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綾峰家の子供たち

 綾峰家敷地内の緩い丘陵は幼い頃からの彼らの遊び場だった。

「ねぇねぇ。桂子様のところに義将よしまさ様の孫が来るのって今日でしょ? もう着いたかな。ねぇ鷹久たかひさは何か聞いてない?」

 木陰になった芝生の上で、柔らかな髪を耳の後ろでそれぞれに結った少女、四葉よつばは緩いクセ毛の少年を見上げた。

「四葉は最近そればっかだな。けど本来の本家直系かぁ。どんな子? 俺会ったことないんだよな。な、鷹槻タカツキ

「ああ」

 共に落ち着いた雰囲気を纏いながら、穏やかと冷ややかに分かれる二人は頷き合う。

「お前らだけじゃねぇよ。俺らもだっつの。親父らがうっせーんだもん。そもそも本家屋敷は俺らじゃ簡単に入れねーし。二ノ峰(にのみね)家のお前らですら会えないってどんだけだよ」

 小柄な少年、りつが苛々とした調子で毒づく。

「そんなに苛つくなよ。相変わらずカルシウム不足かぁ?」

 その横で意地悪げに笑うのは律の双子の弟、りょうだ。

「おめーは何でそんなに呑気なんだよ。少しは軽んじられてるってことに憤れ! 兄として恥ずかしいぜ」

 そうして全く見た目も性格も違う双子の兄弟は木陰で暴れだす。

 それを見ていた色素の薄い髪を背に流した少女、薫子かおるこは本から顔を上げず、呆れたように言う。

「近いうちにお披露目があるわよ」

 それを聞いて四葉は勢いよく薫子を見た。

「本当? 薫子ちゃん、何でそんなこと知ってるの? あたし達は聞いてないよ。ね、律令」

「ひとまとめで呼ぶな!」

 律は心底不快げに怒鳴る。

「そうそう。律なんかと一緒にされちゃ不本意極まりない」

 令はケラケラと笑う。

「んだと、オイ。てめ、お兄様を敬えっつってんだろ!?」

「いやー俺よりちっこい奴をお兄様って言ってもなぁ」

 そうしてまた双子は暴れ出す。

「うるさいわね」

 薫子は眉を顰め、そんな様子を眺めながら鷹久は言った。

「いつになるかはともかく、近いうちに俺らにもお披露目があるさ」

「何で鷹久も知ってるの?」

 四葉にシャツをつかまれて鷹久は苦笑する。

「例の『結恵様』っていうのは俺らと同い年くらいらしいから、仲良くしなさいってなお達しがあると思うよ」

「『結恵様』っていくつなの?」

「何だよ、全然情報まわってねぇのな」

 不満げに律が声を上げた。

「大人たちの噂じゃ薫子と鷹槻とタメらしいぜ。来年高校だと」

「じゃああたしの後輩だぁ」

 四葉がにこにこと嬉しそうな声を上げる。

 それを見て令は軽く笑う。

「どう見ても四葉のが後輩だとは思うけどなぁ」

「確かに」

 律の視線の先の四葉はどう見ても小学生。

 小柄な身長と童顔、幼い物言い。何とかさば読んでも中学生だ。

「うーっ。確かにあたしは背が低いよ! でも律にだけは言われる筋合いないもんっ」

「んだとぉっ!?」

 律が立ち上がり、四葉と睨みあう。

 その光景はどう見ても小学生のケンカだ。つまるところ彼、律も四葉同様幼い外見をもつ。

 綾峰律と令は二卵生双生児で今年中学二年。だが律は小学生時代から未だ成長期に入れず、声変わりもまだ済ませていない。その上、女顔と言って通りそうな容貌から小学生に見られることは数知れず。

