地下の語り部
昼間聞いた伝説もとい怪談を話し終え、私は黙って俯いた。
話したことで頭から背筋まで凍りつくようなあの不安がリアルに蘇ってきた。少し時間をおいてしょせん子供用の作り話と思えるようになったのに、口にすることで妙なリアリティを感じるようになってしまう。五百年間、綾峰が没落したことのない理由づけにぴったりと合う趣味の悪い話に。
千歳は小さく零した。
「半魚伝説か」
顔を上げると千歳は考え込むように口元に手をあてていた。
「いつからそんな話になったんだ……ベースは件と人魚伝説ってとこか。誰だよ悪趣味な改ざんしたの」
「……千歳は何か知ってるの? その伝説」
千歳は私を見てあっさりと言った。
「そりゃ知ってるさ。俺は一応本家だって言ったろー?」
「そうだ、よね。……ねぇ千歳、その伝説って本当なの!?」
掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した私に千歳は若干驚いたように身を引く。そしてその整った顔が人の悪い笑みを浮かべた。
「さては結恵。その半魚伝説が怖くて寝れないんだろ?」
「なっ……そんなわけないでしょ! 怖いんじゃなくて気色悪くて真偽を確かめずにいられなかっただけ!」
まさか千歳が半魚の生贄なのではと思っていたなんて間違っても言えない。この様子じゃ自らからかって下さいって言うようなものだ。
「ふーん?」
千歳は私の言葉など全く信じていない様子で口元は楽しげに吊り上げられている。
「とにかく! その伝説とやらを千歳はどれだけ知ってるの!?」
「半魚伝説自体は今初めて聞いたけど、その元になった神隠しにあった子供の話なら全部知ってる」
「え。……全部?」
「うん。全部」
にっこりと千歳は後光が差しそうな笑顔で答えた。
「半魚伝説ってのはだいぶ脚色されてるな。この家に半魚はいないから安心しろー?」
その声や表情に嘘や誤魔化しのようなものは一切感じられない。
そんな千歳の姿を見て、ようやく自分がどれだけ馬鹿げたことを考えていたのかがわかった。
「何だ……心配して損した」
気が抜けてつい口走ってしまったそんな言葉。それを千歳は耳聡く拾う。
「へぇ、やっぱり怖かったのか」
「ちーがーうっ! そうじゃなくて……」
千歳が。そう言いかけて口を噤む。
「……何でもない」
「件っていう妖怪を知ってるか?」
相変わらず千歳の言葉は唐突だ。
「クダン?」
「そう、人偏に牛って書いて件。文字通り牛の体に人の頭を持つ妖怪。生まれて数日間で死ぬんだけど、その数日の間に決して外れない予言をするんだそうだ」
「予言……」
決して外れない予言。それは――。
千歳は笑って頷く。
「多分、その半魚伝説のベースはそれだろうな。飢饉や豊作の予言、日露戦争を予言した奴なんかもいるらしい」
そう言って千歳は立ち上がり、壁に並んだラックから古びた一冊の本を取り出した。そして差し出した本の表紙には『日本妖怪事典』の文字。
「子供の本?」
思わず眉をひそめて千歳を見上げる。
すると千歳は少し不満そうに口を尖らせた。
「失礼な。一応学術書だって。著者は名の通った民俗学者だぞ」
「妖怪って子供の専売特許だと思ってた」
「そりゃ逆だ。子供がきゃいきゃい楽しめるのは研究者達が各地の伝説なんかを研究としてまとめて、それを子供でも楽しめるように分かりやすくしてくれたからだろうが」
「ああ、そういう見方もあるか」
「そうそう。分かったら見ろ」
千歳の形いい指先が押さえて開かれたページ。
「……嫌がらせ?」
自分でも分かるほど、眉間にしわを寄せて千歳を見る。
開かれたページには横書きされた文章に古めかしい画風の絵。すぐ下に天保年間の瓦版のものだと説明がある。
