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始まり

 学校の校門など比べ物にならない精巧な細工の施された巨大な門を車に乗ったままくぐり、その地へ足を踏み入れた。

 車窓からどこまでも続く敷地内の片隅に、オレンジ色の金木犀が見える。それからしばらく幾つもの豪邸と言っていい家を超えて緩い坂道を上ればイタリアルネサンス風の、今まで見てきた豪邸もかすむほどの広大な洋館の前へと辿り着く。

 車は石畳のポーチの前で止まり、運転手が扉を開けてくれる。車を降り、その西洋の宮殿のような洋館を見上げた。これは既に数度目の経験なのだがたった二度では到底慣れない浮世離れした光景だ。

「……いつ拝見しても凄いお屋敷です」

 思わずそんな感嘆の声を上げると、隣に立った萌黄色の和服を纏った上品な老婦人、血の繋がった実の大叔母は微笑んだ。

「気に入って頂けるといいのだけれど。ここが貴女のおじい様も過ごした綾峰家。今日からは貴女のお家よ」

「はい」

 到底信じられない。緊張して手が汗ばんでいる。

「さぁ、結恵さんのお部屋に案内するわ。遠いところをお疲れでしょう」

「きょ、恐縮です」

 慌てて頭を下げると大叔母が戸惑うように眉を下げる。

「まぁ。そんな他人行儀はしないでちょうだい。貴女は私にとっても実の孫同然なのだから」

「ありがとう、ございます」

 そうは言ってもこの緊張はそう簡単には納まらない。自分で望んだこととは言え、ここは日本どころか世界屈指の巨大複合企業、チトセグループの経営者一族の住む家なのだから。

 綾峰結恵あやみねゆえ、中学三年生。この十五年間、そんな華麗なる一族とは全く縁なく生きてきた。

 そもそも自分がそのチトセグループと血縁があるということすら知らなかった。半年前、祖父が亡くなるまでは――。




 父にその手紙を見せられたのは春先の日曜日のことだった。

 亡くなった祖父の初七日を終えた後もしばらくは弔問客だ、税理士だ、友人だと人の出入りがあって居心地の悪かった家がようやく元の静けさを取り戻し、生まれてから十五年間一緒に暮らしてきた家族の喪失感が浮き彫りになった頃。

 私はあれほどまでに確固たる自身という者を確立していた人を知らない。知識が豊富で頭の回転も早く自信家で、家族思いで時々子供っぽいところもあった最愛の祖父。何もかも知っていただろうに、私の屁理屈を受け入れてくれた懐の深いおじいちゃん。


 ――自分で決めた事は、貫き通しなさい。


 そう言われて育った。

 祖母は物心つく前に他界し、祖父と両親、そして私の四人家族だった。

 祖父は厳しさと柔軟さを兼ね備えた人で、私にとっては怖いおじいちゃんであると同時に頼りがいのある人だった。その祖父も年を重ねるごとに見るからに体が弱っていき、身の周りの整理を始めてそれから一年後、あらかた身辺整理が終わったところで老衰で亡くなった。

 実に祖父らしい、潔い最期だったと多くの人達に言われた。

 その祖父は自分が死んだら開けるようにと遺産に関するものとはまた別に手紙を遺していた。そこには祖母と駆け落ち同然で実家を出てきて以来、一度も連絡を取っていないという祖父の実家に関することなどが書かれていた。

 祖父は自分の出自に関する一切を、生前一度たりとも実の子供にすら話さなかった。墓まで持って行く気だろうと、父は常々祖父の頑固な性質を笑っていたが、まさか祖父の最後の最後にその復讐に遭うとは思いもしなかっただろう。

 手紙は私、父、母。それぞれ個人にあてた生前の感謝などを記した手紙の他にもう一通、家族皆へ向けたものがあった。


『我が愚息、愛嫁、愛孫へ。

 早速だがこの手紙の内容を要約すると、これは私が一度として口にすることはなかった私が出てきた家について書かれている。私の実家は綾峰家の本家にあたる家だ。どの綾峰かと言われれば、旧千歳財閥、現在のチトセグループ経営者一族だ。私はその家の長男として生まれたが、妻と結婚するため家を出た。

両親、親族は私達の結婚に反対したが私の妹だけは唯一陰ながら私の味方をしてくれ、家を出る際にも随分世話になった。四十年ほど連絡はとらずにいたが、両親の死をきっかけにまた細々とだが交流を持つようになった。だがお前たちはそのことを知らないだろう。それ故私が死んだことを妹は知らないと思う。

どうか妹に私が死んだことを伝えてやってほしい。そしてその重責を負わせたことを幾重にも詫びていたと伝えてほしい。妹の名は綾峰桂子けいこ。現在の綾峰家当主だ。綾峰義将の身内と言えば話はすぐに通る。連絡先は――』


 それが祖父の遺した手紙だった。読み終わった父の顔を見ると、父は疲れた風に肩を落とした。

「嫌だなぁ」

 そしてぼそり、と呟いた。

「何で親父、そんな面倒くさそうな家に生まれたんだ……嫌だなぁ。肩こりそうなのは会社でたくさんだって言うのに」

「とても実の親の実家に対する意見とは思えないご意見で」

 私の軽口に父は肩を竦める。

「だって結恵。お父さんはこの間人事部長になったばかりで一番気苦労が多いんだぞ? この合併吸収のご時世に」

 父は一年前の人事異動で見事それなりに大きな企業の人事部長に就任した。そしてそれから数ヶ月後、突如別企業とお父さんの会社は合併した。それによってとにかく人事部はより一層面倒になったらしい。

