すべては泡沫
「本当に、幸せな時だったよ」
懐かしむように、噛みしめるように千歳は言った。
本当に大切な記憶なのだろう。彼にとって五百年経った今も、里久という女性と過ごした日々は。
だけど私はそんな千歳を見ていると何だかとても胸が痛い。泣きたくなるような、そんな胸の痛みを覚えた。
……私の知らない千歳。
私の知らない誰かを愛した、優しい目をして彼女の名前を語る千歳。
何でこんなに胸が痛むんだろう。
千歳にとってとても幸せな過去だったのだから、つられて和つぁいも幸せな気分になったっていいのに何でこんなにも焼けつくような痛みがあるんだろう……。
「結恵?」
思いもよらず名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。
「な、何?」
千歳は少し瞳を陰らせた。
「どうした? 具合悪いか?」
本気で千歳が心配してくれているのが伝わってきて、私は慌てて首を横に振った。
「大丈夫。ただ、生の戦国時代の体験談を聞いてるなんて不思議だなって思ってただけ!」
そう言うと千歳は苦笑した。
「そうだな。なかなかできない経験だよな」
「うん。本当だったら色んな人に自慢したいくらい」
出来るだけ明るくそう言うと千歳は目を細めた。
「自慢できるようなネタがあればよかったんだけどな。織田信長とか上杉謙信には残念ながら会ったことがないんだ」
「なーんだ。つまんない。当時の文書とかあったらネットオークションにでも出したのに」
「うん、今になると俺も会っておいてサインでももらっておけばよかったって思ってる」
そんな軽口を叩き合って笑い合った。
そうして千歳は一呼吸置いてから再び話し始めた。
私の知らない、千歳の過ごした時を。
空の色が少し薄くなり、入道雲はいつの間にかいわし雲になっていた。
千歳は座敷の中央の寝床ですやすやと眠る赤子をただ見下ろしていた。
「興太郎」
父の呼び声に気づくこともなく、赤子はよく眠っている。
「こうたろー」
「昭ちゃん、せっかく寝たんだから起こさないでよ」
座敷に入ってきた里久が頬を膨らませて言う。
「だって可愛いすぎるだろ? こんな可愛い子供は史上初、この先だってないに決まってる。そんな可愛すぎる子供が目の前で可愛い顔で寝ているって言うのに構わずにいられる奴なんているもんか」
早くも親バカぶりを発揮して、真顔でそんなことを言ってくる彼までもが子供のようだ。
千歳は興太郎が生まれてからひと月、初めての我が子に構いたがって仕方がない。朝から晩まで飽きることなく興太郎のそばに居座っている。
元から子供が好きで常磐の子供が生まれた時は随分喜んでいたが、それが我が子ともなるとまた格別らしい。
「里久もまだ産後ひと月しか経ってないんだから、あまり動くなよ」
「あたしはもう大丈夫よ。元から健康だけが取り柄だもん」
里久は乳母をつけるよう言ってきた父達の言葉を断り自分の手で興太郎を育てたいと言い、常磐の妻がふた月は床でゆっくりしていたのに対し、彼女はすぐに床から起きてまた以前のように活発に動き始めた。そんな彼女の活動的なところも、まるで存在そのものが太陽のようなところも千歳は好きだがやはり心配にはなる。
「里久は働き過ぎだろ。何のために人を雇ってるんだよ?」
「だってあたし、動いてないと落ち着かないんだもの」
「けどなぁ」
渋い顔をする千歳の隣に里久は腰を降ろした。
「昭ちゃんだって、あたしが何もしないで黙って座ってるだけだったら気持ち悪くない?」
「……気持ち悪いと言うより、具合が悪いんじゃないかって疑う」
つわりの酷かった時期、常は強靭な里久が珍しく床についていたことがある。
いつも明るく笑顔で動き回っている彼女しか知らなかった千歳は随分と戸惑い、里久以上に動揺した。
「昭ちゃんて意外と心配症だよね」
「心配症って言うか、普通心配するだろ?」
千歳にとっては至極当然のことなのだが里久は明るく笑い飛ばす。
「そんなことないない。うちのお父なんて、お母が弟を産んで産後の肥立ちがよくなかった時だって寝てれば治る! って言って全然心配してなかったし」
「んー里久の父上は昔から豪快だからな。けど別に心配してなかったわけじゃないと思うぞ。俺、その頃に村外れの社に里久の父上が毎日詣でてるの見たし」
