正式な場での昔語り
月が綺麗だ。
雲に隠されることなく輝く望月。その柔らかい光はいつも見慣れた月より力強く、妙に胸が騒いだ。
それは月のせいではなくこれから先への不安からだろうか。
遮光カーテンを閉め、私は部屋を出た。これから大叔母の部屋へと行き、そしてそれから改めてこの屋敷の地下へと向かう。
正式に、綾峰家最奥へと。
三つ紋の蘇芳色の色無地を纏った大叔母があの道を、この屋敷の地下への道を先導するように歩く。朱鷺色の訪問着を着た私もその後に続く。
初めて正式に最奥へと足を踏み入れる場合、準礼装で行くことが代々の習わしだと言う事でつい先ほど着付けてもらったものだ。
少し窮屈な和装と歩き慣れない草履。それすら忘れそうになるほどの、全身の血がざわめく感覚。
二人分の足音だけが石造りの廊下に響く。
大叔母は何も言わずまっすぐに地下への道を辿る。私もその後を黙って歩く。
私が知る限り、いつも朗らかでおしゃべりな大叔母がこんなにも喋らずにいるところを見るのは初めてだ。それが余計にこの沈黙を重く息苦しいものへとする。
この奥には千歳がいる。一週間ぶりに会う、あの不思議な雰囲気の人。
会いたい、と何度も思った。けどそう思う反面、鷹槻も知る全てを知ることが怖いとも思った。鷹槻の言葉を聞く限り、最奥で聞くこの家の秘密は決して優しいものではないようだから。
「……体調は」
前を歩く大叔母が前を向いたまま、歩みを止めぬまま口を開いた。
「体調はいかがですか?」
「あ……大丈夫です」
多分過呼吸の事を言っているのだろうと思い、敢えて力を込めて答える。
「そうですか」
大叔母は歩みを止めて振り返った。その顔には子供を心配する親のような儚げな笑み。
「もし、体調がよろしくないようならすぐに仰って下さいね。無理はなさらなくて良いのですからね」
心底労わるような言葉に胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
心から笑って深く頭を下げた。
そうして千歳の部屋の扉の前へと出た。大叔母が扉を二回、軽く叩く。
「綾峰家二十八代当主、桂子です。綾峰結恵を連れて参りました」
凛とした声が扉へ吸い込まれていく。鳴り響く心臓を抑え込むようにして扉の向こうの反応を待っていた。重々しい儀式めいた仕来たり。
いくらこの向こうにいるのが千歳だと分かっていても緊張せずにはいられない。
「入れ」
少し高めの千歳の声が中からして、大叔母がそっと扉を開いた。
「失礼致します」
「……失礼致します」
大叔母に続いて室内に足を踏み入れると千歳はソファに座ってこちらを見ていた。
その服装はレイヤードのTシャツにジーンズと私達に比べるとカジュアルすぎるくらいカジュアルで、私が初めて彼に会った時と大差はない。
ただしその顔に表情らしい表情はなかった。
「こっち来て座れ」
素っ気ないくらいの口調でそう言って、私は扉を閉めて大叔母と共にソファに腰を降ろした。
大叔母はぴんと背筋を伸ばしてから深くおじぎした。
「御無沙汰致して居ります、千歳様」
千歳『様』か。
「うん、久しぶり。この間は直接は会えなかったからな。元気だったか? 桂子」
「はい。お陰様で日々つつがなく過ごしております」
「そっか。それは何より」
そう言ってようやく千歳の顔に笑みが浮かぶ。ただ私が知っているような無邪気なものではなく、どこか控え目なものだが。
ここに来てはっきりした。
明らかに千歳のほうが大叔母より立場は上だ。この敷地内で最も地位ある人間であるはずの大叔母より、どう見ても十代そこそこの千歳のほうが。
「結恵も一週間ぶり」
私にも笑顔が向けられ、反射的に頭を下げてしまう。
「はい」
すると千歳は怪訝そうに眉を顰めた。
「何で敬語? キモイ」
キモイと言われた……。
「んじゃ桂子。せっかく来てくれたところをもてなしてもやれなくて悪いけどここで」