 ちなみに父の勤め先はチトセグループとは関係ない。日本の企業の六割はチトセグループ関連と言われる中、偶然にしてはうまく出来すぎている気がするから、祖父がうまくチトセグループを切り離させたのかもしれない。

「あなた。子供に仕事の愚痴をこぼすのはやめてちょうだい」

 母にたしなめられ、父はスマンスマンと言って話を切り替える。

「とにかくそんなご立派な家の人をお迎えするなんて、接待ゴルフ以上に肩がこるじゃないか。お父さんは家でくらいは猫を外していたいんだよ」

「父親として威厳もへったくれもない言い分だね、お父さん。娘は悲しいよ」

 そんなふざけ半分、真剣半分のやり取りをした後、父は祖父の遺言を忠実に守った。

 そして、チトセグループ元会長の妻にして綾峰本家当主は黒塗りの高級外車でごく一般的な我が家にやってきた。

 黒服の屈強な男二名を両脇に従え、黒紋付きを纏った穏やかながらも凛とした雰囲気をたたえた老婦人。私にとって大叔母にあたる人物との初めての対面だった。

「綾峰義将の妹、綾峰桂子と申します」

 深々と頭を下げる初対面の血縁者に父は恐縮しきり、母は粗相のないようにと緊張しきり、私は可能な限り『大人受けのいい子供』を演じた。仏間に通し、線香を上げ、大人の会話がひとしきり交わされるのを黙って見届けた後、大叔母は私を見て微笑んだ。

「兄から貴女の事はよく聞かされました。こうしてお会いできて嬉しいわ。どうぞよろしくお願い致しますね、結恵さん」

そうして差し延ばされた手を握り、にっこりと笑った。

「こっ、こちらこそお会いできて光栄です。ご多忙なことは重々承知しておりますが、お時間があればぜひ祖父の若い頃のお話など聞かせて頂きたいです」


 そこから、私の家と綾峰家の繋がりは確かなものとなっていく。

 祖父から私の事は多く聞いていたという大叔母。

 本当にその通りで、余計なことを話す手間が大きく省けた。

 それでも私に「実の祖母だと思ってくれたら嬉しい」と言ってくれた。私を否定しないでくれた。

 綾峰という家との繋がりが嬉しかった。

 けれどそれ以上に、この人の存在は胸が痛むほど嬉しかった。

 それからは既に隠居しているという大叔母から我が家に足を運んでくれたり、外でお茶をしたり、あるいは綾峰邸に招かれたりもするようになった。

 密かに、静かに、私の胸の内にあった小さな希望がより確固たる形を成していった。

 これを希望と呼んでいいものかはわからなかったけれど。希望と呼ぶにはあまりに昏い願いだったけれど。

 それから更にしばらく後、父は海外支社への辞令を言い渡された。


「できれば結恵も連れて行きたいんだけどね」

「一生懸命受験勉強をしていたのはわかっているし、やっぱり一人日本に残すのは心配だし……私が残ったほうがいいわね」

 難しい顔をして話し合う両親に、私は笑って言った。

「私はもう大丈夫だよ。だからお母さんはお父さんに着いて行ってあげてよ。お父さん一人じゃ私も心配で心配で。お父さんの家事オンチは天才レベルだからね」

 両親が何を心配しているのか、そんなことはよくわかっていたからこそ笑顔で送り出そうと決めていた。そしてこれを機に、私は自分で生きる力を身につけようと思った。

 私なりに生き抜く術を身につけようと決めたんだ。


「では叔母さん、結恵が御厄介になります」

「ふつつかな娘ではありますが何卒よろしくお願い致します」

 深々と頭を下げる両親に、大叔母は穏やかに笑った。

「何を仰るの。結恵さんは私にとっても孫同然。一緒に暮らせるなんてそんな嬉しいことはないわ」

 両親が海外へ行く日から、私は綾峰本家の世話になることになった。

「これからお世話になります」

 大叔母はつい最近初めて会ったばかりの私を善意で受け入れてくれた。

 生まれてからずっと、この地位にいた人。

 きっと下心を持って近づいてくる人間も少なくなかったろうに。

 本当に、祖父みたいに懐の深い人。自分が嫌になるくらいに。

 だけどだからこそ、私は祖父にも大叔母にも憧れるんだ。私にはない強さを持った人達に。


「結恵さん?」

 大叔母の声に、意識は近い過去から今へと呼び戻される。

「どうかなさって?」

「い、いえ。今日から本当に私がこんなに立派なお家で暮らすのだと思うと不思議な感じがして……」

 そう言って苦笑すると、大叔母は安心させるように微笑んでくれた。

「すぐに慣れますよ」

 運転手が大きな扉の隣にあるベルを押すと、内側から扉が開かれ、大勢の使用人らしい人達に出迎えられた。

「お帰りなさいませ、奥様。お嬢様」

 深々と頭を下げる人達。

 呼ばれ慣れない『お嬢様』という呼称。

「ただいま戻りました。後程改めて紹介致しますが、こちらが兄の孫の結恵さんです」

 毅然とした女主人といった風情で大叔母は出迎えにあたった人達に私を紹介した。

「……綾峰、結恵です」

 使用人達の向こうに見える大きな吹き抜けになった階段。

 赤い絨毯の敷かれた床。

 天井高くから吊るされたシャンデリア。

 高い天井に広い廊下。

 ……ここに私の望んだものがある。

「これからよろしくお願いします」

 緊張を胸の奥に押し込み、軽く一礼した。

 今日からここが、私の家だ。

 これが私の欲しいものへの一歩だ。

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