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黒い純粋

 千歳は顔を上げてリクをまっすぐに見下ろした。

「どうされましたか? 千歳様」

 リクは別人のように穏やかな声で聞き返した。さっきまでのやり取りなどなかったかのような豹変ぶりに呆れるよりも怖さが立つ。

 猫を被るとかそういうレベルじゃない。

 多分私と鷹槻は、本当の意味ではリクの視界に入っていないんだ。

 ただ成行きを見ているしかできない私の前で千歳は無表情に、まるで台本を読み上げるような調子で言った。

「答えてくれ……リクは、里久も殺したのか? 毒を飲ませて殺したのか?」

 リクは落ち着いた笑顔でその言葉を聞いた。

 問いかけられた本人よりも、私と鷹槻のほうが動揺したくらいだ。

「随分率直に言ったな」

 ぽつりと鷹槻が漏らし、私も無言でそれに同意する。

 リクにとって絶対的存在である千歳に罪を暴かれる。それはただでさえ先の見えない今後をどう変えるのだろう。

 千歳なら既に分かっているのだろうか? 先見をして、今後どうなるかを既に知っているのだろうか?

 冷たい緊張感が室内に張りつめる。

 リクの大きな瞳がゆっくりと瞬いた。そうして開かれた瞳はやはり千歳だけを映している。千歳以外の何も映していない。

 そしてその小さな赤い唇が開かれる。

「はい。千歳様の仰るとおりです」

 軽やかな鈴のような声で、柔らかに開いた花のような笑顔でリクはそう答えた。

 言葉が出ない。

 足元から崩れおちそうになるのを何とか堪える。

 怖い。

 今、心から思う。リクの内が怖い。もう何が正しいのか分からないほどに歪みきった彼女が、怖い。

 喉が異様に乾いて、思考が止まったまま動かない。

「……んで」

 そうして無意識に言葉を紡いでいた。

「何で」

 そんな疑問がリクの耳に届くのかも疑わしい。だけど聞かずにはいられなかった。

「何で、千歳の大事な人を殺したの……?」

 それに対しリクの答えは簡潔なものだった。

 少しだけ首を傾けて、柔らかな笑顔で私を見て答えた。

「だって彼女は千歳様に相応しくなかったのよ」

 思わず息を呑む。

「ふさわし、くなかったって……そん、なの……」

 声が震え、その震えは全身にまで及ぶ。床に崩れかけたところを鷹槻が支えてくれたが、まだ震えは止まらない。肩を支えてくれる鷹槻も信じられないという顔をしていた。

 それすら見えていないかのように、リクは慈悲深い聖女のような笑みで続けた。

「見目も平凡、何に抜きん出たわけでもない凡庸きわまりない女。千歳様の素晴らしさを一も理解できない無知でうるさく騒ぐしかできない女……そんな女が、千歳様にふさわしいわけないでしょう?」

