黒に歪み堕ちる
黙り込んだ千歳の代わりに鷹槻が口を開いた。
「そのままの意味だ。この家の裏歴史みたいなもの……たとえば千歳達が不老を得た事とか、稀にあったお家騒動みたいなもの。そういうのがごく一部の人間しか見れない記録として残ってるんだよ。どんなものでもこの家を形作ってきた歴史には違いないからって。そういうのには全てが書かれていた」
更に鷹槻は続けた。
「三年かかった。ただでさえガキの手の届くところなんかには置いてない文書だった上、古文書だ。更には暗号じみた部分もあった。けどそれを全て読んだ。読んで、知った」
鷹槻の声が低く鋭く砥がれる。
「五百年前にこの家に雇われた呪術師、里玖について」
千歳は顔を上げず黙ったままだった。
室内を支配する空気が重苦しい。
それから逃れたくて、私は鷹槻の袖を引いて先を促した。
鷹槻は一度頷きそして口にした。
「第三者目線の記録だった。そこに書かれていたのは、年老いない綾峰家お抱えの薬師、里玖がその薬によって綾峰一族を助け、そして殺してきた記録」
その低い声に、最後の短い言葉に息を呑む。
声を出そうとする私を鷹槻は目で制して続けた。
「里玖は確かにある意味では綾峰に忠実な奴だ。綾峰にとって不必要な、あるいは不穏分子になりかねない人間を次々とその薬だの呪いだので殺して行ったんだからな」
「……お前の歳でそこまで調べた奴は初めてだよ」
千歳は俯いたまま深く息を吐いた。
「千歳は知ってたの? 千歳が今まで生きてきたのは里久さんが遺した子供達に望まれたから、子供達を守りたいって思ったからなんでしょ? なのに何で黙って……――」
「こいつは意外に鈍いんだよ。妙なところで他人を信じすぎる」
言い募る私を抑えるように鷹槻は言った。
「え?」
鷹槻は千歳へ視線を向けて言った。
「里玖って女の本性に気づけなかった。そうじゃねぇの?」
千歳は答えない。
答えないという事こそがその問いに肯定している。
「でも、もう知ってるんだろ? 里玖って奴は、お前の……」
「鷹槻!!」
その淡々とした声は千歳の怒声によってかき消された。
今しがたの声がとても千歳から発せられたものとは思えなくて、言葉を失う。それは私だけでなく鷹槻もだ。
いつだって温厚な千歳がこんな風に激昂するなんて、想像もつかなかった。
たった今目前にしたというのに、それすら幻だったのではないかとすら思ってしまう。
「……悪い」
千歳は肩で息を整えながら、ソファに座り直した。
鷹槻はそれを見てから小さく言った。
「俺も……悪かった」
鷹槻の謝罪に千歳は首を振った。
「いや。お前の言うとおりだから。本当の事だってわかってるから自分を抑えられなかった。……全く。いい年して俺もガキかっての」
乾いた笑い声をあげてから千歳は私を見た。
今にも崩れてしまいそうなその表情が痛々しくて、観ているこちらのほうが泣きたくなった。
「結恵に至っては何が何だかわかんないよな? 悪かった」
「……ううん」
「千歳」
鷹槻の静かな呼びかけに千歳はそちらに視線を向けた。
「言葉にしたくないなら俺が言う。千歳には悪いと思うけど、でもこのまま結恵をあいつに会わせる気はねぇ。結恵自身が何と言おうと、全部教えてからじゃなきゃ行かせない。結恵はもう俺にとっても『身内』だ」
淡々としているのに強い声音。
その強い目と口調を見定めるようにしてから千歳は眉根を寄せ、重たい口を開いた。
「……リクは、俺の妻の里久を殺したんだ。今となっては証拠は……ないけど」
「え」
「あの当時の綾峰一族の命はリクが握っていたと言ってもいい。ちょっとした不調や怪我にも腕のいい薬師だったリクが全て任されていたから。……そんなだったから」
「毎日のちょっとした不調の薬の代わりに緩やかにしに至らしめる毒を混ぜる事くらい、造作もない」
辛そうな千歳の言葉を引き継ぐように、鷹槻が言った。
