里玖
何故だろう。
怖い。
得体の知れない不気味さが。
リクの微笑みと言葉を前に、もう全身の震えも恐怖も隠すことは出来なかった。
最後の意地で、睨みつけることしかできないなんてまるでケンカで負けた子供だ。それでも何か言葉をと思った時だった。
「随分偉そうだな。陰湿な呪い女風情が神にでもなったつもりか?」
私のすぐ隣に立つ鷹槻が腕を組み、厳しい表情でリクを睨みつけていた。
ふとリクの大きな黒目がちの瞳がゆっくりと鷹槻へと向けられ、そしてまた千歳へと戻された。
「千歳様。当たりの子が二人生まれたのですか?」
愛らしく首を傾げ、リクは問う。
だが千歳の真一文字に口を引き結んだまま答えず、代わりに鷹槻の絶対零度の響きを持った声が告げる。
「俺は当たりじゃない」
「……当たりではないの?」
本来この家のルールでは、鷹槻にリクと対面できる資格はない。それを破ったことを明言したにも等しい鷹槻に、リクは一体どんな反応をするのかと心臓が縮む思いで事の成行きを見守っていると、彼女は軽く目を伏せてから鷹槻を見上げた。
そしてゆっくりと言った。
「では何故貴方はここにいるの? 当たりの子でないのなら、貴方は千歳様のお役には立てない。ただ緩慢な人としての時を生きて死になさい」
当たり前のようにリクは人の生き死にを命ずる。
鷹槻ではないがその傲慢ぶりにいい加減腹が立ってきた。そしてそれが恐怖を抑え込む。
「……あんた一体何様のつもり!?」
つい感情のままに怒鳴りつけると、他の三人の目が一斉に私に向けられた。
しまった、と思いはするがもう後には引けない。
「何が生きて死ねよ。私も鷹槻も、あんたなんかに命令されて生き死に決めるほど安上がりな人間じゃない。あんたの言動は言うならば人権侵害よ」
リクは大きな目を一層大きく見開いたかと思えば、不快げに眉を顰めた。
「貴女たちは千歳様のためだけに生まれてきたの。確かに貴女たちの生死を決める権利は私にはないわ。だってこの綾峰という家は全て、千歳様のためにあるのだから」
「全部を千歳に押しつけないでよ! それはあんたの傲慢でしかない。あんた、千歳の意見とか聞いたことあるの?」
「聞かなくても分かるわ」
緋色の唇から発せられたのは、昏い昏い響きを孕んだ声。
冷たいものが背筋を這うような感覚がした。
真っ黒な瞳が深い深い底のない闇のように思えた。
「私には千歳様の全てが分かる。私は千歳様のためだけに生きているのだから」
闇そのもののような瞳が、今は奇怪にしか感じられない鮮やかな緋色の唇が千歳に向けて笑みを作る。
「……リク」
千歳は眉根を寄せ、きつく両手を握り締めた。
リクは笑う。
「私はいつだって千歳様だけのことを想っております。ですから千歳様は何を憂う事もありません」
くすくすくす。
鈴を転がすような笑い声が室内に響く。
リクの目は千歳だけしか見ていない。少なくとも、リク本人はそう思っている。
だけど第三者の私や鷹槻。そして当の千歳もリクが本当は何も見ていないことに嫌でも気付かされる。
リクは正気じゃない。
彼女に感じる異様な恐怖。それはリクの内にある狂気へのものだった。
「……草次郎、いや常磐は」
鷹槻は低く呟いた。
「常磐はどうした?」
鷹槻の鋭い視線を受け、リクは首を傾げた。
「何故、そんなことを聞くの?」
「その言い方じゃ、まるで聞かれたら困るみたいに聞こえるな」
「困らないわ。困らないけれど何故貴方が常磐を気にかけるの? 貴方は綾峰の人間でしょう?」
何か、変だ。
全身から嫌な汗が吹き出す。
「貴方は、千歳様のことだけを考えればいいの。常磐のことなど考えなくていいの」
「……お前に指図される覚えはねぇ。答えろ」
その低い声にこちらの身が竦む。
「鷹槻。常磐は……」
言いかけた千歳を鷹槻が制する。
「千歳は黙ってろよ。俺はその女に聞いてるんだ」
「貴方、千歳様に向かってなんて口の聞き方をするの?」
僅かにリクの声に怒りが滲む。
「躾が足りないわ。きちんと躾け直すようにさせなくては……」
「俺の質問に先に答えろ」
ぴしゃりと鷹槻は言い放つ。
「常磐はどうした?」
リクは感情の起伏を一切なくした声で答えた。
「死んだわ」
綾峰本家が呪いを受けたのは、常磐を永遠に生かす人魚の肉の代わりとなるため。
常磐を生かすことによって常に先を見て綾峰家を守り、永遠に繁栄させるため。
なのにその常磐はもういない?
