この夜の終わり
千歳のそれが誰に向けた、何への言葉なのかはわからない。
けどその時、私の中で何かが切れた。
「――いい加減にしろっ!!」
真っ赤になった頭で、喉が痛むほどに叫ぶ。
ビリビリと空気を震わすほどの声に、鷹槻も、千歳もリクも、自分すら驚いた。
怒声の余韻がまだ残る中、私はまっすぐに千歳に向って歩いて行った。そして驚いて顔を上げた千歳とまっすぐに対峙する。
「……結恵?」
驚いたような声音が何だか妙に癇に障った。
その苛立ちのままに、私はさっき鷹槻がしたように千歳の頬を引っ叩いた。もちろん鷹槻ほどの威力なんてなくて乾いた音だけがして、千歳は叩かれても呆然と私を見ていたけれど。
「悪かったから、死んでなかったことにしてめでたしめでたし、なんて本気で思ってるの!? バッカじゃない! 今時そんな辛気臭いの流行んないんだよ!」
力いっぱい叫んで千歳を指差す。
「て言うか、そんな後味悪い思いさせられてたまるもんか! 千歳がどう思ってようと私も鷹槻も千歳が大事なんだよ! だから呪いなんてバカげたものを解いて、それで大団円のハッピーエンドにしたいんだよ! それをこんな何百年も前に使い古された悲劇みたいな終わらせ方なんて勝手にしないでよ!!」
そして千歳の胸倉を掴んだ。
「絶対死なせない! 千歳もリクも。そんな気分悪い終わらせ方、絶対させない! 歪んでようが、呪われてようが、正しくなかろうが、千歳に人殺しなんかさせない! これ以上の痛みなんか背負わせない!!」
千歳もリクも、目をまん丸にして私を見ていた。
私以外の誰も口を開こうとしなくて、居心地悪くなってつい睨むように鷹槻を見た。
「……鷹槻だってそう思うでしょ!? 千歳の呪いとか何とか解くんだったら、こんな夢見の悪そうな不愉快極まりない終わらせ方なんてさせたくないでしょ!?」
「お、おう……当然だ」
鷹槻は気圧されたように答えたかと思えば、私のすぐ隣まで歩いてきて千歳に言った。
「っつーわけだ。俺だってそんな後味悪いのはごめんだ。俺らはお前の呪いを解くって言っただろ。それはこんな後味悪いやり方じゃねぇよ。俺だってお前に人殺しなんてさせねぇ。この女は……ムカつくけど、でも殺させねぇ」
鷹槻は少し顔を赤くして舌打ちしたかと思えば、ベッドに座り込んだリクを見下ろした。
「だからお前も死なせねぇ。千歳のために生きるとか言うなら、これ以上千歳に重苦しい思いさせんじゃねぇよ。全部千歳に押しつけんじゃねぇ。自分のしたことくらい自分で責任もって生きやがれ」
リクは迷い子のように頼りない目で千歳を見上げた。
「け、ど……わた、私は……」
「千歳も!」
私はリクの声を遮るようにして、呆然としている千歳の胸倉を引っ張った。
「もういいじゃん。自分の意思を犠牲にして綾峰のために生きるとか……あんたの奥さんが望んだのってそんなことじゃないでしょ? ただあんたに幸せになってほしかっただけでしょ?」
そう簡単に長い間胸の底に燻っていた気持ちが割り切れるとは思わない。頭で分かっていたってそう簡単に気持ちがついていかないことくらい、私だって知っている。
だけど思う。
里久さんが千歳に望んだように、私も千歳に幸せになってほしい。難しいことでも、幸せな時を過ごしてほしいって思う。
「……私があんたの奥さんだったら、今のあんたを見るのは辛いよ。私はあんたが好きだから、幸せになってほしい」
まっすぐに見下ろしてくる千歳の視線を受け止めて、一番に思う事を言葉にする。
胸倉を掴んだ手はそのままに。
千歳は泣き喚く子供を見るように私を見下ろしていたかと思えば、急にその手を頭に乗せてきた。
「千歳?」
「ガキの前で、ろくでもないことしようとしたな。俺」
苦笑して千歳は頭を撫でてきた。そして手を引いたかと思うと、そっと抱き寄せられた。
「ちっ、千歳っ!?」
「ごめんな。俺、どうかしてた。ごめんな」
厚く着込んだ着物越しに、千歳の体温を感じる。生きてるって、伝わってくる。
「バカなこと言ってごめん。もう言わない」
優しく抱きしめられながら、その言葉を聞いた。
「ほ、本当に?」
「本当に。大人げなくてごめんな。だから鷹槻もそんなに睨むのやめてくれよ」
微かな笑いを含んだ声に、私は千歳の胸から顔を上げて鷹槻を見た。そこには眉根を寄せて憮然とした表情でこちらを睨んでいる鷹槻の姿があった。
