背理
奥の座敷には既に父と長兄、それに常磐が集まっていた。
一歩座敷へ足を踏み入れれば、表の世界と分離されたような奇妙な緊張感に支配されていた。
薄闇に溶け始めた座敷内はふたつの灯りがゆらゆらと揺れる。背後で閉められた障子の音が今までの日常との別離の証のように感じられた。
柄にもなく緊張している。
いざ不死だの長寿だのを目前にして。
今まで現実味のなかったその言葉が実現するかもしれないことに畏怖している。
「里玖」
父の重々しい声にリクが一歩前へと進み出た。
「はい。大旦那様」
リクは下座に就き、袖から竹筒を取り出した。
千歳と常磐はそれを黙って見ていた。
リクは竹筒から黒い丸薬を取り出し懐紙に乗せた。その外観は普通の薬と大差ない。
「先日、人の頭に魚の身を持つ異形が国の外れで捕獲されたそうです。それを旦那様の指示によりこちらまで運んで頂き調合したのがこの薬になります」
「兄上、本当に人魚などが?」
常磐は訝しげに長兄を見上げた。
今や峯家の当主となったものの、病がちで細面の兄は小さく頷いた。
「使いの者をやって調べさせたが確かにそのような物だったと言う。こちらへは解体して運ばせ、私もそれを実際に見たのだが……」
そう言った兄の顔色が薄闇と灯りのせいではなく実際に陰る。
「私も確認致しましたが」
兄の言葉を継いでリクが続けた。
「頭はまさに人の女の物。しかし大きさは二尺(約六十センチ)ほど。通常の人の物ではありません」
リクの言葉に生来神経質で潔癖な気のある兄の顔色はますます陰る。
確かにそんな気色悪い物体を生で見たと言うなら、この兄には刺激が強すぎただろう。
さすがの常磐も口を開けて言葉もないらしい。
「それ故、運ばれてきた物はほぼ間違いなく人魚の肉。ですが実際に不老不死をもたらすかは不明でしたのでこのふた月ほど、様々な法を試して参りました」
淡々と薬師、或いは呪術師としての義務を果たす時のリクは常よりずっと年長の者に見える。
年長の者……と言うより、まるで別の者のように。これが呪に携わる道の者なのだろうか。
「この丸薬は人魚の肉、それに加え私が呪術師として学んできた知識から様々な物を調合したものです」
「様々な、って……」
常磐が顔を引きつらせてリクを見る。
「それは食える物なのか? 毒とか妙な物とか入っていないよな?」
リクは常磐から目を逸らさずに答えた。
「薬は用い方によっては毒にもなります。毒も同じように扱い方次第で薬にもなります。ですので常磐様の仰られる毒も調合されていることになります」
常磐の顔が一気に引きつった。
だがリクは気にする様子もなく続けた。
「作用はまず蝉で確かめました」
「蝉?」
「はい。蝉は通常、夏のごく限られた日数を生きるものです。ですがこの薬を服用させましたところ、水無月の終わりに飼育を始めた蝉はつい先日まで生きておりました」
水無月の終わりから、と言う事はふた月程度か。確かに蝉にしては長い。それに暦の上では今はもう秋だ。外へ出たところで蝉の声など聞こえてくるわけもない。
そこへ未だ顔色の悪い兄が口を挟んだ。
「だが不老不死ではないのか? 生きていた、と言う事はその蝉はもう死んだのだろう?」
「仰る通りでございます。秋まで生きた蝉は人の手により、容易にその命を摘み取ることが出来ました」
千歳と常磐、長兄が揃って眉をひそめる。
「リク。悪いがもう少し分かりやすく言ってくれるか?」
千歳の言葉にリクは少しためらうように目を伏せてから、改めて千歳、常磐を見て凛とした声音で告げた。
「では結果を申し上げます。私の調合した薬はおそらく生き物から老いを奪い、寿命を延ばす事が可能です。ですが死を免除する事は出来ません」
「それは」
千歳は声が震えぬように必死に抑え込んで言葉を発した。
「それは不老不死ではなく不老長寿と言う事か」
「その通りでございます」
静かな声で、リクは答えた。
その声に、その言葉の告げる事実に背筋が冷たくなった。
果たしてこれは人が手出しをしていい領域なのか。人の命を、老いていずれは土に還るという道理を覆すなど、それは本当に人が行っても良いものなのか。
まるで世界そのものと敵対したような、そんな得体の知れない恐怖を覚えた。
だがそんな恐怖を覚えたのは千歳だけだったらしい。
「素晴らしいことだ!」
先程まで顔を引きつらせていた常磐が歓喜の声を上げた。
「それを飲めば、俺は永遠に老いることがないという事だな? 里玖」
「はい」
リクの静かだが確かな答えに、常磐は満足げに笑う。
「人の身に毒となるか否か。それも私が身を以て試しましたが試行錯誤の結果、あらゆる害となるものを除くことにも成功致しました」
「つまり、害なく不老長寿だけを得られるということだな?」
「はい」
その答えを聞いた常磐は尚一層、笑みを深めた。
「お聞きになられましたか? 父上、兄上」
「うむ」
父は厳しい表情を崩しリクを見た。
「良くやってくれた、里玖」
「勿体ないお言葉に存じます」
深々とリクは頭を垂れた。
「千歳、俺達は大陸の皇帝ですら得られなかった不老長寿を得られるんだぞ」
常磐は力強い笑みで千歳を見た。
「あ、ああ……そうだな」
「何だ。その答えは。さては嬉しすぎて言葉にならないか?」
そうじゃない、とは口に出せなかった。
常磐も父も兄も手放しで喜んでいる。
だが千歳だけはどうしても喜ぶより先、得体の知れない恐怖があった。
先を見たわけじゃない。見る気も起きない。
ただ漠然と、本能的な恐怖を感じる。
――だが何に?