 千歳から五百年前の話を聞かされた時、里久とリクは仲が良かったのだと感じた。

 千歳もそれを好ましく思っていたのだと感じた。

 幸せな時だった、と千歳は話してくれた。

 その真実が、これ。

 やりきれない。色々なものが零れおちていくような錯覚に陥る。もう何もかもが嫌になる。

「何故泣くの?」

 リクは笑顔のまま私に尋ねた。

「……っ」

 リクの言葉には答えず、私は俯いた。

 目からは勝手に涙が溢れ頬を伝い落ちていく。ぐちゃぐちゃになった感情に全身を支配されて、言葉が出ない。

 ただ、嫌だ。

 胸が痛くて、息が詰まって、悲しいのか何なのか自分でもわからない。ぽたぽたと涙が床に落ちるのを見ているしか出来ない。

 肩を抱いてくれている鷹槻の両手に力がこもる。

 けどお互い、何も言えない。何も出来ない。

「――結恵」

 静かで優しい声に、涙でぐちゃぐちゃになっているであろう顔を上げた。

 千歳は笑っていた。

 少しだけ泣きそうに、けれどとても優しく笑っていた。

「ありがとうな、結恵。泣いてくれて」

 そんなことを言われて反射的に首を横に振る。お礼を言われるようなことなんてない。何もできずにみっともなく泣いているだけなのに。

「鷹槻もありがとう。お前は昔からマジで怒ると無言になるんだよな」

「……うるせぇな。気色悪ぃよ、お前のそんな殊勝な態度」

 鷹槻は顔を歪ませてそっぽを向いた。

 そんな様子を優しく笑いながら見ていた千歳の顔から一切の表情感情が消えたのは、本当に一瞬のことだった。

 全ては一瞬のこと。

 まるで時が止まったように。

 千歳の両手がリクの細い首にかけられたのも、リクが驚愕の表情を浮かべたままベッドに倒れ込んだのも。

 憎悪も何もない千歳の綺麗に整った、今は無機質なばかりの造形が一切の揺らぎなくリクの首を締めるのを、私達は息を呑む間もなく見ていた。

 それは整った二つの造形が、舞台上で何かを演じているようで。

 私達はその場に縛り付けられたかのように、ただ目で追うしか出来ずに。目の前で何が起こっているのかも理解できないままに。苦しげに吐き出されたリクの声に、ようやく目の前の出来事を理解させられた。締め上げる両手の意味を、やっと理解した。

「千歳っ!」

 悲鳴とも怒声ともつかない声を上げて、鷹槻とほぼ同時に千歳の元へと走った。

 だけど千歳はベッドに仰向けに倒れ込んだリクの首を締める手を離そうとはしない。必死にその手を引き剥がそうとするが、どこにこんな力があるのかというほどに千歳の腕はびくともしない。

 リクは抵抗しようとしているのか、迷っているのか千歳の両腕のあたりに手をさまよわせている。けれどその口からは苦しげな声が途切れ途切れに聞こえてくる。

「やめてっ、やめて千歳!!」

「バカやってんじゃねぇよ!!」

 鷹槻が叫び、千歳の頬をリクから引き剥がすように殴りつけた。

 その瞬間、リクの首は千歳の手から解放され、千歳は殴られた衝撃でよろめいたまま鷹槻に両肩を掴まれていた。

「何やってんだよ! てめぇは!!」

 ゴホゴホと苦しそうにリクが咳き込んでいる。その白い首には千歳の手の痕がうっすらと残っていた。それがつい先ほどの千歳の行動は本気だったのだと思い知らせ、薄ら寒いものを感じると共に、また涙が溢れてきた。

 ……何でこんなことになったんだろう?

 呪い?

 誰が?

 何が?

「……鷹槻。邪魔をするな」

「ふざけんなっ! お前、自分が何しようとしたのか分かってるのかよ!?」

 鷹槻の怒声に顔を上げた千歳の顔からはすっかり生気が抜けたようで、まるで知らない人のようだった。

「呪いは俺から始まった」

 千歳が小さく言った。

「俺がいたことで、この家は歪んだ道を辿ることになった。……俺が、リクを狂わせた」

 千歳はゆっくりとその目線をベッドの上で呆然としているリクに向けた。哀れみでも憎しみでもない、けれど見ていて酷く胸が痛くなるような目でリクを見て言った。

「本当は考えたことはあったんだ。もしかしたら常磐も、それにうちから不自然に死んでいった人間達も……唐突なまでに老いていった里久の死も、リクが何かしら関わっているんじゃないかって」

 感情の抜け切ったような声がそう告げる。

「けど俺はそれを確かめなかった。リクの中の何かが狂い出したことにも気付くことなく。そして里久も常磐も死んでいった。俺が何もしなかったから。俺のせいであいつらは死んでいった」

「……そ、それは千歳のせいじゃない!」

「俺のせいだよ」

 千歳は私を見ずに言った。

「リクも俺がいたことで狂い出した。いつからかは知らないけれど、でも俺がいたからこんな風になってしまって多くの人間が死んで行って、そして綾峰は歪んだ。……この家の呪いの始まりには確かに俺がいるんだ」