「うそ」
思わずそんな言葉が口から転げ落ちる。
「だって千歳、幸せだったって……三人で」
たった今、三人で幸せに過ごしてたって聞いたばかりなのに。
そんなことって……。
だけど千歳は唇を噛みしめ、俯いてしまった。膝の上で組んだ手が微かに震えている。
それが全て真実なんだと教えてくれる。
「何で、何でリクが……千歳の奥さんを……?」
私は顔を上げて鷹槻を見た。
「何で、千歳の口からこんなこと言わせるの? こんなの……」
「人の口から言われるほうが嫌なことだってある」
鷹槻はまっすぐに私の目を見て言った。
あまりにまっすぐに見つめられるものだから私のほうが悪いような気すらしてきて、つい目を背けてしまう。
「でも……でも、何で今言う必要があったの!?」
どうしても話さなきゃいけないことなら、千歳のいないところで教えてくれればよかったのに。
それでも千歳が話さなきゃいけないことなら、せめて前もって話してくれって言っておけばよかったのに。
鷹槻が言ったようにどんなに辛い事でも他人の口から話されたくない気持ちも分かる。
鷹槻だって千歳を気遣ってるって分かってる。
でも私は……千歳にこんな辛い顔してほしくない。
「結恵。鷹槻を責めてやるな」
気付けば千歳は疲れた顔で微かに笑っていた。
「千歳……」
「そいつもお前のことを思ってやってるんだから」
「え」
鷹槻を見ると、今度は鷹槻が目を逸らした。
千歳は小さく笑ってからその表情から笑みを消し、まっすぐに私を見据えた。
「結恵がもし、自分を『当たり』だと言うなら、結恵はこれからリクのもとへ行くことになるから」
「……いるの? リクが」
目を見開いて千歳を凝視してしまう。
千歳は無言で頷いた。
「一応これも代々の慣例なんだ。『当たり』はリクの元へ挨拶に行く。リクは綾峰に多大な恩恵をもたらした人間として、生き神のように扱われているから」
「生き神……」
その言葉をいつか聞いた。
そう、律の怪談だ。
半魚になった綾峰の祖先。
実際は祖先ではなく、その祖先に仕えた人間だったわけだが。
「けど」
千歳は言った。
「当たりはずれを見極めることは他人には出来ない。その血を口にするまでは。だから基本的には自己申告になるんだ。つまり、結恵が『当たり』だと言うなら結恵は当たりの子。外れだと言うのなら、外れになる」
「……選べってそういうこと?」
震えるように発せられた言葉に千歳は一度だけ頷いた。
脳裏を以前聞いた言葉が過る。
――逃亡者の血。
以前、三ノ峰だという大人は祖父を『逃亡者』と呼んだ。
祖父はこの家に縛られることよりも祖母と生きることを選んだ。
それがこの家の絶対を揺るがすことになるとしても、この家を出た。本人が逃げたつもりはなくてもこの家からすれば立派な逃亡だっただろう。
祖父は私とは違って『当たり』だと多くの人間に知られていたというのだから。
……私はまだ、逃げられる。
この家から。
血の呪いから。
私はまだ、正々堂々とこの家から出ることが出来る。
そう思いながらきつく目を閉じ、両手を握りしめた。
逃げることは悪い事じゃない。時には必要な選択。
どんなに悔しくて不本意で、他人に後ろ指さされることがあろうとも。
責任を捨て去り逃げること。無謀を知りながら敢えて逃げないこと。
前者は自身の矜持への裏切り。
後者は自身を軽んじる行為。
時として選択は非情な物だ。以前、祖父にそう言われた。
選ぶことは同時に何かを捨てるという事でもある。だからこそ自分の信念を持て。捨てた痛みを引きずることがあっても、その選択を後悔することのないように確かな意志を持ちなさい。自分の決めた事は、最後まで貫き通しなさい。自分の選択に、生き方に誇りを持ちなさい。
優しい手はそう言って私を撫でてくれた。
強く優しい人だった祖父。
あの人ならどうするだろう?
