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背理の末

 数え十七の秋、千歳と常磐の時は止まった。それから何年経っても彼らは老いることなく十七のままだった。

 それでも季節はめまぐるしく巡り、それでも各国の情勢も安定は見られず。そんな世でも峯家は確実に勢力を広げて行った。

 その頃から峯家の人々は綾峯と姓を変える。綾は模様を織り出した上等の薄い絹のこと。そんなきらきらしい字すら今の峯家には相応しいと言われるほど綾峯家は隆盛を極めた。

 隆盛の中、千歳と常磐の父が逝き、長兄も隠居してその跡を常磐の唯一人の子が継ぎ、千歳の子供四人が綾峯分家を興した。その四人の興した家が二ノ峰から五ノ峰と呼ばれるようになるのだが、それはまだ先の話である。

 そうして千歳と常磐の周囲も大きく変わっていった。

 自分たちは老いずとも周囲の者は老いて、そして土に還って行く。それは千歳の妻とて例外ではなかった。

 末の娘が他家に嫁いだ春、里久は床に就いた。

 いつの間にか髪は白く、細い手は枯れ木のようになっていた。人の身の老いを、千歳はその時初めて実感した。そして自分が異形の者であるという事に否応なく気付かされた。

 予言をする以外は幼い時分から何一つ変わらぬ生活を送ってきた千歳は、片時も彼女の側を離れようとはしなかった。今にも自分の手の中から離れてしまいそうな妻を、必死で繋ぎとめようとするように。

