのっ!」

「……あ、何?」

「あの、失礼ですがあなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 棒読みに尋ねると、彼は私のほうを向いてから口を開いた。

千歳ちとせ

「千歳?」

「そう。俺の名前は綾峰千歳」

 ニっと笑って彼、千歳はそう言った。

「千歳って、千歳飴の千歳?」

「ああ。それで千歳」

「千歳財閥の千歳……」

 そう呟くと、千歳は目を細めた。

「随分久しぶりに聞く名だな」

「じゃあ、あなたの名前って千歳財閥から取ったの?」

 綾峰家の経営する複合企業名がチトセグループ。戦後の財閥解体までは千歳財閥を名乗っていたはずだ。

 だけど千歳は笑って簡単に否定した。いつの間にか怒りも収まったらしく含みない笑顔で。

「違う違う。俺の千歳って名前の由来は長生きしますよーにみたいな意味で千歳」

「ああ、なるほど。縁起のいいお名前で」

「結うに恵みもなかなかに縁起もいいし、いい名前だぞ?」

 それは揶揄など感じさせない、純粋な褒め言葉。

「ありがとう、ございます」

「ああ」

 千歳はにっこりと笑った。

 初対面の険悪な雰囲気は一体どこへいったのかというほどに穏やかな笑顔。

(何か不思議な人)

 妙に上機嫌になった千歳は一人言葉を転がしていた。

「そうかーお前が本家に引き取られたっていう奴かぁ。早く会いたかったんだよな、義将の孫」

「……え?」

 唐突に飛び出した祖父の名前に思考が停止する。

 千歳は何を驚いてるんだという顔で私を見た。

「お前、義将の孫なんだろー?」

「そう……ですけど」

 自分の祖父をその当人より遥かに年少の、それも自分と大して年の変わらないような相手に呼び捨てにされるのはあまり気分が良くない。だけど千歳はそんなことはお構いなしに続ける。

「桂子が大喜びしてたぞ? 義将が見つかった時。お前がここに来るってのも随分喜んでたし」 

 今度は大叔母を呼び捨て……。

「あの、ここでは年長者を呼び捨てにする習慣でもあるんですか?」

「あ?」

「だってあなたはどう見ても私とそう変わらない年齢なのに、祖父やおばあ……大叔母様のことまで呼び捨てにしているし」

 仮にも大叔母はこの家で最も権力ある人間なのに。お茶の時に言っていた、変わった風習もあるというのはこういうことなのだろうか。

 千歳は薄く笑った。

「ふぅん。お前は義将や桂子のこと、好きみたいだな」

「当たり前です」

 即答すると千歳は楽しげに声をあげて笑った。

「そうか。ならあいつらは幸せだな」

 毒気が抜かれるような笑顔でそう言う。

「……あの、私の質問にはまだ答えてもらってないんですけど」

「ああ、年長者を呼び捨て云々?」

「そうです」

「おかしい?」

「少なくとも私は年長者には敬意を払えと言われてきたので違和感はあります」

「ふぅん」

 千歳は少し考えるように、壁のランプを見つめた。

 それからしばらくして唐突に口を開いた。

「腹、減ったな」

「……は?」

「俺そろそろ自分の部屋に戻るけど、お前も来る? こないだベルギー土産のチョコもらったんだ」

 ベルギー土産?

 チョコ?

 私は一体今まで何の会話をしていたのだったか。チョコが出てくるような会話をしていただろうか。

 そうして私がひとり頭を抱えていようがどうしようが、千歳は勝手に話を進める。

「俺の場所はここから少し歩いたとこにあるんだ。どうする? この場所は少し変わった場所だし。今さっきお前が俺にぶつけた質問も含めてそういうのを道中少し教えてやろうか?」