それをうまく言葉にすることは出来なかった。
「それではこの丸薬を二粒お飲み下さい」
「それだけでいいのか?」
「はい。それで常磐様、千歳様の不老長寿は確かなものとなります。延いては峯家の繁栄を絶対の物とするでしょう」
「里玖。そなたも薬は飲んだのだったな?」
二枚の懐紙にそれぞれ丸薬を二粒ずつ乗せていたリクは、兄の言葉に手を休めて頷いた。
「はい」
「ではそなたも不老長寿を得たと言う事か?」
「そうなります」
そう頷いてから、リクは千歳と常磐の前にそれぞれの懐紙を置いた。
常磐は興味深そうに目の前に置かれた丸薬を眺めていたが、千歳はそんな気分にはなれず膝の上に置いた手を握りしめていた。リクが座敷の隅に用意されていた水を碗に注ぎ、薬の横にそれを置かれても固く握りしめた手を緩めることはできなかった。
それどころか、逃げだしたいという気持ちすら起き始めていた。
「二人とも、飲みなさい」
父の声に常磐は高揚した様子で丸薬を二つ口に放り込み、水で流し込んだ。
「千歳」
兄の声に千歳も薬へと手を伸ばした。
横目で常磐を見ると、特に変わりないがその表情は満足げだ。
……常磐は何も感じていない。
ならばこの不安は、頭の隅で鳴る警鐘は気のせいだ。
自分と常磐は同じモノを見るのだから。
だからこれは気のせいだ。
その間も父と兄、常磐、そしてリクの目は千歳に向けられていた。それは無言の圧力となり、千歳に早く薬を飲むように命じてくる。
千歳は薬を二つ手に取り、それらを口に放ってから碗の水と共に飲み込んだ。
丸い粒が二つ、喉を伝って体の奥深くへ落ちてゆく。その感触を消し去ろうと、碗の中の水を一滴残らず口の中へ注いだ。
たったこれだけ。
これだけで今まで誰ひとり得られなかった不老が得られる……?
俄かには信じ難いほど、呆気ない。
喉から薬の感触が消えると、もう後には引き返せないのだと言う恐怖にも似た感情とそれに反して、こんなものかと安堵する自分がいた。
碗を畳に置くと同時、父と長兄の顔に笑みが広がった。
「これで峯家は安泰ですね」
「私も安心して隠居出来るというものだ。――里玖」
「はい。大旦那様」
リクは居住まいを正して父と向き合った。
「そなたには是非今後とも峯家を見守ってほしい。無論、衣食住の保障だけでない。最高の客人としてもてなそう」
父が稀に見るほど上機嫌に言う。
「私などでよろしければこの命の限り、峯家にお仕えしたく存じます」
「うむ。しかし惜しい事をしたな」
独り頷く父は唐突に言った。
その父の次の言葉に千歳は言葉を失った。
「そなたがもう少し早く当家を訪れていてくれれば、千歳の嫁はそなたとしたものを」
目の前が真っ赤に染まるのと、鋭い音を立てて陶製の碗が割れたのはどちらが先だっただろう。
碗を拳で叩きつけた千歳の右手からは血が零れ落ちる。
「おい、千歳……」
「それはどういう意味ですか? 父上」
常磐の声を遮り、千歳は父を睨み据えた。
父は不快げに眉をひそめた。
「何だ、その反抗的な態度は」
「答えて下さい。どういう意味ですか? 里久が俺の妻では不都合でも?」
血を流す右手が熱い。
父はその様子を見て、深く息を吐いた。
「下らん。里玖、直ぐに手当をしてやれ」
「はい」
千歳の手を取ろうとしたリクの細い手は強い力で振り払われる。
リクは呆然と千歳を見上げたが、当の千歳は彼女を見やることすらしない。
ただ真っ直ぐに父を睨み据える。
「答えを頂いていません」
父の鋭い眼光が千歳に向けられた。
「わざわざ口にしなければ分からぬか。そなたの良くない噂はただでさえ近隣の村々までも知れ渡っているというのに、そんな中でどんな娘を連れてきてもそなたがと妻としなかった中で唯一受け入れたのが里久だけだった。だが里久は貧しい百姓の娘。何の取り柄もない百姓の娘と峯家の男子であるお前、つり合いが取れるわけがなかろう」
吐き捨てるような父の言葉を全て聞き終わる前に千歳は立ち上がり、足音も荒く父の前まで歩いて行った。
「千歳っ!」
父の胸倉に手を伸ばた時、兄と常磐の声が座敷に響き渡った。
それに一瞬躊躇し、そのまま千歳は常磐に羽交い締めにされた。