 それに対し、双子の弟の令は背も高く、髪を染めたりしているからか高校生に見られることも多いから余計に律は気に入らない。

 背が低い、子供、という言葉は彼にとっては地雷だ。

「万年小学生に言われたかねぇんだよ」

「うるさいなぁ、人のこと言えるの?」

 令はすでに飽きたらしく、他の三人へと視線を向けた。

「あっちの二人はうるさすぎるくらいだってのに、お前らは間逆に落ち着き払ってるよなぁ」

 鷹久は持参のペットボトルから口を離して令を見た。

「世の中なるようにしかならないからな。世の流れに逆らわず生きるのが楽に生きるコツさ」

「相変わらずじじくせぇなー」

「お前らといると否応なく大人にならざるをえなかったんだよ。な、弟よ」

 鷹久に背中を叩かれ、ぼんやりと本家屋敷――或いはそれよりずっと奥を見ていた鷹槻が振り返る。

「痛ぇ」

 二つ年上の兄に、鷹槻は文句を込めた眼差しを送るが当の鷹久は悪気なく笑っている。

「そりゃ悪かった。それより『結恵様』は最低でも三年は本家屋敷にいるらしい。その間の世話役はお前と薫子なんだから、ちゃんと仲良くするんだぞ」

「その『結恵様』も嫌だろうな」

 いつの間にかケンカを終えた律がぼそりと呟く。

「何が嫌なのよ?律」

 聞き捨てならないとばかりに薫子が冷やかな視線を向ける、律はにっと歯を見せて笑った。

「老け顔二人に挟まれちゃ、疲れるだろうよってハナシ」

 老け顔という単語に薫子の細い眉がつり上がる。

「……それは童顔の僻みかしら?」

「老け顔を僻みやしねぇさ」

 途端、薫子が読んでいた本を律の顔めがけて放り投げる。

「老け顔じゃなくて、大人っぽいとおっしゃい!」

 そうして顔を抑える律を仁王立ちになって見下ろした。

 薫子は今年中学三年だが、年齢より落ち着いた物腰と雰囲気、端麗な容姿が実年齢より三つ、四つ上に見せる。四葉、律とは逆に何かと年長の扱いをされるのが彼女のコンプレックスだった。

「鷹槻! あなたも何か言いなさいな」

「……他人を貶めてもお前の背が伸びるわけじゃないんだからやめておけ。律」

「なぁっ!!」

 綾峰鷹槻は薫子と並んで歩けばそれこそ中学生には見えない大人びた整った容姿と冷たげで落ち着いた雰囲気の持ち主だ。そしてその冷たげな雰囲気に違わず、その口から飛び出す言葉、特に害意を向けてきた相手に返すものは氷のように冷やかなものが多い。