「はい」
「え?」
「ひとりでってのが一応決まり事なんだよ」
疑問が顔に出たらしく千歳が説明してくれる。
「それじゃあ桂子。息災で。時間が出来たら遊びに来い。義将ほど美味くはないが紅茶を淹れてやるよ。それとも毬つきのほうがいいか?」
「私ももうそんなに幼くはありませんよ」
大叔母は苦笑して答え、私を見た。
「結恵さん。ここからはおひとりでになりますが、何も心配はいりません。貴女は貴女の思うようになさい」
「はい」
「それでは千歳さん」
「大丈夫だ、悪いようにはしないから。何と言っても義将の孫だしな。全力で守るよ」
「ええ。どうぞよろしくお願いしますね」
大叔母は立ち上がって深く頭を下げ、そうして静かに部屋を出て行った。
私は黙ってそれを見送り、千歳は呑気に手を振っていた。
再び扉が閉ざされ室内には私と千歳の二人になる。
この間までと同じ。同じはずなのに違うと感じるのはこの着物のせいか、それとも……。
「いい色だな」
優しい声がかかり、そちらへ顔を向けると千歳がにっこりと微笑んでいた。
「朱鷺色か。よく似合ってる」
にこにこと、この世のものじゃないくらい透き通った綺麗な笑顔でそんなことを言ってくる。
さっきまでとは違った緊張で軽く俯いてしまう。
「ピンクっぽくて可愛いから、私には似合わないんじゃないかって思ったんだけど、準礼装じゃないといけないって言われたから……」
「似合ってるって。俺は似合わなかったら素直にそう言うから安心しろ?」
確かに千歳ならはっきり言いそうだ。そう思うとこの色の着物で良かったと今さら思えてくる。
「紅葉の刺繍に、地は銀で紅葉の西陣帯か。即席で用意させたんだろうになかなかいい物だな」
「千歳、着物詳しいの?」
「詳しくはないけど、んーでも現代人よりは詳しいか?」
首を傾げながら千歳は言う。けどすぐに飽きたように顔を上げた。
「それよりここに来て二週間足らず。それなのに早速こんな面倒なところまで来たこと、とりあえず御愁傷様」
「……嫌味?」
「いや、本気で同情」
「やっぱり嫌味だ」
軽く睨むと、千歳は声を上げて笑った。
それは私の知る千歳の表情。そのことに妙に安堵している自分がいた。
「正式にここに来るってことは」
千歳は笑いを納め、私を見た。
「この家の一番暗い部分を知るってこと。面白おかしさなんて欠片もない、ツマラナイ昔話に付き合わされるってことだ」
「昔話がこの家の秘密?」
「そう、秘密。敷地内でもごく限られた人間しか知らない秘密」
千歳は薄く笑い、ソファにもたれかかった。
「これから昔話をひとつ聞かせる。聞く聞かないの選択権はない。けどその後の選択権はあるってことを覚えておけな」
「わかった」
千歳の強い瞳に気圧されないよう膝の上に置いた両手に力を入れて答えると、千歳は軽く目を伏せ静かに口を開いた。
「始まりは……俺が六歳の頃」
坦々と、淡々と。
「西暦で言うと1500年代初期。――今から五百年近く前の話だ」
静かに、唐突に。
言葉の意味を見失ってしまいそうな、そんな言葉を千歳は口にした。
呼吸の仕方すら忘れそうになるものの、心のどこかでその言葉を納得して受け入れている自分がいた。
「迷ってはいるけど信じてないわけじゃないみたいだな?」
千歳はじっと私の目を見て軽く笑った。
「悪いな。最初に会った時、俺は嘘を吐いた。俺は確かにこんなナリをしてるけど、実際は五百年ばかり生きてる」
嘘、と口を衝いて出そうになる。けどその言葉を飲み込んで千歳の言葉を待った。
だって本当はそう思っていた。
千歳がこの家の生き神様とやらなんじゃないかと、そう思ってた。
大叔母より強い地位にあって、予知するようなところがあって。
あり得ないと、そう思いながらも確信していた。
千歳は私の想像を超えた存在だと。
「この間、四ノ峰分家のガキ共がしたっていう怪談があるだろ?」
「……うん」