優しくて、怒ると怖くて、頭がよくて、時々大人げなかった自慢の祖父は。
……ああ、きっとこう言う。
――私の言うかもしれないことを想像している暇があったら自分のすべきことを考えなさい。私と結恵は別の人間なのだから、いつまでも私のことばかり気にして自分を疎かにするんじゃない。
そんな風に怒られる想像がリアルに出来てしまい、つい身が竦む。
いつだって確固たる自分を持つおじいちゃんに強く憧れていた。憧れて、ああなりたいと思っていた。
だからおじいちゃんの行動をなぞろうと努力した。
けどそれでは結局、私の憧れのおじいちゃんの行動から外れて行っているのだから笑い話だ。私は他人の行動の猿真似しかできない自分になりたいわけじゃないのだから。
私はゆっくりと瞼を持ち上げ、千歳を見据えた。
「決めたよ」
千歳と鷹槻の視線が向けられた。
ひと呼吸して、私は私の選択を口にする。
「私は『当たり』だ」
千歳の目が大きく見開かれ、鷹槻は全くと言っていいほど反応がない。
そんな対照的な二人の反応を見ながらひとつひとつ、私の思いを言葉にして行く。
「私は綾峰を利用するつもりでここに来た。この家の地位と権力を以て、私が私でいるために。ここに縛られようが何だろうが、私の当初の目的は果たす。むしろ、それだけ深く綾峰に関係すれば私の地位は絶対安泰でしょ! そういうわけで、私は『当たり』! さぁ敬え!」
そう言い放ち、呆然と私を見やる二人に胸を逸らす。
言葉がないとはまさにこのことか。千歳は軽く口を開けてそれこそいつかの私のように瞳孔が開きっぱなしになりそうだ。
鷹槻は軽く眉を顰め、無表情に近い顔に軽く困惑の色を滲ませている。
私はその空気に耐えきれず、軽く二人を睨んだ。
「……何さ」
「…………お前、バカだよな」
そう言ったのは鷹槻。
眉を顰めたまま、まっすぐに私を見てくる。
「バカじゃないっつの」
「バカだろ? いや、変人か」
鷹槻は意地悪げに半眼になって薄い唇を吊り上げた。
そう言えば言われた。この家の全てを聞いて、それでもこの家に残りたいと思うことが変人のようなことを。
滅多に表情を変えない鷹槻の希少な笑顔に、私は挑むように噛みつくように言う。
「変人上等。変人くらいのほうが大成するんだよ」
「まぁ歴史を見てもだいたいそうだな。常識に捕らわれる人間はある程度までしか行けない。本当に上に行くなら型破りが過ぎるくらいのほうがいいだろ」
「そーいうこと!」
「……お前らは」
千歳が心底うんざりしたように額に手を当てて、低く呟いた。
「平穏無事に人生送ってほしいって親心を少しは察しろよ」
その言葉に私と鷹槻は顔を見合わせる。
「親心って、何か千歳、急に老けこんだね」
「ひいひいひいひい……とにかく、大昔のじいさんだろ?」
「あーそうはっきりじいさんとか言われると腹立つけどな、この際それは置いておこう。今はそれよりも結恵だ。短慮もほどほどにしておけよ?」
「短慮って失礼な。私だってちゃんと物を考えてます! 考えに考え抜いて、それでちゃんと答えたのに何て失礼な言い草。頭から決めてかかる嫌な大人みたいなこと言わないでよ」
「ちゃんと考えた人間がこの家にわざわざ……」
「ここで全部忘れてこの家を出たら、私は一生後悔する」
千歳の言葉を遮るように言い放つ。
「自分が選んだことを後悔なんてしたくない。痛みが残って結果辛い事があったとしても、自分の選択を失敗だったと思うような生き方したくない。どんな結果になったとしても、胸を張って私はその時最善のことをしたって言える生き方をしたい」
そんなこと、土台無理な話なのかもしれないけれど。自分自身に後悔せずに生きて行くなんて理想論でしかないのかもしれないけれど。
でもそう思うんだ。
「今ここで何もなかったことにしてこの家を出て行ったら、私は絶対後悔する! まだこの家に来て日は浅いけど、おばあ様や千歳や鷹槻や皆が大事だって思うんだよ。大事な人達放って、自分ひとりが何事もなかったフリして生きて行くなんてそんなの絶対嫌だ!」