「あーあー鷹槻。たとえ本当のことでも、もう少し言い方って物があるだろ。ごめんな、律」

「謝ってんのかソレ!?」

 鷹久は鷹槻の兄で、この場では最年長の高校二年生。穏やかでいかにも良家の子息という立ち居振る舞いだが、その穏やかな言葉の端々にはどうも刺と毒がたっぷりある。

 この場の全員がこの綾峰家敷地内に暮らし、綾峰姓を名乗るチトセグループ経営者一族の一員だ。

「あ! 皆様、お揃いでいらしたんですね!」

 各々に過ごす木陰に、本家屋敷の使用人らしい若い男が息を上げて駆け寄ってくる。この様子だと随分走り回っていたのだろう。

「どうかしたの?」

 薫子の言葉に使用人は背筋を伸ばし、六人の顔をゆっくりと見回した。

「桂子様からのお言葉です。明日十一時、本家屋敷前庭にて義将様のお孫様を皆様にご紹介したいとのことです。出来る限りご参加頂くようにと申し付かって参りました」

「なら桂子様に伝えてくれる? 『喜んで全員参加させて頂きます』って」

 真っ先に人畜無害そうな笑みで答えたのは鷹久だ。

「え、はい。えーと皆様も……ご参加、で?」

 使用人は勝手に答えられたようにしか見えない他の五人を見回す。

 五人はお互いの顔を見やってから頷いた。

二ノ峰家戸主(にのみねけこしゅ)次男、鷹槻、参加させて頂く」

四ノ峰家(しのみねけ)戸主長女、四葉。参加しますっ」

四ノ峰分家(しのみねぶんけ)長男、律。参加する」

「|四ノ峰分家次男、令も参加で」

五ノ峰家(ごのみねけ)戸主長女、薫子。参加させて頂く旨、桂子様に宜しくお伝えを」

「はい。では皆様ご参加で。桂子様もお嬢様もお喜びになられると存じます。皆様のお越し、本家使用人一同お待ちいたしております。では」

 使用人は安堵の表情を浮かべて緩やかな丘陵になった芝生から小道へと戻っていく。

 それが見えなくなってから、鷹久が軽く笑みを零す。

「思ったより早いお披露目だな」

「あたし達を探したーってことは、メインは大人じゃなくてあたし達ってことだよね?」

「それぞれ家にも連絡が行ってるだろうが、一応各自に確認を取ったあたりを見るとそうだろう」

 鷹槻は本家屋敷を見ながら呟く。

「明日十一時ってことは昼食付きか。やりぃっ! 本家のメシは美味いんだよな」

「いやしいわよ、律。食事でなく、あくまでお披露目がメインなんだから」

「そーだぞ、バカ兄貴。健全な青少年として食事も大事だが、かわいい女の子を見るのが先だろ」

「てめっ……今バカって」

「仲良くなれるかな?」

 再び不穏なものが流れ始めたところを四葉の高めの声が遮った。

 しばらくの間、四葉以外の五人に妙に静かな空気が流れる。その視線は全て四葉へと向けられている。

 最初にその沈黙を破ったのは鷹槻だった。

「……向こう次第だろ。『様付け』を当然と思うようなら四葉の言うような仲良くは無理だろうし、向こうが四葉みたいに望むんならなれる可能性はある」

「そっかぁ。『結恵様』はどーなんだろ? あたしは仲良くなりたいなぁ。せっかく年の近い女の子なんだもん」

「うえ。様付け当然なんて高慢な女嫌だ」

 心底嫌そうな顔で律が息を吐く。

「つーか四葉。綾峰暮らしが十六年でそんなすぐ分かるような質問しちゃマズイだろー」

けらけらと令が笑う。

「うるさいな。令は年下のくせにナマイキっ。枯れたサヤインゲンみたいな髪の色しちゃって!!」

「何だそれ!? 枯れたサヤインゲンってどんなだよ」

「あーそれはきっと、初等部時代に理科の授業でサヤインゲンの栽培をしたはいいが、クラスで一人だけ枯らしてしまった四葉の悲しい経験がものを言ってるんだよ。あの生命途絶えましたっていう色は、確かに今の令の色抜いたり染めたりして痛みまくった髪によく似てるな」

 どちらに対してもフォローともつかない言葉を鷹久がさわやかな笑顔で言う。

 唖然と目を丸くして固まる二人に、律が吹き出す。

「枯れサヤインゲン…っ。アハハハハ!! だっせー、カッコつけてそんな妙な色に頭染めるから」

「妙じゃねぇだろー!? この金とアッシュブラウンとの具合がいいんだろが」

「何だ、それ色入れる時に失敗したんじゃなかったのか。わざとだったのか」

 鷹槻の本気の一言に、今度こそ律が地面を叩いて大笑いする。

「だよな、そう思うよな? あははははははは」

「律っ。てめぇ笑いすぎだっつの!!」

 ケンカを再発させる兄弟の隣で、話題に飽きた四葉が薫子の腕を引く。

「ねぇ薫子ちゃん。あたしお腹すいたし、そろそろ帰らない? 風も冷たくなってきたし」

「そうね。じゃあそろそろ帰りましょうか?」

「じゃあ俺らも。鷹槻?」

「……え?」

 遠くを見ていた鷹槻が一瞬驚いたような声をあげて顔を上げる。

「俺ら帰るけど、お前はまだここにいる?」

「いや……俺も帰る」

 鷹槻も立ち上がってジーンズについた芝生を掃う。

「おーいそこの双子。俺らは帰るぞ?」

「だめだねぇ、全然聞いてないよー。ああなっちゃうと手がつけられないから先帰ろう」

 彼らとは従兄弟同士の四葉がそう言うのならそうなのだろう。

 鷹久は声をかけるのをやめ、小道へと降りて行く。

「呼ばれたのって私達だけかしら? 同世代ということで」

 薫子が零すように言う。

「どうかな。子供は俺達以外にもいるから」

「俺達だけだったとしても、桂子ばあさんや他の連中の判断次第じゃこれから正式に一族の前でお披露目があるだろう。それから――」

「それから、最奥に」

 鷹槻の言葉をためらいなく四葉が続ける。

「逃亡者の血を、最奥に」

 先程までの幼い言動も雰囲気も消え失せ、不思議に静かな声音で告げる。

 湿った重苦しい沈黙が広がる。

「義将様はどこまでお話しになったのかしら?」

「さぁ。けど知っててこの家に来させる親も、来る子供も相当酔狂だとは思うね」

 鷹久が苦笑して答える。その目がどこか諦めを含んだ色に染まる。

「俺は早く、ここを出たいな」

 その呟きに答える者はいない。

 けれど、誰もが胸の内で思うのは同じこと。

「ここは淀んでる。ずっと昔から変わらずに」

「百年先も、八百年先も、千年先もきっとずっとずっと変わらない……」

 鷹槻と四葉の抑揚のない声が、空に吸い込まれた。




 明治時代の終わりに建てられたという綾峰本家屋敷は二階建て。それに地下があるそうだが、そこは使用人が使う場所なので出来るだけ行かないようにと言われた。そんな話を聞きながらステンドグラスが見下ろす吹き抜け階段を昇り、二階の一室の前で大叔母は立ち止まった。

