猶予期間
高い天井が視界に入った。
……ああ、ここは私の部屋だ。
ベッドサイドにある時計を手に取ると七時半だった。
欠伸をしてベッドを抜け出し、カーテンを開けると朝日が射し込んできた。
「眩し」
暗がりにいた目には強烈な光が半分寝ぼけていた頭を覚醒させる。
「あれ……私、いつベッドに入った?」
千歳の部屋へ行ったのに、なぜ私は自分の部屋にいるんだ?
あれは夢?
チェストの上の鏡を覗き込むとそこには瞼が腫れ上がった自分の顔が映る。
そうだ。千歳の部屋で大泣きして疲れて寝てしまったんだ。
やはりあれは夢じゃない。じゃあなぜ私は自分の部屋にいる? 自分で帰ってきた記憶は全くないのに。
さっと冷たいものが背筋を伝い、慌てて部屋を飛び出した。
この時間なら大叔母は起きているはずだ。いつも通りなら既に食堂にいるはず。
「あら、お嬢様。おはようございます」
部屋を飛び出してすぐ、ちょうど三波さんが私を起こしにきてくれたところだった。
「あ、おはようございます。あの、おばあ様はどちらに?」
「奥様でしたら先程食堂に降りていらっしゃいましたが」
「ありがとうございますっ」
すぐさま食堂へ降りようとした私の肩を三波さんが笑顔で掴んだ。
「あの……?」
振り返ると三波さんはにっこりと笑った。
「そのようなお姿ではお風邪を召されますよ?」
言われて自分がパジャマ姿だったと気付く。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ。それより何か羽織るものを取って参りましょうか?」
「大丈夫です。着替えてから私もすぐに食堂に行きます。……あの、三波さん」
「はい」
三波さんは笑顔を崩さずに答えた。
「私を着替えさせてくれたのは三波さんですか?」
千歳の部屋へ行った時、確かに私は部屋着だった。パジャマに着替えた覚えはない。だとしたら誰かが着替えさせてくれたのだろう。
三波さんは曇りない笑顔で答えてくれた。
「はい。勝手ながらあのお姿では寝辛いのではと思いまして。お召しになっていた服は今洗濯しております」
「そう、ですか」
「はい。千歳様が結恵様を送ってくださったんですよ」
私の聞きたかった一番のことを三波さんは躊躇いなく口にした。思わず顔を上げて詰め寄る。
「三波さん……千歳のこと?」
「もちろん存じております。私も長く本家にお仕えさせて頂いておりますから。さ、お話はこれくらいにして先にお召し変えなさって下さいな。今朝は少し冷えますからね」
三波さんに言われるがまま私は部屋に戻って顔を洗い服を着替えた。それから食堂へと降りると、大叔母がダイニングテーブルで新聞に目を通していた。
「お、お早うございます。おばあ様」
大叔母は私の姿を認めると新聞を置いてにっこりと微笑んだ。
「お早う。結恵さん」
その様子に普段との違いは見られない。
「さぁ、朝食にしましょう」
「はい」
促されるがままに大叔母の向かいの椅子に座る。
まだ慣れないが座れば次々とオムレツやサラダが目の前に用意されていき、朝食は始まる。
昨日までと同じ平和な朝食。
壁際に控えた使用人も、大叔母も、誰も千歳のことは口にしない。
自分から口にするべきなのか考えているうち、皿の上の料理は綺麗になくなった。そして食後に濃い目の紅茶を出され、片付けに控えていた使用人の多くが食堂を出た時。
「結恵さん」
大叔母が優しげに微笑んで私を見た。
「はい」
自然、背筋を伸ばす。
大叔母は私の目を真っ直ぐに見て、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「近く正式に貴女を綾峰家の最奥、千歳のもとへと連れて参ります」
それはいつもの大叔母よりも、ずっと無機質で義務的な言葉。
「……はい」
私の知らない大叔母の姿に不安を覚え俯いた私に、聞き慣れた優しい声がかかる。
「――こう言ってから最奥へと連れて行くことが、代々の綾峰家の仕来たりなの」
顔を上げると大叔母は困ったように微笑んでいた。
そこに義務的で機械的な様子はどこにもない。目の前にいるのは祖母と呼んでくれと言った、優しい大叔母だ。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。私も貴女のおじい様も皆、こうして最奥へ足を踏み入れてきたのですから」
「あの、申し訳ありません。おばあ様。勝手に千歳に会いに行ってしまって……黙っていて、申し訳ありませんでした」
申し訳なさに深く深く頭を下げる。
『仕来たり』に『正式』な行き方。
そんな面倒な決め事があるほど、千歳のいるあの地下はこの家にとって重要なものだったのだ。それを新参者の私は独断で侵していた。
「結恵さん、顔を上げて頂戴? 黙ってらしたことはやはり悲しいけれどこうして一言、貴女は謝ってくれた……それでよろしいじゃありませんか」
顔を上げるとやはり大叔母は優しげに笑っていた。
「素直に自分の非を認め、謝罪することができる。それは貴女の誇るべき長所ですね。兄もよくそう言っていました」
「祖父が?」
