異形伝承
シンプルなデザインのシャンデリアが優しい色調の壁紙を照らす本家屋敷サロン。
ボウウインドウに叩きつける雨の音も弱まり、もう小雨程度になってきた。
「それでは失礼致します」
若い使用人は一礼してカートを引き静かに扉を閉めて退室した。その足音が遠ざかるにつれ、室内の空気が緩んでいくのを肌で感じた。
「あー疲れた」
足を投げ出し、背もたれに寄りかかって最初に声を上げたのは律。
「四葉は相変わらず人をたぶらかすのが上手だなぁ」
「それ褒めてないでしょ? 鷹久」
「褒めてる褒めてる」
令が言ってケラケラと笑う。
「まさかこの年で本家屋敷のサロンに招かれるとは思わなかったわ」
「俺らの年で正式な招待を受けたのなんて前代未聞じゃないのか」
薫子と鷹槻はそんな会話を交わしながらお茶に手をつけた。
私はそんな六人をじっと見て、あの前庭に面した部屋から今までずっと思っていた事を口にした。
「……なんか私、早速利用された?」
各々テーブルについた六人の視線が一斉に集まる。
「まさか」
律が愛らしく微笑む。この可愛らしさが彼の場合曲者だ。案の定、その笑顔が一転して悪魔の笑顔になる。
「この程度で利用なんて言われたらこの先困るぜ」
やはり。
「何だかおばあ様を騙したようで良心が痛む」
重苦しい息を吐くと、意外そうに鷹久が言った。
「何だ。結恵ちゃん、気付いてなかったの? 桂子様もあれは演技だよ。まだ他の家の連中の耳があったから」
「え?」
「私達の考えなんてお見通しよ。あの方も伊達に本家で七十年も過ごされているわけじゃないわ」
「え? え?」
鷹久も薫子も何を言っているのだ。
それを説明してくれたのは鷹槻だった。
「桂子ばあさんも、基本的に考え方は俺らと近いからな。立場上それを表には出せないけど。端的に言えば、あの人は俺達の一番の庇護者」
「はぁっ!?」
つい声を荒げてしまう。
「わ、私そんなこと一言も聞いて……」
「だから表に出せないって言ったろ?」
けろりと律に言われ、脱力して椅子に深く座り込んだ。
「狐と狸の化かし合い……」
「お、いい例えだ」
思わず出た言葉に、令と四葉が楽しげに笑い合う。
「ここで化かし合いは日常茶飯事、慣れるしかないわ」
隣の椅子で優雅に紅茶を飲んでいた薫子にぽんと背中を叩かれる。
「がんばる……」
額に手を置いて力なく答えた。
「なぁ。それよりお前もう半魚見たか?」
律が向かいのテーブルからずいっと身を乗り出し、真剣そのものの表情で尋ねてきた。
「は、ハンギョ?」
頭の中でどう言う字を書くのか変換できず戸惑っていると、鷹久が説明してくれた。
「半分魚って書いて半魚。半魚人のことなんだけど、敷地内の子供の伝説みたいなものなんだ」
「伝説?」
それにしたって何だって魚の伝説なんだろう?