「あれで神隠しになった先祖の話。そこから始めようか」
「う、ん」
「あれは俺が数えで六歳の夏だった」
高めの千歳の声が低く静かに研がれる。
そしてその声が紡ぐ。
綾峰家の昔話。
この家の呪いの始まりを。
「その時既に大きな家だったこの家のクソガキが黄昏時に隠れ鬼……かくれんぼをしようと言ったんだ。黄昏時は人とそうでないものが混じる時間帯。そう言われてたから大人達は絶対に隠れ鬼はしちゃいけないってよく言ったのに、それを面白がって」
千歳は膝の上で両手を組み、無感情な声で続けた。
「大人たちの懸念を裏切らず、そのクソガキを含め数名が行方不明になったよ。そこは山に囲まれた土地でな。天狗に攫われたんだって、家の連中や村では大騒ぎになったらしい」
自嘲気味に千歳は笑い、子供に昔話を聞かせるかのように話し始めた。
村の有力者だった綾峰家の先祖、峯家は村人たちを含め、必死に子供達の捜索をした。けれど七日七晩、山狩りをしてあちこちを探し回ったにも関わらず子供達は誰一人見つからない。
もう駄目だろうと誰もが思った時、峯家の子供を含む数名の子供達がぼんやりとした様子で帰ってきた。
他の行方不明の子供達はどうした? と聞いても要領を得ない。
よほど怖い目に遭ったのだろうと大人達が帰ってきた子供達を休ませようとした時、峯家の子供が言った。
――明後日、戦が起こる。
――村は焼かれるから逃げよ。
最初は誰もそんな事は信じなかった。
だがそのあまりに懸命な様子と天狗隠しから帰ってきた子供の不思議な雰囲気に半ば気圧される形で、峯家の人間といくらかの村人達は一時的に村を出た。それを笑い飛ばす村人達の声を聞きながら。
そして明後日、戦は起こった。
誰も予想し得なかった戦が起こり子供の予言通り、村は隣国の兵に焼かれて子供の予言を笑い飛ばした者達のほとんどが命を落とし、家や田畑を失った。
――明後日、隣国との同盟がなる。
――今年は飢饉になる。
――あちらの国が戦で負け、国主様が自害なさる。
そんな子供の戯言であってほしい言葉の数々は決して外れることなく、現実となって起こった。
けれど皮肉にもその言葉によって、商家としての峯家は繁栄の一途を辿った。明日の見えない戦国乱世において、子供の言葉はなくてはならない物となっていた。
だが子供とて人間。
いかに不思議な力を持ち合わせていようと、その命は永遠ではない。
そして当主らは考えた。この不思議な力を永遠のものと出来ないだろうか、と。
いくつもの予言をしてきた子供は妻を娶り子もなしたが、その子にまでは予知の力は授かれなかった。
家人達は永遠ではない予知の力を何としても繋ぎとめようと必死になった。
大陸に伝わる不老長寿の食物。
不死をもたらすという伝説の霊薬。
そんなものを大商家らしく、金銭を惜しまず与えた。
ただしそのどれもが眉唾もので、真に不老も不死も与えられはしなかったが。
子供……峯家の次男、草次郎はその頃にそんな家人らの願いを込めたトキワと名を改めた。永久に変わらないもの、常磐と。
だが名に込められた意味も虚しく、常磐は年を重ねて行った。彼から子供らしさが抜けて行くにつれ家人らの焦燥は募る。
そんなある日、旅の呪術師の親子が村へとやってきた。旅籠も営んでいた峯家は親子を屋敷へと招き、人を不老不死とする術はないものかと詰め寄った。
呪術師の父親は旅の途中で聞いたという話をした。人魚という人の顔と魚の体を持つ化け物の肉を食べれば永遠に年を取らず、いつまでも生きることが出来るらしいと。
その言葉に家人達は湧き立った。すぐに峯家は各地に人魚の肉を探すよう手を尽くさせ、呪術師の父親はまた旅立たねばならないと言うのを強引に押し留めていた。
それを見かねた呪術師の娘が言った。
――それならば、修業中の身ではありますが私が残りましょう。
――私も呪術師の端くれ。西行様の流れを汲む術師の名に懸けて、必ずや常磐様に不老不死を。峯家に永久の繁栄を。