 自分に言い聞かせるように千歳は呟き、肩に置かれた鷹槻の手を外した。そして僅かに声を低くした。

「本当はもっと早く、何とかしなきゃいけなかったんだ」

「……何とかってのは、この女を殺すことか?」

 鷹槻は外された手で千歳の腕を押さえつけるように掴んだ。

 千歳はやんわりと、今にも壊れそうな微笑みを浮かべて言った。

「リクも俺も。本当はこの時代に存在しちゃいけないだろ? 歪みは正さなきゃな。それが呪いの原因になった俺のやるべきことだと思うし」

 何となく、その言葉の意味を察した。

「……それは、リクを殺して自分も死ぬ、みたいに聞こえる」

 千歳は私を見て、本当に本当に綺麗な笑みを浮かべた。声を上げて泣きたくなるくらいに。このまま消えてなくなってしまうんじゃないかというくらいに。

「結恵は優しくて聡い」

 柔らかな声がそう言う。

「俺の自慢の子供」

 嫌だ。

 やめて。

「鷹槻も。器用なのに不器用で、でも優しい人間に育った」

 そしてふっと笑う。

「歪みの元が消えることで、お前たちが少しでも優しい時間を過ごせるように祈るよ」

「やめて……やだ。遺言みたいなこと、言わないでよっ」

 震える口から何とか言葉を絞り出す。

 鷹槻も一層厳しい表情で千歳を睨んだ。

「全くだ。変なこと言うなよ、クソジジイ。お前までどうかしたのかよ!? この女を殺して自分も死ぬだなんてふざけたこと言ってんじゃねぇよ!!」

 耳が痛いほどの声で鷹槻は怒鳴り、千歳の胸倉を掴み上げた。

「そんな真似、絶対させねぇからな!」

 怒りで熱くなっている鷹槻とは対照的に、千歳は残酷なほど静かに落ち着き払っていた。

「俺がいたからリクは『俺のために』ってこれだけのことをしてきた」

「そんなのはその女が勝手にしたことだ。お前には一切関係ねぇ」

 きっぱりと言い切る鷹槻に、千歳は首を横に振った。

「それでも俺はリクかもしれないってことを疑いはしたんだ。疑える土台があったのにそれを怠った。その結果がこれだ。俺は自分が気付かないふりをしたことで里久が死んだって考えたくなかった……だから今まで考えないようにしてきた。けど、その勝手でこんなにも長い間この家は呪われてきた。歪んだ家にしてしまった」

「疑わしきは罰せずとか言うだろ。……里久についてはある種の事故だ。全部てめぇでかぶろうとするな。この家の連中が歪んでるのだってお前のせいじゃない。勝手にお前を生き神だとか祀り上げて、勝手に歪んでいったんだ。お前は悪くねぇ!」

 千歳の胸倉を強く掴んで鷹槻は俯いてしまった。

「悪くなんかねぇ……だから、頼むからそんなこと言うなよ……」

 千歳は微苦笑して鷹槻の背をあやすように軽く叩いた。

 そして顔を上げた千歳と私の目が合った。けれどどんな顔をしていいのかわからなくて、思わず目を逸らしてしまう。

 どうしていいのかわからない。

 まだまだこの家のことをわかってない私には、千歳のことを全部否定することが出来ない。

 けど千歳にそんなことをしてほしくない。

 それをどうしたらうまく伝えられる?

 どうしたら千歳を止められる?

 そんな埒の明かないことを考えた時だった。擦れた声が割って入った。

「……千歳、様」

 そこにはベッドの上で首元を押さえながら苦しげに荒い呼吸を繰り返し、赤く潤んだ瞳で千歳を見上げるリクの姿があった。

「千歳様は私の死を、お望みですか?」

 千歳は答えない。

 それでも構わずにリクは続ける。

「貴方の望みを全て叶えて差し上げる……それがあの日、貴方様に初めて出会った日。私を不快だと思わないと言って下さった日から、それだけが私の望み。生き甲斐」

 彼女の狂気を目の当たりにしたばかりだというのに、そう言って儚げに笑うリクが綺麗だと思った。

 黒い無垢。

 きっと彼女は無垢すぎてこうなった。

 誰が悪い、何が悪いとか、もう思えなくなっていた。

 思うのは、どうしてこんなことになったのかという痛みを伴う疑問。

 多分リクは本当に千歳が好きで。その方向はねじれてしまったけれど、本当にただ純粋に千歳が好きだったんだ。

 千歳は……里久さんが好きだった。

 その子供達が大事だった。

 二人それぞれ、ただ大切なものを想っていだけのはずなのに。

 想う事は悪いことなんかじゃないはずなのに、どうしてこんな風になってしまうんだろう?

「……おい」

 鷹槻が低く、私だけに聞こえるくらい小さく言った。

「ほだされるなよ。どんな経緯だろうと、物を言うのは全て結果なんだからな」

 まるで私の迷いを全て見透かしたようにそう言う。

「どんな理由があれ、この女がしてきたことは許されることじゃねぇんだ」

「わかってる。わかってるけど……!」

 リクがこれまでどれだけの人間を葬ってきたのかは知らない。

 それがどんな人達だったのかも知れない。

 けど、リクがこの五百年に人の命を奪ってきたのは確かなんだ――。

「千歳様」

 リクは薄らと笑みを浮かべて千歳を見上げる。

「貴方が望むのなら、私は喜んで死にましょう」

「……おいっ、舌噛ませるな!!」

 鷹槻がリクへ手を伸ばそうとした時、千歳の腕がそれを制止した。

「最後の責任くらいは俺も果たすよ」

「千歳……お前、何言ってやがる」

 身動きすることすら忘れた私と鷹槻の前で、千歳はまたリクの首へと手を伸ばした。

「ごめんな」

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