何故?
そう思ったのは一瞬。
鷹槻とリクの会話で、薄々気付いていた。鷹槻も察してはいただろう。それを敢えてリクから答えを引きずりだした。でも何のために……?
「常磐もお前が殺したのか?」
思わずリクから視線を外し、鷹槻を見上げた。
鷹槻はリクだけをまっすぐに睨み据えている。
「常磐についてこの家の一部の人間しか見ることができない記録にあった。三百年前、常磐は死んだ。女癖、酒癖の悪かった常磐は妾の一人に殺されたってな」
「殺され……?」
綾峰の生き神。
先見をする予言の子。
綾峰の宝。
その最期がそれ?
「……この家の記録は全部見たって言ったろ」
鷹槻は私を見ずに小さく言った。
「け、けど……!」
千歳達は不死ではない。それはさっきも言っていた。
だがその存在を何より珍重された常磐がそんな最期を遂げるなんてことがあるのか?
そんな私の困惑を読み取ったように、鷹槻は言った。
「お前がそう仕向けたんだろ。妾を焚きつけて」
その言葉は刃のようにリクへと向けられた。
リクは無表情に鷹槻を見ていた。
「それが何か問題なの?」
悪びれないと言うレベルじゃない。心からの疑問とでも言うように、リクは尋ねてきた。
「だっていらないでしょう? 綾峰には千歳様がいるのだから。常磐なんていらない。だから死んでいいの」
ああ、もう本当に狂ってる。
千歳の握りしめられた両手は細かく震えていて、伏せられた顔は髪に隠されて窺うことはできない。
リクはそんな千歳を心配そうに見上げた。
「千歳様? どうなさったの? お体の具合でも悪いのですか?」
細い手がそっと伸ばされる。だがその手は、当の千歳によって乾いた音をたてて払われた。
千歳は自分の行動が信じられないかのようだったが、一瞬泣きそうな顔をしたかと思うとそのまま俯いた。
リクは払われた手を見やって、また千歳を見上げた。
「千歳様? どうなさったの? 千歳様」
――無垢。
リクを例えるならきっとそれ。
けれど色に例えるなら純白じゃない。
純黒。全ての色を吸収してしまう、実際にはありえない形而上の黒色だ。
あり得ないほどに深くどこまでも純粋な黒。まるでリクそのもののような。
「……本来綾峰に必要とされたのは双子の兄の常磐のほうじゃなかったのか?」
鷹槻の問いかけにリクはこの世の道理を述べるように毅然と言い放った。
「綾峰は愚かな家」
黒の瞳は千歳だけを見上げたまま、リクは続ける。
「千歳様が先に生まれてきたら常磐の立場であったのは千歳様。そうであればきっともっと綾峰は繁栄したわ。千歳様は常磐などとは比べ物にならいほどに素晴らしい御方。それに気づけなかった綾峰はとても愚か」
「愚か、愚かって……その家に雇われてたんでしょ? あんたは」
キャッチボールもままならない会話に苛立って私は一歩踏み出して敵愾心も剥き出しに言った。
そこでリクの底なしの闇のような瞳が私を映した。
「そうよ。この愚かな家から千歳様を守るために」
闇に染み入るような声がそう告げる。
「お前は千歳達の父親によって雇われたって聞いた」
鷹槻の言葉にもリクは淀みなく答える。
「そう。私は呪術師で薬師。依頼を受け、達成したら綾峰を去るつもりだった。……けど、私は綾峰家で見つけたの。私が生まれてきた理由。生きる理由。呪術を学んできた理由を」
「それが、千歳か」
絞り出すような鷹槻の言葉に、リクは綺麗過ぎるほどに綺麗な笑みを浮かべた。
「そう。私の千歳様。私の顔の火傷すら厭わない、美しくてお優しい御方。この世の何より尊い御方。この人に会えた。この方に出会うために、この方の災いとなるものを全て取り除くために私は生まれて来たの」
夢見るように、うっとりとした表情でリクは言う。
「……くだらねぇ」
低く唸るように鷹槻は呟いた。その表情は険しい。
「それはてめぇの妄想だ。夢見がちなんて言葉で済ませられると思うなよ。お前が今までしてきた事の重さはそんなものじゃ済まない」
今までで一番強い口調で声音でそう言う。
まるで断罪者のように。
リクの柳眉がひそめられる。
「貴方の言っていることの意味がわからないわ」
「わかってもらおうなんて思ってないから安心しろ。さっき結恵も言ったけどな、お前のソレはただの独りよがり、自己満足だ。千歳を理由にして、お前は自分に降りかかる責任から逃げているだけだ。人を殺したことも、全て千歳のためだと言ってその責任を千歳に押しつけているだけだ」
「千歳様に負うべき責なんてないもの。千歳様の前には誰の命も塵芥も同然。あってもなくても変わらない物。そんな物を駆除するのに責任もないでしょう?」
……一体私は彼女に何を言おうとしていたんだろう。
どこまでもまっすぐに、どこまでも深い闇にあるその目を見て、私は何を伝えようとしていたんだろう。
伝える?