「勝手なことばっか言いやがって。どこまで手がかかるんだよ、大馬鹿クソジジイ」
「悪かった。本当に悪かった」
千歳は私を離して深く頭を下げた。
それから顔を上げてリクを見やった。
「リク」
「千歳、様……私は……」
リクの両目からは涙が溢れ、声は哀れなくらい震えている。
「わたっ私は……貴方のために出来る事はないのですか……? 生きることも死ぬことも、貴方のためには出来ないのですか……」
カタカタと身を震わせて、呆然とリクは呟く。
千歳は薄く口を開きかけ、一度噤んでから改めて口を開いた。
「リクが……俺を大事に思ってくれるのはありがたい。けど、もういいんだ。リクもリクのためだけに生きていいんだ……多分、お前が里久にしたことは簡単には許せないだろうけど。けどお互いもう、この家に縛られることはない」
「でも私は……これからどうすればいいのですか? 私は貴方のために生きるしかわからない……貴方に必要とされない私は、どうしたらいいのですか?」
人形のように綺麗な顔が歪んで、止め処なく涙は溢れてくる。
「貴方が必要としてくれないのなら、生きてなどいたくない……けどそれも許されないのなら、私はもう何もない」
「勝手なことを……!」
声を荒げかけた鷹槻を手で制して、千歳は言った。
「俺もこの家のためって名目で生きてきたからこれからどうしていいかわからない。もう長いこと屋敷の外へは出ていない。そんな状態で外へ出るのは不安だし、怖い。けど、何もないから新しいことは何だって出来る。そうする。……そのために綾峰の力は存分に使う。長くこの家に尽くしてくれたお前にも惜しませない」
そう言って千歳は軽く目を伏せた。
「もういいだろう。俺もお前も。余生ってやつに浸っても。第二の人生ってやつを生きても」
リクは嗚咽を漏らしながら俯き、それ以上何も言おうとはしなかった。
否定も反論もせず、ただ泣いていた。
けれど鉛のようだった空気は少しだけ軽くなった気がした。これで一応の決着はついたのだと、私は甘い考えを持っていたから。
――重苦しい扉が再び開かれるその瞬間まで。
「我々に何の相談もなく、勝手な事を申されては困りますね」
低い声と幾つもの足音が、再び室内の空気を重く息苦しいものとした。
室内に入ってきた人々を見た鷹槻が目を見張る。それから低く砥いだような声を発した。
「……こんな所まで何しに来たんだよ。二ノ峰、三ノ峰戸主が分家まで連れてぞろぞろと」
挑むように、だけど驚きを隠せないままに鷹槻は彼らに向かってそう言った。
「戸主……ってことは」
鷹槻の鋭い視線の先にいる一人の人物。
四人いる五十代半ばほどの男性達の先頭に立つ、仕立ての良いスーツに眼鏡の奥の鷹のような鋭い眼光の男性。その顔立ちにはどこか鷹槻と鷹久、それぞれに通じるところがある。
「……もしかして」
「お初にお目にかかります。結恵様」
その男性が一歩進み出て慇懃に礼をした。
「私は二ノ峰家戸主、綾峰義鷹と申します。愚息共がお世話になっております」
「愚、息……」
と言うことはやはり。
「あんたのお父さん?」
鷹槻は無言で頷いた。
「義理のだけどな。鷹久にとっては間違いなく父親だけど、俺にとっては正確には伯父にあたる」
「鷹槻。千歳様、里玖様、そして本家令嬢の御前だ。口を慎みなさい」
義鷹の一睨みに、鷹槻は軽く舌打ちして口を閉ざした。
「義鷹に和典か」
千歳はさほど驚いた様子もなく呟いた。
その声に応じるように、義鷹の背後から彼より少し若く少し背は低いが、強い威圧感を持った男性が姿を現す。
「先日はお世話になりました。千歳様」
その声に聞き覚えがある。
千歳の部屋に訪ねてきて私が隠れた時の……そうだ。確かあの人も三ノ峰って言っていた。
……そうだ。祖父を歪みと言った人物。
「特に世話なんてしてやってないし、社交辞令はいいさ。後ろの二人が二ノ峰分家と三ノ峰分家か。顔を合わせるのは初めてだな」
千歳はあくまで軽い調子で口元だけで笑うと、後ろに控えていた二人が深く頭を垂れた。その様子を見ながら千歳はあくまで軽い調子で言う。
「シキタリじゃリクの部屋まで来るのは各家戸主だけで、それも当たりの子の披露目の時だけじゃなかったか?」
「はい。ですが非常時ですので幾らかの例外は目をお瞑り下さい」