千歳は渋い顔で私を見た。
「それでも……」
「俺達の意見を最大限に尊重してくれるんだろ? 遠いご先祖の千歳サマは」
鷹槻の堂々たる声が、千歳の言葉を遮った。
「義将じいさんがこの家を出た時も、お前の子供達が血を口にして永遠に生きろって言った時だってお前は止めなかったんだろ? 本人達の意見尊重ってことで。なのに何で結恵の意見は聞き入れてやんねぇんだよ」
「……鷹槻」
千歳が何か言おうとするが、鷹槻は構わずに続けた。
「お前の個人の意見大事にするとこは好きだよ。感謝もしてる。……でもだったら、千歳も千歳のことを大事にしろよ。子孫が大事だって言い訳にして、今のお前は自分の思いを隠してるだけだろ!?」
怒鳴るような鷹槻の言葉に、千歳の瞳から色味が失せる。
「五百年も血が繋がってるって理由だけで他人に生き方決められてんじゃねぇよ! お前にだって生きてるからには自分で考えて自分で生きる権利があるんだからな!」
鷹槻がこんなにも感情的に怒って、饒舌で。
千歳がこんなにも人間的でただの人に見える。
それはとても不思議な気分だった。
私が見てきた千歳はどこか浮世離れした不思議で掴みどころのない、人離れした人で。
鷹槻は感情なんてないように無表情で言葉少なで、喋っても何を考えているのかなんてさっぱりわからなくて。
言葉も出ずにそんな二人を見上げていると、千歳が深い溜め息と共に口を開いた。
「……俺にそんな口きいた奴は初めてだ」
「五百年間誰も言わなかったってことのが不思議なくらいだ。……千歳。お前はこの家にとっちゃ呪いだけど、でもその呪いはいつだってお前が望めば解けるはずだった」
「そうだな。うん、そうだ」
千歳はひとりごちるように言った。
「この家の呪いがいつまでも続いたのは鷹槻の言う通り、俺の責任が大きい。俺が不老長寿を拒めば。人間として生きていればこの家はこんなにも歪む事はなかったんだろうな」
ぽつりぽつりと一言一言を紡いでいく。
その姿に酷く胸が締め付けられる。
千歳ひとりが重い重い責任を負っているようで。今まで生きてきた千歳を彼自身が否定しているようで。
千歳と鷹槻の言葉は正しいのかもしれない。
けど正しいことが必ずしも良いことではない。その見極めはとても難しいことだけれど、少なくとも今までの自分を否定する千歳を見ることは辛い。
鷹槻だって千歳を大事だと言ったのに。なのに何でそんなことを言うんだと声を上げようとした時、鷹槻は言った。
「じゃあ今から呪い解きに行こうぜ」
その言葉に千歳は目を丸くして鷹槻を見上げた。
そんな千歳を見下ろしながら鷹槻は強い調子で言った。
「言ったろ? 俺達がお前の忌々しいことこの上ない呪いを解いてやるって。な? 結恵」
突然話を振られ、一瞬硬直する。
だがすぐに大きく首を縦に振った。
「呪われた家なんて今時流行んない。そんな家で私の野望を果たせるもんか。ってわけで、解く!」
半ば自分に言い聞かせるようにそう言う。
本当にそんなことが出来るのだろうか、と虚勢を張った胸の内で思いながら。
五百年もの間、続いてきた人智を超えた非現実的な存在。その中心であろうリクに対する得体のしれない恐怖を感じながら。
室内を沈黙が重く覆う。
鷹槻は強い目線で千歳を見下ろし、千歳は唇を噛みしめ俯いている。
そして私はそんな二人の動向を見つめるしかできない。
やがて、千歳は私へとそのアーモンド形の目を向けてきた。今までにない、畏怖すら抱かせるほどに強く真摯な瞳を。
「もう、後戻りはできないからな」
低く発せられた声に、一瞬躊躇いそうになる自分を抑え込んで強く頷く。
「わかってる」
そう答えた私の反応を探るように千歳は私を見ていたが、しばらくして以前鷹槻が使っていた隠し扉である壁の前まで歩いて行った。
壁に手をついてから千歳は顔だけで振り返った。
「ついて来い。これからお前をリクの元へ案内する」