それも半魚人。伝説なら龍とかユニコーンとか、もっと子供向けで見栄えもするものを持ってくればいいだろうに。
そんな私の頭を読んだかのように、律が高らかに言った。
「言っておくが、綾峰本家の半魚伝説は俺らよりずっと昔の世代から代々伝わる伝説だ! 一過性の都市伝説なんかと一緒にするなよ?」
「はぁ……」
そうは言われても胡散臭い。
だって半魚。そもそもこの屋敷の庭に池はないし魚なんて飼えないだろう。いや、この屋敷ならばどんなサイズの水槽も置くことは可能か。それに半分人なら水がなくてもいいのかもしれない。
そう意識半分に思いながらテーブルの上のプレートに置かれたフィナンシェを口にした。
「なんかお前、全然信じてねぇだろ?」
律が目を据わらせて不満げに言う。
「いや、信じてる。信じてますって。本家に妖怪……じゃなくて人面魚? うん、超信じてる」
「人面魚じゃなくて半魚だ!」
どっちだって似たようなものだろう。
「はいはい。じゃあ人面魚じゃなくて妖怪だ」
「お前、そんなこと言っていいのかよ?」
律が腕を組んで私を見てきた。
「だってどう考えてもそうじゃん」
「まぁそれはそうだけどな。仕方ない。ここは新入りに俺が綾峰の半魚伝説を教えてやらないこともない」
「そんなの本当にあるの?」
律の隣に座っていた鷹久に聞くと彼は苦笑した。
「あるんだよ。これが本当に」
「恥ずかしいけれど小さい頃は本気で怯えたものだわ。大人達が興が乗ってくると身振り手振りつけて脅かしてくるのよ」
薫子がはぁと小さく溜め息を吐く。
「そんなに怖いの?」
「伝説って言うよりは怪談だよな、ガキには」
令が笑って四葉を見る。四葉もマドレーヌをかじりながらこくこくと頷いた。
「へぇ」
「今晩寝れなくなっても責任は取らないけどな! それでもいいなら話してやるぜ?」
上から目線で律がにっと笑う。生意気だと思いながらも彼の容姿は可愛い。可愛いものは生意気でも何でも可愛く見えてくるから不思議だ。
「はい。じゃあ教えて下サイ」
殊勝な態度が気に入ったのか、律は上機嫌に口の端を吊り上げた。
「半魚伝説の始まりは、もう五百年も前。応仁の乱から幾ばくか経った戦国時代のことだ――」
戦国時代、綾峰家の遠い先祖。
当時既にとある地方の豪商として名を馳せた綾峰家の子供が神隠しに遭った。数日間、家人や村人達の必死の捜索が続いたが子供の行方は依然として知れなかった。誰もが子供は帰ってこない、と諦めた頃。突然子供が帰ってきた。
神隠しからの生還を喜ぶ家人や村人たちに子供は幼子らしからぬ厳かな雰囲気を纏い、こう告げたという。
直に戦が始まるからすぐに逃げるように、と。
そして実際に子供の予言通り、戦が始まった。誰も予想がつかなかった寝耳に水の戦が。それによって家人達は子供が神隠しにあったことによって、予知能力のようなものを天狗か何かから授かってきたのではと考えた。
その後も子供の先を見る力は確かだった。その力を活用して綾峰家は戦国の世を生き抜き、商家としてより一層の繁栄を遂げたと言う。
「……すみません、半魚人どころか魚一匹出てこないんですけど」
「話は最後まで聞け!」
話の腰を折るなと律に叱られ、渋々と黙って話の続きを待った。
「とにかく、綾峰家はその子供の先を見る力によって戦国の混乱を逆手に取って衰えるところを知らずに繁栄していったんだそうだ。だが――」
子供は成長しても、先を見通す力は衰えることを知らなかった。その異形から授かった力を以て、家を栄えさせていった。
だが異形から授かった力ゆえか。子供は成長するにすれ、次第に自身の肉体までも異形の者へと変じていった。気付けば子供は半身が鱗に覆われ、その身は魚の物となっていたと言う。
誰もが不気味がったが子供の予知は変わらず健在で、最早綾峰家は子供の存在なしでは考えられなかった。家人は異形と化した子供を屋敷に隠し人目から遠ざけた。それからも屋敷に隠された子供は家のため幾つも予言をしたと言う。
そうして綾峰家が繁栄するにつれ、子供は見たこともない奇妙な魚へと変じていきやがて頭を残した体全てが怪魚のそれとなった。しかしその異形の子供のおかげで綾峰家は今日まで衰えることなく来た。
そのため綾峰家では今も尚、その半魚となった先祖を生き神として祀っているという。
「……五百年も前の先祖が生き神? 生き神って生きているから生き神って言うんじゃないの?」
「それを今から話してやるよ」
律の笑みが仄暗いものとなる。
「ありがたい予言を授けてくれる半魚。綾峰家は何としてもその予言を少しでも長く授かろうとしたんだ。そして知ってしまう。悪夢のような事実を――」
半魚が四十を越え、その顔に年輪が刻まれ家人の誰しもがいつまで予言を得られるのかと不安を感じ始めた。
いかに異形と言えどその顔は通常の人間と変わらず老いて行く。人生五十年の世の四十過ぎ。異形の子供といえど人並みに寿命を迎えるのではないか?