そうして三ノ峰家戸主の視線が私に向けられる。
「初めてお目にかかります。三ノ峰家戸主、綾峰和典と申します。義将様の直系であらせられる結恵様におかれましては本家にお戻り頂き恐悦至極に存じます」
人の実の祖父のことを逃亡者だの歪みだの言っていたくせに、白々しい……。
思い切りなじってやりたい衝動に駆られたが、これから綾峰で生きていくならそれは得策じゃない。何も知らない顔で、ありきたりに返しておけばいいんだ。
「……綾峰結恵です。初めまして。不慣れなことも多いのでご迷惑をおかけすることも多々あるかと思いますが、今後ともよろしくお願い致します」
一礼して顔を上げると、四人の二ノ峰・三ノ峰の関係者達のガラス玉のような無機質で感情のない視線が不躾なまでに私に注がれていた。
値踏み、とまではいかないがこうもじろじろ見られては気分のいいものではない。そんなに『逃亡者』の孫が珍しいのかと内心苛立っていると鷹槻の義父・義鷹が口を開いた。
「ええ。今後、結恵様には千歳様のお側で過ごされるにあたって不自由ないよう綾峰一族一同、尽力致しますのでご心配には及びません」
「……え」
私が声を上げると、鷹槻が一歩進み出て噛みつくような勢いで義鷹に言った。
「どういうことだよ。義将じいさんの代わりにこいつを縛りつける気か? ただ孫ってだけでじいさんの身代りになれなんて随分な話じゃねぇの?」
そうだ。まだ私が『当たり』だってことを知っているのは私自身と千歳と鷹槻、そしてリクだけだ。
確かに私は自分で『当たり』として生きることを選んだけれど、この人達にはまだ知られていないはずだ。
けれど義鷹は冷え冷えと鷹槻に一瞥くれてやり、言った。
「結恵様は『当たり』なのだろう?」
瞬間、私と鷹槻、千歳も身を強張らせた。
しばらくの沈黙の後、千歳は皮肉るように笑って言った。
「監視カメラに盗聴器……そんなところか。俺の部屋か、それともこの部屋か……全く気付かなかったよ。まったく俺も身内に甘いことこの上ないな」
「監視カメラって……」
義鷹も和典も、他の二人もまるで動じない。そして鷹槻は予想の範疇だったのか、驚いたのは私だけだ。リクも眉ひとつ動かさない。
「内密にしておりました無礼はお許し下さい。ですが、監視カメラ等を設置しましたのはこの部屋のみ。千歳様のお部屋には最低限のプライバシーを守れるよう取り計らわせて頂いております」
「最低限、か」
千歳は唇を歪めて笑った。
「ま、俺も隠され養われの身で贅沢は言えないか。リクのほうも様子を見ておかないと、万一知らないところでリクに何かあったりしたら大変だもんな?」
おどけた様子で千歳は首を傾げる。
「その通りでございます。これも里玖様の御身の大事を思ってのこと。どうか御容赦を」
リクは色味のない目で義鷹達を見ていたが、状況についていけないのか興味がないのか分からないが、ただ黙っていた。
「盗撮とは随分いい趣味だな。ご立派な地位の人間が揃いも揃って」
鷹槻は侮蔑を隠す様子もなく吐き捨てるように言う。
「この女の大事? 違うだろ。義将じいさんに逃げられて次こそは確実に『当たり』のガキを逃がさないために見張ってたんだろ。この部屋に来るのは『当たり』の奴だけだからな」
「鷹槻。言葉を慎めと言ったはずだ」
「……俺は元当主も現当主も認めた本家の関係者だ。そんな口をきいていいのか。二ノ峰家戸主」
とても義理とはいえ親子の会話とは思えないような口ぶりで鷹槻は言った。
その言葉に義鷹は眉をひそめる。
「そう言えば、俺は極力桂子ばあさんに近づくなってガキの頃から散々言われてたっけか。悪いな。たった今まで忘れてたから、だいぶ前から桂子ばあさんとは個人的に色々と話してるんだ。その上で俺は先代当主の子として認められている。本家の関係者として」
この家で最大に物を言うのは本家。
千歳と里玖を庇護し、綾峰の繁栄になくてはならない存在である千歳の身を保証する血筋。
鷹槻は婿養子である先代当主の子だから正確には本家の血筋とは言えないが、それでも名目上は立派にこの家最大の権力者の一人だ。
義鷹が苦々しげに顔を歪ませると、和典が冷静に割って入った。
「二ノ峰。口論はまたの機会に。今は先にすべき事があるでしょう」
「……ああ。その通りだ」
咳払いをし、義鷹は仕切り直すように私を見た。