「そんなにずっとついていてくれなくても大丈夫なのに」

 痩せた頬で、里久は床の中から微笑む。

 千歳は書物から顔を上げて彼女を見た。

「もともと俺は先を見て何かしら言葉を言う以外はこの家で望まれてないんだよ。むしろ何もするなってね。ならせめて妻の看病をする」

 看病と言っても本当にすることは何もないのだが。せいぜい食事の時に体を起こすのを手伝い、薬を飲ませ、話相手になることくらいしかできない。

 もうどう手を尽くしても里久はそう長くもたない。

 千歳と常磐と同じく、時を止めたままのリクがそう告げた時は目の前が真っ暗になった。誰よりも千歳が動揺した。

 ――どうにかならないのか。

 ――呪術でも外法でも何でもいい。

 自分から老いを消し去ったように、彼女からも消し去ってくれと恥も外聞もなくリクにすがりついた。

 だが、リクの答えは無情なものであり当然のものであった。

 無理です、と。

 人魚の肉はない。

 薬ももうない。

 何より、もしそんなことを千歳が言い出しても聞き入れないでくれと、里久に以前から言われていたと言う。

 かつて感じた不老への不安。それはこれだったのかと絶望の片隅で思った。

 老いないということは、里久と同じ時を生きられないという事。里久だけじゃない、子供達とも。

 里久や子供達が老いていっても、自分は変わらない。

 ずっとずっと、大事な者を見送り続けなくてはいけない。

 ずっと、置いて行かれ続ける。

 そして独りになる。

 それがこの世の摂理に反して不老を得た代償。

「――昭ちゃん」

 里久の穏やかな声が、暗闇に落ちた思考を拾い上げてくれる。

「ん、何だ?」

 何とか平静を装った千歳に、里久は母のような優しい声で言った。

「リクちゃんを困らせちゃ駄目だからね」

 それは里久に不老をと言ったことか。平静の仮面は一瞬で崩れ去る。

 里久はそんな千歳を見て目元を和らげた。

「あたしが死んだ後、生き返らせようなんてことも考えちゃ駄目だからね」

「やめろよ! 死んだ後なんて……」

 千歳の怒声に里久は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに落ち着いた表情に戻った。

 里久にはもう長くないということは知らせていない。

 知らせてはいないが自分の体のことだ。分かるのだろう。別離の時は近いという事が。

 リクは彼女の身体を診る者として知っている。

 常磐は先を見て、近い将来起こる出来事として知っている。

 千歳は医学の心得などないから彼女の寿命を知るすべはない。わざと里久の未来を見ないようにしているから、先に起こることも知らない。

 そうして千歳以外は皆、現実を受け入れた。

 「昭ちゃん」

 里久は窘めるような声で千歳を呼んだ。

 その先を拒絶するように千歳は立ち上がろうとした。だが里久の細すぎる指先が衣を弱々しい力で握ってきた。

「昭ちゃん。あたしね、昭ちゃんのお嫁さんになれて本当に幸せ。有難う。たくさんあたしを大切にしてくれて、幸せにしてくれて」

 優しい声が今は突き刺さるように痛い。

 千歳はきつく目を閉じて、その別れのような言葉を否定するように首を振った。

「……昭ちゃんを置いて行くのはちょっと心配だけど、昭ちゃんは父様になってしっかりしたから大丈夫だよ」

 しっかりなどしていない。いつまで経っても自分は幼いままだ。変わらないのは外見だけじゃない。中身もだ。

「死んだらあたしの心は昭ちゃんにあげる。だから寂しがらないで。あたしはちゃんと昭ちゃんと一緒にいるから」

 唇を強く噛みしめ、もう何を言う事も出来ない。

 言葉が出てこない。

 言葉にならない。

「それでいつか、昭ちゃんがあたしじゃない別の誰かに寂しくない場所を見つけたらあたしを捨てて、過去の人にして。忘れてしまってもいい」

「……そんな奴、現れるもんか」

 やっと出たそんな言葉に、里久は小さく笑う。

「あたしは昭ちゃんの幸せを祈ってる。寂しくないように、幸せな気持ちで過ごせるように祈ってる。だからきっといつか、昭ちゃんが寂しくないって思える人と出会えるよ。それまでしつこく祈ってるから」

 そんな人間、いらない。

 里久さえいればいい。

 それ以外なんていらない……誰も何も、いらない――。

「昭ちゃんには今だってあたしだけじゃないでしょう? あたしと昭ちゃんの子供達だっている」

 その言葉に千歳は顔を上げた。

 里久はゆっくりと衣を掴んでいた手を千歳の髪に伸ばした。

「あの子達はあたしと昭ちゃんが一緒にいられた証。大事な大事なあたし達の子供。皆体は大きくなってもまだまだ子供だから、父様の昭ちゃんが側にいてあげて。あたしが叶わない分、見守ってあげて」

「……わか、ってる」

 そうだ。

 自分の世界には里久だけじゃない。

 里久と自分の血を、面差しや性質を少しずつ受け継いだ子供達。

 大事な宝物。

 千歳は里久の手を取り、両手で包み込むように握った。

「あいつらの前ではちゃんと立派に父親をするよ。だから安心していい」

「そう? じゃあ安心する」

 にこりと里久は笑った。

「昭ちゃんと子供達がいてくれて、あたしは幸せ。大好きよ、昭ちゃん」

「……ああ。俺も大好きだよ」

 それからひと月も経たないうち、里久は眠るように静かに逝った。

 別離の痛みで気が狂ってしまったほうが楽だろうと何度も思ったが、子供達を前では意地を貫き通して父親ぶった。

 そうして葬儀も埋葬も終えてから独りで泣いた。

 人の前に出る時は笑顔を貼りつけて。

 そして独りになってから里久の死を悼んだ。


 不変の存在であるはずの常磐の身に変化が現れたのはそれからしばらくしてだった。

 最初は誰も気付かなかったが、着物の着丈が短くなっていた。気のせいだと思い誰も口にはしなかったが、気付いた時には常磐は千歳より背丈が伸びていた。かつては全く同じ背丈だったはずの、共に十七で時を止めたはずの弟よりも。

 常磐は酷く動揺してリクに詰め寄った。

 リクは涼しい顔で答えた。

『薬効が薄れてきたのでしょう』

 何故千歳とリクは変わらない?

 その問いにも簡潔に答えた。

『千歳様は不老となる以前にも、常磐に代わって様々なものを口にしておられますからその影響でしょう。薬が完成するまでに私も様々なものを口にしましたので私もそのようなものかと』