四十年近くも予言に頼ってきた者達はどうにかならないものかと頭を抱えたと言う。
そんなある晩、半魚の元へ予言を聞きに行った当時の当主がいつまで経っても戻って来ない。どうしたのかと疑問に思った家人が半魚のいる間へと足を踏み入れると半漁は笑っていた。どうしたことか、その容貌は神隠しに遭った幼い頃のものへと若返っていた。
一体何があったのかと尋ねる家人に、幼い子供の頭に魚の体の半魚は告げた。
『私は永遠にこの家を守ろう。そのための方法をたった今、見つけた』
その小さな口からは赤いものが滴っていた。家人は更に半魚のそば、あちこちに散らばる『それら』に気付いてしまう。
それは人の腕。脚。ばらばらに食い散らかされたかのような、血にまみれた人の身体の欠片。
半魚が見つけた永遠に家を守る方法。
若返りの法。
それは自らと同じ血を流す者の血肉を口にすることだった。
「だけど誰かを犠牲にすることで家は安泰となる。そして家人達は決めたんだ。数十年に一度、一族の者を半魚に選ばせその糧とし若返らせることによって永遠に綾峰のもとへ留め置こうと……」
律は淡々と言葉を紡ぐ。
「その風習は今も続く。綾峰が世界大恐慌でもバブル崩壊でも物ともしなかったのは、この半魚があらかじめ予言を与えていたからだと言うもっぱらの噂だ」
サロン内はすっかり静まり返っていた。
薫子の横顔は青い。
「一族にとって不都合な者などから選ばれた人間は半魚の糧となる。奇怪な魚の体と人間の頭を持ち、人語を話す、綾峰家の最奥に祀られる生き神の……」
その律の声は雨音に溶けていった。
今まで食べたあらゆるものが消化不良を起こした気がする。
「……しょ、食事中にそんな話しないでよ!」
怖い云々より、気色悪いのが先に立って涙目になって律を睨む。
「全くだわ」
薫子が口元にハンカチを当てて忌々しげに言う。
「そんなグロテスクな部分まで詳細に話必要はないでしょう」
「せっかくだから怪談調に話したほうが盛り上がるかと思って」
けろりと言い放つ律に、更に非難の声を浴びせる。
「何がせっかくなのかさっぱりわからないわ!」
「グロイ! 本当にグロイ! ホラーじゃない!」
薫子と二人、涙目で叫ぶが当の律はどこ吹く風だ。
「久々に聞いたけど俺、しばらく肉いたくない…」
令がテーブルに突っ伏して呟く。
「律……最後のほうは演出過剰。俺も胸やけしてきた」
鷹久も胃を押さえて言う。そんな様に律は不満げに声を上げる。
「何だよ、どいつもこいつも。せっかく俺が綾峰家半魚伝説を眠くて退屈にならないように話してやったのに」
「眠くて退屈でいいから、気分悪くなるような話しないでよ!」
令じゃないが、私もしばらく肉や魚は見たくない。
もくもくと焼き菓子を頬張り続ける四葉がうらやましい。鷹槻も平然としている。確かにこれくらい気にもしなそうだが。彼といい、千歳といいマイペースぶりはこの家随一か。
……千歳。
心臓がその存在を全身へ主張する。
どくん、どくんと規則的な音を以て。
綾峰家の最奥。
不都合な一族の人間。
頭の中で幾つものパズルのピースが嫌な具合に噛み合い、いびつな形を作り出す。
まさかそんなわけない。
そんなことあるはずがない。
「ちなみに、数十年に一度という数十年単位はそろそろだそうだ」
律が胸を張って言う。
「や、やめなさいってば!」
薫子の悲鳴が遠くで聞こえる。
なぜ彼はあんな地下にいる?
なぜ本家の人間でありながら、その存在は表に出ない?
思わず鷹槻に視線をやると、鷹槻はふいと目を逸らした。
そんな何気ない行動すら不安を煽る。
まさか。
まさか。
この家で最も重視される、血。
最奥で感じたあの血のざわめき。
鷹槻に誰にも言うなと言われた、血。
千歳は綾峰家の生き神の糧……?
じゃあ私は……?
鳴り響く心臓の音。
窓の向こうで小さくなっていく雨音。小刻みに震える指先。
荒唐無稽だと分かっているのに、この不吉な考えは止まることを知らない。
顔を伏せ震えを堪える私を鷹槻が見ていた。