「お見苦しい所をお見せしましたが、そういった事情もあって我々は既に貴女が綾峰家にとってなくてはならない御方であると存じ上げております」
ああ、そういうことか。
ちらりとこの部屋唯一の扉を見る。
二ノ峰と三ノ峰の分家だっていう男が二人。強行突破は無理だ。鷹槻と私、それに千歳も数に入れたとしても、あちらは年はいっているとは言え大の男が四人。
それに強引にこの部屋を抜けたとしても意味はない。
綾峰の当主である大叔母に次ぐ権力者の二人が既にここにいる以上、どうせもうこの敷地から逃げられたとしても、この国……いや、この世界から逃げることはできないだろう。
それを鷹槻も感じているのだろう。義鷹を強く睨みつけたまま何かを思案するように黙っている。
……逃げる、か。
そっと一度瞼を伏せてから、義鷹と和典を見上げる。
二人の私を見る目は、あくまでこの家に必要な道具。それ以上でもそれ以下でもない。
これが、綾峰の呪い。歪み。
この家は呪われていると言った律達。
歪ませたと言った千歳。
一番呪われているのは千歳だと言った鷹槻。
その言葉の意味が、今ならよく分かる。
目の前のこの大人達が考えているのは衰えることない綾峰。
そのための犠牲など路傍の石も同然。
命あるものだろうが、意志あるものであろうが、絶対的存在である強い綾峰という家のためならば。
――呪いはこの家、この家の人間。
「結恵」
静かで深みのある声が私を呼ぶ。
その声のように静かな目をした千歳が私を見て言った。
「逃げていいんだ。お前は綾峰であって綾峰じゃない、外から来た義将の孫。お前までこの家に縛られることはない。歪みに捕らわれることはないんだ」
「千歳様」
千歳を窘めようとする義鷹に、千歳は静かだけれども強い威圧感を持った視線を向けた。
「本家の者はこの家の絶対王、だろ? それに結恵の意思に反して彼女をこの家に捕えようなんてつまらないことをするのなら、それこそ俺はこの場で舌を噛み切って死のう」
「義将様の時のような脅しはおやめ下さい」
「五十年前と違って脅しじゃない。今度は予言だよ」
薄い三日月のように口を弛めて千歳は笑う。
「……そんな予言はいらないよ、千歳」
私の口からは自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
もっと震えたり、感情的になったりすると思っていたのに。だけど今の私は妙に凪いだ心地だ。思いはもう決まっている。
義鷹たち綾峰の大人達を見つめ、口を開く。
「さっきまでの会話を聞いていたのなら話は早いです。私は『当たり』だから」
一瞬、空気が冷たく張り詰める。
「結恵」
千歳の明らかに納得のいっていない声に、私は視線だけを向けて答えた。
「言ったじゃん。絶対死なせないって。千歳の呪いは解くって」
そう言って笑う。
自分でもわかるほど、可愛げのない笑みで。
「貴方達がお偉方なら丁度いい。この家の方々にお伝えを。綾峰結恵は『当たり』。この家にとってなくてはならない人間。綾峰本家の人間」
「承知致しました。皆喜ぶことでしょう」
うやうやしく義鷹を筆頭として頭を下げてくる。
こうして形だけでもへりくだってくる相手に、私はさらに追い打ちをかけるんだ。
「それから、いずれ私がこの家の王となった暁にはこの家の呪いとやらはぶっ壊してやりますので、何卒ご留意を、と」
「……は?」
驚きに満ちた顔を上げてくる義鷹に、より一層意地悪く笑って言う。
「たった今の言葉の通りです。私はこの家の……と言うか千歳の呪いを解く気満々です。他でもない、この綾峰家の絶対的な力を以て。千歳ではないですけど、予言します」
唖然とした様子で義鷹も和典も、他の大人達も私を凝視してくる。困惑が伝わってくるが、それでもこの発言を撤回する気なんてない。どうせこの抜け目なさそうな大人達のことだ。私が素直に家に縛られるなんて思ってもいないだろう。
だったら先手を打って、こちらから宣戦布告しておいてやろうじゃないか。
にっこりと、私の得意な『大人受けのいい笑顔』を作って言う。
「そういうわけですので、どうぞよろしくお願い致します。綾峰の歪みの皆々様」
隣で鷹槻が呆れ混じりに笑みを零し、千歳が疲れたように息を吐くのを感じながら、もう一度私は大人達へとにっこりと笑ってやった。