「ええ。自らの非を認めることはなかなかに難しいことです。ですがそれが出来る孫がいる、と兄は生前私に自慢げに話してくれました」
「おじいちゃんが……」
そんなことを言っていたんだ。そう思うと胸が熱くなる。
「それに正直、千歳さんについて黙っていたのは私も英断だったと思いますし」
それは辺りを憚るような小さな声だった。
「え?」
「もうお気づきでしょうが、千歳さんはこの家において特殊な方です」
大叔母は目を伏せ、薄く笑った。
「出来るのなら貴女を千歳さんと会わせたくはありませんでした。最奥へ行き、彼に会って頂くということは、この家の最も暗い部分を見せるということにもなりますから」
「……」
「全ては『正式』に千歳さんのもとへ行く際にお話します」
「……はい」
「もしも全てを聞いて、貴女がこの家に留まることが嫌だと思ったら遠慮なく仰いなさい。住居などは手を尽くさせて頂きます」
「え? そんなことあるわけ……」
反射的に答えると、大叔母は悲しげに息を吐いた。
「全てを知ったなら、考えが変わることがないとは言えませんから」
最奥へは七日後に。
そう言われてからはお互い千歳のこと、最奥のことについては触れなかった。
それから私は何となく、千歳のもとへは行けずにいた。
夢だと思った千歳の言葉を思い出す。
――全ては正式な場で話す。
千歳もそう言っていた。
『正式』というのがこの家の仕来たりに則った形なら七日後、大叔母と共に彼を訪ねる時がそうなのだろう。
では『全て』は?
血のこと。それから千歳自身のことだろう。
奇妙に騒ぐ血の意味と、この家において特殊な千歳。それから――。
生き神……否、千歳曰くの化け物について。
全て聞いた時、私はどんな選択をするんだろう。大叔母の言うとおりこの家を出たいと思うのだろうか。でも少しくらいのことでこの家を離れようなんて思えない。最初にこの家へ来た動機はつまらないちっぽけなものだったけれど今はそれだけじゃない。
千歳といたい。
私を撫でてくれる優しい手。まっすぐな言葉。不思議で優しい空気。
もっとたくさん話したい。もっともっと一緒にいたい。
この感情を何て呼ぶのか何となくわかる。わかるけれどそれが正しいのかは分からない。そんなもの自分とは無縁だと思っていたから。
恋だなんて甘くかわいらしい感情は、私には最も縁遠いものだと思っていたから。
ただ優しくされて勘違いされているだけかもしれない。私の汚い部分を受け入れてくれたからそう思うだけなのかもしれない。
きつく瞼を閉じて浮かぶのは、整った顔で子供みたいに笑う千歳。
これが恋かなんてわからない。この家のことだって私はまだ何も知らない。千歳があんな場所にいる理由だって知らない。
だけど――。
「……会いたい」
それだけは確か。
会ってまた一緒にお茶をしたい。千歳のあの不思議なペースに乗せられるおしゃべりをしたい。出来るなら、また頭を撫でてくれたらいい。
今すぐ会いに行きたいと思う反面、何となく『正式』な時まで会いに行ってはいけない気がした。多分、会いに行っても千歳も会ってくれない。そんな気がする。
「七日……」
長い。
一週間はこんなにも長かっただろうか。
「早く七日経てばいいのに」
この家の闇を知っても何を知っても、また千歳に会いたい。
そうだ。その時は昨日の夜のお礼も言わなければいけない。あんなに泣き散らしたのに根気よくそばについていてくれた、そのお礼を。
七日。
長い長い七日。
家庭教師に勉強を教わり、大叔母とお茶をして、時折屋敷や敷地内を散策したりして過ごした。少しでも忙しくして千歳やあの地下の事を思い出さないようにしていた。
それでもふとした瞬間に千歳の空気が懐かしくなったり、敷地内を歩いていてもこの屋敷内の奥深くに隠された何かについて考えてしまう。
そんな折、午前中の授業が全て終わってお茶を飲んで一息ついていた時のこと。
「お嬢様。二ノ峰家の鷹久様、鷹槻様。四ノ峰家の標葉様、四葉様。四ノ峰分家の律様、令様。五ノ峰家の薫子様がお見えですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
「鷹槻達? 私は構いませんけど」
そしてメイドさんに案内されるままにサロンへと足を向けた。サロンへ足を踏み入れると、先日の半魚伝説のはぐれ者メンバーに更に知らない男の人がお菓子片手にくつろいでいた。
「それでは皆様。ごゆっくり」
扉が閉じられ、メイドさんが下がっていくと律が大仰に息を吐いた。
「あーかたっくるしいな、おい」
「本家は肩凝るなぁ」
令も肩をぐるぐると回しながら言う。
「やほー結恵っち」
四葉がにこにこと椅子から飛び降りて寄ってきた。
「遊びに来たよ!」
「お邪魔しているわ」
薫子が優雅に小首を傾げて微笑む。
「今日は学校が創立記念日でさ、急にどうかなーとは思ったんだけど遊びに来ちゃったよ」
そしてすっかり説明役が板についている鷹久が教えてくれる。鷹槻もその隣でもくもくと出されたスコーンを半分に割りながらこちらを見た。
「今日は標葉を連れてきたいって四葉が言うから連れてきた」
「標歯?」
聞いた気がするけど誰だったか?
