第七話:巨人の喉笛と霧の敵襲
しかし、安らぎの時間は長くは続かなかった。泉を離れ、再び歩き出した彼らの前には、これまでとは一線を画す絶望的な光景が広がっていた。巨大な岩山が左右から押し寄せ、空を細く切り取るような深い「峡谷」が口を開けていたのだ。
道とは名ばかりの、切り立った崖沿いの細い岩棚。その底には、轟音を立てて流れる濁流が見える。 「……ここを抜けるしかないの」 ルピーネが息を呑む。 「ああ。この『巨人の喉笛』を抜ければ、帝都への平原が見えてくるはずだ。だが、ここからは足元だけじゃない。上からの落石や、狭い場所に潜む魔獣にも気をつけろ」
三人は、ろくに光が届かない険しい闇の底へと一歩を踏み出す。ロドルフはハルバードを握り直し、先頭に立った。ルークは何かを察したように、ルピーネの肩をぎゅっと掴み、その瞳の奥に赤く鋭い光を宿した。
『巨人の喉笛』と呼ばれるこの峡谷は、風が吹き抜けるたびに不気味な唸り声を上げる。足元は湿った岩棚で、一歩踏み外せば濁流の底だ。 「ルピーネ、俺の足跡だけを辿れ。ルーク、暴れるなよ」 ロドルフがハルバードを杖代わりにし、慎重に進む。ルピーネは肩のルークを落とさないよう、岩壁に背を預けるようにして続いた。
その時、ルークの瞳が鮮烈な赤に染まった。 《上! 嫌な匂い!》 ルークの叫びが紋様を通じて脳内に響くと同時に、霧の向こうから巨大な影が急降下してきた。 「伏せろ!」 ロドルフの叫び。岩肌を掠めて飛来したのは、この峡谷に巣食う魔鳥、断崖鷲だ。狭い足場では、ロドルフの長いハルバードは満足に振り回せない。
「ルーク、私の腕に!」 ルピーネは素早くルークを左腕に移動させ、右手で懐から投石器を引き抜いた。剣を抜く余裕はない。だが、母に叩き込まれた狩人の技がある。 「ルーク、光を!」 《わかった!》 ルークが大きく口を開けると、眩い雷光が辺りを照らし出した。一瞬、霧が晴れ、獲物を狙う魔鳥の姿が露わになる。
ルピーネは流れるような動作で石を放った。 「……行け!」 唸りを上げて放たれた石は、魔鳥の片目を正確に撃ち抜いた。激痛にバランスを崩した大鳥が、岩壁に叩きつけられる。そこへ、ロドルフが最短の突きを放った。ハルバードの先端が魔鳥の急所を貫き、巨躯は音を立てて谷底へと消えていった。
「……助かった。いい連携だったな、二人とも」 ロドルフが荒い息を整えながら振り返る。その胸元で、マントの隙間から銀のフィビュラが鈍く光った。ルピーネは、彼が大切にそれをつけてくれていることに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
だが、安堵したのも束の間。峡谷の先から、下卑た笑い声が響いた。 「ほう、今のを仕留めるとは。いい腕だ。……それに、嬢ちゃんとその白いトカゲも高く売れそうじゃねえか」
霧の中から現れたのは、数十人の野盗の群れだった。前後を塞ぐように配置についた彼らは、この地の利を完全に把握している。 「ロドルフ……」 「わかっている。ルピーネ、俺の背中から離れるな」 ロドルフは、村で彼女が蔑まれていた日々を思い出し、拳を固く握りしめた。あの日、何もできなかった自分とは違う。 「俺がお前と、その小さな相棒を守る」
二つ年上の幼なじみの背中が、かつて「大切な兄」と思っていた時よりも、ずっと大きく、頼もしい戦士のものに見えた。ルークはルピーネの腕の中で、戦う意志を込めて喉の奥で火花を散らせた。
(ここからが、本当の旅の試練の始まりね)
ルピーネは剣を抜き、ロドルフの背中を守るように構えた。霧深い峡谷に、三人の絆と野盗たちの刃が激突する音が、今にも響き渡ろうとしていた。




