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壁際の無力な子供

「……もう平気」

 紙袋を外して上体を起こす。随分楽になって呼吸も落ち着いてきた。

「そうか?」

「うん。ありがとう」

 千歳はまだ少し心配そうな顔をしていた。

 そんなに驚かせたのかと申し訳ない気持ちになる。

「本当に大丈夫だよ」

 片手を繋いだままソファから降りて床に座った。

「ごめん。驚かせて」

「驚いたと言うか……こっちが悪かったから」

 千歳は伏し目がちに言う。

「別に千歳は悪くないよ。それより話、続き聞かせてよ」

 これ以上千歳にこんな顔をさせたくなくて、努めて明るく言う。

「このままじゃ気になって夜もおちおち寝てられないし」

「今日はもうやめたほうがよくないか?」

 千歳は意外に過保護だ。

 一応既に子持ちらしいから、そのせいかもしれないが保護者っぽいところがある。

「大丈夫。このまま中途半端に話を切られちゃったほうが気になって精神衛生上よくないよ」

「まぁ、そうなのか……?」

 千歳は難しい顔をして黙った。

 こんな顔もするのか。いつも楽しそうな顔をしているのに。それか、私が見たのは別人のように冷たい表情か。

「……それにほら! さっきベースは件か人魚かとか言ってたじゃない? 何、半魚じゃなくて人魚も何か言い伝えとかあるの?」

「あー人魚な。人魚も予言するとか色々逸話があるからそれも混じってるんだと思う」

 千歳はベースになった話くらいならいいかと思ったのか、軽く息を吐いてから話し始めた。

「土地によって違うけど、人魚は吉兆、凶兆とか」

「日本にも人魚っていたの? 私も子供の頃、人魚姫読んでもらって泣いたっけ」

 王子様に恋をして声を引き換えに陸に上がった人魚姫。最後、海の泡になる人魚姫は子供心に悲しいものがあった。

「それってアンデルセン童話の?」

「うん、そう。幼稚園の紙芝居で先生が読んでくれたんだけど、先生がまた上手く読む人でさ。最後はクラス全員号泣して大騒ぎだったな」

「確かその人魚姫って若くて美人で健気で歌が上手いんだったよな?」

「そうだよ。他にもあるの? 人魚の話。人魚はジュゴン説なら知ってるけど」

 千歳は気まずそうに目を逸らした。

「……何?」

「いや。まだ結恵は夢を見ていていい年頃だ、うん」

「ちょっと。人魚姫で泣いたのって幼稚園の頃だからね? 今はむしろ、そんなボンクラ王子のために命を無駄にしなくても、くらいしか思わないから」

 我ながら十年程度で随分すれてしまったとは思うが。

 千歳はちらりと私を見た。

「夢を壊されたとか言うなよ?」

「は? 言わないよ」

「怒るなよ?」

「怒らないって」

「……泣くなよ?」

「だから泣かないってば」

 一体なぜそんなに念押ししてくるのか。

 千歳は諦めたようにさっきの『日本妖怪事典』を片手に取った。そして繋いでいた手を外してページをめくり出す。

 ずっと繋いでいたから少し寂しく感じた。

 当の千歳は特に気にする様子もなくページをめくりながら話を続けた。

「人魚はヨーロッパのほうがポピュラーか。ローレライとか聞いたことないか?」

「んーと、名前くらいは」

「ローレライって言うのはドイツのライン川にある岩山の名前なんだけど、伝説だとそのローレライっていう若くて美人な人魚がライン川を渡る船の人間に歌を歌うんだそうだ。けどその歌があまりにも上手くて船の奴らは聞き惚れて舵を取り誤って川底に沈んでしまうんだと。他にギリシア神話にも出てくるセイレンっていうのは海で似たようなことをしている。海で歌って船を難破させるんだそうだ」