「お兄、結恵っちに自己紹介」
四葉に引っ張られてきたのは典型的な中肉中背に眼鏡をかけた、いかにも人の好さそうな好青年、といった雰囲気の男性だった。ここにいる皆と比べると一番の年長者、多分二十代前半くらいだろう。
鷹久や令と比べると地味な雰囲気はあるけれど穏やかな表情は安心感を与える。
「初めまして。四ノ峰家戸主長男の標葉と申します。先日はうちの四葉達がお世話になりました」
標葉さんは優しげな笑みを湛え、右手を差し出してきた。
「こちらこそ初めまして。綾峰結恵です。えっと四葉のお兄さん、ですよね?」
「はい」
にこにこと答えてくる標葉さんはこの面子の中では信じ難いほどに真っ正直そうだ。
するとぴょこんと四葉が飛び出してきて楽しげに言った。
「でもってー七歳年下の薫子ちゃんと付き合ってるんだよー。このロリコン~」
四葉の明るい声に、標葉さんの顔が真っ赤に染まる。更に薫子がむせ込む。
「ロ、ロリコンはないだろう、四葉」
標葉さんは慌てふためきながら妹に言い聞かせるように言った。
薫子もそれに便乗する。
「そうよ! 標葉さんはロリコンなんかじゃないわよ! だいたい七歳くらいの差なんて」
「年なんて関係ない。そう言ってお人好しな標葉を言いくるめたんだよな?」
意地悪く笑うのはやはり律。薫子は耳まで真っ赤にして一触即発の雰囲気。これはまたあの演武もどきが見れるかと密に期待していたものの、今日はなぜか薫子は黙って顔を歪める程度に留めている。
したりとばかりに律は更にわざとらしく言う。
「あーあー。うちの標葉が薫子の毒牙にかかった時はどうしようかと令と額をつき合わせて考えたもんだね」
「毒牙ですって……?」
薫子の声が不穏なものを帯びて行く。
「こら。律くん、そんな言い方は……」
標葉さんが少し強めの口調で律を咎めるが、律はふいっと顔を背けただけだ。
「標葉さんが話しているのだから無視するんじゃないわっ」
ついに怒髪天を突いた薫子の右ストレートが律の顔面めがけて放たれるが、律は余裕でそれをかわす。
「そんな怒り狂って当たるかよ」
「何ですって!?」
「薫子さん、暴力は駄目だよ」
標葉さんの落ち着いた声に、薫子は更に振り上げた手を降ろした。
この人、あの薫子を黙らせた。つい感動してしまう。
「律くんも。女性に失礼なことを言っちゃ駄目だよ」
「……へーい」
あの律が、素直をとは言い難いけれど従っている。実はこの人、地味に見えて最強か。
標葉さんは困ったような笑顔で私を見た。
「先日もこの調子だったって聞いたんですけれど皆、根はいい子達なんで仲良くしてあげて下さい」
「いえ、こちらこそ!」
慌てて言うと標葉さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
本当にいい人だ。
薫子が好きになるのはどんな人間なのかと思ったが、いい人だ。格別変わったところがない、普通という美徳を持ったいい人だ。良くも悪くもクセのある綾峰の中では貴重なタイプの気がする。
そんなことを考えていると、クセのある妹が標葉さんを見上げた。
「ねぇねぇお兄、結恵っちは敬語はヤなんだよ? 言ったじゃない」
「え、いやでも……」
「いいじゃないですか、標葉さん。俺達にもタメ口なんだから結恵ちゃんもタメ口で。ねぇ? 結恵ちゃん」
鷹久に聞かれ、大きく頷く。
「あまり敬語を使われるのとか慣れてなくて……差し支えなければ私も他の皆と同じように扱ってくださると嬉しいです」
「でも、いいのかな?」
恐縮しきった様子で標葉さんが尋ねてくる。
「はい。私は所詮しがない居候ですから、そんなに気を遣わないで下さい」
標葉さんは困ったように頬をかいたが、すぐに穏やかに笑った。
「それじゃあ妹達共々、よろしくね。結恵さん」
「はい。どうぞよろしくお願いします」
「僕のほうも敬語はいいけれど……」
「いえ。慣れないので敬語使わせて下さい」
そう言い張ると標葉さんは渋々とだが了承してくれた。