「今日からここが結恵さんのお部屋です。何か不都合があったらいつでも言いにいらっしゃい。私の部屋はこの階の南西にありますから。内線もありますから、詳しい事は三波さんに聞いて頂戴。詳しい事はまた午後のお茶の時にでもお話しましょう」

「はいっ」

「では三波さん、結恵さんのことをよろしくお願いしますね」

「承知致しました。奥様」

 大叔母様の足音が遠ざかっていくのを聞いてから部屋の扉が閉じられる。

 バルコニー付きの部屋は二十畳ほど。

 まず目についたのはクイーンサイズのベッド。それとは別に小花柄の長椅子。カーテンも同じ柄。木製のデスクと椅子。本棚、ガラス扉のチェスト、クローゼットなどなど。アイボリーカラーの壁には水彩画らしい風景画が飾られている。ベッドの横のサイドテーブルには柔らかな色調のランプ。

(眩暈がしそう……)

 この部屋だけで、今まで住んでいた家のリビングサイズはある。

「お嬢様?」

「……」

「結恵様?」

「はっ、はいっ」

 私のことかと慌てて振り向くと、二十代後半かそれくらいの彼女はにっこりと微笑んだ。

「私、三波祥子みなみしょうこと申します。今日よりお嬢様付きの使用人となりましたので、何なりとお申し付け下さい」

「私付き?」

「はい」

 三波さんは笑顔で小さく頷いた。

(……今度は貴族になった気分だ)

 使用人……今の時代の日本にあったのか。少しの事じゃ動じないようにと自分に言い聞かせ、今日ここまで来たのだ。だがそんなことは全くの無駄だったらしい。

 わかってはいたが、世界が違いすぎる。

 心臓がうるさいほどにその存在を主張する。……でも、決めたのだ。

 私はここで生きていく。そして、そして――。

 きつく瞼を閉じて、三波さんを振り返った。

「あ、あの!」

「はい」

 三波さんは笑顔を崩さず答えてくれた。

 私は一回深呼吸して、彼女の目をしっかりと見据えて口を開いた。

「ご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞこれからよろしくお願いします」

「はい。こちらこそよろしくお願い致します。かわいらしいお嬢様がいらっしゃると奥様から伺い、今日と言う日をとても楽しみにしておりました。何かありましたら、遠慮なく仰って下さいましね?」

 三波さんの笑顔は人を安心させる。

 ゆっくりと、安心させるように言葉を紡いでくれるというのもあるのだろう。

「はい。ありがとうございます」

 正直、そう簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかった。

 使用人達にしか会っていないが、私はこの家を捨てた祖父の孫で、それもごく一般家庭育ちで本来ならばこんな大層な家となど全く縁のないはずだったのだから。

 これから会う親族が皆好意的な人達だなどと楽観視はしていない。

 けど、こうして大叔母や三波さんのような人がいてくれることは心強い。

 少なくとも私はこの家で、一人じゃない。

 こんなことを思っているようじゃまだまだだと思いながらも、やはり好意的に思ってくれる存在はありがたかった。


 それから三波さんに屋敷と敷地内の簡単な地図を持ってきてもらい、午後のお茶までの時間をつぶすことにした。

 シモンズ社のものらしい寝心地のいいベッドに寝転がり、地図を見た。

 敷地内北側にこの本家のお屋敷。それからさっき車で入ってきた表門からは奥に向かうにつれていくつかの屋敷がある。

 遠目で見た限り、この本家屋敷と変わらないくらい古い洋館、日本家屋。それから近代的な洋館などがあった。

 門の近くから順に五ノ峰家、四ノ峰家、三ノ峰家、二ノ峰家、その他に分家と記載されている。

「分家……?」

 それぞれの屋敷には注釈が書かれており、その五ノ峰家は戸主、綾峰誠一郎となっている。他の家も皆、戸主は綾峰姓となっている。

「呼称みたいなものかな。皆、綾峰だし」

 詳しい説明は追い追い聞いていくとしよう。

「あ、そろそろお茶の準備をしないと」

 せっかく大叔母からお誘い頂いたのに遅れるわけにはいかない。

 ベッドから起き上がり、クローゼットの中を漁ると、そこには自宅から送った服の他に大叔母から贈られた服が何着かある。その中に濃いブラウンの飾りレースがついたベージュのワンピースがある。