「え。いやでも、時間も時間なんで」

 さすがに親戚とは言え、初対面の男の部屋に行くのは……。そんな私の考えを読んだように、千歳は声を上げて笑いだした。

「言っとくけど、俺がお前に手を出すことはまずないから。お前に手を出す労力があるならネッシーを探しにネス湖まで行くから安心しろ?」

「……それは私に対する挑戦と受け取っても?」

 既に悪戯だったと証言されたネッシーを探しに行くほうが大事だとは随分失礼な話だ。一体私はどれだけつまらない女なのか。

「いやいや、ただ安心させてやろうと思って言っただけだって。ほら、こっちだ」

 千歳は憤る私を置いてさくさく薄暗い階段を下って行った。

 ここでついて行かないという選択もできるが、ここで退くのは何だか悔しい気がする。どうしようもなく悔しい気がする。

「来ないのかー?」

 数段下から千歳の声がかかる。

「っ行く! 行きますっ!」

 そんな私の返答に、千歳が子供相手に遊んでいる時のような笑みを浮かべていたことなど、私は知らない。

 階段を十数段降りると、また平坦な石造りの通路が続いていた。一本道の石造りの廊下は綺麗に舗装されている。石造りと言うとイメージとしてはカビ臭そう、苔が生えてそうというものがあるがこの廊下はそうじゃない。カビ臭くもなければ、苔も生えていない。

 それは日常的に人が使っているからだ。

 今まで歩いてきた距離を考えると廊下という範疇は超えているが。廊下ではなく回廊なのだろうか。

「ここは何なんですか?」

 数歩前を歩く千歳に声をかける。

「ここって、どこを指す?」

 千歳は振り返らずに答えた。

「この階段に廊下を含めた道です」

「あーこれな」

 表情は見えないが声は明るい。特に聞いていけない話ではないらしい。

「秘密基地みたいだろー?」

「秘密基地なら楽しいですけれど、何も知らずに歩くのは正直不気味です」

「率直な返答だなぁ」

 つまらなそうに千歳は言う。

「秘密基地じゃないが一応秘密の通路。この回廊を使う奴は限られてるんだ。あからさまな隠し通路になったりはしてないけど普通の奴はここへは立ち入らない。この場所の存在を知っていても入ってはいけないことになっているし」

