貧弱な子供の決意
足音が去って行ってしばらくして突然ドアが開いた。
「そんなところにいたのか。冷えたろ?」
ドアの横で小さくなって座っている私と目線を合わせるようにしゃがみ込み、千歳は首を傾げた。
「ん……大丈夫」
何となく千歳の顔を見れないままに乾いた口を開いた。
「私も、そろそろ戻るね」
「全部聞いたか?」
相変わらず千歳は人の話なんて聞こうともしない。故意になのかそうでないのかはわからない。
顔を上げられず黙っていると、優しく頭に手が置かれた。
「ごめんな。口が悪い奴で」
その手が優しくて温かくて泣きそうで嫌になる。
「……千歳」
「ん?」
「私は嫌な人間だよ」
千歳の手を頭から払って、俯く。
「私はおばあ様があんなに良くしてくれるのに、この家の権威を利用することしか考えていない、最悪な人間なんだよ」
吐き捨てるようにそう言って。
「この家に来たのは綾峰の財力と地位と権力が欲しかったから。あのまま普通に暮らしていたんじゃ到底手に入らなかっただろう力が欲しかったから。そのためにここに来た」
千歳は何も言わない。
一体どんな顔をしているのか見ることもできない。
でも、嫌ってくれればいい。
そしてもう私になんて優しくしてくれなくなればいい。
そうでないと、好きになってしまうから。
もっともっと好きになってしまうから。
こんなに優しい人を、こんなに汚く最悪な私が好きになってしまうから。
だから嫌って、疎んで、突き放してくれればいい。
姑息で最悪な私は、自分からなんて離れやしないから。
「そこら辺の俗物連中よりずっとずっと汚いの。あんなに優しいおばあ様に取り入ってやろうとしてる。おじいちゃんの孫だって立場を利用して、この家の力を手に入れたいだけ」
ああ、口にして分かる。
本当に私は最悪だ。
性悪にも程がある。
昔から口ばかり、悪知恵ばかり回る。
「……力が欲しいんだ?」
そう言った千歳の声は信じられないくらい穏やかだった。反射的に顔を上げようとしたのを抑え込む。
「っそう。私は力が欲しい。誰にも侵されない力が欲しい。だから私は――」
「何でそう思うんだ?」
どこまでもその声は優しい。
少しでも体の力を抜いたらそのまま崩れ落ちてしまいそうなほどに。
「何で?」
もう一度尋ねてくる千歳の声に、両手をぐっと握り締めて答える。
「私が私のために生きるために」
「そうか」
静かな声が降ってくる。
さすがに呆れただろうか。自己中心的な子供だ、と。
いくら優しい千歳だってさすがに呆れただろう。
そう望んだはずなのに、そう思うと視界が涙で滲んだ。
……もう行こう。そしてもうここへ来るのはよそう。
千歳がこのことを誰かに話せばこの家にいられなくなるだろうか。きっと大叔母は既に気づいているのだろうが。
でも他の家の人間は黙っていないだろう。こんな子供が家の地位財産を狙っているなんて知って、それでも置いておこうなんて言うような酔狂な人間がこれだけ大きな家にいるとは思えない。
千歳の顔は見ないまま、立ち上がってドアノブに手をかける。
「それじゃあ帰るね」
「昨日もさー」
私の言葉など聞こえていないかのように軽い調子で千歳は言った。
「自分で自分の責任が取れるなら自分の意思を貫き通していいに決まってるって言ったろ?」
しゃがみ込んだまま、千歳は私を見上げて続けた。
「自分のために生きていいに決まってる。自分の人生なんだから」
思わず千歳を見ると、彼はいつもと変わらない表情をしていた。
私と目が合うと千歳は小さく笑って立ち上がった。
「だけどこの世界で自分の意思を貫き通すのは難しいよな。これも最初会った時に言ったけど、せっかくの立場なんだから最大限に利用してやればいい。この面倒くさいことこの上ない家にいるってことは、それだけの物を得るだけの代償になり得る」
この人は他人を蔑むとか嫌うとかないのか?
「結恵が結恵の思うままにしたいって言うなら俺はそれを止めない」
何でこの人はこんな矮小で卑劣なだけの子供に優しい言葉をくれる?
「だから自分で自分を傷つけるようなことばかり言わなくていいんだ。泣いてしまうほど嫌なことを言わなくていいんだ」
目尻に溜まっていた涙がすっと流れ落ちた。涙は千歳の手の上に落ちる。
「何でそんなこと言うのさ……私は最低な人間だよ」
「本当に最低な人間だったら、まず自己申告はしないだろうな」
千歳は笑って私の両手を握り、額に自分の額を寄せた。
「結恵は悪役になりきれないタイプだ」
そう言って小さく笑う。
それを否定するように声を荒げた。
「そんなことない。私は最低だ。汚くてずるくて、酷い人間だ。自分のことしか考えてないような最悪な」
「結恵は言うほど汚くもずるくも酷くもないよ」
ごくごく柔らかな声音でそんなことを言う。
「千歳はここに来る前の私を知らないから……!」
「うん、知らない」
「だったら――」
「でもここにいる結恵は知ってる」
「ここでは猫を被ってるだけ!」
「そうか」
どんなことを言っても柳に風。
優しい言葉も気配も、これっぽちも変わらない。
ああ、好きだ。
この人のことが好きだ。
こんなに優しい人を想うなんてそんな資格、私みたいな人間にあるわけないのに。
「……千歳」
「ん?」
千歳は額を外して私の顔を覗き込んできた。
「私は友達を売ったんだよ」
――友達を売るなんて最低!