「お父が? 本当に?」
里久は丸い目をますます丸くして千歳に詰め寄った。
「本当に。何を祈ってたのかは知らないけど、時期的にも里久の母上の回復祈願だろ」
「お父がねぇ……」
信じられない、とばかりに眉を寄せて考え込む里久を眺めていると座敷の外から声がかかった。
「失礼致します。千歳様、奥方様。いらっしゃいますか?」
「お、リクだ。入れー」
千歳が声をかけると、控え目な声がして襖が開かれる。
「失礼致します」
長い黒髪の先を結い、萌黄色の小袖姿のリクは楚々とした様子で盆に乗った器と紙包みを運んできた。
「奥方様。お薬の時間でございます」
「うー……ねぇリクちゃん。それってまだ飲まなきゃダメ?」
里久が上目づかいに尋ねると、リクは笑顔で言った。
「駄目です。まだまだ本来なら安静にして頂きたいところをこうしてお動きになられているのですから、せめてお薬くらいはお飲みになって下さいませ」
「そうだぞ。リクの言う通りだ、里久」
便乗して千歳が言うと、里久は世にも情けない顔をした。
「そうは言うけど本当に苦いんだよ、この薬。確かに回復が早いのは認めるけど。すーっごく苦いんだよ?」
「良薬は口に苦しと申します。その分効果もありますので、千歳様と興太郎様のためとお思いになってどうぞお飲み下さいませ」
リクの真剣な眼差しに負け、里久は渋々と碗を手に取って丸薬を数個、口に放り込んだ。更にこの場でリクが調合している薬湯を飲むのだが、これがどうしようもなく苦いらしい。
リクは千歳が頼んだ通り、出産を控え出歩くこともままならなくなった里久のもとへ通い話相手を務めてくれた。そのお陰で初産で緊張していた里久の気も晴れたらしく、今では長年の友人のように接している。
リクは少しばかり他人と接するのが不得手なところがあるが、里久の生まれつきの明るい気性と物怖じしない性格から親しくなるのに時間はかからなかった。峯家に嫁に来て以来、同年代の友人と気軽に話すことが出来なくなった里久にとってもリクの存在はよいものだったのだろう。
「さ、奥方様。出来ました」
碗に注がれた濁った液体を見て、里久は眉を下げた。
毎日飲んでいるのに慣れる様子が一向にないところを見ると、リク特製のこの薬湯はよほど不味いのか。
呪術師は薬も扱う。それ故リクは峯家の専属の薬師でもあった。その薬の効果は確かだが、苦さもその効果に比例するところがあるらしい。
里久は覚悟を決めたように両目をつぶり、一気に薬湯を飲み干した。
「えらいぞー里久」
飲み終えて肩で息をしている里久の頭を撫でながら千歳は笑う。
「お見事でございました。水を飲まれますか?」
「の、飲む……口直し……」
「はい。ただ今」
くすくすと笑ってリクは水を別の碗に注いで里久に手渡した。
それを受け取るなり、里久は勢いよく碗を煽った。そして碗を畳の上に置いて、大きく息を吐いた。
「はぁ……生き返ったぁ」
「うん。よしよし。ちゃんと飲んでえらいぞ。なぁ興太郎? お前のかか様は働き者で器量よしでとても偉いんだぞ」
「そうですよ。興太郎様の母上様はとてもご立派なんです」
千歳の親バカ夫バカに便乗するリクに、里久は呆れ半分に笑う。
「リクちゃんまでやめてよ。昭ちゃんてばすぐつけ上がるんだから……って、リクちゃん?」
里久は驚いたようにリクの細い腕を取った。
「やだ……また痩せたんじゃない? それに何だか顔色も良くないし……またお薬を試していたの?」
心配そうに覗きこんでくる里久の手をやんわりと離して、リクは微笑んだ。
「それが私が峯家にお世話になっている理由ですから。当然です」
不老不死。
長寿。
そのためにリクは様々な呪い、薬を彼女の今までの経験、書物などから日々試行錯誤していた。千歳を常磐のために使うくらいなら自分がと言い、リクは自らの体で様々な呪いや薬を試していた。
当然誰も成し得ないことを完成させるには、今まで誰も行ったことがないような事も行わなければならない。そのためリクは自らの薬の作用によって寝込むことも度々あった。
「……リク。薬や呪いの完成は確かにお前への依頼の範疇だろうが、それを試すのはお前じゃなくていいんだ。むしろそれは俺の役目だろう」