まだ娘と呼んでいい年頃らしからぬ、大人びた笑みを浮かべてそう言った。
西行とは後の世に歌人として伝わる平安時代の僧侶、西行法師のことであり、彼には様々な逸話が伝わっていた。
そのうちの一つが反魂の秘術を施し、骨を集め人を作りだしたというもの。結果は確かに骨を人にとしたものの心が伴っていなかったという。
そうして術は失敗したものの、後に西行法師は正しい法を教えられたという。
その後西行が再び反魂の術を行ったという話は聞かないが、その逸話は様々な『命』に関する話を集めていた峯家の者達も当然その逸話については知っていた。
訪れた呪術師の親子はその西行法師の流れを汲む者であると言う。当然峯家は喜び、家に残った娘を手厚く遇した。
――それが後の綾峰家、峯家の呪いの始まりだなど、誰ひとり思いもせず。
或いは先を知りたいときだけ知ることが出来る……常磐が十年の時を経て予知能力の扱い方を学んだことが徒となったのか。
娘の存在が何をもたらすことになるのか見ようとしなかった、知ろうとしなかったことが過ちだったのか。
ただ家人達が喜ぶことに安堵した自身がいけなかったのか、それは分からない。
ひとつ確かな事は彼女が峯家に留まること、峯家に不老不死を授けようとしたこと。
それが後々まで峯家の血を縛ることになる呪いの始まりだったということだ。
「呪術師……」
あまりにもファンタジーじみた単語に思わず眉をひそめると、千歳は零すように笑った。
「今じゃ信じられないだろ? けどあの時代は武将同士が呪い合ったりするのなんて当然。別におかしくも何ともなかったんだぞ」
「呪いが市民権を得ていたんだ?」
呪いと言われても、藁人形に五寸釘くらいしか思い浮かばない私には呪いを扱う職種だの、それを当り前として受け入れる当時の人間が理解できないが。
「それに常磐って人は本当に予知能力なんてあったの? ってことは、天狗に会ったって言うのも本当なわけ?」
天狗から予知能力をもらいました、など到底信じ難い話だが。だがそれを言ったら瓦版に人魚が捕まったなどと載るのも随分荒唐無稽な話だ。
千歳は軽く息を吐いて言った。
「神隠しに遭って行方知れずだった間の記憶は一切なし。ガキだったって言えばそれまでだけど。……確かなのは村に帰ってきた時にはそれまではなかった予知能力ってやつを身につけてたってことだけで」
「……」
「予知能力も本当にあったから皆躍起になって常磐をこの家に留めようとしたんだよ。老いからも死からも解放させようと馬鹿みたいに騒いで、本人も不老不死って言葉にすっかり酔っていてな。頭は悪くなかったんだが妙に単純なところがあったからな」
乾いた声で千歳は呟いた。その瞳に浮かぶ色は呆れにも諦めにも似たもの。
「本気で不老不死なんて望んだんだ。本人もその周りの人間も。どうかしてたとしか思えない。終わりのないものなんて、そんなものあるわけがないのにな」
静かな部屋に千歳の高くも低くもない声が吸い込まれる。
「……千歳が、『草次郎』なんだと思ってた」
千歳の瞳がまっすぐに私に向けられる。
思わず目を逸らしたくなるくらい、綺麗な瞳でまっすぐに。
「千歳に予知能力があってここにいるんだと思ってた。今まで聞いてきた話の感じからそうじゃないかなって思ってたんだけど、でも何か違う」
「何か?」
「千歳は常磐じゃない」
千歳は目を瞠った。
「最初は名前を変えただけなのかと思った。でも違う。千歳が常磐って人の事を話す時の感じは、自分のことを話している感じじゃない。」
じっと千歳が私を見てくる。
「千歳の話し方はどこか第三者目線っぽい。千歳に近しい、親しいけど千歳でない誰かのことみたいに聞こえる。だから常磐は千歳とは別人だと思う」
「勘?」
「勘」
「じゃあ」
千歳は悪戯を企む子供のような笑みを浮かべて言った。
「俺は誰?」