今も鮮明に思い出せるあの時の彼女らの表情が、言葉が胸に突き刺さる。
「それでも私は、言うほど汚くもずるく酷くもない?」
千歳は屈んで私と目線の高さを合わせた。
「結恵は友達を売って喜ぶような人間じゃないよ」
「まだそんなことっ!」
「だって喜んでたらそんな顔しないだろ?」
まっすぐな千歳の視線に、両目から涙が溢れ出していたことに気づく。
「……違う」
「何が?」
「私は酷いんだよ」
「結恵が思っているより酷くないよ」
「酷いよ」
「何でそう思う?」
静かな声がそう尋ねてくる。
私の思いと反比例するように、千歳の声はどんどん静かになっていく。
それが何だかとても腹立たしかった。だからむきにになって叫ぶ。
「だって、言われたもん! 私は友達を売った、酷くて最低な人間だって!」
「売ったのか?」
「売ったよ……」
両膝から床に崩れ落ちる。
「私が迷ったから……」
涙が止まることなく溢れてくる。
疼くような痛みが一年前の記憶をはっきりと呼び起こさせる。
「私、は……最悪なんだよ……」
一年前。中学二年の夏。
蝉の声がうるさくて、強い日差しが鬱陶しい日の帰り道。
「ねー結恵、帰り寄ってこ」
「……あ、うん」
数人の友人に誘われ、私は楽しげに喋る友人達の後を黙ってついて行った。
今日の言い訳はどうしようか?
もう言い訳も限界な気がする。
ううん。気がするじゃない。絶対にそうだ。
今度ダメだったら……。
考えたら体が震えた。それでも足は止められない。楽しげな友人たちの後を追う。
するとそのうちの一人が振り返って言った。
「ねー結恵。結恵はうちらの友達だよね?」
彼女はねじ曲がったような笑みを浮かべた。
「う、うん。当たり前だよ……」
「じゃあ今日こそは結恵もうちらと友達って証拠、見せてね?」
無邪気なようで強い口調。それは寒気がするほどに。
気付けば前を歩いていた全員が私を見ていた。貼り付けたような顔で笑いながら。
「結恵はうちらの友達だもんね?」
「そうそう。友達はイチレンタクショーでしょ?」
「ねー結恵?」
くすくすくす。
笑い声が強い日差しと蝉の声に溶けていく。
「う、ん」
無理矢理作った笑顔で答えると、彼女たちは満足そうにまた笑ってしゃべりながら歩きだした。
どうしよう。どうしよう。
心臓が今にも飛び出してきそうなくらいに鳴って、私の周りだけ酸素が薄くなってしまったかのように息苦しかった。
それから私達は通学路にあるドラッグストアに立ち寄った。店内はクーラーが効いていてずっと日差しに照りつけられた身には心地よかった。けれど心臓の音と薄い酸素は変わらない。むしろ酷くなっている。
色とりどりの化粧品や生活雑貨の陳列された棚の前を皆でうろうろしながら歩く。そしてそのうちの一人の子が笑って私達に『合図』する。
その手がリップグロスへと伸びて、すっと制服のポケットへとしまわれる。
数人がそれに続く。
他の客も店員も、誰も気づいていない。
ここが死角になるって学校では評判になっていたから。
これが私達の友達の『証拠』。
万引きして、そのスリルを共有し合うということで『友達』だというもの。
それが出来ないものは友達じゃない、異端者。
「ほら、結恵もー」
一人に小突かれて我に返る。
今の今まで、何とか誤魔化して免除されてきた。けどもう無理だ。
心臓が怖いほどに鳴り、酸素はどんどん薄くなっていく。
「結恵ーやんないの?」
冷やかな声に、震える手をかわいらしい化粧品の並ぶ棚へと伸ばす。
万引きって犯罪なんだよね?
窃盗罪になるんだよね?
そうしたら私、犯罪者だよね?