「へぇ。人魚姫とは随分イメージ違う」

 聞いた限り、ローレライには健気で薄幸という人魚姫のイメージは見当たらない。

「あとはアイルランドのメロウ。女は美人らしいけど男はブサイクなんだと」

「何それ」

 不細工な男の人魚を想像してしまいつい吹き出す。

「それこそ人魚というより半魚って呼んだらいいのに」

「まぁ見た目は置いといて、こいつが出てくると嵐が起きるって言って船乗り達が嫌がったらしい」

「そりゃあ嫌がるね」

 船に乗っている時だったら遭難、悪くすれば難破するかもしれないし。

「そういうわけで基本的に人魚にはいいイメージっていうのは少ない」

「あ、確かに」

「アンデルセン童話の美人で歌が上手い人魚って言うのはヨーロッパの人魚の特徴だろうが、最後幸せにならないのも悪いイメージが強いからかもな」

「なるほど」

 パラパラと乾いた紙をめくる音を聞きながら相槌を打つ。

 その音が止み、あったあったと千歳は私の前に本を広げて差し出した。

「これが和製人魚」

 受け取った本を見て絶句する。

「……半魚っ!」

「イメージはその瓦版の挿絵だったんだろうなぁ」

 千歳は苦笑して言う。

 渡された本には、鬼の角のようなものを生やした女の首から下が魚になっている絵が描かれていた。こちらも瓦版のものと注釈してある。

「文化二年、今から二百年前に越中えっちゅう……今の富山県に人魚が出て漁船を悩ませたから鉄砲で仕留めたって書いてあるんだ」

 千歳は横から覗き込み、瓦版の内容らしいものを現代訳してくれた。

「全長が約十メートル五十。髪の長さは約五メートルってところか。両方の腹に目が三つずつついていて、金色の角が二本生えている。下腹は赤く、鳴き声は約四キロ先まで響く」

「ば……化け物じゃない」

 人魚姫のイメージが音を立てて瓦解していく。こうして絵を目の当たりにすると少しショックだ。

「んーでも外見はいかついけど、最後のほうに書かれてる。この人魚を一目見ると災難を逃れ、長生きして一生幸せになれるって」

「幸せどころかこんな姿を目撃しただけで一生もののトラウマだと思うんだけど」

「違いない」

 間髪入れず言った私の言葉に千歳は声を上げて笑った。

「これが半魚の姿のモデルで、話は件がモデルになったわけね」

「た、多分」

 千歳は笑い過ぎて苦しそうな息を整えながら答えた。

「他にも日本各地で人魚は目撃されている。祟ったり、絵姿が魔除けになったり、予言を受けて津波を逃れたり」

「じゃあ、どっちかと言うと人魚の話のほうが半魚話のベースとして強め?」

「かもな。人魚って意外とポピュラーで偽物のミイラなんかが多く輸出されていた時期もある。『実際にいそう』な感じがしたんだろ。人魚のミイラが有形民俗文化財に指定されている市もあるって言うし」

「美人の人魚ならともかく、半魚風人魚のミイラのどこに需要があって輸出なんてされてたの? それとも半魚風人魚が美人認定される国でもあったの?」

 真顔でそう言うと再び千歳は笑い出した。どこでツボにはまってしまったのか、おなかを抱えて涙まで浮かべて笑い転げている。

 この笑い上戸め。

 しばらくまともに息もできないくらい笑い続けてからようやく千歳は涙の浮かぶ目をこすった。

「そりゃあ俺も美人の人魚のほうがほしいけどさ……」

 そう言った千歳のあらゆる行動が停止する。目をこすったまま、ぴくりとも動かない。

「……千歳?」

 恐る恐る声をかけると千歳は一切の笑いをおさめて私の腕を取った。

「結恵。悪いけどちょっとあっち行ってろ」

「へ?」

 千歳に引っ張られ、入口や隠し扉とは別のドアの前へと来た。

「しばらくここで大人しくしてろ? 灯りは点けてもいいけど絶対ここから出てくるなよ。出来るだけ物音も立てるな。寝ててもいいから」

 そうして真っ暗な部屋の中へ放り込まれる。パチンと音がして部屋が明るく照らされると同時に千歳はそのまま外に出てドアを閉めた。

「え? ち、千歳!」

 ドアノブは回るのにドアはピクリとも動かない。千歳が押さえているのか。

「ちょっと何なの? どうしたの?」

「後でだ。客が来る」

 短いがそれ以上反論する気力を削がれる程に強い力を持った声に、私は渋々ドアから離れた。

 突然押し掛けたのは私だし、客があるならば追い返したっていいところを話に付き合ってくれただけでも温情だ。

 これ以上はただの我がままになってしまう。そう思って室内を改めて見ると、十畳ほどの部屋にクラシックな木製のベッドとサイドテーブルが置いてあった。

 この部屋の外にもベッドはあったが、こちらのベッドのほうが大きくて部屋の印象も寝室らしく落ち着いている。あちらのパイプベッドには毛布が丸まっていたのに対し、こちらのベッドはあまり使われている様子がなく布団も枕もホテルのようにきれいに整っている。