「あなたはいいんですか?」

「俺はいいの。後はー……」

 千歳は少し考える風に上向いてから続けた。

「本家屋敷の主の桂子はもちろん、上級使用人の一部に……」

「おばあ様も?」

 こんな場所のことなど聞いていない。やはり昨日今日の居候には話せないようなことなのだろうか。

「本家の人間は基本的に全員入っていいことになってるんだよ。使用人は別だけど。あとは許可さえあれば一族は誰でも入れる」

「許可? それって誰が出すんですか?」

「そりゃもちろん俺。この先にあるのは俺の部屋だもん」

「あんたがっ!?」

 驚きすぎて、つい普段の言葉遣いに戻ってしまった。一応この家に来てから注意していたのに迂闊だった。

 千歳は私に振り返り、いたずらっぽく笑った。

「ようやく素が出たな」

「……失礼しました」

「別に? て言うかお前さ、何で大して年も変わらなそうな俺相手にまで敬語使うんだ? 俺は最初から敬語なんて使ってないのに」

「何でって言われても……」

 気まずくなって目を逸らしてしまう。

 世話になっているという立場だから。

 本来こんな名家の人間と関わることができるような立派な育ちじゃないから。

 どれもそれらしい理由だけど、違う。私が敬語を使っていた理由は、距離を取るため。一定以上に近づかない、近づかれないため。そのほうがやりやすいから。……楽だから。

 無意識に左腕に右手の爪を立てていた。

「眉間に皺寄ってる」

 降りかかった声に顔を上げると、千歳が人差し指で自分の眉間を指差していた。

 慌てて私も両手を眉間に当てた。

「眉間に皺寄せるならもっと年いってからでもいいと思うぞ?」

 そう言って軽く首を傾げる。

「眉間の皺は残りやすいから気をつけろー? 先代なんてくっきりはっきり痕がついてたからな」

「先代?」

「桂子の旦那。綾峰本家の元当主。何年か前に死んだんだけど、眉間の皺がすっかり癖になっててさ。ま、婿養子ってやつだから気苦労もなくはなかったろうしな」

 千歳は苦笑し、それから私を見た。

「だからお前は笑っとけ。どうせ見るなら眉間の皺より笑い皺のほうが気分がいい」

「皺になること前提なわけ?」

「人間が老いて皺ができるのは自然の摂理。ゆるやかな流れに従って生きてきた証。いいことだ」

 そんなことを言って千歳は満面の笑みを作る。

 本当に変な人だ。

「何それ。私はコラーゲンでも何でもいっぱい摂って、年食ってもぜーったい皺なんか作らない!」

「じゃあまずは眉間の皺寄せからやめることを推奨するな」

 言われてカッと顔が熱くなる。眉間に当てた両手に力がこもる。

「結局そこに話を持っていくか……!」

 上目づかいに睨むと、千歳は口元だけで笑った。

「ーっ嫌な奴!」

「何だよ、今頃気づいたのかー?」

 ああ言えばこう言う。

「あーもうっ! やめた、あんたなんかに敬語使うの!」

「はいはい。どうぞご自由に」

 怒る私がおかしくてしょうがないとでも言わんばかりの態度で、千歳はまた先へと歩み出した。私も肩を怒らせて千歳の後を追う。

 道中説明してくれるとか何とか言っていたが、千歳はずっと肩を震わせて忍び笑いをしていて、私はそれに腹を立てて黙り通していた。

 そうして着いたのは、真鍮製のノブのついた木製の扉。階上で与えられた私の部屋の扉とそう変わらない。

 ということはこの扉も相当古いのか。そんなことを考えていると、鍵はかかっていなかったらしく千歳はそのままドアノブを回して扉を開けた。

「どーぞ。お客様」

 ドアノブを握ったまま、千歳笑顔を向けてきた。

「……入った途端にドアを閉めて閉じ込めたりするんじゃないでしょうね?」

「何でお前の考えってそんなにひねくれてるんだ?」

「私がひねくれてるんじゃなくて、あんたが怪しさの塊だから。絶対に世の九割九分の人間はあんたを警戒する!」

「お前……初対面の奴をぶん投げるわ、無礼発言するわ、敬語使えばいいってもんじゃないぞ」

 渋い顔をして千歳は先に扉の奥へと進んだ。

 入ってすぐの壁にあるらしいスイッチを押すと、急に薄暗い廊下にまで光が射し込んできた。

「ほら、入れー?」

「……おじゃまします」

 色々と文句を言いたいが、どこから言っていいのかわからなくなって大人しく室内へと足を踏み入れた。

 そこは私が使わせてもらう事になった部屋よりも更に広い。学校の教室二つ分くらいはありそうだ。

「広っ!」

 この屋敷は一体どれだけ広いんだと改めて思う。けれどそれ以外は割と現代的で普通……だと思う。同世代の男の部屋なんて入ったことないからわからないが。

 床はフローリング。置かれている家具はモノトーンを基調にしていて、ベッドにソファに机に金属製のラックにパソコンにテレビに、とごく一般的なものだと思う。ただテレビは私が見た中で最大サイズだが。