「離せ、常磐!」
「頭を冷やせ! お前、自分が何をしようとしているかわかっているのか!?」
「分かってるに決まっている! 自分の妻が侮辱されて黙っていられるか!!」
暴れる千歳とそれを抑え込もうとする常磐。
父は渋面で千歳から離れ、兄とリクに一言二言告げて座敷を後にした。
「離せっ!」
「いい加減にしろ、千歳! ここで父上に手を上げてみよ! お前の立場だけではなく里久や興太郎も処罰されかねないのだぞ!」
初めて聞く長兄の怒声に千歳は暴れることをやめた。
兄の言う通りだ。
父は自分の思い通りにならないことを許さない人間だ。もし千歳が父に手を上げるなどということがあったらなら千歳だけでなく、その原因となった存在である里久、それにその子である興太郎をも罰したか、良くても離縁させられかねない。
改めて自分の浅薄さに気付かされ、千歳は俯いた。
「……有難うございました、兄上。頭が冷えました」
「お前の気持ちもわからなくはない。だが、正論をかざしてもどうにもならないこともある。守りたいものがあるのなら、時には己を殺すことも覚えよ」
「……はい」
離れに戻る頃には日はすっかり落ち、辺りは灯りを持たなくては歩くこともままならないほど暗くなっていた。その暗闇が暗がりに落ちたような千歳の胸の内をますます暗くさせる。
何度目かの溜め息を吐いて廊下を渡りきり、離れへと戻ると灯りと共に里久が出迎えてくれた。
「お帰りなさい。昭ちゃん」
「……ただいま」
彼女の変わらない笑顔に無性に泣きたくなった。
無邪気に見えて里久は鋭い。
千歳が母屋へ呼び出された理由など、とうに察しているだろう。
それでも里久は自分から言うまで待ってくれる。自分で気持ちの整理がつくまで聞かないでくれる。
「……里久」
「うん?」
「リクの調合した薬は、本当に苦いんだな」
それしか言えない。
こんな遠まわしにしか言う事が出来ない自分が情けない。
里久は少し間を置いてから、笑った。
千歳のよく知る、温かい太陽のような笑顔で言った。
「でしょ? 泣きたくなっちゃうくらい、苦いでしょ?」
「ああ、本当に」
泣きたくなるほどに舌も胸の内も苦い。
「今なら興太郎もよく寝てるから泣いてもいいよ?」
屈託のない笑顔で里久はそんなことを言ってくる。
「父親になって泣けるかって」
「気にしない、気にしない。どうせもう泣きそうな顔してるんだから」
里久の手が伸びてきて千歳の頭を抱えるようにして抱いた。
母親も乳母も、こんな風に抱いてくれた記憶はない。
甘えることなど誰ひとり許してくれなかった。汚らわしい畜生腹の子供だった頃も、予言の子として峯家の一員として認められるようになってからも。
――気味が悪い。同じ顔が二人だなんて……。
――峯家の男子として強く在りなさい。人の上に立つ者が弱みをさらすなどあってはなりません。
理由は違えど、突き放されてきたのは同じだった。
唯一、そんな自分を抱きしめてくれたのが里久だった。
「……里久」
里久の肩に顔をうずめて小さくその名を口にのせる。
「うん?」
幼子をあやすように里久は背をさすってくれながら答えてくれる。
両目が熱くなる。
すがるように、里久の細い体に両手を回す。
「薬、苦かった」
「うん。苦いよね」
「……どうしようもなく、苦かった」
強く強く、里久の体を抱きしめて呟く。
里久は千歳の右手にそっと手を重ねてきた。
碗を割った時に怪我をして、今は白布が巻かれている。
「怪我したの? 痛くない?」
「……痛い」
体中が痛い。
苦しくて痛くて、逃げ出したい。
――何から?
あの傲慢な父から?
永遠に老いないかもしれない、ますます人間離れした自分から?
わからない。
わからないけれど、怖くて不安で仕様がない。
「里久」
「うん?」
「……俺を、独りにしないで」
何故そんな事を口にしたのか。
大の男が年下の女にすがるなんて、情けなくて愛想を尽かされたっておかしくないのに。
なのに、それでも里久は笑って答えてくれるんだ。
「大丈夫。あたしは昭ちゃんといるよ」
そんな明るい声に、呆れるほどに涙が溢れた。