 あちらが仮眠用でこちらが本来の寝室というところだろうか。となると普段千歳はあの仮眠用ベッドしか使っていないのか。

(……って、人様の私生活を推察するなんて悪趣味だ)

 雑念を振り払うように頭を振ってそのまま膝を抱えて座り込んだ。物音を立てるなと言われたのだからこのまま動かないようにしなければ。

 それにしても表に出ないはずの存在の千歳の客とは一体誰なのだろう。

 大叔母だろうか。それとも使用人。鷹槻……だったら私が隠れる理由はない。

 考えているうちについつい好奇心が芽を出す。

 話を聞くなとは言われなかった。言われなかったが、聞くのはやっぱり失礼だろう。

 だがもしかしたら、この家でも特別な千歳に何か深く関わるようなことが聞けるかもしれないし。いや、それこそ千歳本人に聞けばいいだけで盗み聞きなんて礼を欠くにも程がある。

 一人で座り込んだまま葛藤し続けていると、壁の向こうで千歳の声がした。

「入っていいぞ」

 壁際にいるから声が拾えるんだ。今から動いたら物音が外に漏れるかもしれないし、動くわけにもいかない。

「遅くに前触れもなしに失礼致します」

 千歳の声に続いて聞こえてきたのは落ち着いた、威厳に満ちた大人の男性の声だ。

「別にいいさ。とりあえず座れよ」

 対して千歳は声音も口調も軽い。

 相手はその千歳に丁寧な口調を使わなければならない誰か。

 使用人という雰囲気ではない。……本家以外の親族か。

「よく来たな、和典かずのり

「はい。失礼致します」 

 和典……やはり呼び捨てか。

 この家で一番の権力を持つ大叔母を呼び捨てにするくらいなのだから、他の誰を呼び捨てにしていてもおかしくはないが。

「で、要件は?」

「はい。もちろん……私の前に桂子様がおいでに?」

 和典という人の声が訝しげなものに変わる。

「ああ、そのカップな」

 千歳の言葉で気付く。

 テーブルの上に置きっぱなしにした私の分のココアだ。

 どうしよう。バレたらまずいんじゃないのか。

 体を強張らせて成り行きを見守っていると、千歳が軽い調子で言った。

「そっちは砂糖抜き。こっちは砂糖入り。両方飲みたかったから両方用意したんだ。お前も飲む?」

「いえ。私は結構です」

 その声からは怪しむ様子はない。

 どうやらこの人は千歳のマイペースで常識で捕えられない行動を知っているらしい。

 運が良かった。

「ところで本日伺った要件ですが」

「ん、ああ」

「敷地内の子供らへの披露目の席については滞りなく終了したそうです」

 私の事か。ここにいるというのに何だか気まずい。

「それは何より。お前のところの子供達も出席したのか?」

「はい。先程長女から報告を受けておりました」

 報告?

「逃亡者の血はあまり好ましくない者達と親しくなさっておいでだったとか」

 逃亡者の血?

 好ましくない者達?

 何の話だ……?

「桂子様も彼らを本家屋敷へ招待したとか」

 やはり好ましくない者達というのは鷹槻達のことだ。

 と言う事は、逃亡者の血は私。

 逃亡者。

 その単語を頭の中で反芻すると共に、一人の人物の顔が鮮明に蘇る。

 駆け落ちした、跡取り。

 それは……『逃亡者』は祖父?

 心臓が外にまで響くんじゃないかという程に鳴っている。

「和典。その呼び方はあまり気分のいいものじゃない」

 子供を窘めるように千歳が言う。

「は。失礼致しました。――結恵様は二ノ峰の長男を筆頭とする者達と親しくなさったご様子」

「うん。いいんじゃね?」

「千歳様」

 和典の声が咎めるようなものになる。

「そのように軽々しく」

「お前たちが重々しく考えすぎなだけだって」

 溜め息がちに千歳は言う。

「子供には好きにやらせてやれ。でないとこの家の大人達みたくゆがむぞ?」

「私どもは歪みですか?」

「歪みだろう」

 苦笑するような千歳の声が小さく聞こえた。

 和典は重々しく息を吐く。

「そのような事を……ですから貴方にはこのような場所にいて頂かなければならないのです」

 いて頂かなければならない……?

「けっこう快適だし別に俺は構わないけどな」

「千歳様。私どもとて好き好んで貴方をここに隔離しているわけではないのです」

 ……隔離。

 この人が千歳を――?