「うん、これにしよう」

 別に着替えて来いとは言われなかったが、何だか今着ているパーカーとデニムのスカートが場違いな気がしてならなかったから丁度いい。

 袖を通してみると今まで着たこともない上質な生地と縫製に感激する。こんなに上等な服が似合うものだろうかと考えながら部屋を後にした。


「まぁかわいらしい! よくお似合いだわ」

 三波さんに案内されてテラスに面したサロンに行くと、大叔母は両手を合わせて喜んでくれた。

「ありがとうございます」

 落ち着かなくて何度も椅子に座り直してしまう。そうしている間にもメイドが薔薇模様のティーカップに良い香りのするお茶を注いでくれる。

「いい香り」

「ダージリンでございます。ストレートで飲まれるのがよろしいかと思いましてミルクは用意致しませんでしたが、お持ちしましょうか?」

「いいえ。ストレートで頂きます」

 そう答えるとメイドは一礼し、カートを押してサロンを出て行った。

「おじいちゃんも紅茶が好きでした」

「昔から兄は紅茶好きでしたけど、結恵さんのおじい様となってからも変わらなかったのね。随分好き嫌いの激しい人でしたけれど、紅茶に関しては特にうるさくなかったかしら?」

「あ、はい。いつもたくさんの紅茶をストックしていて、飲む時は必ず自分で淹れていました」

「ふふっ。本当にここにいた時から変わらなかったのね。若い頃から兄は紅茶だけは人に任せず、自分で淹れていたんですよ」

「このお屋敷にいた時からですか?」

 自分で淹れなくたって全て使用人任せに出来たろうに。

「両親はそれをよくは思っていませんでしたが、私は兄が淹れた紅茶を飲むのが大好きで。兄が淹れた紅茶ほど美味しい紅茶を私は知りません」

「私も、です」

 祖父が淹れてくれる紅茶は私の好物の一つだった。

「結恵さんにとって、兄は良いおじい様でしたか?」

 大叔母はまっすぐに私を見てきた。

「はい。とても良い祖父でした。祖父は私の憧れで、一生の目標です」

 思うがままに口にすると、大叔母は嬉しそうに口元を綻ばせた。

「そうですか。生前兄から家族の話を伺った際にも思いましたが、やはり兄は幸せに過ごせたのですね。本当に良かった」

 優しい声色と目元には、祖父への愛情が滲み出ている。

 この人は本当に祖父のことを大切に思ってくれたんだ。

「……あの、祖父は大叔母様にとってはどのようなお兄さんでしたか? 私は晩年の祖父しか知らないので、若い頃の祖父のお話も伺いたいです」

 そう言うと大叔母は嬉しそうに目を細めた。

「そうですね……では私の昔話に付き合ってくださるかしら? 兄は私より十歳も年が離れていて……」

 それからお茶をしながら祖父の昔話をいくつも聞いた。

 大叔母の話す祖父はやはり私の知らない祖父だったけれど、根底は変わっていないように感じて、つい声を上げて笑ってしまったりした。

 小一時間ほどそんな話をして過ごし、いつの間にか緊張はほぐれていた。

「あらいけない。つい私ったらおしゃべりが過ぎてしまって。ごめんなさいね。結恵さんのこの家でのことをお話しなければならないのに」

「いえ。私の知らない祖父の話をたくさん聞けてとても嬉しかったです」

「そう。良かったわ」

 笑うと目元に皺ができてとても可愛らしい雰囲気になる人だ。

「そうそう。お勉強のことだけれど、結恵さんの通ってらした塾は遠くなってしまうし、家庭教師をつけるのがいいと思うのだけれどどうかしら?」

 実家からこの家までは車で一時間半ほど。とてもじゃないが通える距離ではない。

「はい。お願いします」

「ええ。では学校のことですけれど……」

 つい顔が強張った。けれど大叔母は私の胸の内を読んだかのように、安心させるように穏やかな声で続けた。

「綾峰の子供は多くが幼稚園から大学院までの私立校に通っているの。古くから交流のある家の経営で、そこなら私も安心して結恵さんを預けられると思うのだけれどどうかしら?」