真っ黒い牛の体。その首の先には人間の男の頭。けれど耳の少し上から牛の角らしいものが生えている。
はっきり言って気色悪い。
「それが件」
千歳は笑顔で私の抗議を受け流した。
「予言する化け物」
「……本当にこんなのがいたの?」
「さぁ? 俺は見たことないけど」
にこにこと千歳は笑顔で言う。その笑顔を前にすると怒っている自分がバカらしく思えてくる。
「結恵は本当にいると思う? 件」
「突然変異でもこれはないと思うけど。人為的に掛け合わせたって無理でしょ。もしいたらマスコミが殺到するだろうし」
「だよな」
くつくつと笑って千歳は本を閉じた。そして私を見やった。
「なら半魚もそうじゃね? 半牛とニュアンス的には大して変わらないんだし」
「確かに」
「結恵は現実見れる子なのになーんでそんな面白い作り話を信じちゃったんだろうなぁ」
「信じてないってば!」
笑いを押し殺す千歳を怒鳴りつけて、自分でも何でこんなことを信じていたのかと恥ずかしくなってきた。
「この家って私の常識が通じないから……これだけの敷地があれば魚一匹隠すくらい訳無いだろうし」
ぶつくさとぼやく私の前で、千歳は呟いた。
「確かに訳無い」
「……千歳?」
千歳の顔からは笑みが消え、十七という年齢よりずっと大人びた表情をしていた。
「この家に半魚はいない」
「……うん」
「半身に鱗が生え、怪魚となった者もいない」
千歳の深い色の瞳から目が離せない。口どころか指一本動かせない。
「人肉を食い散らかす者もいない」
まただ。
全身の血がざわめく。
「いるのは、人の血をすする化け物だけ」
千歳の言葉ひとつひとつに呼応するように、体中の無数の血管を流れる血がその存在を主張する。
「人の姿をした忌むべき化け物がいるだけ」
千歳がまっすぐに私を見る。その表情にも声音にも一切の感情はない。
全身が総毛立つ。
「ち、千歳が、生き神の生贄……なの?」
千歳は答えない。それでも私は続ける。
「生き神……じゃなくて化け物に血を与えるのは千歳なの?」
今は怖いばかりの整った表情は一切揺らがない。
「血が……私の中で血管一本一本がはっきりわかるくらいに存在を主張するの。夕べも変で……鷹槻に出来るだけ早く千歳に会いに行ったほうがいいって言われた」
何か、何か言ってよ。
「千歳。私は何? 千歳と私と化け物って何か関係があるの?」
気付けば歯の根も噛み合わないほどに体は震えていた。
聞かないほうがよかったのかもしれないと思う。
けれど聞かなければいけないことだと思った。千歳に嫌な思いをさせても、それでも……。
「ごめん、変なこと聞いて。でも知りたい。ちゃんとこの家のことを知りたい」
大叔母は私を家族だと言ってくれた。
私はこの家で生きるって決めた。
見ないふりはしないと言ったのも私だ。
一度強く目をつぶり、正座して深く頭を下げた。
「どうか教えて下さい。神隠しに遭ったっていうご先祖のことも、血のことも」
長い沈黙の後、頭の上で溜め息を吐く気配がした。
「そんな頭下げなくたっていいのに」
目を開けて頭を上げると、千歳が困った風に眉を下げていた。
そこにいるのは感情の窺えない、怖いとすら感じる人物ではなく紛れもない千歳。マイペースで変なところ凝り性で、でも優しい人。
「いずれ話すつもりではいたんだ。この家のこと全て。それが本家に生きる奴の義務だから」
微かに笑って千歳は言う。
「桂子はもちろん知っているし、義将も知っていたことだ」
「おじいちゃんも?」
当然と言えば当然なのだが、どうしても祖父がこの家の人間だという意識は薄い。そのため今までそこまで考えは回らなかった。
千歳は頷いて続けた。