「本来ならば、敷地内の者達には家格年齢を問わず貴方に会わせても良いと考えております。ですが貴方がそのようなお考えでは子供らに示しがつきません」

「んー和典は考え方が古いよな。いや、お前に限ったことではないけど」

「こうして綾峰家は代々続いて参りましたので」

 千歳の呆れがちな言葉にもきっぱりと言い切る。それから声をごく低くして呟くように言う。

「……私どもからすれば、『歪み』は逃亡者です。裏切り逃げ出した者」

 祖父が裏切り……?

 思わず声を上げて部屋を飛び出しそうになったのを何とか堪えた。ここで出て行ったらせっかく千歳が隠れさせてくれた意味がなくなる。手を強く握りしめ、小さく身を固めた。

「和典。俺や桂子は義将を裏切ったとは思っていない。二度とそういう言い方はするな」

 怒気の混じる強い声で千歳が言った。初めて聞く千歳の強い言い方に怒りよりも驚きが勝る。

「本家は絶対なんだろう? ならば当主である桂子の意向に逆らうお前は反逆者か?」

「……申し訳ありません。言葉が過ぎました」

 和典の声が怯むように弱々しいものとなる。

「ですがこれ以上は他の者達の不安は募るばかり」

「……」

「せめて結恵様が義将様のように『当たり』であられるなら、皆が安心することでしょう」

 当たり……祖父は当たりだったのか。私と同じように。

 和典の言葉に対し千歳は冷めた声で返した。

「俺は『はずれ』であることを祈るよ」

「千歳様っ」

「当たりであったなら、お前は義将の孫を代わりにこの家に縛りつけようとする気だろ」

「そうでなければ綾峰家が……」

「そうでなければ続かないなら、それまでだったと言う事だ」

 何の感情も映さない言葉。

 冷たさも、温かさもない、乾いた言葉。

「それがあるべき姿。この家は歪んでいる。それに気付いた者が歪み。歪みに従う者が正道。……奇妙なことだ」

「立ち位置によって変わるものが正道。綾峰家の正道は外界には歪みでしょうが、綾峰に生きる者には正道です」

「一体正しいことって何なんだろうな」

 心から疑問に思うように、千歳は呟いた。

「貴方でも分かりませんか?」

「分からない」

 迷いなくはっきりと。

「俺はお前たちが思っているほど立派なものじゃない」

「千歳様」

 咎めるような声に、千歳は寂しげに言った。

「あいつが死んで、俺が生き続けるようになってからずっと考えている。一体何が間違っていたのか……全て俺が間違っているのか」

 あいつ?

「そのようなことを申しては、リク様が悲しまれます」

 リク?

「……そうだな」

 小さくそう言ってから微笑する気配。

「悪い。話を中断させたな」

「いえ。では続きを」

「ああ」

 死んでしまった『あいつ』。

 それは千歳の亡くなった恋人?

 リクというのはその人の名前?

 何だか嫌だ。

 聞きたくない、考えたくない。千歳の好きだった人なんて考えたくない。

 好きだったじゃないかもなんて、過去形じゃないかもしれない。あんな寂しげな千歳の声なんて聞いたことない。千歳は今もその人が好き?

 ……何で私はこんなことを考えているんだろう。

 千歳がすごく遠くに感じる。さっきまであんなに近くに感じたのに。扉一枚向こうにはちゃんといるのに。

 嫌だ、私。

 何でこんなことを考えるんだろう。

 何でこんなに千歳に想われているというその人が嫌なんだろう。

 ――嫌な人間なのは、私じゃないか。

 何これ、何これ。

 これじゃあまるで、私が千歳の大切な人に嫉妬しているみたいだ。まるで、私が千歳を好きみたいじゃないか。

 小さく小さく体を丸めて、必死にそんな考えに蓋をする。

 私にそんなこと思う資格なんかない。

 私みたいな薄汚い人間に誰かを好きになる資格なんてない。

 だから駄目だ。好きになったら駄目だ。

 今ならまだ間に合うから。好きじゃない。そうじゃない。

 ただここへ来て一番最初に近づいた年の近い人で、優しくしてくれたから勘違いしているだけだ。そうに決まっている。

「……では、今日のところはこれで失礼致します」

「ああ、報告ご苦労な」

「いえ。これも三ノ峰戸主の務めですので」

 小さく扉が閉まる音がして部屋に静けさが戻る。

 あの人は帰ったのか。

 三ノ峰と言っていた。あの人が三ノ峰の戸主なのか。

 何とはなしにそう思った。

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