 そして大叔母から続けられた学校名は国内の誰もが知る有名私立校だった。偏差値、学費、設備、あらゆる水準が国内最高クラスと言われる良家の子女御用達学校。

「わ、私なんか、とてもじゃないですがそんな立派な学校……」

 思わず俯いてしまう。確かにそこも受験したいとは思っていた。

 幼稚園からのエスカレーター式で、高校からの外部入学はほとんどないというし、おまけに内申書などの問題もある。だからせめて記念受験できればと思ってはいたが。

「そんなに自分を卑下してはならないわ」

 大叔母は優しくそう言った。

「結恵さんが一生懸命お勉強なさっているということは貴女のご両親からもよく伺っています。もし本当に嫌だと仰るのなら無理強いはできませんが、そうでなければ考えて頂けると嬉しいわ」

 大叔母は優しく微笑んでいた。

 ぎゅっと膝の上で両手を握り締める。

 願ってもない言葉。迷うな、迷うな……!

「出来れば私も通いたいです。けど、今の私の学力では到底授業についていけるとは思えません。ですから高校から……せめてあと半年必要な勉強をしてそれだけの学力がついたのなら、高校から緑櫻学院に通いたいです」

「わかりました。では最高の家庭教師を呼びましょう」

 大叔母は頼もしく答えてくれた。

「……お世話をおかけします」

「ご両親や兄の代わりにここにいる間は私が結恵さんのことを守るのですから、そんなことは気にしなくてよろしいのよ? 私も好きでさせて頂いているのだから。そうですね……せめてここにいる間だけでも出来れば大叔母様ではなく『おばあちゃん』と呼んで頂けると嬉しいわ」

「そっ、そんなとんでもないです!」

 いくらお世話になるからって、おばあちゃんだなんてそんな馴れ馴れしく呼べる立場の人だとは到底思えない。

 けれど大叔母は言った。

「けれどそのほうが家族のようでしょう? 大叔母様だなんて何だか他人行儀で寂しいわ」

 そう言った大叔母様が少し寂しげに見えて、つい頷いてしまう。

「で、では、おばあ様でどうでしょうか?」

 祖母ではないのだから本当はおばあ様というのも変なのだろうけれど、これが私なりの精一杯だ。

「まだ少し固い気もしますけれど……そうですね。ではそこから徐々に慣れていって下さると嬉しいわ。今日から私達は家族なのですから、どうかそんなに緊張なさらないで?」

 当たり前と言えば当たり前だけれど、気づかれていたんだ。

「この家は少々変わったところもあるから戸惑うこともあるかもしれませんけれど、何も遠慮はいりません。言いたいことがあったら何でも仰って頂戴?」

 この人は、知っていても色眼鏡をかけたりしないで私を見てくれる。ほんのついこの間会ったばかりの私を家族だと言ってくれる。

「ありがとう、ございます」

 嬉しくて嬉しくて、頬が弛みきっていた。

 それから明日の十一時に私と同世代の親族を紹介してくれるという話になり、そのまま夕食まで二人で話し込んでいた。

 祖父の若い頃の話。

 他の親戚達の話。

 温室にある蘭の話。

 様々な話をして、初めての綾峰本家での夜を迎えた。

 

 ベッドに入っても目が冴えてしまって眠れない。柔らかく温かな羽毛布団もマットレスもこれ以上なく心地いいのに、興奮してしまって眠れる気がしない。

 どうしようか散々迷った末、厨房に行ってホットミルクでも飲むことにした。

 厨房には深夜にも関わらずシェフがいて、明日の料理の仕込みをしていた。

 眠れないと話すると快くホットミルクを作ってくれ、私は温まった体で部屋へと戻った。

 ……戻っているつもりだったのだが。

「ここはどこ?」

 階段すら見当たらない。

 この辺りはなぜか人気もなく、灯りも灯っていない。

 言ってしまえばかなり怖い。

「誰かぁー……」

 夜なので小声で呼んでみるけれど、返事はない。仕方なくあちこちうろうろしていると一室から細い明かりが漏れていた。

 地獄に仏の気持ちで細く空いた扉に掛け寄ると、その風圧で扉が開く。

「……通路?」

 空いた扉の向こうには部屋ではなく、廊下が続いていた。

 明かりはその向こうから漏れてくる。

 心細さに負け、私はその廊下へと足を踏み出した。

 知らず、綾峰家の最奥へと。

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