そんなこと不可能だ。
私からリクには何も伝わらない。生きている時間の流れ、思考の存在する場所……そんなものが全く違う。
彼女とはどう足掻いても相容れない。理解し合う事など出来ない。
私の中でどれだけ大事な人間だろうと、それと比較して他人の命を無価値なものとして扱う事は出来ない。『誰かのため』と銘打っても、私には人は殺せない。出来たとしてもきっと罪悪感で自分が死ぬ。
私とリクはまるで違う場所を歩いていて、それは永遠に平行線を辿るんだ。
それくらい私達は違う。
一向にまともな会話が成り立たず、さすがに鷹槻にも苛立ちが見え始める。
それはリクも同様のようだった。私の態度といい、当たりでもない鷹槻の物言い、そんな状況を気に入るわけもないのだろうが。
とにかく今はこの状況を何とかしなければ。
ちらりと千歳に見ると、俯いたまま全く動かない。
千歳にとってリクはずっと信頼してきた相手だ。その相手の本性を知ったら、さしもの千歳とてショックは大きいのだろう。
「……とにかく! 私は『当たり』! ここで宣言する。綾峰結恵は当たりの血。この家にとってなくてはならない血!」
腹の底からの言葉にも、リクはさしたる関心も向けない。
「さっきも聞いたわ。貴女は本家の者ね?」
「そうだけど」
何だか不快な言い方だ。
リクは不愉快そうに眉をひそめ、白い袖で口元を覆った。
「愚かな常磐の血の子供。……それに本家ということは、桂子の娘の子かしら? それともその子供? あのふしだらな娘の血の者なんて、ろくでもないわ。当たりでなければ千歳様の視界になど入れさせないのに」
吐き捨てるような言葉に、頭に血が昇る。
「あんた、おばあ様を侮辱する気?」
「おばあ様……誰のこと?」
リクは軽く首を傾げた。
「綾峰の当主、桂子おばあ様。私の実の大叔母様のことよ!」
「大叔母? 貴女、桂子の孫ではないの?」
「私は綾峰義将の孫。桂子おばあ様の兄にあたる人の孫よ!」
リクの目が一瞬見開かれたかと思うと、それは酷く険しいものへと変わった。
「義将の、孫。……千歳様を見捨てた男の孫。何故そんな輩がここにいるの? 一度は千歳様を見捨てたくせに、厚かましい」
まるで呪いの言葉のように、低く這うような声。リクがどれほど祖父を恨んでいるか嫌と言う程に思い知らされるような重い声。
「常磐の血を引く、身勝手なあの忌々しい子供の孫。何故貴女などが」
憎悪に満ちた黒々とした瞳に射竦められる。本能的な恐怖を煽る彼女に、思わず退き身震いしている自分がいた。
鷹槻ですら強く睨みつけながらもそれ以上は動けないでいる。
リクは人間の本能に訴えかけてくる恐怖そのもののよう。
それがその狂気故か、それとも生れついてのものかは知らない。
……そう。そんなことはどうでもいいんだ。
問題は、どうするか。
千歳の呪いを解くなんて言っておいて、一秒先にどうしたらいいのかすら分からない。
(考えたってどうにもならなそうな状況が、更に悪化してるじゃない)
鷹槻なら何か……一瞬そう思って首を振る。
いつまで人に頼ってばかりいるつもりだ。綾峰に来る前、一人で生きていけるようになるために、その力を得るためにこの家に来ようと決めたのに。なのにこの期に及んでまだ人任せにするのか、私は。
リクなり常磐なりに会いさえすれば何とでもなると思ってた。
だがその常磐はいない。
リクひとりを前にして、逆にその不可能性を認識させられた。
……こんなんじゃ、千歳の呪いを解くなんて出来ないじゃないか。
「リク」
静かな、夜の海のように静かな声がその名前を呼んだ。
その声の主はずっと黙っていた千歳だった。こんなにも静かな声を発する千歳は見たことがない。静かすぎて怖いほどに、静かな彼は。