 不老が失われつつある身を前にして、常磐は半狂乱になって取り乱した。

 だがリクは言った。

『策は講じてあります』

 そしてリクは語り始めた。

 千歳と常磐が不老となった後、リクと亡き父は万が一薬効が切れた際のことを話し合ったという。

 人魚の肉などそうそう手に入るものではない。何か他の手段はないものか。

 千歳も常磐も預かり知れぬところで、そんな会話が交わされたのだという。

 そうしてリクが辿りついた答え。

 人魚の肉に代わるものがあればいい。

 リクの呪術と残った人魚の肉。これを以て、人魚の肉に代わるものを永遠に峯家に置くことが出来るとリクは父に言った。

 それは人魚の肉とリクの受け継いできた呪術、そして人の身があればよいのだという。

 父は、どんなものでもいい。予言の子たちを峯家に留め置いてくれと言った。

 リクはその呪法について説明した。

 以前使い、残しておいた人魚の肉を峯家の血の者に食べさせる。そしてその後リクが呪いを施す。

 それだけのものだった。

 それだけで、人魚の肉の代替品が出来上がる。

 リクの呪術を受けた人間の血は、千歳と常磐にとって人魚の肉と同じように不老長寿をもたらす。

 そして呪術を受けた人間の血を受け継ぐ子々孫々は、全てではないが同じように人魚の肉と同じ効果を持った血を流し生まれてくる、と。

 同じ血族の血を口にしても不老を望むか。

 そうリクは父に尋ねた。

 父はためらうことなく頷いた。

 そして本家当主……常磐の子がその呪術の対象に選ばれた。

 本家ならば何をおいてもその血が耐えることはないはずだ、として。

 当初は自分の子に自分のあずかり知らぬところでに奇妙な呪いを施したリクに掴みかからんばかりの勢いだった常磐も、次第にそれによって自分の不老が保たれるならと大人しくなっていった。

 常磐は子の血を口にし、再び老いることのない身となった。千歳が自らのために子の血をすするのかと非難すると常磐は言った。

 ――何も死ぬほど血を奪うわけではない。

 答えた常磐の笑顔は、千歳の知る常磐のものではなかった。

 その顔は狂気に満ちていた。

 それから千歳も血を口にするようにとリクと常磐が勧めてきた。

 だが千歳はそれを拒んだ。

 これ以上異形となるのは御免だ、身内の血をすすってまで生きながらえるつもりはない、と言って。

 そうして拒否し続けた千歳の説得にあたったのが、彼の子供達だった。

 ――父上。どうか血を口にして下さい。

 ――父上と伯父上なくして、綾峯家は成り立ちません。

 ――後生です。父上。

『見守ってあげて』

 リクの言葉が耳に蘇った。

 そういう意味じゃない。

 歪んだ存在となってまで、生きろという意味じゃない。

 それは分かっていた。けれど、今や自分にとって子供達以上に大切なものなどない。

 やがて千歳は頷き、甥の血を口にした。


 それから時折生まれる人魚の肉と同じ効果のある血の者は『当たり』と呼ばれるようになり、代々千歳と常磐にその血を捧げ、大切に大切に育てられた。

 当たりと知る手段はあるのかと当初不満げだった常磐の心配は杞憂に終わり、当たりの者は千歳と常磐の側にいると、自分がそうであると血が騒ぐのだと本人達が言った。

 そうしてその血は受け継がれていった。

 綾峯家の繁栄と共にその血も呪いも延々と。

 時代が変わり綾峰と字を変え、どれだけの人間が変わっていってもそれだけは変わることなく。



「――……これが、綾峰本家の呪い」

 静かに厳かに、千歳は告げた。

「五百年、続いてきた呪い。子孫の血をすすって俺はこの家で生きてきた。……俺がこの家の呪いだよ」

 そう言って千歳は小さく笑った。

 今にも壊れてしまいそうな、そんな不安定な笑みで。

 何か言わないとと思うのに言葉が出てこない。言葉を探す私の前で千歳は言った。

「結恵の血が『当たり』って意味はもうわかっただろ?」

「……私の血は、千歳の老化を止める」

 やっと出た言葉に千歳は頷いた。

「そう。だから『当たり』の子供は綾峰家最奥に永遠に縛られる。逃げられないように、俺を生かすためだけに、その自由を奪われこの家に縛り付けられる」

「じゃあ、私も……?」

 千歳は足を投げ出し、軽く息を吐いた。

「当たりだって他の奴らに報告すれば、逃げることは難しいだろうな。最後に当たりの血を飲んだの、けっこう前だから」

 いい加減新しい血が必要なのかもな。

 そう、他人事のように呟いた。自分のことなのにまるでどうでもいいように。

 それがとても不安で胸をかきむしられるようで、そして『今』生きている自分自身に頓着がない千歳が哀しくて仕方なかった。

 この人のために何かしたい。そんな傲慢を思いながらも、その何かを思いつくこともない自分が心底虚しくて苛立たしかった。

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