「仮にも跡取りだったからな」
「そっ、か」
「もちろん、この家に化け物がいることも知っていた。綾峰の先祖が神隠しに遭ったということも知っていた。血のことも知っていた」
血という単語につい過剰反応してしまう。
千歳は大丈夫だ、と言って頭を撫でてくれた。
「結恵が怯える必要はない。血は……当たりなんだろうけれど」
そう言った千歳は複雑そうに薄く笑った。
当たりという単語に聞き覚えがあった。
夕べ鷹槻に言われたんだ。当たりの可能性があるから、と。
きっといい意味でない。それだけは分かった。だから半魚伝説とやらの生贄のことかと思ったのに、千歳はあの話のほとんどが嘘だと言う。
だけど千歳の表情を見るに、あの話の真偽がどうであれ実際に良い意味ではないのだろう。
その意味まではわからないが、知らないということに対する恐怖はじわじわと広がってくる。
「当たりって、何? 鷹槻も言ってた。私は当たりの可能性があるって……」
息が苦しい。
「私は、何……?」
呼吸を繰り返しても楽になれない。
恐怖と不安は止まることなく押し寄せてくる。
「……っ」
「結恵?」
何でもないと伝えるため首を横に振る。
けれど無意識に胸を押さえた私に気付いた千歳は立ち上がって何かを持って近づいてきた。
「これ、口に当てて息をしろ」
言われるがまま、千歳が手渡してきた紙袋を口に当てて呼吸する。
そのまま千歳にソファに横になるよう言わるがままに横になる。
相変わらず息苦しくて不安はあったけれど、ずっと手を握っていてくれる千歳を見たらそれが少しずつ和らいでいくのを感じた。
千歳が済まなさそうに私の前髪を払った。
「ごめんな。まだ慣れない環境だっていうのに急に妙な話をしたりしたから驚いて過呼吸を起こしたんだな。本当に悪かった。俺の配慮が足りなかった」
本当に申し訳なさそうに言う千歳を見ているのが辛くて、私は一度袋を口から外した。
「千歳のせいじゃないよ。前から、時々あったの」
千歳は意外そうに少しだけ目を見張った。
彼でも驚くことはあるのか、と思うと少し笑えた。
「考えすぎたり不安が強くなったりすると、家にいる時にもなってたんだ。最近はあまりなかったから少し驚いただけ。……過換気症候群って医者で言われた」
「そうか」
「ごめん、驚かせて……。少しすれば納まるから」
「いいから袋、口に当てておけ」
言われてまた袋を口に当てる。
大叔母には事前に話していたが千歳は知らなかったのか。何となく私の情報は既に知っているのだと思っていたが。
千歳はずっと私の手を握っていてくれた。お互い少し冷たかった手が、ずっと握り合っていることで温かくなっていく。子供の頃、風邪をひいた時に両親や祖父に同じようにしてもらったことを思い出したからか随分と安心して、いつもよりずっと早く呼吸は楽になってきていつの間にか不安も消えていった。
千歳が大丈夫だと言ってくれたんだから大丈夫だ。
鷹槻だって言っていた。千歳は私達の味方だって。
千歳は不思議だ。
話していると、そばにいるととても安心する。小さな子供が親のそばに行くみたいに、千歳のそばにいたくなる。その居心地の良さと優しさに甘えたくなる。
一緒にいると泣き出したくなるほどに、優しくて温かい。
きのう初めて会ったばかりなのに不思議だ。
血の繋がった相手だからなのか、彼特有の不思議な空気のおかげなのかはわからない。
でも思う。
もっと千歳といたい。
そばにいたいと、そう強く思う。
ただ手を繋いでもらって横になっていた。まだ僅かに残ったお香の香りが鼻腔をくすぐる。
何だか落ち着く香りだ。日本の香りは沈静作用があると聞いたことがある気がするからそのせいかもしれない。