 その上、部屋の隅には簡易性のキッチンに小型冷蔵庫、更に扉があってどこかへ繋がっていることがわかる。

「今、茶でも入れてやるからソファ座ってろよ」

 千歳は鼻歌を歌いながら隅のキッチンでお湯を沸かし始めた。

白茶はくちゃでいい?」

「白茶って何? どんなの?」

「中国茶の一種。福建省の特産品なんだと。俺の今一番のお気に入り」

 鳳凰の描かれた茶筒を片手に千歳は笑った。

「お茶うけにチョコってのも変か。よし、チョコはなしにしよう。それともチョコ食いたい?」

「いや、あんたがチョコ食べたいって言ったんじゃ……」

私は一言も食べたいなんて言った覚えはない。

「そう言えば腹減ったんだった。よし、じゃあせめてドラ焼きにしよう。結恵ーそっちの棚に箱あるから取ってー」

 そしてやはり私も呼び捨てにされるのか。

 ドラ焼きなら中国茶に合うのかも疑問だが、いい加減些細な事を逐一口にするのはやめるのが賢明だと思った。

 何と言うか、千歳は千歳の時間の中を生きている。きっとその時間に他人を入れる気はさらさらないのだろう。

「箱、箱……と。ねぇ、箱が三つあるんだけど」

「んー煎餅、ドラ焼き、干菓子。あ、ドラ焼きやめた。干菓子取って」

「はいはい」

 つまりは究極のマイペースだ。

「あ、品名杯ひんめいはいがない。結恵ー」

「ヒンメイハイって何!?」

「中国茶飲むための杯。そこの棚のやつ、どれでもいいから取って」

 シックな雰囲気の部屋に似つかわしくない、昭和的な形のヤカンから顔を上げずに手だけをこちらに向け、来い来いとするように振った。

「いや、ありすぎてわかんないんだけど! コーヒーカップとかもあるんだけど、ここ!」

「三つな。あー青磁のやつはこないだひとつ割っちゃったんだよな」

「だから聞いてる!?」

「聞いてる聞いてる。もう何でもいいや。とりあえずそれっぽいもの」

「それっぽいものって……」

「えーと茶壷を温めて、それからー」

 全く聞いていない……無視してるのではなく、耳にすら入っていない気がする。

「ちょっと! ねぇっ!」

「それから茶海を温めて、茶壷の湯きりを…]

「人の話を聞けーっ!」

「あーうっさい!」

 ずっとお盆のようなものに置かれた道具とにらめっこしていた千歳は声を張り上げて私を見た。

「話しかけるとわかんなくなるだろ。俺だって中国茶の淹れ方は覚えたてなんだからな」

「知ったことか! もう普通にその急須みたいのに淹れて普通に注いでよ!」

「言われなくてもそうする。これじゃあもう手順がさっぱりだ」

 せっかく見目のいい顔を拗ねた子供のようにしかめ、千歳はぶつぶつ言いながら急須にお湯を注いだ。

 わからない。本当にどこまでもわからない。こんなにわけのわからない人間に会ったのは生まれて初めてだ。

「品名杯じゃなくていいよ。もう作法も何も跡形もなくぐっちゃぐちゃだし」

 唇を尖らせて、がっかりしたように肩を落とす。

「だからその品名杯ってのが見つからないって。……これでいい?」

 手近なところにあった、白磁に朱で芍薬が描かれた碗を二つ渡す。

 ところが千歳は不満そうに私を見た。

「あとひとつ」

「は? だってちゃんと二客出したじゃない」

「言ったろ、三つって」

 そう言えば言っていた気がする。聞いたけどそのまま耳から耳へ抜けて行った気もするが。

「何で三つ? あんたひとりで二つ使うの?」

「んなわけないだろ。変なこと言う奴だな」

「変なこと言ってるのはあんたでしょ!?」

 なぜ私が変人扱いされなければならないのか。

 とにかくあと一客、一客出せばこいつのこのムカつく口も閉じるわけだ。乱暴に棚を開けて、先程と同じ芍薬柄の碗を手渡す。

「ご満足頂けて!?」

「それなりに。アリガト」

 千歳は打って変わって嬉しそうな笑みを見せ、手早く椀に残ったヤカンのお湯を注ぎ始めた。

 変人な上に百面相。

 掴みどころがないなんてものじゃない。千歳は視覚に捉えることすら困難だ。

「何か疲れた……」

「あれ? 俺、ソファに座ってろって言ったろ」

「……あんたが呼んだんじゃないよ」

 もうこの噛みあわない会話、本当に疲れた。とりあえずお言葉に甘えてソファに座らせてもらおう。

 黒いソファに腰を下ろして辺りを見回す。やっぱり黒のラックには古びた本や遮光瓶、タツノオトシゴの剥製までがみっしりと詰め込まれている。入りきらない本やバインダーは本とラックの隙間を縫うように横向きに入れられている。

 本のタイトルを見てみると『タヂマモリと常世信仰』、『テロメアと老化~不老不死への夢~』、『世界の人魚~人魚が美女とは限らない』、『ギルガメシュ叙事詩』、『武田信玄の謎』、『世界怪異百選』、『カブトムシ大百科』など。

 学術書の他に、内容的には面白そうだけれどくだらなそうな本やら何やらと、随分バラエティに富んでいる。

 更に別のほうに目を向けると大きな机の上に置かれた地球儀型の時計が目に入った。ガラスでできた地球の部分半分が時計になっていて時刻がわかるというそれは既に深夜一時を示している。