日々やつれていく彼女を見かね、何度か千歳はそう言った。だがリクは断固として首を縦に振らなかった。
『千歳様にそのようなこと、これ以上させられません』
千歳が今まで何度となく常磐のために奇妙な植物や薬、その他諸々を口にしてきたことを聞いたリクははっきりとした口調で言った。
『千歳様と常磐様。お二人に優劣などありません。ですから千歳様が犠牲になどなられる必要はありません』
(……俺ごときにそこまでする必要なんてないんだけどな)
だがリクは笑みさえ浮かべて言うのだ。
『初めて私を厭わずに下さった千歳様のために何でもいいのです。何か、私に出来る事があるのならさせて頂きたいのです』
不死を得る前に、そのための手段を得る過程で死ぬかも知れない。
リクがこの家に来る前からそんな漠然とした意識があった。
昔はそれでもよかった。
けど今は――……。
「昭ちゃんに辛い思いさせるのも嫌だけど、リクちゃんまでそんなにならなきゃなんないの……?」
まだ幼さが残っている横顔は興太郎が生まれてからどこか母らしい強さを感じさせるようになった。ひとつ下だったはずの里久が、時折自分よりずっと年長にすら思える。
里久が妻として母として自分のそばにいてくれるのなら自分は夫として父として、里久と興太郎を守る。そのためには、本当に得られるかもわからない不死なぞのために自分を犠牲にするわけにはいかない。
(俺は卑怯だな)
リクの申し出を、本当は心のどこか有難いものだと思っている。
里久と興太郎を守って平穏な暮らしを望むのなら、峯家を出ればいいのに。
近隣の村に自分の存在が知れ渡っているのなら、それよりももっと遠くへ行けばいいのに。
……けど、逃げられない。
間違いなく、他国へ逃げても峯家に連れ戻される。
この異形の目を以て先を見なくても分かる。
峯家はどんな手段を使ってでも千歳を逃がさない。
峯家の人脈、財力、それに何よりも常磐。常磐が見ようとしたのなら千歳の行動など筒抜けだ。
例え千歳が彼と同じものを見てそれに抗おうとも、常磐はその先を見る。
……イタチごっこだ。
この身は峯家と常磐のために在るもの。千歳をこの家に繋ぎとめるためならば、里久や興太郎を人質とすることも辞さないだろう。
「昭ちゃん?」
気付けば里久が心配そうに顔を覗き込んできていた。
「どうしたの? 難しい顔をして」
「……何でもないよ。それより里久の額は今日も可愛いな」
里久の少し広い額に触れると、彼女は眉を吊り上げて手を払ってきた。
「あたしがおでこのこと言われるの嫌って知ってるでしょ?」
「可愛いんだしいいじゃないか」
「いーやーなーのっ」
両手で額を隠すようにして、里久は口を尖らせた。
千歳はつまらなそうに小さく呟いた。
「可愛いのに」
「まだ言うかっ」
「あ、あの……」
控え目な声に、千歳と里久の視線が向けられる。
碗や薬を脇に置き、背筋を伸ばしてリクは控え目ながらも凛とした表情で告げた。
「千歳様。母屋までお越し下さいますよう大旦那様より託って参りました」
「……それは火急の用か?」
「はい。奥方様がお薬を飲まれたらならば、すぐに奥のお座敷へお出でになるようにと」
見えない。
見ようとしなければ、先は見えない。
それをこの十年で学んだ。
だけどこの時ばかりは、見るまでもなく気付いた。
その時が、来た。
リクの声や表情が、それを伝えてくる。
リクがこの家にいる理由が果たされたのだ。
不死か長寿。
そのどちらかが現実のものになるのだということ。
「……わかった。すぐに行く」
そう答えるとリクは深く頭を垂れた。
日が傾き始め、外からは秋らしい虫の声が聞こえ始める。
空は橙に染まり、影が濃くなり夜が近づいてくる。
渡り廊下を踏みしめる千歳とリク、二人分の足音が今日に限っては妙に大きく響いた。
リクは無言で千歳の後に付き、千歳もまた口を閉ざしたまま、暗がりに沈みゆく母屋から目を逸らしながら重い足を進めた。
思えば、こんな刻限だった。
自分と常磐の人生を大きく変えたに違いない、神隠しに遭ったのは。
黄昏時。
人とそうでないものが混じる刻限。
あの日。
神隠しに遭ったと言われ所在の知れなくなった数日間。自分たちは一体どこにいて、誰と何をしていたのだろう。
今更思い出せるはずもないのに、何故かそんなことを思った。