心臓は早鐘のように胸を打ちつけるように鳴り響く。
「ちょっと、早くしなって。気づかれるじゃん」
「結恵ぇ?」
――わかってる。
大人の言う正しいことが、私達の世界の正しいこととは限らないことくらいわかってる。
ここでやらなかったら友達が離れていってしまう。学校での居場所がなくなってしまう。
やらなきゃ、やらなきゃ……
でも――……。
瞬間、私の周りから酸素が消えた。とうとう心臓が胸を突き破ってきたかのようだった。
それからはよく覚えていない。
伸ばした手は鈍い衝撃を感じた。
耳に入ってきたのは雪崩のように物が落ちる音。
それから少し遠くで知らない悲鳴が上がった。
数人が慌てて立ち去って行く足音を聞きながら、一度そこで私の意識は途切れた。
目を開けるとそこはドラッグストアの休憩室だった。
白衣を着た、いかにも医師らしい男性が目を開けた私に笑いかけた。
「大丈夫かい?」
「私……どうしたんですか?」
「君は過呼吸を起こしたんだね。それが酷くなって失神したらしい。息が苦しくなったり動悸はなかったかい? あとはその原因になるようなストレスは?」
「ありました……」
まだぼんやりとする頭で答えると、ドラッグストアのエプロンをつけた中年の女性が医者らしい人の隣から顔を出した。
「もう起き上がれるかしら?」
その女性が手伝ってくれ、今まで寝ていたソファから上体を起こした。
「あなたには少しお話を聞かせてもらう事になるけれど……」
「店長。彼女の場合は強要されたのではないかと医師としては。過度のストレスの原因はそれでしょう。それに彼女の持ち物からは商品は見つからなかったのでしょう?」
「いえ。この子を疑っているわけでなく念のためですよ」
何の話だか話についていけずにいると、店長だという女性は穏やかに笑った。
「あなたのおかげでここのところの万引き犯が分かったわ」
その言葉に一気に背筋が凍る。
「あ、あの、私……」
「ああ、大丈夫。わかっているわ。あなたはそんなことしていないって。平気で盗めるような子だったらあそこで倒れたりはしないものね」
また、酸素が薄くなる。
「今、あなたが倒れた時に逃げ出した子たちとその親御さんに話を聞いてるのよ。本当に被害額が酷かったから……あなたがあのまま物を盗んで帰って行っていたら、被害はますます大きくなるところだったわ」
優しく言う店長の言葉が、今は地獄からの言葉のようだ。
「一応あなたのおうちにも連絡してあるからもうじき親御さんが見えるわ。事情はこちらから説明するからそうしたら帰っていいからね」
ドアの向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。
それに身を竦ませ自分のしたことの結果へ体を震わせると、何を勘違いしたのか店長はそっと肩に手を置いてきた。
「警察の方にも来てもらってるの。大丈夫、あなたは違いますって伝えてあるから」
……じゃあ、ドアの向こうで怒鳴られているのは。
「っ、はぁっ、はぁっ……」
「どうしたの!?」
「また過呼吸だ……店長、紙袋を」
「は、はい!」
店長が部屋を出ていくのにドアが開けると別室との仕切りが消え、部屋が一時的に繋がった。
警察官らしい人と、彼女らとその親が見えた。
一人が私と目が合うと親や警察を無視して叫んだ。
「あんなわざとらしい演技までして友達を売るなんて最低!」
「あんたなんか友達じゃない!」
「嫌だったからってこんなことしなくてもいいじゃない!」
「こんな汚い奴だなんて思わなかったし! 酷すぎ!」
次々と投げかけられる言葉に、目の前が真っ暗になった。
全部終わった。
最低で汚くて酷い私は、絶望を目の前にしながらそんなことを思った。
「やめないかっ」
「ドアを閉めろ!」
警官や店の人によって部屋は再び遮断されたが、それでも彼女たちの声が嫌でも聞こえてきた。
それから親が迎えに来て、店員から事情を説明されて家に帰った。
そんなことがあって私は学校へ行かなくなった。
当初は行こうとすると過呼吸を起こしてしまって行くことが出来なかったと言うのが正しかったが、次第に自分の意志で行くことをやめた。
休んでいる間中、携帯電話に誰からかもわからない無言電話や悪戯メールが毎日のように来た。
それが誰からのものかなんて、考えるまでもなかった。
あそこで私が嫌だと思っていたからこんなことになった。けど嫌だと思わないことは不可能だったろう。
その時思った。
一生こうして何も言えずに過ごすのか、と。
一生じゃなくてもいい、いずれは自分の意思を言葉にできるようになろうとそう思った。
でもどうすればいい?
長いものには巻かれなければいけない社会。
大人になればなるほど柵の増えるこの世界で。
……ああ、簡単だ。
弱い者は皆長いものに巻かれるのなら、私がその長いものになればいいんだ。
絶対的な地位と後ろ盾を持てばいい。
幼い私はそう単純に思った。
今はまだ無理でも、大人になった時には必ず地位も権力も手にする。
高級官僚でも政治家でも何でもいい。
派閥でも何でもうまく生き抜いて、確固たる権力を持つ。
だからそれまでは今までよりずっと強かにずるく生きなければ。
どんな手段を使おうと冷たい人間になろうと、自分を隠してうまく生き抜いてやる。
嫌がらせの電話が鳴り響く携帯を叩き割って、その時仄暗い復讐にも似た決意をした。
社会的な力を手に入れると。
たくさん勉強していつか必ず地位を手に入れると。
それが私の十四歳の夏の、昏いばかりの決意だった。