「ねぇ、この時計、時間合ってる?」

「何で合ってない時計をわざわざ置くと思うんだよ」

「あんたみたいなタイプはわざと合ってない時計を置いておく気がしてならない」

「失礼な奴だな。俺はどれだけひねくれてるんだよ」

 千歳は呆れきった顔で私の前にある小さなガラスのローテーブルの上にごく薄い褐色のお茶が入ったお椀と、干菓子の入った箱の蓋を開けて置いた。

「……いい香り」

 華やかな香りではないけれど、お茶らしい香りだ。

「どーぞ飲め」

 こんな勧められ方をされるのも生まれて初めての経験だ。

「イタダキマス」

 棒読みにそう言って、湯気の立つ碗を取った。

 一口飲むと香ばしい香りと味が広がる。渋くもないし、後味もすっきりしていて私好みだ。

「美味しい」

「だろー?」

 千歳は嬉しそうに向かいに座って身を乗り出してきた。

「こないだ渋谷に行った奴が買ってきたんだ」

「渋谷のお土産が中国茶?」

 つい眉をひそめる。

 お茶は美味しいけどその選択が分からない。

「何でも中国茶の専門店があるらしくてさ」

「へぇ」

「そんで美味かったから、せっかくだし中国茶淹れるセット全部買って来いって言って買って来させたんだー」

 片手で碗を持った千歳はとても楽しそうだ。

「いや、それくらい自分で買ってきなよ」

 ここはけっこう都心から離れた場所だから渋谷まで行くのは面倒だろうけれど、この家ならリムジンでも何でもあるだろう。このお坊ちゃまめ。

 ふと千歳の手元を見ると、千歳の碗の他にもう一客ローテーブルの上に置かれていることに気付いた。

「ねぇ、その一客は誰のなの?」

「ん?そりゃもう一人の奴の」

「もう一人って……私達以外誰もいないんだけど」

 まさか既にこの部屋にいますだとか、目に見えない誰かがいますとかでは……。

「おーい。顔、青いぞ」

「べ、別にっ!」

「何が『別に』? ま、いいけど。そろそろだと思うんだけどな」

 本当にどうでもよさそうに千歳は時計を見た。

「そろそろって……何?」

「んー今日のこれくらいの時間って言っといたんだけど……お」

 千歳は座ったまま上体だけを後ろに逸らして背後の壁を見た。私もそちらを見ると、何もないはずの壁がカタカタと震えている。

「じ、地震?」

「いや、入口その二」

 その言葉と同時、震えている壁の一部分がまるでからくり屋敷のようにぐるんと回り、外と室内を繋げる。開いた壁の向こうには先程まで通ってきた回廊のような薄暗闇が広がっている。

「おい遅いぞー」

「特に細かく時間指定された覚えはない」

 低く抑揚の少ない声が外から聞こえ、回転扉の要領で誰かが室内へと入ってきた。

 多分千歳と同い年くらい、十七、八歳くらいの男。表情らしい表情がなく、言葉の割に淡白な声音から感情はまるで窺えない。

 だが彼も千歳に負けず劣らず整った顔立ちをしていた。鋭利な印象の切れ長の目に薄い唇の日本的な美形だ。

 美形その二は私を見て、ほんの少しだけ目を丸くした。

「……女?」

「男ではないらしいぞ。それより座れよ。ほら、こないだお前が買ってきてくれた白茶淹れたんだ」

「ん」

 その人は小さく頷いて、私と千歳の間に座った。

「結恵、こいつ多分お前の世話役になると思うから覚えとけ」

「世話役?」

「……『結恵』?」

 その人とお互いの顔を凝視し合う。

 見れば見るほど美形だ……千歳といい彼といい、綾峰は美形の血筋なのか。資産家な上に美形とは、格差社会をはっきりと目の当たりにさせられた気分だ。

「お前らにらめっこ大会?」

 干菓子をかじりながら、頬杖をついて千歳は私と彼とを交互に見た。

「とりあえず自己紹介でもすれば? あ、お前そういうのニガテだっけ。俺がしてやろーか」

「冗談。お前に紹介されるのだけは世界中の他の誰にされるのよりも嫌だ」

 小悪魔じみた笑みを浮かべた千歳を見て、彼は嫌そうに顔を歪めた。

「俺はお前の中じゃ世界最下位か」

「いや、銀河系最下位」

 さらりと言ってのけて、その人は私を見た。

「二ノ峰家戸主次男、綾峰鷹槻。どうせ今日の昼食の席でも会う事になると思うけど一応言っておく。ドウゾヨロシク」

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